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Takumi Side 1

 窓際の席から教室の窓を一瞥すると、空の色は灰色の絵の具に染まった後の、パレットのようになっていた。厚い雨雲まで、鼠の群が濁したように灰色に淀んでいる。窓から見える、駅の回りの摩天楼や、校道の脇で林立している欅が、彩色の消えた街並みに嗚咽を漏らしているようだった。

 授業はもう終わりに差し掛かるけれど、授業の内容なんてものは、ほとんど頭に残っていない。「催眠授業」と称される英語の授業は、その名の通り授業中の睡眠度が高く、現に、俺の周囲の半数が机に突っ伏している。枯れ枯れの声で長文を読む、初老の教師の発音は朗読と言うよりも、もはや子守歌に近い。事実、フルタイムで授業を終えられる生徒は一握りもおらず、本音を言えば俺も、途中数分間は、意識を飛ばしてしまった。

「ほら、起きろー」

 教師は声のトーンを上げて、睡眠中の連中に呼びかける。俺は窓に向けていた視線を、咄嗟に横目で教師の方に向けた。呼びかけに応じた連中は、一旦眠そうな目を、黒板に向けるのだけれど――また、ドミノ式に倒れていった。埒があかなくなったのか、それから教師は何も言わなくなった。

 俺はまた、視線を窓の外に移した。冬でもないのに、曇り空と連日の雨のせいで、街の情景が凍えているように見える。交通の基点になる駅の方は、いつになく寂れているように写った。欅の梢も、風に少し揺れている。

 がみが、五月の終盤に差し掛かると、雨の季節を迎えるのは例年通りだった。異常気象やらで、雨量の少なさが喚起される時代ではあるけれど、この街はある意味で「外れて」いる。梅雨の入りが早いだけでなく、期間も長い。おかげで、生まれてこの方水不足に遭遇したこともない。

 でも、俺は梅雨が嫌いだった。

 梅雨が好き、という人間には申し訳ないかもしれないが、この時期はいつも憂鬱になる。多雨にも拘わらず、湿気のせいで妙に汗ばむし、アスファルトに浮かぶ水溜まりのせいで、ズボンの裾は濡れる。

 日々が憂鬱なのに変わりはないが、特につまらない日が多くなる。ただでさえ退屈な高校生活を送っているのに、雨のせいで容易に遠出もできない。

「……では、今日はここまで。号令かけて」

 日直が眠気混じりの声で立つと、俺もまた背伸びがてらに立ち上がった。

 昼休みのチャイムだ。


「はい、注目!」

 昼休みになると、クラスの奴らは多方面に分散していく。購買に行ったり、他の教室に行ったりと、各人の目的は多様だ。

 俺はというと、いつもと同じく、教室の端に机をいくつか集めて、数少ない友人と昼食の時間を取っていた。

「何だよ」

 俺がパンをかじりつつ素っ気なく言うものだから、神田かんだひかるは頬を膨らませて「何よー」と小さく反発する。

「で、何?」

 弁当を箸で突っついている倉本真人くらもとまさとは、ひかるの方へ視線を向ける。ひかるは偉そうな老人みたいな咳払いをすると、人差し指をぴん、と立てた。

市川拓海いちかわたくみくんに問題なのです」

「いちいちフルネームで言わんでもいい」

 俺は視線を携帯の液晶画面に落としながら気怠く言った。

「市川、湖ノ上の梅雨の噂って知ってる?」

「知らね」

 嘆息交じりに言ってやる。

「その言い草はないでしょー! もっとさ、興味とかないのかな? かな?」

 念を押すように、ひかるは首を傾げて言った。セールス販売員みたいな笑みをあげてくるものだから、余計に興味がなくなってくるのは、否めなかった。

「ない」

「市川ーッ!」

 ひかるが憤慨した。いちいちうるさいやつだなあ。

「きみが何かつまらなそうに生活してるから話題振ってあげたのに! 何よその態度!」

「落ち着けって、神田」

 フォークを突き立てて、民族演舞でもし始めそうなほど奇怪なポーズを取っていた神田を前に、真人が素早くひかるの右腕を掴んで制止させた。今このクラスでこいつを止められる男子って、こいつくらいしかいないんじゃないかな。

「拓がこういう性格なのは認識しとけって。で、噂って?」

「むー……」

 真人がひかるをなだめる一方で、ひかるは口をすぼめて唸った。ひかるは不機嫌そうに座り直すと、再び咳払いをする。やたらにひかるが騒ぐせいで、さっきから周囲の連中の視線が痛い。

「えっとね」

 ひかるが言う。

「これ、十年以上前から、湖ノ上の女子高生の間じゃ有名な噂なんだけど。湖ノ上って梅雨がやたらと長いでしょ? それに合わせて上手く作ったのかどうかは分からないんだけど、雨の日に女子が意中の相手とか、気になる相手と相合い傘すると、恋に発展するんだって」

「うっわ、何だよその少女マンガみたいな噂」

 真人は弁当のおかずを口に運びつつ、苦笑しながらそう言った。俺からしたら、一体どうしていきなりこんな噂を振ってきたかの方が分からない。

「……俺、今好きな相手とかいないし」

 嘆息混じりに俺は言う。口には出さないけれど、本当に至極くだらない。

「大体それ、女子限定じゃん。何でそんなこといきなり言ってくるんだよ」

「いや、もしかしたら市川にそういう出会いがあるのかなー、ってさっきの授業の時にふーっと思ったのよ。ほら、市川ってルックス悪くないし、身長だって百八十近いじゃない」

 頬杖を付いたひかるは、いたずらな眼差しで言う。

「それは確かに言えてるよなー」真人は空になった弁当を鞄に仕舞った。「拓は自覚無いかもしれないけどさ、お前、うちのクラスだとかなり格好いい方だぞ」

「そうそう、女子の間でも、市川って意外とポイント高いんだよね。性格悪いけど、良く言えばクールだし」

 二人が饒舌に走る一方で、俺は空になったパンの袋を潰し、コンビニの袋に押し込んだ。二人が何と言おうと、俺からすれば何の興味も沸かなかった。クラスでもこの二人以外とは殆ど会話を持たないのに、クラス内の評価を大っぴらに公表されても、正直困る。

「良いよ、わざわざそんなこと公表しなくても」

 腿の上で転がる携帯をポケットに仕舞うと、真人が食いついてくる。

「なあ、でも少しくらいは嬉しいとか思うだろ?」

「全く」

「でもさ、残念だよね」

 ひかるははーぁ、と溜め息混じりに言うと、宙を呆然と眺めているような表情で言った。

「……バレーボール、上手かったんでしょ? 何で辞めちゃった訳?」

 ナンデヤメチャッタワケ?

 思考が凍り付いた気がした。そんなことを俺に言え、と言うのか。

 心の底から、重いものがこみ上げてくるのが分かった。それが、「怒り」だと言うことも。

 歯を軋ませた時、俺の視線が鋭くなったのに気付いたのか、即座に険しい表情で、真人がひかるにきつく言う。

「馬鹿!」

 ひかるの表情がキョトンとなった。

「お前、拓の気持ちとか考えてやれよ! ……おい、拓!」

 真人が声を出し切る前に、俺は席を立って、コンビニ袋をゴミ箱に粗暴に投げ捨てた。そのまま、二人が俺に何かを言っていたような気もしたけれど、今はその言葉を受ける気にすらなれなかった。教室の戸を引き、行き交う生徒の間を抜け、当てもなく俺は歩き始めた。今は、誰の声も聞きたくなかった。

 あきらめる方が早かったのだ。

 人生なんて、何もかも与えられるなんて甘い考え、存在するわけじゃないから。

 そのまま、何気なく廊下の外を見上げ、空の色を見た。気づけば、校舎の外で、雨が踊り始めている。俺の心境をあざ笑うかのような風景に、吐き飛ばす息もなくなってしまう。

 今日も傘をさして帰らなくてはいけないのか、と反芻するにつれ、鼠色の空に、昼休みの時間が溶けていった気がした。


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