プロローグ
街の色が消えていくような、そんな錯覚に陥りそうな雨だった。しとしとと無機質な音を立てて、灰色の街を濡らしてくる雨を見ていると、少なくとも俺にはそうとしか感じなかった。
やがて俺は、乾いた髪が雨に滴っていることに気付いた。長い間呆然としていたのか、肩のあたりまで雨水にすっかり濡れている。俺は紺色の傘を開き、雨に忙しくなった駅前の商店街に、足を踏み込む。一瞬だけ踵を返すと、視界の大半を占領する駅周辺に聳える百貨店や、ビジネスホテル等の摩天楼が、雨に打たれる街で墓標のように立ち尽くしているように見えてくる。
傘を揺らす、大粒の雨粒は、五分と経たない内に道を覆った。スニーカーには、時折雨が染み込んでくる。
愉楽とは言えない表情で歩いていると、聞き慣れた声が俺の背を叩いた。俺は子犬のように駆け寄ってくる彼女を、隣に入れると、また歩き始める。
雨足は、彼女が来た途端に弱まったみたいだ。
肩を縮めた彼女は、俺の顔をうかがいながら、眉をひそめて言う。
「……沈んだ顔、してますね」
「生まれつきだからな」
俺は素っ気なく返した。彼女はいつものように、薄桃色の頬を道に向けたまま、あまり言葉を発しなかった。こうして彼女のそばにいても、なんだか一向に発展がないように感じられて、自分自身が情けなくなってくる。素っ気ない自分の性格も、直せばいいと心の中では思っているのに。
俺はのどに詰まった、重苦しい空気を飲み込む。
「なあ」
俺は彼女の方を向かずに、商店街の先を見据えたままぶっきらぼうに言った。
「はい?」
「もう、七月だよな」
そう言えばそうですね、と彼女はなぜだか寂しげに言った。飴玉のようにくりくりした瞳が、少しだけ悲しげな顔を作り出したのを、俺は見落とさなかった。
「何だよ、夏は嫌いなのか?」
俺は唇を尖らせる。
「いえ、そういう訳ではなくて」
彼女は少しだけ首を左右させる。
「……先輩は、梅雨は嫌いですか?」
「梅雨?」
そうだな、と少しだけ間を置くと、俺は小さく唸る。雨水が跳ね、ズボンの裾が濡れたのが分かった。
「まあ、じめじめしてるし、蒸れるし、良いとは言えないよな。あんまり、好きとは言えないかな」
「そう、ですか……」
彼女は眉尻を下げ、また俯いた。彼女は暫く何も言わず、忙しく雨の町から逃れていく人々の間を、俺たちは並んで歩き続けた。傘を叩く音が強まる。やがて――彼女の、小さな桜色の唇から、小さな言葉が聞こえてきた。
「私は」彼女は正面を見据える。「私は、……梅雨が好きです。雨は嫌いじゃありませんし、それに」
俺は耳を傾けたまま、目を雨に濡れる街道に落としたまま、何も言わずにいた。震える声で彼女が言葉を口にした時、彼女は俺の方を向いて、涙がこぼれてきそうな、うるんだ瞳で語りかける。
「……梅雨が来なかったら、先輩とは会えなかったから」
横目で、俺は彼女の瞳を一瞥した。同時に、彼女は朱色で染めた布のように、顔を火照らせる。
勿論、こんな事を言われて動じないほど、俺は強くない。おかげで、耳は熱を帯びていた。何を返したら良いのかも分からず、また無言の傘の下、道を歩き続けた。俺の社交性の無さは、本当にどうにかしたい。
その時、傘の取っ手に、彼女の細い指が重なった。不意打ちに、俺は心臓を跳ね上げ、咄嗟に彼女の目を見た。
「ど、どうした?」
舌がもつれた。
彼女は、いつになく真剣な表情で、言葉を口にした。
「……手、重ねても……いい、ですか?」
「あ、ああ」
言葉が消えた後、彼女はまたいつもと変わらないあどけない表情を見せ、柔和に微笑んだ。心臓が揺れ動く気もした。
「ありがとうございます」
それから。
ただ俺たちは、いつものように、ただ歩き続けた。長い、長い街道をしとしとと濡らす雨は、この季節を過ぎると、またどこかへ消えてしまう。
『私は、梅雨が好きです』
彼女の言葉が不意に蘇り、俺は反芻していた。
梅雨が過ぎれば、俺たち二人の関係は、終わってしまうのか――と。
一つだけ、言っておく。
これは、俺が彼女に出会い、ただ二人で歩くだけの、ありふれた物語だ。客観視したら、くだらない話かもしれないし、俺たちを見ているあなたにとっては、どうでも良いのかもしれない。
ただ、俺は彼女に出会えたから、失った多くの物を取り戻せた気がした。だから――この物語を、追っていこうと思う。