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Anna Side 2

 堅物で知られる古典の先生の授業を終えると、私は早々に頭から机に倒れた。机に突っ伏したまま、頭をもごもごさせるというのは、客観的に見たら、かなり痛い仕草だと言うことは勿論知っていた。けれど、そろそろこうでもしないと、身が持たないということも承知している。

「お、おい、糸井いといが壊れてるぞ……」

「いつもは静かなのに、何事だよ」

 と、普段会話すら交わさない男子の声が、ふと耳をすり抜けてくる。でも、今顔を上げたら、頬の筋肉は緩むし、顔は火を噴いたように紅潮しているせいで、顔をまともに見せることができない。何より、授業中もニヤニヤが収まらなかった。

 ――あれは、先輩だ。

 昨日の夕方に、傘とタオルを貸してもらった時、私は実感していた。以前と変わらない、さっぱりとしたショートヘアーや、少しきつめの瞳。少しだけ野太いけれど、透明感のある声。

 市川先輩だ。間違いない。あの人は、この街にいたんだ――そう反芻していると、無性に昨日まともな対応が出来なかった自分への情けなさや、憧れの先輩に再会できた嬉しさが混在して、まともに脳を動かすことすらままならない。

「う、うー……」う、声が裏返った。

「あ、杏奈?」

「うー!」

「ねえ、杏奈、どうしたの?」

「……にひひ」

「戻ってこい!」 

 机を叩く音が耳に炸裂すると、私は何が起こったのか一瞬理解できなくなって、視界を開き、黒板に焦点を当てる。やがて、眉をひそめて私を凝視する、沙耶ちゃんの存在に気がついた。

「ど、どうしたの……? 何か、目を飛び出させそうな表情してる」

「杏奈、あんたどうしたの?」

 沙耶ちゃんが神妙な声で言った。気づけば、私の席の周りを何人かが囲んでいて、私はたじろぐ。

「あ、え、えと」

 憧れの人に再会して嬉しくてたまらない、なんて、この場じゃ口が裂けても言えない。沙耶ちゃんの後ろで、クラスメートが顔をちらつかせてくる。

「糸井って、そんなキャラだっけ?」「違うわよ、調子が悪いだけよね?」「え、じゃあ保健室に」「お、おれ送ってくぜ!」「糸井となら寝てもいいかもな」「コラ黙れバカ男子!」沙耶ちゃんが恫喝した。

「杏奈だって壊れるときはあるの!」

 フォローになってないよ。

「とにかく散れっ、バカ男子!」

 沙耶ちゃんは威嚇する猫のような形相で言うと、男子はおろか何故か女子まで私の周囲からぞろぞろと散っていった。何だか恐縮してしまって、思わず私は縮こまってしまう。

 するとまた沙耶ちゃんは私の机に轟音を立てた。思わず私は飛び上がってしまった。

「杏奈、何かあったの?」

「な、何って……」

 真剣な沙耶ちゃんの視線が、私の瞳に食い込むような気がした。

「杏奈がちょっとおかしくなった時は、何か嬉しいことがあった時でしょ。前にテストで満点取った時も、こんな風に喜び表現してたし」

「今更触れないでよ……」

 あの時も周囲から怪訝な視線で見られてたっけ。恥ずかしい限りだ。

 私は教室から移る薄白い空を一瞥すると、廊下を見た。教室前の廊下には、雨を見据えたクラスメート達が持参した傘が、廊下に設置されている傘立てに立っている。

「あ、あのね」

 私は机に掛かっているスクールバッグに少しだけ目を落とした。鞄の中には、洗ったばかりの白に青のラインが掛かったスポーツタオルが畳んである。勿論、それは昨日先輩に借りたものだ。

「何?」

「……や、やっぱり、放課後帰る時に言っても良い?」

「はぁ? 何よそれ……」

 興ざめしたような口調で声を落とした沙耶ちゃんは、「あー、じれったい」などと苦言を漏らしつつ、自分の机に戻っていった。じれったいのは、自分でも否定出来やしない。

 「優柔不断」とも言われるし、「決断不足」とも言われる事がある。でも――私は、それを心から直そう、と思った事は無かった。理由を詮索することもなく。


「は?」

 放課後、白い空にかかる、灰色の雲の下、私は沙耶ちゃんと商店街に来ていた。

 沙耶ちゃんは、私の微かな声を拾いきれず、眉尻を吊り上げて聞き返す。

「だ、だからっ」

 商店街に入ると、沙耶ちゃんは早速私に何があったのかを問い質してきたので、またもや私は声をくぐもらせて答えてしまう。

「き、昨日ね、会えたの。そ、その……憧れてた、人に」

 私は何故だか心臓を高鳴らせ、意中の相手に告白をするような口振りで言った。沙耶ちゃんは、口を半開きにして、呆けた表情になっている。

「な、な、な、何それ! 凄いじゃん杏奈、運命的すぎるよ!」

「そ、そんな大袈裟に言わなくても……」

 私の心底に隠れている心境をさらけ出すように、沙耶ちゃんは私の肩をばんばん叩いたり、饒舌な口振りで人目も気にせずに騒いだ。うわ、周りの人が見てる。

「さ、沙耶ちゃん、恥ずかしいから」

 現に、私の耳には「運命的?」とか、「何あの子」などと、怪訝な目で一瞥してくる人達の声が掠めてくる。

「何で? 恥ずかしがることなんてないわよ、むしろ羨ましいくらい!」

「そ、そうじゃなくて」

 私は興奮気味の沙耶ちゃんの肩に両手を掛けて、その場から逃げるように足を動かした。いつもより通行人の影が多い商店街では、少し突飛した行動をするだけで、周囲に嫌な視線を向けられる。私は熱を持った頬を振り切って、やっと周囲から見られなくなった所で、声を張り上げる。

「沙耶ちゃんはいちいち騒ぎすぎ!」

「あー、もううるさいなあ」

 沙耶ちゃんはやれやれと首を振って、苦言交じりに言う。馬鹿にしたような口調だったから、思わず口を挟みそうになる。

「だいたい、杏奈は自己主張が無さ過ぎよ」

「だ、だって、いちいち言いふらす事でも」

「恋する時はね、思い切ってやった方が結果的に良いの!」

 沙耶ちゃんが急に真面目な口調になるものだから、即座に反駁するはずだった言葉を忘れてしまった。五月の終わりの、湿った空気が、高い位置で縛った沙耶ちゃんの髪を揺らす。

「例えば、チャンスがあったのにおどおどしてて失った場合と」沙耶ちゃんは片方の人差し指を上げる。「チャンスがないかもしれないけど、一生懸命やる場合と、杏奈はどっちが良い?」

 沙耶ちゃんはもう片方の人差し指を上げて、柔和な表情を見せた。私は下唇を少し噛み、「後者」と小さく呟く。

「恋愛も同じでしょ?」

 私と沙耶ちゃんとの間を隔てる水溜まりに、沙耶ちゃんの言葉が零れた気がした。一瞬だけ、先輩の無愛想な表情が脳裏をよぎって、私は自分が何を考えていたのかもよく分からなくなりそうだった。

 ――市川先輩は、少し前からの憧れで。

 ――でも、特別な感情を抱いていたかなんて、分かりやしない。

 脳裏で呟き、少しだけ思案すると、私は革靴の先を、水溜まりに浸した。水面に写る、笑顔を保ったままの沙耶ちゃんの影が、灰色の道に溶け出す。

「……そう、かもね」

 小さく、私は肯く。

 沙耶ちゃんは、私の両肩に手を当てて言った。

「少しずつ、頑張れば良いの。杏奈は杏奈! そうじゃない?」

 真摯な眼差しの沙耶ちゃんを見てると、何故か急に可笑しさがこみ上げてきて、私は少しだけ苦笑を漏らす。

「何? 私がここまでガチに言うのがそんなに可笑しいの?」

 沙耶ちゃんは口を細めて不満げに言った。

「ううん、そうじゃなくて……」

 その時、風の音だけが、街に残されたような錯覚が、私を覆った。世界から、私だけが遮断され、時が私を見放したような、表現の難しい感覚だった。

「あ……」

 私はバッグの中で畳まれているだろう、借り物のスポーツタオルの辺りをぎゅっと握っていた。革の厚みが、私のひ弱な握力に抗おうとする。

 雨の降らない街の、少し先だ。彼は黒い傘を片手に、隣の猫目っぽい男の人ちょっかいを受けている。彼の脇腹をつついてくる猫目の人から、無愛想な表情のまま手を払おうとしていた。

 心臓が走り始めた。口から漏れる息が、少しだけ荒れる。

「……杏奈? どうしたの? ぼーっとして」

「……先輩、だ」

 隣で沙耶ちゃんが「何?」と再三再四問いただしてくる声もろくに耳に入らないまま、私はその場に立ち止まってしまった。昨日と変わらない顔のままの先輩が、三人くらいの横列を作って、歩いてくる。

 一瞬、声をかけようと思った。でも今、私の手元に傘はない。

 ――声をかけた方が良いの?

 ――せめて、タオルだけでも……。

 ――でも、傘は無い……。

 気づけば、先輩の顔がぐんぐん近寄ってきて、私の足に枷がはまったかのように私はその場に硬直してしまった。沙耶ちゃんが隣で、急かすかのように騒ぎ立てている。でも、「ん?」

 私はその太い声に、反射的に首を上げてしまう。先輩の顔は、すぐ先にあって、私よりも後に気付いたであろう先輩の方が、怪訝な声を上げた。

「……昨日の子?」

 私は不意に、俯いてしまう。耳には、「何? 市川の元カノか何か?」という女の人の声や、「拓が昼に言ってた子だろ」といった、先輩より声のトーンが少し高い男の人の声が耳にへばりつく。

「なあ、そうだよな?」

「何々? 杏奈、ねえ、もしかしてこの人?」

 いたずらな声を上げた沙耶ちゃんが、私の背中を叩いた。言葉がこれっぽっちも浮かんでこない。それどころか、先輩の顔が(何故か)恥ずかしくて、見れない。

「……違ったか?」

「あ、あのっ」

 私は思い切って、頭を上げた。先輩は目をまんまるにして、私を見ると、苦笑いを浮かべてくる。

 私の頬が、一気に熱を帯びた。

「これっ」

 私は落ち着きの無い子供のような振る舞いで、鞄からタオルを引き抜いた。ぐしゃぐしゃになったタオルを見た先輩は、一瞬だけ呆けたような表情を見せると、すぐに「ほんとにわざわざ洗ってくれたのかよ」と苦笑して、タオルを掴む。

「何か、悪いな」

「い、いえっ、全然、全く」

「あ、あと傘は?」

「あ」

 思い出したように言った先輩の声に、私は言葉を濁してしまった。

 それから先の事は、恥ずかしくてあまり口にしたくない……。


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