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3年間猫をかぶってDV夫に尽くすふりをし、毎日餌付けしてただの豚にしてやりました

作者: 熾星
掲載日:2026/08/25

3年間猫をかぶってDV夫に尽くすふりをし、毎日餌付けしてただの豚にしてやりました


 友人の佐伯奈緒は、テレビ局の報道記者だ。私が長年、夫からDVを受けていることも知っていた。


 配偶者暴力の特集取材の日、奈緒はスタッフと我が家へやってきた。


 カメラの前で、私は突然笑った。


「実は、文也から暴力を受けたことなんて一度もありません」


 私は、自分を浪費家でわがままな悪妻に仕立てた。


 そして、私を支配し、殴り、家から出さず、離れれば実家に火をつけると脅した夫を、妻に追い詰められた可哀想な男として語った。


 奈緒は驚いた顔をしたが、何も言わなかった。


 取材が終わり、玄関のドアが閉じた瞬間。


 文也の顔から笑みが消えた。


「記者を呼んだのは、お前だろ?」


 その日、私はまた殴られた。


 鼻血を拭きながら、静かに思った。


 大丈夫。


 今回も、私は彼を許す。


 毎日、好きなものを作って。



1



 私と黒川文也は、私立月森大学の同級生だった。


 初めて会った日のことを、今でもはっきり覚えている。背が高く細身で、薄いベージュのニットを着ていた。肌は白く、女の子と話すだけで少し耳を赤くするような、物静かな青年だった。


 クラスの明るい女子たちは、そんな彼をよくからかっていた。


 文也が真っ赤になるたび、みんなで笑う。


 ある日、それが少しやりすぎに見えて、私は間に入った。


「そのくらいにしたら? 本当に困ってるじゃない」


 それからだった。


 文也が、よく私のそばへ来るようになったのは。


 図書館では先に席を取ってくれた。


 雨の日には傘を二本持ってきた。


 私が何気なく「この店のプリンが好き」と言っただけで、次の日には遠回りして買ってきてくれた。


 いつから恋人になったのか、はっきりとは覚えていない。


 気づけば、当たり前のように二人でいた。


 文也は優しかった。


 当時の私は、自分が世界で一番大切にされているようにさえ感じていた。


 彼は、自分の家庭についても話してくれた。


 幼いころに両親が離婚し、その後、母親は再婚した。父親についてはほとんど話さなかった。


 ある日、私を抱きしめながら言った。


「だから俺は、自分の奥さんだけは絶対に大事にしたい」


「親みたいな夫婦にはなりたくないんだ」


「もし美咲と結婚できたら、一生大切にする」


「ずっと離れない」


 私は彼の胸に顔を埋めながら、自分はなんて幸せなのだろうと思った。


 大学を卒業する少し前、私たちは結婚した。


 卒業後の就職や引っ越しをきっかけに別れるカップルも多い中、私たちはもう人生を一緒に歩き始めている。


 当時の私は、それだけで何も怖くなかった。


 新婚生活も、最初は幸せだった。


 ただ一つ気になったのは、文也が家の中の物の位置に異常なほど敏感だったことだ。


 玄関の靴は必ず同じ向き。


 リモコンはテーブルの端と平行。


 玄関棚の小物まで、少し角度が変わるとすぐに直した。


 ある日、私は笑いながら聞いた。


「きれいに並べたいのは分かるけど、向きまで決まってるの?」


 文也は私の頭を撫でた。


「俺、こういうのが気になるんだよ」


 そして妙に真剣な目で私を見た。


「美咲は俺の宝物だから」


「一番居心地のいい家で暮らしてほしいんだ」


 そう言って、急に強く抱きしめてきた。


「ずっと俺のそばにいてくれるよな?」


「離れたりしないよな?」


 私は笑って、その胸に抱きついた。


「もちろん」


「ずっと文也の奥さんでいるよ」


 あのときは気づかなかった。


 その言葉を聞いても、彼の目には喜びよりも、何かを確認し終えたような安堵が浮かんでいた。


 結婚して一か月ほど経ったころ、青凪ホールディングスから採用の連絡をもらった。


 大学時代から、ずっと入りたかった会社だった。


 うれしくて、すぐ文也へ電話した。


「文也、採用が決まった!」


「前から話してた青凪ホールディングス!」


 電話の向こうが静かになった。


 私は気にせず、来週から正式に入社することや、配属予定の部署について話し続けた。


 しばらくして、返事がないことに気づいた。


「文也?」


「聞いてる?」


 電話が切れた。


 電波でも悪かったのだろうと思い、その日は入社に必要な書類や服を準備した。


 しばらくすると、玄関が勢いよく開いた。


 文也だった。


 額には汗が浮かび、呼吸も荒い。仕事を切り上げ、かなり急いで帰ってきたらしい。


 私は笑って迎えた。


「今日は早いんだね」


「そんなに急いで帰ってきたの? タオル持ってくるね」


 振り返ろうとした瞬間、手首をつかまれた。


 力がどんどん強くなる。


「文也、痛い」


 それでも離さなかった。


 私は力いっぱい手を引いた。


「黒川文也、何してるの?」


「本当に痛いんだけど」


 文也はそこでようやく我に返ったように私を放し、すぐに抱きしめた。


「ごめん」


「わざとじゃない」


「一日会ってなくて、美咲に会いたくて……力加減を間違えた」


 そして私の手を取り、自分の頬へ持っていこうとした。


「俺が悪い。殴っていいから」


 私は慌てて手を引っ込めた。


「もういいよ」


「次から気をつけて。本当に痛かったから」


 しばらく黙っていた文也が、ようやく本題を口にした。


「美咲、働かなくてもいいんじゃないか?」


 私は首をかしげた。


 文也は真剣な顔をしていた。


「俺一人で養えるよ」


「外で働いたら通勤もあるし、残業だってある」


「家にいてくれればいい」


「俺の大事な奥さんとして、のんびり暮らしてほしい」


「外の大変なことは、俺が全部引き受けるから」


 あのころの私は、その言葉に感動してしまった。


 自分を守ろうとしてくれているのだと思ったのだ。


「だからこそ、私も文也を支えたいよ」


「二人で働いたほうが生活も楽になるし」


「それに、この仕事はずっとやりたかったの」


 その夜、文也は深夜まで私を説得した。


 それでも私が考えを変えないと分かると、最後にはしぶしぶ頷いた。


 当時の私は知らなかった。


 彼が口にする「分かった」は、受け入れたという意味ではなかった。


 翌週、私は青凪ホールディングスへ入社した。


 同僚は親切で、職場の雰囲気も良かった。初めて本格的なプロジェクトに関わり、忙しいながらも、自分が少しずつ成長している実感があった。


 二か月後には、あのとき文也の言うとおり仕事を諦めなくてよかったと心から思っていた。


 あの雨の夜までは。


 担当していた案件に急な修正が入り、何人かで残業することになった。


 小さな子どもがいる社員たちは先に帰り、残った人数は多くなかった。その中で女性は私一人だった。


 チームリーダーも、最初は私を帰そうとした。


「もう遅いし、外はかなり雨が降ってるよ」


「一人で帰るのは心配だから、今日は上がっていい」


 私は笑って首を振った。


「大丈夫です。夫が迎えに来てくれるので」


 隣の同僚が笑った。


「迎えに来てくれるんだ」


「新婚さんはいいね」


 私も一緒になって笑った。


 あのときの私は、まだ自分の結婚生活を幸せだと信じていた。


 何時に終わるか分からなかったので、文也にはLINEで「今日は残業になる。終わったら連絡する」とだけ送った。


 その後はスマートフォンをマナーモードにし、仕事に集中した。


 四十分ほど経ったころ。


 突然、オフィスの入り口から怒鳴り声が響いた。


「高梨美咲!」


 驚いて顔を上げた。


 文也が立っていた。


 髪も肩も雨に濡れ、目が異様なほど赤い。


「どうしてここにいるの?」


 私は慌てて駆け寄った。


「まだ仕事終わってないよ。休憩スペースで待ってる?」


 文也は動かなかった。


 オフィスの中にいる社員を、一人ずつ見ていく。


 あまりにも異様な視線に、周囲の人たちも次第に黙り込んだ。


 チームリーダーが空気を察し、こちらへ来た。


「美咲さんのご主人ですよね?」


「さっきも迎えに来てくれるって話してたんですよ。仲がいいんですね」


 文也は笑わなかった。


「どうして残ってる女性社員が美咲一人なんですか?」


 リーダーが戸惑う。


 文也は今度は私を見る。


「それより美咲」


「どうして電話に出ない?」


 私はスマートフォンを取り出した。


 四十分あまりで、八十件以上の不在着信。


 LINEにも大量のメッセージが届いていた。


 最初は「どこにいる」「何時に終わる」。


 それが徐々に「誰といる」「どうして出ない」に変わり、最後には私を侮辱する言葉になっていた。


 電話に気づかなかったことを少し申し訳なく感じていた自分が、一瞬で消えた。


「外で話そう」


 私は彼の袖を引いた。


 文也は振り払った。


「ここでいいだろ」


 私は声を落とした。


「お願いだから」


「家に帰ってから話そう?」


 文也はますます声を荒らげた。


「何で家に帰らないと言えないんだ?」


「同僚に聞かれたら困ることでもあるのか?」


 私は怒りを通り越して笑ってしまった。


「分かった」


「この四十分、私はずっと仕事してた」


「ここにいる全員が証明できる」


「四十分電話に出なかっただけで八十回以上電話して、こんなメッセージまで送ってくるのが普通だと思う?」


 チームリーダーもさすがに顔をしかめた。


 文也は、その場で私を辞めさせようとまでした。


 もちろん会社が、社員の夫に言われたからといって退職を認めるはずがない。


 結局、その日は二人とも一度帰って落ち着くよう言われた。


 けれど家へ戻ってから、文也は一晩中、私へ仕事を辞めろと言い続けた。


 既婚女性を男性社員と深夜まで残業させる会社はおかしい。


 私が働き続けるなら毎日迎えに行く。


 残業させるなら本社や人事にもクレームを入れる。


 そう言って、一睡もさせてくれなかった。


 翌朝。


 疲労と羞恥で頭がほとんど働かない状態のまま、私は退職届を提出した。


 大学時代から憧れていた最初の会社。


 たった二か月で、辞めることになった。



2



 仕事を辞めてから半月ほど、私はほとんど文也と口をきかなかった。


 すると彼は、まるで大学時代の優しい青年に戻ったようになった。私の好きなものを買ってきて、家事をして、何度も謝った。


 さらには、私の両親にも自分から連絡した。


 数日後、母からLINEが来た。


「文也さんと何かあったの?」


「若い夫婦なんだから、喧嘩くらいするでしょう」


 父からも電話が来た。


「働かなくても養ってくれるって言ってるんだろ?」


「今は外で働くのだって大変なんだから、家にいられるならいいじゃないか」


 何度も言われるうちに、私のほうが間違っているのかもしれないと思い始めた。


 何しろ、そう言っているのは実の両親だ。


 完璧な結婚なんてない。


 文也の優しさを選んだのなら、少しくらい強すぎる独占欲も受け入れるべきなのではないか。


 私はそうやって、自分を納得させた。


 半月続いた冷たい空気を終わらせたくて、一日ショッピングへ出かけた。


 働いていた二か月で貯めたお金をかなり使い、自分の服や化粧品を買った。文也にはスーツと腕時計を選んだ。


 家へ帰ると、彼の好きな料理をいくつも作った。


 最後にお気に入りの赤いワンピースへ着替え、髪を整え、久しぶりにきちんと化粧をして待った。


 玄関が開いた。


 文也は私を見るなり、一瞬だけ目を奪われたようだった。


 ところが、リビングに置いてある買い物袋へ気づくと、表情が一気に沈んだ。


「おかえり」


「手を洗ってきて。今日は文也の好きなものばかり作ったよ」


「プレゼントもあるから」


「……ああ」


 食事中、何度話しかけても反応が薄かった。


 突然。


 文也が茶碗を床へ叩きつけた。


 破片が飛び、一つが頬をかすめる。


 細い傷から血がにじんだ。


「黒川文也、何するの!」


 その一言が引き金だった。


 文也は勢いよく立ち上がり、両手で髪をかきむしった。


「何するって?」


「美咲が俺をこうさせてるんだろ!」


「家にいてくれって言っただけなのに、それすらできないのか?」


 買い物袋を指さす。


「買い物なら俺と行けばいいだろ!」


「一人で一日中出歩いて、こんな格好までして」


「誰に会ってきた?」


 ようやく、彼が何を疑っているのか分かった。


「何言ってるの?」


 文也は数歩で距離を詰め、私の両肩を強くつかんだ。


「男がいるのか?」


「半月間、俺がどれだけ謝っても無視してたのに、一日外へ出たら急にこんなことするんだぞ」


「後ろめたいことがあるんじゃないのか?」


 激しく揺さぶられ、頭がくらくらした。


 初めて、本気で怖いと思った。


 逃げようと身体をひねった瞬間。


 腹部に強い衝撃が走った。


 蹴られたのだ。


 床に倒れ、そのまま起き上がれなくなった。


 何度身体を起こそうとしても、腰から腹にかけて激痛が走る。


「文也……」


「119番して」


「動けない」


 それでも彼は近づいてきて、今度は脚を何度か蹴った。


「大げさなんだよ」


「俺にそんな力あるわけないだろ」


 私が本当に起き上がれないと気づいて、ようやく顔色を変えた。


 救急車で病院へ運ばれた。


 医師は最初、内臓を損傷している可能性を疑い、詳しい検査を行った。


 幸い深刻な臓器損傷はなく、腰や腹部の強い打撲と軟部組織の損傷だった。しばらく安静にするよう言われた。


 病院のベッドに横たわりながら、私はぼんやり天井を見つめていた。


 目の前で起きた出来事と、大学時代に女の子にからかわれて耳を赤くしていた青年が、どうしても同じ人間だと思えなかった。


 翌日、文也は仕事へ行った。


 私はまともに動けず、朝から何も食べられなかった。


 母に電話をしようと何度も思った。


 けれど、心配をかけたくなくてやめた。


 結局、夜まで空腹のまま待った。


 帰宅した文也へ、カップ麺だけ作ってほしいと頼んだ。


 ようやく食べられる。


 そう思って器を見ていた瞬間、頬に強い衝撃が走った。


 二度、平手打ちされた。


 何が起きたのか分からず固まっていると、文也は突然ベッドの横へ膝をついた。


「美咲、ごめん」


「昨日、本当に怖かったんだ」


「医者は重い怪我じゃないって言ったのに、今日もずっと寝たままだったから、ついイライラして……」


 彼は自分の頬を叩き始めた。


「俺は最低だ」


「美咲が離れていくのが怖いだけなんだ」


「愛してるから、怖くなるんだよ」


 何度も、自分の顔を叩く。


 頬が赤く腫れていった。


 私は黙って見ていた。


 胸の奥で、何かが少しずつ死んでいくような気がした。


 一週間ほど経ち、ようやく自由に動けるようになった。


 私はインターネットで、文也のような人について調べ始めた。


 強すぎる支配欲。


 強い不安感。


 恋人や配偶者への過度な疑い。


 幼少期の家庭環境が、大人になってからの人間関係へ影響することもあると知った。


 そのころの私は、その情報を「文也にも理由がある」という意味に受け取った。


 結婚は、お互いが譲り合うもの。


 どちらかが先に折れなければならないこともある。


 文也が私の外出を不安に思うのなら、できるだけ出なければいい。


 そう考え、家で洗濯や料理をする毎日になった。


 必要なものがあればLINEで送り、文也に帰宅途中で買ってきてもらった。


 それから二か月ほどは、大きな問題も起きなかった。


 ある日。


 文也の好きな生姜焼きを覚えた。


 夕食を作り終え、自分でまとめているレシピノートを見返していた。


 唐揚げ。


 ハンバーグ。


 とんかつ。


 カレー。


 酒に合う簡単なつまみ。


 文也が「おいしい」と言ったものは、ほとんど全部書き留めていた。


 玄関の鍵が開いた。


 顔を上げた瞬間、嫌な予感がした。


 文也の表情が暗い。


「美咲」


「玄関の鍵、位置が変わってる」


 胸が沈んだ。


「どういうこと?」


 文也が玄関を指した。


「朝出たときは鍵穴がまっすぐだった」


「今は少しずれてる」


「外に出た?」


 私は一歩下がった。


「午後、ゴミを捨てに下へ行っただけ」


 言い終わると同時に、寝室へ走った。


 鍵をかけた。


 でも。


 そのドアは私を守ってくれなかった。


 一分もしないうちに、文也が蹴破った。


 今度は足ではなかった。


 拳が何度も身体へ落ちてきた。


 痛くて泣くと、彼はますます興奮したように見えた。


 どれほど時間が経ったのか分からない。


 私は傷だらけで床に横たわり、天井を見ていた。


 涙がこめかみを伝い、髪の中へ流れていく。


 その瞬間。


 初めてはっきり思った。


 もう、こんなふうには生きられない。


 深夜。


 文也が眠ったのを確認し、静かに家を出た。


 薄い部屋着しか着ていなかった。


 冷たい夜風の中を、ただ前へ歩いた。


 月代市の道路には、ほとんど人がいない。


 マンションや家々の窓には暖かそうな明かりが灯っている。


 その一つ一つを見ながら、私はどこへ行けばいいのか分からなくなった。


 午前三時。


 ようやく父に電話した。


 電話がつながる。


「もしもし?」


 その一言を聞いた瞬間、我慢していたものが全部崩れた。


「お父さん……」


「お父さん……」


 泣きすぎて、ほかに何も言えなかった。


 父が車で迎えに来てくれた。


 実家では母が上着を羽織ったまま待っていた。


 傷だらけの私を見た瞬間、二人とも顔色を変えた。


 母は私を抱きしめて泣いた。


 父は文也のところへ乗り込むと言って怒鳴ったが、私と母で必死に止めた。


 ようやく眠りについたのは、空が白み始めたころだった。


 ところが、それから間もなく文也がやってきた。


 最初、父は玄関を開けることすら拒んだ。


 けれど文也が、父が以前から欲しがっていた高級な限定ウイスキーを二本差し出すと、空気が少し変わった。


「来るだけでいいのに、こんな高いもの買ってきて……」


 口ではそう言いながら、父はもう受け取っている。


 母はまだ険しい顔をしていた。


「そんなもの持ってきたら済むと思ってるの?」


 すると文也は、バッグから小さな箱を取り出した。


 中には真珠のネックレスとブレスレット。


「お義母さんがどちらを好きか分からなかったので、両方持ってきました」


 母は「いらない」と言いながらも、視線を外せなかった。


 私が部屋から出てきたころには、父も母も文也と一緒にお茶を飲んでいた。


 まるで昨夜のことなど何もなかったようだった。


 文也は私を見るなり、床へ膝をついた。


「美咲、ごめん」


「殴っていい」


「気が済むまで何でもしていいから」


 私は黙って見ていた。


 今度は父に向かって頭を下げた。


「お義父さん、俺を殴ってください」


 父はしばらく文也を見ていた。


 やがて大きく息を吐いた。


「夫婦なんだから、喧嘩することくらいある」


 母も文也の肩へ手を置いた。


「もう二度と手を上げないで」


「何かあったら、ちゃんと話し合いなさい」


 文也はその日、一日中実家にいた。


 それから十日ほど、ほぼ毎日のようにやってきた。


 来るたびに手土産を持ってくる。


 父と母の態度は少しずつ軟らかくなった。


 やがて二人は、交代で私を説得するようになった。


 母は言った。


「若いうちは、感情的になってしまうことだってあるわよ」


「本人も反省してるんだから、もう一度だけ様子を見たら?」


 父は文也からもらった酒を飲みながら言う。


「文也君は、俺たちにはちゃんとしてる」


「職場でも普通なんだろ?」


「どうして美咲といるときだけこうなるのか、お前も少し考えたほうがいいんじゃないか?」


 最後には、父まで声を荒らげた。


「離婚なんて簡単に言うな」


「結婚してまだ何年も経ってないのに離婚なんて、親戚に何て言われると思ってるんだ」


「夫婦なら少しくらい我慢することも必要だろ」


「それでも離婚するって言うなら、もうこの家を頼るな」


 文也につけられた傷も、まだ治っていなかった。


 そこへ両親の言葉が重なった。


 胸の中が、どんどん壊れていった。


 二人は親戚まで呼んだ。


 年上の従姉はすでに二人の娘がいて、三人目を妊娠していた。


 夫の実家は昔から続く店を経営しており、義両親はずっと「男の子が生まれたら将来店を継げる」と言っているらしい。


 従姉は私より数歳年上なだけなのに、ひどく疲れて見えた。


 彼女は私の手を握った。


「美咲、十分恵まれてるじゃない」


「文也さんは働かなくてもいいって言ってくれるんでしょう?」


「浮気してるわけでもない」


「ただ家にいてほしいって言ってるだけじゃない」


 少し自嘲するように笑う。


「うちなんて、夫が外で何してるか分かってても何も言えないよ」


「子どももいるし、家もある」


「それでも生活は続くから」


 私は最後まで頷かなかった。


 年末が近づいたころ。


 義母の黒川恵子からビデオ通話が来た。


「美咲ちゃん、今年の年末年始は雪森町へ帰っておいで」


「文也がしたことは聞いた」


「あなたは何も悪くないから」


「帰ってきたら、私がちゃんと叱る」


 文也も何度も迎えに来た。


 結局、私は彼と一緒に雪森町へ向かった。



3



 雪森町の実家へ着くと、恵子は驚くほど優しかった。


 そして本当に、私の前で文也を厳しく叱った。


「妻に手を上げる男なんて最低よ」


「もう一度でもやったら、今度は私が許さないからね」


 その姿を見ながら、私はまた少し期待してしまった。


 もしかしたら。


 母親が本気で止めてくれるなら、文也も変われるかもしれない。


 そんなある夜。


 トイレへ行こうと目を覚ますと、隣に文也がいなかった。


 廊下へ出ると、義母の部屋だけ明かりがついている。


 近くを通ったとき、私の名前が聞こえた。


 思わず足を止めた。


 文也の低い声がした。


「母さん、俺、本当に抑えられないときがあるんだ」


「子どものころ、母さんが父さん以外の男と付き合って、それで離婚しただろ」


「再婚したあとも同じだった」


「だから、女の人を信じられないんだ」


「美咲が外へ出るだけで、母さんみたいになるんじゃないかって思う」


 恵子の声が急に鋭くなる。


「何で私のせいなのよ」


「私がどう生きようと、あなたには関係ないでしょう」


「美咲ちゃんだって、もっと素直に家にいればいいの」


「あなたが嫌がることをしなければ、何も起きないじゃない」


 しばらく沈黙したあと、義母が声を落とした。


「文也、いい方法があるわ」


 その先は聞き取れなかった。


 私は一人で部屋へ戻り、長いこと座っていた。


 初めて分かった。


 表面上は優しく、常識的に見えた義母も、文也の歪んだ考え方を作った一人なのかもしれない。


 それでも、そのころの私はまだ諦めきれなかった。


 月代市へ戻ると、カウンセリングについて調べ始めた。


 幼少期の傷や不安定な愛着が、恋人や配偶者への強い執着や支配へつながることがある。


 本人が治療を受ける意思を持てば、時間はかかっても改善する可能性はある。


 そんな情報を見つけた。


 夫婦カウンセリングを行っている施設へ連絡した。


 そしてある夜、文也へ慎重に切り出した。


「一緒にカウンセリングを受けてみない?」


「嫌なら、最初は文也一人で話を聞いてもらうだけでもいいから」


 文也の顔色が変わった。


「どういう意味?」


「俺が病気だって言いたいのか?」


「そうじゃなくて、私はただ――」


「母さんの言ったとおりだ」


 突然、顔をつかまれた。


「女は甘やかすとつけ上がる」


 伸びた爪が頬へ食い込んだ。


 私は必死に腕を外そうとしたが、びくともしなかった。


 しばらくして、文也はようやく手を離した。


 私の頬には、爪で引っかかれた二本の傷が残っていた。


 それを見ながら、文也は笑った。


「これなら数日は外に出る気にならないだろ?」


「俺、殴ってないからな」


「ちょっと力が強かっただけだ」


 私は彼の顔を見つめた。


 ようやく分かった。


 あの夜、義母が教えていた「いい方法」が何だったのか。


 一分前まで。


 私は、この人の傷をどうやって癒せばいいか考えていた。


 この結婚をどうすれば救えるか考えていた。


 もう、必要なかった。


 私は110番した。


 警察はすぐに来た。


 顔の傷は洗わず、そのままにしておいた。


 まだ血がにじんでいる二本の傷を、警察官が確認する。


 文也は必死に説明した。


「わざとじゃありません」


「爪が長くて、つかんだときにたまたま傷ついただけです」


 私は過去にも何度も暴力を受けていることを話した。


 警察は傷を撮影し、相談記録も残してくれた。


 配偶者暴力相談支援センターへの相談や、一時的に夫と離れて安全な場所へ移ることも勧められた。


 けれど、その場で私は動けなかった。


 両親の家へ戻っても、また文也のもとへ返されるかもしれない。


 ほかに頼れる場所も、すぐには思いつかなかった。


 何より、私はまだ「本当に逃げる」という決断を現実のものとして受け止めきれていなかった。


 警察官は何度も言った。


「また危険を感じたら、すぐ110番してください」


 私は頷いた。


 ドアが閉まって間もなく。


 文也に頬を叩かれた。


「ふざけるな」


「本当に警察呼びやがったな」


 私は頬を押さえたまま、初めて一歩も下がらなかった。


「黒川文也」


「離婚する」


 文也は一瞬固まった。


 すぐに笑った。


「離婚?」


「お前の父親が許すと思うか?」


「娘より世間体を気にするあの親父が?」


 私は彼を見る。


「お父さんに見捨てられてもいい」


「それでも離婚する」


 笑みが消えた。


「無理だ」


「美咲」


「俺から逃げられると思うな」


 私は荷物をまとめようとした。


 文也が玄関を塞ぐ。


 彼が一瞬横を向いた隙に、外へ飛び出した。


 エレベーターの前まで走ったところで、後ろから首に腕を回された。


 そのまま家の中へ引きずり戻される。


「離して!」


「もう一分だって一緒にいたくない!」


 私が叫ぶと、文也も完全に理性を失った。


「俺を追い詰めるな!」


「本気で怒らせたら何するか分からないぞ!」


「この家から出たら、お前の実家に火をつけてやる!」


「俺が幸せになれないなら、誰も幸せになるな!」


 そして、冷たい目で言った。


「死ぬまで離さない」


「俺から逃げられると思うな」


 目の前の男が、知らない人間に見えた。


 二年間の結婚生活が巨大な石のように胸へ乗っていた。


 耳だけが熱く、視界は暗くなり、身体は冷えて震えていた。


 その瞬間。


 極端な考えが頭をよぎった。


 私は窓へ走った。


 文也も追ってくる。


 窓を開けると、冷たい夜風が顔へ吹きつけた。


 その風で、急に頭が冷えた。


 命は一つしかない。


 どうして私は、この男のために死ななければならないのだろう。


 降りようとした。


 そのとき、文也が手を伸ばした。


 助けてくれるのだと思った。


 違った。


 背中を押された。


 私は咄嗟に窓枠へしがみついた。


 耳元で文也が笑う。


「死にたいんだろ?」


「ほら、飛べよ」


「俺といるくらいなら死んだほうがいいんだろ?」


 信じられない思いで振り返った。


 そこで初めて認めた。


 この人は、私が救わなければならない傷ついた少年ではない。


 私を傷つける加害者だ。


 玄関を強く叩く音がした。


 騒ぎを聞いた隣人が来たらしい。


 文也はようやく手を離した。


 窓から降りると、足に力が入らなかった。


 文也は何か適当な説明をして、隣人を帰した。


 その後も、私が逃げないよう、リビングでずっとこちらを見張っていた。


 けれど。


 死にかけたことで、逆に頭の中は澄み切っていた。


 分かった。


 今すぐ逃げられないなら。


 いったん、逃げるのをやめよう。


 ただし。


 次に出ていくときは、二度と戻ってこない。



4



 翌日。


 私は自分から文也へ話を持ちかけた。


 もう離婚とは言わない。


 突然逃げたりもしない。


 その代わり、少しは自由にさせてほしい。


 そして二度と暴力を振るわないと約束してほしい。


 文也はほとんど迷わなかった。


「約束する」


「もう一度でも殴ったら、俺は地獄に落ちてもいい」


「美咲、信じてくれ」


「昨日が本当に最後だ」


 真剣な顔で誓う彼を見ながら、心の中では冷たく笑っていた。


 信じるわけがない。


 それから一か月。


 文也が普段あまり注意を向けない場所を確認した。


 玄関やリビングなど、日常生活で使う場所に小型の見守りカメラを設置し、映像は文也の知らないクラウドへ自動保存されるようにした。


 警察への相談記録。


 病院の診療資料。


 傷の写真。


 LINEに残った罵倒や脅迫。


 一つずつ保存した。


 もう彼の約束は信じない。


 一度起きた暴力は。


 何もしなければ、また起きる。


 奈緒に事情を打ち明けたのも、そのころだった。


 大学時代からの友人だった奈緒は、私が文也の暴力で病院へ運ばれたことを知ると、電話で一時間近く怒った。


「美咲、どうしてまだそこにいるの?」


 うまく説明できなかった。


 仕事はない。


 十分なお金もない。


 安全に暮らせる場所も決まっていない。


 両親の家さえ、私を守ってくれるとは限らない。


「もう少しだけ時間をちょうだい」


 そう言うしかなかった。


 その後、奈緒からDVを扱う特集の取材を受けないかと誘われた。


 私は了承した。


 そして、あの日が来た。


 文也が予定より早く帰宅し。


 私はその場で証言を変えた。


 自分を悪妻に仕立て。


 文也を、妻に追い詰められた被害者のように見せた。


 彼は見事に信じた。


 その夜、文也はまた私を殴った。


 そしてリビングのカメラが、すべて記録していた。


 翌朝。


 私はいつもどおり起きた。


 鼻血を拭き。


 彼の朝食を作った。


 文也はまた膝をつき、泣きながら謝った。


 今度は私のほうから手を差し出した。


「もういいよ」


「許すから」


 一瞬、文也が驚いた顔をした。


 それから、明らかに肩の力を抜いた。


 その日から。


 彼は本当に信じ始めた。


 高梨美咲はもう諦めた。


 自分から離れることはない。


 そう思わせることができた。


 実際の私は。


 毎日、逃げるための準備をしていた。


 家でできる簡単な事務作業やデータ入力の仕事を、少しずつ始めた。


 収入は多くない。


 それでも毎月、文也に知られない口座へ少しずつ貯金した。


 奈緒も、あの日の取材素材を保管してくれた。


 普段はほとんど連絡を取らない。


 本当に必要なときだけ、文也の知らないメールアドレスを使った。


 三か月後。


 文也はまた、ほんの些細なことで怒った。


 罵倒。


 突き飛ばす。


 そして、また殴った。


 隣人が物音に気づき、すぐに玄関を叩いた。


 文也はそこで手を止めた。


 少しすると、いつものように謝罪が始まった。


 膝をつく。


 泣く。


 自分を責める。


 二度としないと誓う。


 私は何も言わず、キッチンへ入った。


 まだ足りない。


 離婚はする。


 絶対にする。


 けれど、今度こそ失敗できない。


 文也を太らせるために、三年間もここへ残ったわけではない。


 本当に必要だったのは。


 自分のお金。


 安定した収入。


 安全な住所。


 弁護士。


 そして、私が出ていったあとも両親を巻き込まないための準備だった。


 文也は一度、私が逃げれば実家に火をつけると脅している。


 だから今度家を出るときは。


 彼に見つからず。


 誰にも連れ戻されず。


 二度と戻らなくて済む状態にしなければならない。


 それまでは、待つ。


 以前の私は、文也の健康を気にして食生活まで管理していた。


 油は控えめ。


 塩分も控える。


 肉ばかりにならないよう、野菜も必ず出す。


 唐揚げが好きでも、週に何度もは作らない。


 夜遅くに食べたがれば止める。


 もう、やめた。


 文也が唐揚げを食べたいと言えば作る。


 カレーを食べたいと言えば、大きな皿に山盛りよそう。


 とんかつ。


 クリームコロッケ。


 すき焼き。


 ラーメン。


 夜食。


 酒のつまみ。


 好きなものを好きなだけ食べればいい。


 私は、もう彼の健康を守る妻ではない。


 文也はもともと食べることが好きだった。


 私が何も言わなくなると、驚くほど簡単に食生活は乱れた。


 半年も経たないうちに、体重が明らかに増えた。


 体重計へ乗った本人が驚いた。


「何でこんなに太ったんだ?」


 私は新しく買ったシャツの襟を整えた。


「結婚したら少しくらい太るものじゃない?」


「幸せ太りってやつかも」


 文也は本当に笑った。


 服がきつくなれば、私は黙って一つ上のサイズを用意した。


 一年目。


 まだ何度か暴力を受けた。


 そのたび、カメラが記録した。


 安全になってから傷を撮影し、必要なら病院へ行き、いつ何を言われたかも記録した。


 二年目になると。


 文也の体力は目に見えて落ちた。


 階段を上がるだけで息を切らす。


 少し早く歩いただけで大量の汗をかく。


 酒を飲み、好きなだけ食べ、ほとんど運動もしない。


 怒鳴ることはあった。


 物を投げることもあった。


 けれど、以前のように私へ向かって走ってこようとすると、自分のほうが先に息を切らすようになった。


 三年後。


 結婚当初、七十キロほどだった文也は百十キロ近くまで太っていた。


 大学時代の細身で物静かな青年の面影は、ほとんど残っていなかった。


 そして。


 私の準備も終わった。


 お金。


 証拠。


 弁護士。


 安全な住居。


 それから。


 今度こそ本当に、自分だけの逃げ道。


 私は家庭裁判所へ離婚調停を申し立てた。


 文也は当然のように拒否した。


 自分が同意しなければ、私は絶対に離婚できない。


 最後までそう信じていた。


 調停は不成立になった。


 その年の七月。


 私は正式に離婚訴訟を起こした。


 三年間保存してきた資料をすべて提出した。


 自宅の映像。


 病院の診療記録。


 傷の写真。


 LINEに残された罵倒。


 殺す、家に火をつけるといった脅迫。


 警察への通報記録とDV相談記録。


 近所の人の証言。


 全部。


 数か月後。


 裁判所は、長期間にわたるDVを認定した。


 離婚が認められた。


 婚姻中に形成した財産については財産分与が行われ、DVについても慰謝料が認められた。


 結果を聞いた日。


 私は弁護士事務所の椅子に一人で座っていた。


 泣かなかった。


 笑いもしなかった。


 ただ。


 身体が急に軽くなった気がした。


 人から離れるだけで。


 こんなに楽に息ができるのだと、初めて知った。


 自分のお金で、月代市に小さな部屋を買った。


 南向きの窓から、明るい日差しが入る。


 家具は全部、自分で選んだ。


 リモコンが少し斜めでもいい。


 靴の向きが揃っていなくてもいい。


 玄関の鍵がどちらを向いていたかなんて、誰も気にしない。


 私は両親の家へは戻らなかった。


 今後も娘として会いたいと思ってくれるのなら、ときどき顔を出す。


 でも。


 自分の人生を、もう両親に決めてもらうつもりはなかった。


 文也は離婚を受け入れられなかった。


 何度も電話をかけてきた。


 番号を変えて連絡してきた。


 実家へ行き、昔の友人にまで私の新しい住所を聞こうとした。


 私は一度も、一人で会わなかった。


 嫌がらせが続くたびに警察へ相談し、弁護士にも対応を任せた。


 やがて文也の会社にも、彼をめぐる問題が伝わった。


 そのころの文也は、遅刻や欠勤も増えていた。


 職場でも感情的になり、同僚と何度か問題を起こしていたという。


 社内での調査や本人の勤務状況も重なり、最終的に会社を辞めることになった。


 収入を失うと、月代市での生活を続けることもできなくなった。


 文也は雪森町へ戻り、母親の恵子と暮らし始めた。


 共通の知人から、ときどき話を聞いた。


 毎日酒を飲んでいる。


 仕事への不満。


 結婚への不満。


 自分を見捨てた人間への不満。


 何もかも、誰かのせいにしているらしい。


 最初は息子の面倒を見ていた恵子も、やがて耐えられなくなった。


 二人は毎日のように喧嘩するようになり、ついには互いに手を出すようになった。


 何度か怪我をして病院へ運ばれたとも聞いた。


 その話を聞いても、復讐に成功したという満足感はなかった。


 ただ。


 あの二人は、自分たちで作った苦しさの中に閉じ込められただけなのだと思った。


 そして。


 私の人生は、ようやく再び動き始めた。


 好きだと思える仕事を見つけた。


 最初は大変だった。


 長く仕事から離れていた分、覚え直さなければならないことも多かった。


 それでも少しずつ。


 昔、採用の連絡を受けて嬉しくて仕方なかったころの、自信のある自分を取り戻していった。


 ただ、恋愛だけは怖かった。


 何人か紹介されたこともある。


 全部断った。


 また人を見る目を間違えたらどうしよう。


 優しい人だと思って結婚して。


 ある日突然、黒川文也のようになったら。


 そんな恐怖が消えなかった。


 その後。


 相原悠人と出会った。


 悠人は感情が安定していて、相手との距離や境界を大切にできる人だった。


 意見が違っても、大声で私を黙らせようとしない。


 私が過去のせいで些細なことに不安になるときも。


「考えすぎだよ」


 そう言って笑ったりしなかった。


 私が落ち着くまで待って。


「少し楽になった?」


 ただ、そう聞いた。


 それでも。


 優しいからという理由だけで、すぐに結婚を決めたりはしなかった。


 私は長い時間をかけて悠人を知った。


 彼の両親にも何度も会った。


 父親が母親へどんな話し方をするのか。


 意見が合わないとき、家族がどうやって折り合うのか。


 悠人が家族の前でどんな人間なのか。


 一つずつ見た。


 文也との結婚を経験して。


 私はようやく知った。


 結婚するときに見るべきなのは、目の前の恋人だけではない。


 親との距離。


 人との境界。


 責任の取り方。


 家族の中で、相手を尊重するということがどう扱われているのか。


 そういうものも。


 少しずつ、その人との結婚生活へ入ってくる。


 幸い。


 悠人も。


 彼の家族も。


 私を失望させなかった。


 数年後。


 私たちは結婚した。


 生活がようやく穏やかになったころ。


 大学時代のグループLINEに、突然ニュースが流れてきた。


 黒川文也が、母親を殺した。


 一瞬。


 何のことか分からなかった。


 記事を読む。


 その日、文也と恵子はまた激しく口論していた。


 恵子は、仕事もせず母親の金で暮らしている息子を「役立たず」と罵った。


 口論はどんどん激しくなり。


 文也は家にあった刃物で恵子を刺した。


 恵子は大量に出血し、亡くなった。


 文也は逮捕された。


 けれど。


 彼は最後まで、自分が悪いとは思っていなかった。


 母親が自分の人生を壊した。


 母親が昔、父親を裏切ったから、自分は女性を信じられなくなった。


 だから妻を疑った。


 だから結婚を失った。


 だから仕事も失った。


 全部、母親のせいだ。


 そう繰り返したらしい。


 裁判の末。


 文也には無期拘禁刑が言い渡された。


 そのニュースを見たあと。


 私はしばらくスマートフォンを持ったまま動けなかった。


 昔の私も。


 彼と同じような理屈を信じていた。


 子どものころ傷ついたから。


 不安が強いから。


 捨てられるのが怖いから。


 だから私が理解しなければ。


 だから私が我慢しなければ。


 だから愛しているから、支配してしまうのだと。


 今なら分かる。


 過去は。


 その人がなぜ苦しんでいるのかを説明することはできる。


 でも。


 誰かを傷つけていい理由にはならない。


 私はスマートフォンを閉じた。


 大学時代のグループLINEを、その日はもう開かなかった。


 午後の日差しが、書斎へ差し込んでいる。


 娘が絨毯の上に寝転がり、一生懸命絵を描いていた。


 白い紙には、三人の人間。


 みんなで手をつないでいる。


 娘は少し描くたびに私を見る。


 それから、隣で静かに本を読んでいる悠人を見る。


 私は思わず笑った。


 テーブルの端には、リモコンが斜めに置かれている。


 娘のスリッパは、片方だけ玄関で横を向いていた。


 本棚の小さな飾りも、いつの間にか反対向きになっている。


 誰も怒らない。


 誰も問い詰めない。


 玄関の鍵が、朝どちらを向いていたかなんて。


 誰も気にしない。


 私の視線に気づいた悠人が、顔を上げた。


「どうしたの?」


 私は首を振る。


「ううん、何でもない」


 ただ。


 ようやく分かっただけ。


 本当の家は。


 人を安心させる場所だ。


 怖がらせる場所ではない。






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