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Takumi Side 2

 この高校に入学したのは、部活動推薦が理由だった。それは、中学時代の活躍にある。中学時代、弱小チームを牽引し、チームを県大会に導いたのは、自分で言うのも何だが俺だった。中学の頃の実績を評価され、推薦で入学後、この高校のバレーボール部に入部し、当初は高校生活の大半を、部活にかける気持ちでさえいた。当時の俺は、今のようなひねくれた俺ではなく、意気揚々とした「俺」だったのだと思う。

 けれど、新人戦を終えた頃の練習中に、俺は部長だった先輩とのブロックの練習中に足を絡めてしまい、半月盤を損傷した。予想以上に事態は深刻で、膝にボルトを埋め込む手術をした後、リハビリを開始した。通常の生活が送れるようになった頃には、俺は二年に進級していて、再びコートに立ったものの――既に膝は選手として機能できるものでは無くなっていて、無駄に高い長身を持ったまま、俺は退部を選択した。


         *


 雨の降る湖ノ上は、いつもより街の色が薄い。校門を出てから右に曲がり、少し道を進むと、駅に直通する商店街がある。それは、この街で唯一の繁華街と言えるような場所だ。そして、駅に近づくにつれ、周囲にはビルも見え始める。

 本屋や飲食店、百貨店やスーパーマーケットを脇に抱える商店街は、雨のせいか人影が薄い。紺色の傘を打ち付ける雨音は決して弱くはなく、時折スニーカーに雨水が染み渡り、足が気持ち悪くもなった。

 真人が気を利かせてくれたのか、今日は隣に真人とひかるがいない。頭が冷えた今だから言えるのだけど、ひかるは部活の事情を知らないから俺が責めることは出来ない。けれど、彼女自身も何かを感じ取ったらしく、昼休み以降あまり俺と深くは話していない。明日会ったら、謝っておくほうがいいかもしれない。

 肩に鳴る静けさを振り切るように、両肩を震わせると、振動で傘から雨粒が分散した。ワイシャツ一枚だというのに、街は酷く蒸れていて、首筋から垂れる雫が、下着に染み込む。街に迷い込んだ黒い子犬が、濡れたモップみたいになっていた。

 憂鬱な街だ。

 行き交う同年代に見える学生や、小太りのサラリーマンも、我先にと街から逃れていく。雨に打たれずぶ濡れになる店舗の中は、ぼやけた光ばかりが見えるだけだ。

 今の俺を、そのまま置き換えたような街だ。

 奪われるものが奪われた今、正直俺にはこの街が死にかけた流刑地のようにしか思えなかった。夏の前に現れる、他の市と比較しても長い梅雨は、何の衝動をも起こさない。ただ、雨に打たれて時間の流れに体を流すだけだ。

 しばらくして、俺が商店街を抜けると、湖ノ上駅が現れる。数本の私鉄線や、巨大な駅ビルを構えることでも有名な駅の周辺は、雨にもかかわらず商店街には感じなかった、微かな活気があった。合羽姿でティッシュを配る茶髪の男や、相合い傘をしてターミナルへ入っていくカップル。駅から流れ出てくるサラリーマンの数は、時間を経る度に数を増していった。

 いつもなら、特に気にすることもなく俺は改札口に吸い込まれていくのだけれど、何故かそんな気にはなれなかった。駅前で客を待つタクシーが眠る中で、俺はふと、駅の入り口からは少し離れた、地下通路の手前に生える木々の道に目が行っていた。自分でも不思議なのだけど――俺の目に留まったのは、雨に濡れる、木の道ではない。

 その道を開く、石段の上でうずくまるようにして誰かを待つ、女の子だ。

 臙脂色のブレザーが雨に染みて深い色に淀んでいる。一糸まとわないロングヘアに、飴玉を切り抜いたような、輝きと潤いのある瞳。チェック柄のスカートを折り曲げていないから、よほど校則に厳しい学校の子か、真面目な子みたいだ。

 それにしても、可愛い子だった。垂れた瞳の下に見える頬は薄い桃色に染まっており、少し押せば倒れてしまいそうな華奢な体格。そんな子が、木樹から落ちてくる雨粒のせいでずぶ濡れだから、正直見ているこっちからすればかなり痛々しい。

それとも、気付いていないのだろうか。それにしたって、髪は洗った後のように潤んでいるし、いくら空気が湿っているとは言え、見ている俺の方が風邪をひいてしまいそうだ。

「くそ」

 そう呟くよりも先に、俺の足は彼女の方へ向かっていた。瞳を落とし、膝の上にカバンを乗せている彼女は、俺が歩み寄っているのにも拘わらず、微動だにしない。精巧な人形みたいだった。

「……おい」

 低い声で彼女を呼ぶと、俺は傘を彼女の上に差し出した。ようやく気付いたのか、彼女は少しだけ瞳を上げる。

「……頭。濡れるぞ」

「あ……」

 彼女は整った顎に、細い指を当てて、半開きのまま言った。言わずもがな、顎からは雫が滴っている。……一瞬だけ、心臓がとくん、と声を上げた気がした。

「傘、ないの? 駅の中に行けばいいのに」

 呆れ声で言うが、彼女は特に反応を指し示す事も無かった。かすれ声で、生返事をするだけ。それ以外は、何故か、口を半開きにして、呆然として表情で俺を見るだけだ。おかげで、垣間見える可愛さがぶち壊しだった。

「とりあえず、これで髪とか拭けよ。風邪ひくぞ」

 俺はエナメルバッグから、タオルを取り出し、彼女に差し出す。

「……あの」

 彼女がタオルを握ったとき、小さな声が漏れてきた。

「何?」

「……ありがとうございます」

 彼女は顎を下げた。熱を帯びたのであろう頬は真っ赤だった。

「……良いよ、そのくらい。良いから早く拭け」

 俺はタオルを押しつけた。傘の下で彼女は、髪を毛先に向けて、丁寧に拭いていく。けれど、ドライヤーがあるわけでもないために、清流の流れを思わせる髪は潤いを含んだままだった。震える手で髪を撫でる彼女の手首は、ひどく細かった。

 追い討ちをかけるように、傘に打ち付ける雨が強まった。彼女に傘を差し出しているおかげで、俺の頭や肩は既に濡れていて、彼女を注意することなど出来ないくらいの濡れっぷりになってしまった。

「……濡れてしまいますよ」

「いいよ、下入っとけ。どうせ少ししたら駅に入るから気にすんな」

 そう言いつけると、彼女はまた黙り込んで、俯いてしまった。初対面が影響しているのだろうが、かなり扱いづらい。当然だけど、何を考えているのかも分からないし。

「あの」

 少しだけ、彼女は声を上げる。

「……すみません」声のトーンが、消えかかってくる。「タオル、洗って返しますから」

「いや、そこまでしなくても」

「洗いますからっ」

 彼女がきっ、と言った。気弱そうなのに、変な所で強情だ。

「……なあ、君、清林せいりん高校の子だろ。俺、学校違うからまた会えるとは限らないぜ?」

 臙脂色に緑のリボン、という特徴的な制服は、湖ノ上と関係深い人間なら誰でも知っている。湖ノ上でも有名な進学校の清林高校がそれだ。偏差値は俺では唾をかけられてしまうほど高く、校則もうるさいから、生徒の身なりが良いことでも知られている。

「まあ、学校自体は近いけどさ」

 俺は苦笑交じりに言う。

「……あ、会えるか会えないかより、私のけじめの問題ですから」

「いや、けど、悪いし。良いよ、俺が持ち帰るから」

「いえ、……少しだけでもお世話になってしまいましたから。それに、早く傘の下に入ってもらわないと。……濡れてますよ」

 彼女は顔を赤らめ、上目遣いで言った。気付いていない訳では無かったが、既に俺のワイシャツが透け、以前まで部活で使っていたTシャツが丸見えだった。

「まあ、問題ないって、このくらい」

「でも、冷えますよ」

「タオルはもう一枚あるから大丈夫。……じゃあ、タオルは任せたよ。あ、ついでに傘使ってていいぞ」

 俺は冷え切った彼女の小さな手を掴むと、指を開かせて、傘の柄を押し込んだ。彼女は猫のように身を少しだけ震わせ、口元を震わせて言った。

「わ、わ、悪いですよっ、傘までなんてっ」

 すると、彼女の顔が、頬を発端に一気に赤みを帯びていくのが分かった。……いきなり手なんて掴んだものだから、慌てふためいたのだろうか。俺はこめかみを掻くと、言いつけるように言う。

「俺は良いから。タオル、今度返してくれるんだろ? なら、その時にこれもついでに返してくれれば良いから。気にすんな、どうせ俺電車だし」

「で、でも」

「つべこべ言うな。気にすんなよ、どうせ傘なんて家に予備があるから」

 押し負けたのか、彼女は下唇を持ち上げて首肯した。俺は腕時計に目を落とすと、灰被れたような駅を見据え、傘の柄から手を離す。

「じゃあ、風邪引くなよ。もし俺を見つけたら、声かけろよ。帰ったらちゃんと風呂、入れよ」

 そのまま、彼女が何かを言いつつも、俺は雨の溜まった石道を蹴り、駅の入り口へ駆けた。それは、急いでいた訳でも、電車に間に合わなかったからでもない。

 指を絡めたとき、本当はかなり心臓が震えていた。濡れ猫のような彼女だって、歴とした女の子だし、それに、何より――可愛かった。生まれてから十七年を過ごしても、あんなに可愛い子を見たことはなかった。その容貌に気がついた時、息が上がって、正直何を言ったら良いのかも分からなくなっていた。だから、かなり出任せの言葉を吐いたし、実際予備の傘なんて持ってはいない。

「……タオル」

 俺は人波を駆け抜けている時に、喧騒に溶けていくような声を口にした。改札口の前でふと立ち止まると、俺は触れ合った手に、思わず手を落とす。実際は、また会える、なんていう確証はない。けれど、真面目そうな子だから、多分そのうち、再会するのだろう。そんな予感しか、しない。

 でも俺は、あの子に会ったら、ちゃんとした言葉を交えられるかもわからない。

 俺は改札口に入る前に、そう思案すると、首を振って、ずぶ濡れのまま改札口を通った。



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