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Anna Side 3

 六月に入ってから、先輩と会うことは少なくなっていった。傘を貸してもらった翌日にばったり会って以降は、あんなふうに二人っきりになる機会も少なくなっていた。結局あの黒い傘は私の手元に残ったまま、先輩に返してはいない。以前ちろっと話を聞いた限り、先輩は湖ノ上第一高校の人らしいから、歩いていけばいいのだけれど、そんな勇気もなかった。

 先輩に、その学校に行って返しに行ったら、何を言ったらいいのかわからなくなる。それは、容易に予想がついた。ただでさえ口下手な自分を更に露呈してしまって、恥ずかしさばかりが込み上げてくる。これじゃ、マイナス効果しか生まない。

「そんなこと気にしなくてもいいのに。男の人ってあんまり気にしないよ?」

「でも」

「杏奈は細かいこと考えすぎなの。もう少しソフトに考えたらいいじゃん」

 と、放課後の商店街で、沙耶ちゃんに呆れられた。雨が降る中だというのに、沙耶ちゃんは評判のあるジェラートを嬉しそうな表情で頬張っている。確かに蒸し暑さはあるけれど、アイスクリームを食べるような天気ではないと思う。

 雨の降る町は、いつも以上に閑散としている気がした。この時期になると雨が降りやすいんだよね、と沙耶ちゃんは言っていたけれど、それには同意せざるを得ないかもしれない。私の住む町は電車で数駅跨いだところにあるのだけれど、五月下旬からすでに梅雨となっているこの町は、ある意味で変わっている。別に変った位置にある町ではないし、内陸部にあるという以外の特徴は特にない。強いて言えば、電車で三十分くらい走ると、世界遺産があるくらいだ。

 濡れる街道を歩いていると、ソックスに雨粒が染み込んでくるのも、慣れたことだった。住めば都とは言うけれど、順応が早すぎて自分でも笑えてくる。

「あれだよね、高校生って思ってた以上に退屈だわ」

 沙耶ちゃんがジェラートのコーンをかじると、おもむろにそう言った。高校生になる前は、思い思いの憧れを胸に抱いていたけれど、現実は違う。特に私が通う高校は、あらゆる面でおかしいくらいに厳しい。制服の着こなし、提出物関連、授業態度なども種類は様々で、男女交際だってもちろん禁止だ。

 親に入れさせられた学校だからかもしれないけど、嫌気がさしているところもある。もし沙耶ちゃんがいなかったら、どんなに退屈な高校生活を送っていたのか、想像するだけでひどい。

 もし、親がもっと自由な人だったら。そうしたら、わたしだって湖ノ上第一高校に通って、先輩の影を、もっと感じられたのに。

「ねえ杏奈、あの先輩と同じ学校だったらとか、今思ったでしょ?」

 私はびっくりして、肩を飛び上がらせてしまう。沙耶ちゃんは特徴的な八重歯を立てて、意地悪そうな表情で言った。

「な、なんで」

「だって、毎日退屈そうじゃん。あたしがいなかったら不登校になってるかも」

 乾いた笑いをあげた沙耶ちゃんをよそに、私は口をすぼめて肩を縮こませた。そういうところは勘が良くて、参ってしまう。

 もちろん、否定なんてできない。絶対的な力を持っている父親にはむかうことのできる人間なんて、結局糸井家にはいないからだ。でも私は、本当にそのまま父親に屈したまま、こうした垂れ流しの生活を送っていていいのかも、分からなかった。結局は勇気がないだけの、女子高生に過ぎないから。


 私のクラスは、主観的にみると「賑やかな」クラスだった。いつもそのテンションに負けて置いてけぼりにされるような、そんなクラスだ。もちろん、主張の少ない私からすれば、私はクラスに在籍しているだけで構わないし、女子間のいざこざも少ないから、これ以上贅沢するものなんてない。

「ねえ、やっぱ竜介くんがかっこいいじゃん」

「そうなの? あたしからすれば男なんてどれ見ても一緒なんだけどな」

 私が次の授業の準備に取り掛かっている頃、斜め前の席で、沙耶ちゃんが三つ編み姿が特徴的な女の子と談笑していた。名前は――なんだったっけ。

「男は顔じゃないの。性格でもない。どれだけ扱いやすいか、それに限るわ」

「それ、世界中の男の人が震撼しそうな言葉だね……」

 沙耶ちゃんは相変わらず、強気な発言を繰り返していた。ふん、と沙耶ちゃんが鼻を鳴らした瞬間、沙耶ちゃんの周囲にいた男子が数名おののいて、沙耶ちゃんから遠ざかっていく。三つ編みの女の子も、その状況に唖然の表情を垣間見せていた。

「ねー、杏奈」

 私は肩を震えさせる。エビ反りになって顔を向けてきた沙耶ちゃんが、間延びした口調でそう言った。

「な、何?」

 私は声を震わせる。

「あんたさ、井上ってどー思う?」

 井上。井上くんかな。

 私は黒板の前で、ほかの男子と談笑していた、井上竜介くんの表情を見た。一年生ながら唯一サッカー部でレギュラーを獲得したことは、学年の女子中にすでに知れ渡っていて、一年の女子の注目の的だ。某人気俳優似のルックスも相まって、確かファンは多かったっけ。クラスに一人はいる、「イケメンキャラ」って感じの人だ。

「どう……って? かっこいいとか、運動神経がすごい、とか?」

「いやそういうのはどうでもいいんだけどさ」

 沙耶ちゃんは煙たい表情を見せる。

「明乃がいいよね、っていうからさ。あたしにはわかんないや、杏奈はどう思う?」

 と言われても、私だってよく分からない。この学校の生徒は、沙耶ちゃんを除くと知人や友人もほとんどいないし、学年の男子への関心も少ないし。

「まあ、かっこいい……んじゃないかな」

「えー、杏奈には『あの人』がいるじゃん」

「さ、沙耶ちゃん」

「あの人?」

 私の表情が固まる。頭上に「?」マークを灯した明乃ちゃんは、怪訝な表情を見せた。

「な、なんでもないから」

 私は釈明すると、涙目で沙耶ちゃんを睨んだ。けれど、目を細めて明後日の方を向く沙耶ちゃんは、私のまなざしに、振り向きもしない。

 私はしどろもどろの口調を切り返すことができず、下を滑らせてしまう。

「あ、明乃ちゃんは、井上くんが好きなの?」

「え、えっ? ちょ、ちょっと、超越しすぎだよ!」

「あ、え、ごめんね、行き過ぎたかな」

 洒落になってないって、と明乃ちゃんが照れ顔を隠しながら言った。やっぱり井上くんって人気あるのかな、明乃ちゃんの耳の先まで真っ赤だ。

 私は黒板の前の井上くんを仰ぎ見た。確かに目のラインとか、鼻のラインとかも端麗に整っているし、スポーツマンとは思えない、すらっとした体のラインが特徴的だった。跳ね気味の髪は微かな茶色を帯びていて、さすがに注目の的、だというだけのことはあった。

 けれど、不思議と私の中では、彼に対する興味なんてものは沸かなかった。確かにかっこいいとは思う。けれど、私が欲を張って言えたものじゃないけれど、何かのピースが足りないような、そんな風に感じられた。なんだかそう考えているうちに、私自身が他の人とずれているのかな、なんて思いが頭を駆け上がってくる。

「じゃあ、さっき屋島ちゃんが言ってたけど、糸井ちゃんが言う『あの人』って誰なの?」

「え」

 私は言葉に詰まる。微笑みながら語りかけてくる明乃ちゃんの表情が、悪魔の微笑にも感じられた。勘弁してよ、の言葉が出てこなくて、口籠ってしまう。

「だって、糸井ちゃんあんまり主張しないから、気になるの」

 穏やかそうな顔に似つかわない、ズバズバと攻め込んでくる明乃ちゃんの主張に、私はたじろいでしまう。十分間の休み時間が異様に長く感じられて、何とか切り上げられたころには、授業を受けるだけの気力もほとんど残っていなかった。


 委員会の都合とかで、放課後、沙耶ちゃんの姿は教室になかった。そろそろ革生地が柔らかくなってきたカバンに、教科書類を詰め込んでいくと、前の方の席で、男子の集団がやたらと盛り上がっていることに気が付いた。中心に井上くんの姿があって、彼の周りを数人の男子が囲んで、煽っている感じ。やがて、輪の一人が、「ほら井上」と言い、それに連鎖して他の男子が「早く行って来いよ!」と面白がっている絵面だった。やがて、井上くんが「行くか!」と意気込んで、教卓周辺の男子が、彼に喝采を浴びさせた。

「糸井!」

 そのとき、私には井上くんが何を言っているのかがよく分からなくて、目を白黒させてしまった。けれど、五秒くらいたった後で、井上くんが私の名前を呼んでいることに気がついて、肩を震えさせてしまった。

「な、何?」

 唇は、相変わらず少しだけ震えていた。

「あの、な」

 顔とマッチしない、曖昧な言葉遣いに、私は首をかしげてしまう。すると、教卓の周りの男子が「おい言わねえのかよ!」とか、「お前意外とチキンなのかよ!」とか言って、煽ってくる。井上くんは、まぶたを強く閉じて、首を左右させると、振り切るような声を立てた。

「今週末、暇?」

 微妙に泳いでいる声を聞き取れたとき、ようやく井上くんが何を言おうとしているのかが分かってきて、私の中で恥ずかしさが込み上げてきた。どうしよう。口は回らないし、耳や頬がすごい熱を帯びているし、今の顔なんてとてもほかの人に見せられない。

 私は口にする代わりに、小さくうなずいた。すると、泳いでいた声とは違う、明るい声が、髪に降り注いできた。

「じゃあ、土曜日に映画見に行かない? チケットがあるんだけど、都合がよかったら」

 そのとき、本心は分かっていたのに、私は自分に従おうとはしなかった。ただ単に、井上くんがさびしがるだろうな、とか、そういった偽善的なものが心の中にこみ上げてきて、気づいた頃には私は首を縦に振っていた。

 教室で、太い喝采が上がった。けれど、心のどこかで私は少しだけ後悔していたのかもしれない。だって、脳裏に浮かびあがったのは、井上くんの顔じゃなかった。

 先輩の顔、だったから。

 けれど、結局そのあと「自分の言葉」を口にできることもなく、私は教室でしばらく喧騒の中に立っていた。雨脚が強くなり始めていた。


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