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契約妻の私が、冷酷公爵の『初恋』を暴くまで

作者: キュラス
掲載日:2026/06/27

「君を愛するつもりはない。これはあくまで、互いの利益のための契約結婚だ。三年が経てば、君には十分な慰謝料を支払い、離縁を約束しよう」


冷ややかな声が、広大な執務室に響き渡った。

声の主は、王国の北方を守護する若き獅子、クラウス・フォン・オルデンブルク公爵。

銀糸のような美しい髪と、氷のように冷たい空気を纏う彼は、王国中の令嬢が憧れる美貌の持ち主だ。しかし、同時に「氷の公爵」と恐れられるほど、他者に対して無関心で冷酷なことでも知られていた。


その公爵と向かい合って座っている私――没落寸前のウェントワース伯爵家の令嬢、エリアナは、彼から突き出された羊皮紙の契約書に、迷うことなく羽根ペンでサインをした。


「承知いたしました、旦那様。三年間、公爵夫人としての『飾り』の役目、しっかりと果たさせていただきます」


私が微笑んで見せると、クラウス様は微かに眉をひそめた。

しかし、彼の視線は決して私の『目』には向けられない。彼の氷のように青い瞳は、いつも私の首元や、テーブルの上に置かれた私の手に向けられている。


(……本当に、私のことが嫌いなのね)


私は心の中で密かにため息をついた。

無理もない。この結婚は、多額の借金を抱えた私の父が、オルデンブルク家に対して半ば脅迫じみた泣きつきをして成立したものだ。クラウス様にとっても、親戚からのお見合い攻撃を躱すための『都合の良い盾』が必要だったとはいえ、愛もない没落令嬢を妻に迎えるなど、不快以外の何物でもないだろう。


「……私の屋敷で暮らすにあたり、一つだけ絶対の条件がある」


サインの記された契約書を引き寄せながら、クラウス様は低い声で告げた。


「西離れの三階にある一番奥の部屋。……あそこにだけは、絶対に近づくな」

「西離れの、三階ですね。承知いたしました」

「立ち入ることはおろか、扉に触れることも許さない。もし破れば、即座に契約は破棄し、君をこの屋敷から追放する」


その言葉には、ただの警告ではない、血も凍るような強い拒絶と執着が込められていた。

私が頷くと、クラウス様は「下がっていい」と短く告げ、山積みになった書類へと視線を落とした。


*****


オルデンブルク公爵邸での生活は、思いのほか平穏だった。

クラウス様は言葉通り、私を全く愛していなかった。

寝室は当然のように別々。彼と顔を合わせるのは、週に一度、形だけ共にする夕食の席くらいのものだ。

社交界への顔見せも最低限でよく、私は広大な屋敷の中で、本を読んだり、刺繍をしたりして、静かな時間を過ごすことができた。


没落しかかっていた実家での、両親の罵声と借金取りに怯える日々に比べれば、ここは天国のようだった。


「エリアナ様、お茶をお持ちいたしました」

「ありがとう、マリー」


メイドのマリーが淹れてくれた紅茶は、私の大好きなカモミールと蜂蜜のブレンドだった。

この屋敷のメイドや執事たちは、冷酷な主人とは打って変わって、よそ者である私にとても優しく、親切にしてくれた。

食事も、なぜか私の好物ばかりが出る。読書が好きな私のために、図書室には次々と新しい本が運び込まれた。


「……旦那様は、本当に冷たい方なのかしら」


ある日、図書室の窓から中庭を見下ろしながら、私はふと呟いた。

中庭には、王都の気候では絶対に育たないはずの『青いリコリス』が、魔石を使った特殊な温室魔法によって、見事に咲き誇っていたからだ。

青いリコリス。それは、私が幼い頃に過ごした、遠く離れた南の領地を象徴する花だった。

偶然にしては、あまりにもできすぎている。


(でも、彼は私とは決して目を合わせない。会話も必要最低限。……やっぱり、ただ使用人たちが優秀なだけよね)


私は自嘲気味に笑い、窓から離れた。

彼が冷酷だと言われる所以は、私への態度だけではない。彼が、ある特定の『過去』に縛られ、他者を完全に拒絶しているからだ。


それは、屋敷の使用人たちの間で密かに囁かれている噂。


『旦那様が誰のことも愛さないのは、心に決めたただ一人の「初恋の女性」がいるからだ』

『西離れの立ち入り禁止の部屋には、その亡くなった初恋の女性の肖像画や、彼女の遺品が山のように祀られているらしい』

『旦那様は毎晩、あの部屋に一人で閉じこもって、彼女を想って泣いているそうだ』


初恋の女性を忘れられず、彼女の思い出の部屋を決して誰にも触れさせない公爵。

その噂を聞いた時、私は彼を恐ろしいとは思わず、むしろひどく哀れで、そして少しだけ『羨ましい』と思ってしまった。

そこまで深く、たった一人の人を愛し続けることができるなんて。


私には、そんな情熱的な記憶はない。

私は十歳の頃、馬車の事故で崖から転落し、それ以前の記憶をすっぽりと失っているのだ。

両親は「昔のことは思い出さなくていい」と冷たく言い放ち、私自身も、空白の記憶に執着することはなかった。

私の心は、いつもどこか空洞のように冷え切っていたから。


だからこそ、クラウス様とのこの『愛のない契約結婚』は、私にとって非常に心地の良いものだった。

三年経てば、私は自由になる。少しの慰謝料をもらって、どこか遠くの街で小さな花屋でも開きながら、静かに余生を過ごす。それが私の完璧な計画だった。


しかし。

その平穏な計画は、徐々に、しかし確実に狂い始めていくことになる。


*****


契約結婚から半年が過ぎた、ある冬の夜。


私は、ひどい胸の痛みに目を覚ました。

「うっ……、く、ぁ……ッ」


ベッドの上で身体を丸め、パジャマの胸元を強く握りしめる。

心臓が、焼け火箸を押し当てられたように熱く、そして鋭く痛む。

息ができず、視界がチカチカと明滅する。


(なに、これ……痛い、痛い……ッ!)


持病などない。こんな痛みを感じたのは、生まれて初めてだった。

私は助けを呼ぼうとベッドから這い出たが、足がもつれて冷たい床に倒れ込んでしまった。


ガタンッ!

大きな音が響き、それが合図になったかのように、私の寝室の扉が勢いよく開け放たれた。


「エリアナ!!」


飛び込んできたのは、乱れた寝巻き姿のクラウス様だった。

彼の銀糸の髪は乱れ、常に氷のように冷たかった表情には、はっきりとした『焦燥』と『恐怖』が浮かんでいた。


「クラウス……さま……っ」

「喋るな! すぐに楽にしてやる」


彼は床に倒れ伏す私の元へ滑り込むと、私の身体を力強く抱き起こした。

そして、彼の手のひらが私の胸元(パジャマ越しではあるが)に当てられる。

その瞬間、彼の掌から淡い銀色の光が溢れ出し、私の心臓を包み込んだ。


スゥッ……と。

嘘のように、先ほどまでの激痛が引いていく。

呼吸が正常に戻り、視界がクリアになった。


「はぁっ……はぁっ……。助けて、いただき……ありがとうございます……」

私が荒い息を吐きながら礼を言うと、クラウス様はひどく強張った顔で、そっと私をベッドに寝かせた。


「……無理はするな。今日はもう休め」


彼はいつもの冷たい声に戻ろうとしていたが、その声は微かに震えていた。

そして、彼の目はやはり、私の目を見ることはなく、私の顎のあたりをじっと見つめている。


私は、治まった胸に手を当てながら、一つの強烈な疑問を抱いた。

(クラウス様は、なぜ私が倒れた瞬間に、この部屋に駆け込んできたの……?)

公爵の寝室は、私の部屋からは遠く離れた東棟にある。いくら大きな音を立てたとはいえ、数秒で駆けつけられる距離ではない。


まるで、最初から私の部屋のすぐ外で、私が苦しむのを『待っていた』かのように。


「あの、クラウス様」

私が立ち去ろうとする彼の背中に声をかけると、彼はビクッと肩を揺らして立ち止まった。


「先ほどの魔法は……? それに、私の胸の痛みは、一体……」


「……ただの、軽い発作だ」

クラウス様は振り返らず、冷たく言い放った。

「君の生家から、君が時折原因不明の胸の痛みを訴えることがあると聞いていた。だから、あらかじめ治療の魔法陣を部屋に仕込んでおいただけだ。勘違いするな」


彼はそれだけを言い残し、逃げるように私の寝室から出て行ってしまった。


一人残された暗い部屋で、私は自分の胸元を見下ろした。

実家にいた頃、胸が痛むことなど一度もなかった。彼が父からそんな話を聞いたはずがない。

彼は、明らかな『嘘』をついている。


そして、彼が私を抱き起こした時、彼から香った匂い。

それは、高級な香水の香りなどではない。

焦げた薬草と、古い羊皮紙、そして、濃密な『魔力』の匂い。


それは、魔術師が何日も徹夜で魔法の研究に没頭した時にだけ染み付く、独特の匂いだった。


(氷の公爵。初恋の女性の部屋。決して目を合わせない彼。私の胸の痛み……)


私の中で、何かが繋がりかけていた。

彼が私を避けるのは、本当に私に興味がないからなのか?

それとも、私に『近づけない理由』があるからなのか?


私は、ベッドのシーツを強く握りしめた。

契約期間が終わるまで、おとなしい人形でいるつもりだった。彼の過去にも、彼の心にも、絶対に踏み込まないと決めていた。


でも。

あんなにも悲痛な顔で私を助けてくれた彼の手の温もりが、私の心に、小さな火を灯してしまったのだ。


「……確かめなきゃ」


私は、暗闇の中で決意した。

彼がひた隠しにしている秘密を。

西離れの三階にある、決して開けてはならない『初恋の部屋』の扉の向こう側を。


その決意から実行に移すまで、時間はそうかからなかった。


クラウス様は月に一度、王宮での長時間の会議に駆り出される日がある。その日は帰館が深夜を回り、彼が直接西離れへ向かうことなく、東棟の自室で倒れ込むように眠りにつくことを、私は使用人たちの立ち話から知っていた。


決行の日は、三日後に訪れた。


時計の針が深夜二時を回った頃。私はベッドからそっと抜け出し、足音を忍ばせて廊下へと出た。

屋敷は深い静寂に包まれており、警備の騎士たちの巡回ルートはすでに頭に入っている。私は蝋燭の灯りも持たず、窓から差し込む青白い月明かりだけを頼りに、西離れへと向かう渡り廊下を進んだ。


西離れは、普段から使用人すら立ち入りを禁じられている空間だ。

ひんやりとした空気が肌を刺す。廊下には埃一つ落ちていないが、どこか生活感のない、ひどく無機質な空気が漂っていた。


三階への階段を上る。

そして、その一番奥。頑丈な黒樫くろかしで造られた、重厚な両開きの扉の前に私は立った。


(……この奥に、彼の『初恋の女性』の秘密がある)


ゴクリと息を呑み、震える手をドアノブへと伸ばす。

鍵がかかっているだろうことは想定していた。もし開かなければ、書斎から鍵の束を探し出すか、ヘアピンで開錠を試みるつもりだった。

しかし、私の指先が冷たい金属のドアノブに触れた瞬間。


――ピリッ。


指先に、静電気のような微かな魔力の痛みが走った。

直後、扉の表面にうっすらと浮かび上がったのは、複雑な幾何学模様を描く『封印の魔法陣』。

(魔法の鍵……! これじゃあ、私には開けられない……)


絶望しかけた、その時だった。

魔法陣が私の指先から魔力を吸い上げるように一瞬だけ強く発光し、そして。


カチャリ。


重い音を立てて、魔法陣が霧散し、鍵のシリンダーが自動的に回ったのだ。


「……開いた?」


私は信じられない思いで、自身の指先と扉を交互に見つめた。

公爵家の最高レベルの封印魔法が、なぜ魔力などほとんど持たないただの没落令嬢である私の接触で解除されたのか。

まるで、この扉が初めから『私を迎え入れるため』に設定されていたかのように。


胸の奥で、ドクンと嫌な音が鳴る。

私はゆっくりとドアノブを回し、禁断の部屋へと足を踏み入れた。


*****


「……なに、これ」


扉を閉め、部屋の全貌を目にした私は、あまりの光景に絶句した。


私の想像では、この部屋は亡き恋人を偲ぶための美しい祭壇のような場所だと思っていた。彼女の美しい肖像画が飾られ、生前愛用していたドレスや宝石がショーケースに並べられ、枯れない花が敷き詰められているような、狂気的でロマンチックな空間。


しかし、目の前に広がっていたのは、そんな甘やかなものではなかった。


部屋中を埋め尽くしているのは、おびただしい数の『本』と『書類』だった。

壁際の巨大な本棚には、古今東西の魔術書、医学書、呪術に関する禁書が隙間なく詰め込まれている。床には羊皮紙が雪のように散乱し、部屋の中央に置かれた長机の上には、奇妙な色の液体が入ったフラスコや、すり潰された薬草の粉末、そして血の滲んだ包帯が無造作に転がっていた。


むせ返るような、焦げた薬草とインク、そして微かな血の匂い。

それは、あの日、クラウス様が私を抱き起こした時に香ったのと同じ匂いだった。


「初恋の女性の、思い出の部屋じゃない……ここは、魔法の研究室?」


私は散乱する羊皮紙を踏まないように気をつけながら、部屋の中央の机へと近づいた。

机の上には、彼がさっきまで書き込んでいたかのように、インク瓶と羽根ペンが置かれ、分厚い革張りの手記が開かれたままになっていた。


私は震える手で、その手記を手に取った。

そこには、クラウス様のあの整った筆跡とは似ても似つかない、乱れ、焦り、何度も強く書き直されて紙が破れそうになっている、狂気じみた文字がびっしりと書き込まれていた。


『――王暦四百十五年。十二回目の解呪薬の調合、失敗。……まただ。また彼女が苦しむことになった』


彼女?

私は息を呑み、ページをめくった。


『時間が足りない。呪いの進行が早まっている。私の魔力を注ぎ込んで心臓の鼓動を強制的に維持しているが、それも長くは持たない。……彼女を私の側に置くことは、猛毒を飲ませるに等しい。だが、私の魔力圏内に置かなければ、彼女は明日にでも死んでしまう』


『離縁状を用意した。三年。三年以内にこの呪いを解けなければ、私は彼女を手放さなければならない。……私の目の届かないところで彼女が死ぬことになろうとも、私の隣で苦しみながら死なせるよりはマシだ』


心臓が、早鐘のように打ち始める。

離縁状。三年。私の側に置く。

これは……私との『契約結婚』のことではないのか?

私はページをさらに遡り、最も古い記録、一番最初のページを開いた。


そこに書かれていたタイトルを見て、私の呼吸は完全に停止した。


【対象:エリアナ・ウェントワース】

【呪式名:『死に至る恋縛の呪い(アムール・モルト)』】


「私……?」


手記から目を離せなかった。

そこには、十年前の真実が、彼だけの孤独な懺悔と共に記されていた。


十年前。当時十三歳だったクラウス様は、政敵である闇の魔術師から命を狙われていた。

暗殺者が放った、対象の心臓を永遠に縛り付けて殺す『死に至る恋縛の呪い』。

しかし、その呪いはクラウス様には直撃しなかった。

彼の傍にいた、十歳の幼い少女が、彼を庇って呪いの直撃を受けてしまったからだ。


――『エリアナは、私を庇って倒れた。……私のせいで』


手記の文字に、ポタポタと落ちた涙の染みが広がっている。


呪いを受けた私は、三日三晩高熱にうなされ、心臓が停止しかけた。

クラウス様は自らの莫大な魔力を私の心臓に流し込み、ギリギリのところで命を繋ぎ止めた。しかし、呪いを完全に解くことはできなかった。


『死に至る恋縛の呪い』。

それは、呪いを受けた者が、特定の条件を満たした時に心臓を停止させるという、極めて悪趣味で残酷な呪いだった。


その条件とは。


『一、対象が、呪いの身代わりとなった相手クラウスを深く愛すること』

『二、互いの瞳が合い、そこに一切の偽りのない愛情が通じ合った時、呪いは完成し、対象の心臓は砕け散る』


「あ……」

私は、口元を両手で覆った。


クラウス様が決して私と目を合わせなかった理由。

彼が私を愛していないと言い放ち、冷酷な態度を貫いていた理由。

それは、私を憎んでいたからではない。私を『飾り』だと思っていたからでもない。


『――私が彼女を見つめれば、彼女の心は私に向いてしまうかもしれない。彼女が私を愛してしまえば、呪いが進行する。……だから私は、決して彼女の目を見てはならない。決して、彼女に優しくしてはならない。彼女に私を憎ませ、遠ざけなければ、彼女の命は守れない』


彼がいつも私の首元や手元ばかりを見ていたのは、私の目を見ないように必死に耐えていたからだ。

あの日、胸の激痛で倒れた私を、彼が悲痛な顔で助けに来てくれたこと。

中庭に、私の故郷の気候でしか育たない『青いリコリス』が咲いていたこと。

私が大好きなカモミールと蜂蜜の紅茶が、いつも完璧な温度で出されていたこと。


全ては。

彼が、十年もの間、ずっと私を想い続けてくれていたからだ。


「嘘……そんな、私、なにも覚えて……ッ」


私は頭を抱え、床に崩れ落ちた。

十年前の馬車の事故。あれは記憶を失った理由を偽装するための、両親の嘘だったのだ。

クラウス様は、記憶を失った私を実家に帰し、安全な場所で呪いの進行を遅らせようとした。しかし、成長と共に呪いの発動が近づき、離れた場所からの魔力供給では命を繋ぎ止められなくなったため、わざと『借金の肩代わりによる契約結婚』という冷酷な形をとって、私を強引に自分の屋敷へと呼び寄せたのだ。


彼が、毎日深夜にこの部屋に閉じこもっていたのは、亡き初恋の女性を想って泣いていたからではない。

たった一人で、現在進行形で失われようとしている私の命を救うため、呪いを解く方法を血反吐を吐きながら研究し続けていたからだ。


ズキンッ!!


「あ……ッ!」

その真実に気づいた瞬間。私の胸の奥で、心臓を鷲掴みにされるような激痛が走った。


呪いが、進行している。

私が彼の不器用で、深すぎる愛情に気づき、私の心が彼に対する『愛』で満たされそうになっているから。


「痛っ……く、あ……ッ」

私は手記を抱きしめたまま、冷たい床の上でうずくまった。

呼吸ができない。視界が真っ白に明滅する。


(クラウス様……クラウス様……っ)

彼に会いたい。彼に伝えないと。

あなたが一人で抱え込んでいた痛みに、私は今、やっと気づいたのだと。

契約結婚なんかじゃない。私は、本当は――。


「エリアナ……!?」


バタンッ! と、乱暴に扉が開け放たれる音がした。


霞む視界の中で、信じられないものを見るような顔で立ち尽くす、クラウス様の姿があった。

彼は王宮での会議から帰還したばかりの装いのまま、息を切らし、そして私の手に握られている『手記』を見て、全てを悟ったように顔を青ざめさせた。


「なぜ……なぜここに入ったッ!!」


彼は血相を変えて私に駆け寄り、床に倒れる私の身体を抱き起こした。

彼の手から、以前よりもずっと強大な魔力が流れ込んでくる。だが、今回の痛みは、彼の魔力でも抑え込むことができなかった。


「あ、はぁっ……クラ、ウス様……っ」

「喋るな! すぐに魔力を安定させる、俺の魔力に身を任せろ!」


彼は必死に魔法を紡ぐが、私の心臓の鼓動はどんどん弱くなっていく。

私は、ぼやける視界の中で、ずっと私を見ようとしなかった彼の『氷のように青い瞳』を、まっすぐに見つめた。


「だめだ……ッ! エリアナ、俺の目を見るなッ!!」


クラウス様は悲鳴のような声を上げ、顔を背けようとした。

しかし、私は残された最後の力を振り絞って、彼の頬に両手を添え、その顔を私の方へと固定した。


「……逃げないで」

「エリアナ、頼む、お願いだ……ッ! 君が俺を愛せば、君は死ぬんだぞ!! 記憶を取り戻してはならない、俺のことなど、憎んだままでいい……ッ!」


「憎めるわけ、ないじゃないですか……っ」


私は、彼の冷たい頬に額を押し当てた。

十年前の記憶の欠片が、走馬灯のように脳裏を駆け巡っていく。


『クラウス様! 危ないッ!!』

銀色の髪の少年を庇って、闇の魔法の前に飛び出した幼い私。


『エリアナ! エリアナッ!! 死ぬな、私を置いていかないでくれッ!!』

血まみれの私を抱きしめて、声を上げて泣き叫んでいた、彼の姿。


「……思い、出しました。私が、あなたを庇ったこと」

「やめろ……ッ」

「あなたが、ずっと……一人で、私のために戦ってくれていたこと……っ」


「やめてくれ!!」

クラウス様の瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ち、私の頬を濡らした。

氷の公爵と呼ばれた男が、まるで子供のように泣きじゃくっている。


「君を失いたくない……! 十年間、君が生きていることだけが私の救いだったんだ……ッ。愛さなくていい、そばにいなくてもいい、だから、生きていてくれ……!」


彼の涙が、私の心を温かく満たしていく。

ああ、なんて優しい人なのだろう。

私の命を守るためだけに、自分の心を殺し、冷酷な男を演じ続け、孤独な研究部屋で絶望と戦い続けてきた。


この人を、愛さずにいられるはずがない。


「クラウス様。……私、ずっと、冷たい空っぽの器みたいでした。でも、今は……心が、熱いんです」


ドクン、ドクンと。

私の心臓が、呪いによる痛みではなく、彼への確かな愛情によって強く脈打つのが分かった。


「私……クラウス様のことが……」

「言うな!!」


私がその言葉を紡ごうとした瞬間。

クラウス様は、私の唇を塞ぐように、強く、強く抱きしめた。

彼の腕の力は、私の骨が軋むほどだった。


「言わないでくれ……。呪いが、完成してしまう。……頼む、エリアナ……っ」


彼の懇願するような震える声。

しかし、すでに遅かった。

私の心は、彼に対する完全なる『愛』を自覚してしまったのだ。


ピキッ……と。

胸の奥で、何かが致命的にひび割れる音がした。


『死に至る恋縛の呪い』の発動条件。

対象が彼を深く愛し、瞳を交わし、偽りのない愛情が通じ合った時。


「あ……」

私の身体から、スッと力が抜け落ちていく。

視界が急激に暗闇に飲まれ、呼吸が止まる。

心臓の鼓動が、静かに、完全に沈黙した。


「エリアナ……? エリアナッ!!!」


クラウス様の絶叫が、遠ざかる意識の底で、ひどく悲しく響いていた。


深い、深い闇の中へと沈んでいく感覚。

指先から徐々に冷たくなり、自分の身体が輪郭を失って水に溶けていくような、不思議な浮遊感。

(ああ、私、死ぬのね……)

恐怖はなかった。ただ、せっかく思い出した彼への愛を、もっと言葉にして伝えたかったという、強烈な未練だけが胸を締め付けていた。

彼を残して逝きたくない。十年もの間、たった一人で私のために戦い続けてくれた、あの不器用で優しすぎる彼を、今度こそ独りぼっちにしてしまう。


『――させないッ!!』


その時。

絶対的な死の静寂を切り裂くように、力強い怒号が響き渡った。


『お前だけは、絶対に死なせないッ! 神が運命を定めたというのなら、俺がその運命ごと叩き潰す!!』


ドクンッ!!

完全に停止していたはずの私の胸の奥に、焼け付くような熱い塊が強引にねじ込まれた感覚がした。

「……ぁ、ぁあッ!?」


声にならない悲鳴が上がる。

それは、凄まじい密度の『魔力』だった。

外側から注がれる温かな治癒魔法などではない。私の砕け散った心臓そのものを代替し、強制的に血流を再開させる、荒々しくも絶対的な生命の奔流。


『我が血を、我が肉を、我が魂の炉心コアを代償に! 忌まわしき呪縛よ、喰らうがいい! 彼女の命の代わりに、この俺の全てをくれてやる!!』


クラウス様の、血を吐くような詠唱が空間を震わせる。

同時に、私の全身の細胞が、爆発的なエネルギーによって叩き起こされた。


「かはっ……っ、はぁっ、はぁっ、はぁっ!!」


私は大きく跳ね起き、肺の底まで空気を吸い込んだ。

むせるように咳き込みながら目を開けると、そこは先ほどまでの薄暗い魔法の研究室だった。

しかし、部屋の様子は一変していた。

壁の本棚は魔法の余波で吹き飛び、床に散乱していた羊皮紙は焦げ跡を残して燃え尽きようとしている。


そして。


「クラ、ウス……様……?」


私の目の前。

冷たい石の床に、銀糸の髪を血と汗に濡らしたクラウス様が、力なく崩れ落ちていた。


「旦那様!! クラウス様!!」

私は弾かれたように彼のもとへ這い寄り、その身体を抱き起こした。

彼の身体は、まるで氷のように冷たかった。そして、彼の胸元――純白のシャツが、どす黒い血でべっとりと染まっている。


「あ……ああ……嘘……」

私は震える手で、彼の胸元の傷を押さえた。

彼の手記の、破れかかっていた最後のページが、私の足元に落ちているのが目に入った。


『呪いが完成し、彼女の心臓が砕け散った瞬間にのみ、呪式のコアが実体化する。……その刹那に、私の魔力炉心(心臓)を彼女に移植し、私が呪いを引き受ける。それが、彼女を救う唯一の手段。……エリアナ。君を一人残して逝く私を、どうか許してくれ』


クラウス様は、十年間、ただ呪いの進行を遅らせる研究をしていたわけではなかったのだ。

最初から、呪いが完成してしまった時の『最終手段』を準備していた。

私を救い、自分が身代わりとなって死ぬための、禁忌の魔法を。


「いや……嫌です! なんで……なんでこんなこと!!」

私は彼の血まみれの身体を抱きしめ、子供のように泣き叫んだ。


「エリアナ……」

微かな声。クラウス様が、重い瞼をゆっくりと開けた。

その氷のように青い瞳の焦点は、すでに定まっていなかった。


「生き、て……。よかった……。君の……顔を、最後に……見られて……」

「喋らないで! お願い、誰か……誰か!! お医者様を!!」

「無駄、だ……。私の心臓は、もう……君の中で、動いて、いる……」


彼は、血に染まった手を力なく伸ばし、私の頬に触れた。

その手の冷たさが、彼の命がまさに尽きようとしていることを残酷に告げている。


「私の、ことは……憎んだままで、よかったのに。……君に、こんな……悲しい思いを、させて……すま、ない……」

「憎んでなんかいません! 愛してます! 私も、あなたを愛してるんです!! あなたのいない世界で、私だけが生き残って幸せになれるわけないじゃないですか!!」


私は彼の手に自分の手を重ね、ポロポロと涙をこぼしながら叫んだ。

クラウス様は、ふわりと、この十年間で見せたことのないような、心底安堵したような、優しく美しい笑みを浮かべた。


「愛して、いる……。俺の、たった一人の……お姫、様……」


その言葉を最後に。

クラウス様の腕から力が抜け、冷たい床へと落ちた。

彼の青い瞳がゆっくりと閉じられ、その胸の動きが、完全に停止した。


「クラウス様?……ねえ、起きて。嘘でしょ……?」

返事はない。

彼を呼ぶ私の声だけが、静まり返った研究室に虚しく響き渡る。


「ああああああああっ!!!」


絶望の叫びが、私の喉を切り裂いて迸った。

彼がくれた命。彼がくれた心臓。私の胸の奥で、彼の魔力が力強く脈打っている。

その脈動を感じるたびに、彼を失った悲しみが刃となって私の心を滅多刺しにした。


(こんな結末、絶対に認めない……!)


私は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、彼の静かな寝顔を睨みつけた。


(あなたはいつもそう。十年前も、今回も。私を守るためだからって、勝手に一人で決めて、勝手に傷ついて、勝手に死んでいく……。私の気持ちなんて、これっぽっちも考えてくれない!)


ふざけないで。

契約結婚の慰謝料代わりに自分の命を置いていくなんて、そんな理不尽な契約、私が承認するわけがない。


私は、自分の胸に手を当てた。

ここには今、クラウス様の『魔力炉心』がある。

私が部屋の扉の封印に触れた時、魔力が共鳴して扉が開いたのは、彼が十年間、私の命を繋ぐために注ぎ込み続けてきた『彼の魔力』が、私の身体の中に満ちていたからだ。

そして今、彼の心臓そのものが私の中にある。


なら、私と彼は、魔力の繋がりにおいて完全に『同一』だ。


「……取り返しに行く。地の底からでも、あなたの魂を引っ張り上げてやる」


私はクラウス様の身体に覆い被さり、彼の血まみれの胸元に両手を押し当てた。

私自身は魔力を持たないただの人間だ。魔法の詠唱も、術式の構築も知らない。

だが、彼が私にくれたこの莫大な魔力を『どう使えばいいか』は、魂が理解していた。


「私たちは契約夫婦でしょう? なら、今から『新しい契約ルール』を結びます」


私は、目を閉じ、私の中に渦巻く強大な魔力を全て、両手を通じて彼の冷たい身体へと流し込み始めた。

一方的な『命の譲渡』ではない。

これは、二人の命を一つに繋ぎ合わせるための『共有』の儀式。


『死に至る恋縛の呪い』は、対象を殺すことで完成する。クラウス様は私を身代わりにして呪いを引き受けた。

ならば、彼が死に絶える前に、私の命(彼からもらった心臓)を彼と半分ずつ共有すれば、呪いの致死量を下回ることができるはずだ。


「誓いますか」


私は、彼の冷たい唇に、自らの唇をそっと重ねた。

魔力が、口付けを通じて、互いの身体を循環し始める。


「病める時も、健やかなる時も。……呪われる時も、死の淵にある時も」


私の中にあるクラウス様の魔力が、荒れ狂うように暴走を始める。私の全身の血管が焼き切れそうなほどの激痛が走る。

それでも、私は絶対に彼から離れなかった。


「富める時も、貧しき時も……。これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを……」


神への誓いではない。

これは、愛する人への、私自身の魂を懸けた絶対の誓約。


「誓いなさい、クラウス!! 私を一人にしないって!!」


私が魂の底から叫んだ瞬間。

重なり合った私たちの身体から、目を開けていられないほどの眩い『白銀の光』が爆発的に溢れ出した。


光は部屋中を満たし、散乱する瓦礫を包み込み、そして、クラウス様の胸に絡みついていた漆黒の呪いの鎖を、一本、また一本と粉々に砕き散らしていく。


(……ええ。誓おう、エリアナ)


光の中で、確かに彼の声が聞こえた。

冷たく、だがどこまでも優しく、不器用な彼の声が。


パキィィィィンッ!!!


最後に残った極太の呪いの鎖が、ガラスのように砕け散り、光の粒子となって霧散した。

強烈な光の奔流に耐えきれず、私の意識はそこで、白く温かい海の中へと落ちていった。


*****


小鳥のさえずりと、カーテンの隙間から差し込む眩しい朝の光。


「……ん……」


重い瞼をゆっくりと開けると、そこは見慣れた私の寝室だった。

ふかふかのベッド。清潔なシーツ。

胸の痛みは全くなく、それどころか、生まれ変わったように身体が軽かった。


「……夢?」


私は身体を起こし、自分の手を見つめた。

いや、夢じゃない。あの夜、私は確かに西離れの部屋に行き、クラウス様の過去を知り、彼が倒れ、そして……。


「……目が覚めたか、エリアナ」


静かな声に驚いて横を向くと、ベッドの傍らに置かれた椅子に、クラウス様が座っていた。

いつも隙なく撫で付けられている銀糸の髪は少し乱れ、目の下にはうっすらと隈ができている。

しかし、その表情は……かつての『氷の公爵』と呼ばれた、あの冷酷な仮面は完全に剥がれ落ちていた。


「クラ、ウス様……! ご無事、だったのですね……っ!」


私が弾かれたように彼に向かって手を伸ばすと、彼は私のその手を優しく、そして壊れ物を扱うかのようにそっと両手で包み込んだ。


「あぁ。……君が、強引に私の魂をこの世に引き留めてくれたからな。まったく……魔術の基礎も知らない人間が、あんな無茶苦茶な魔力共有ソウル・リンクを仕掛けてくるとは思わなかった。一歩間違えれば、二人とも消滅していたんだぞ」

「だって……あなたが勝手に死のうとするからじゃないですか!」


私は涙ぐみながら、彼の手を強く握り返した。


「私を助けるために十年間も一人で苦しんで、最後は自分の命を投げ出すなんて……。そんなの、絶対に許しません。私たちは『契約夫婦』なんですから、借金のカタとして、あなたには一生私を養ってもらいます!」


私が涙声で捲し立てると、クラウス様は少しだけ目を丸くし、それから……堪えきれないように、フッと吹き出した。

彼が声を上げて笑うのを、私は初めて見た。

その笑顔は、信じられないほどに美しく、私の胸の奥を甘く締め付けた。


「そうだな。……君の言う通りだ。私は、君の強さと愛を侮っていた。……十年前のあの日から、君はずっと、私を守るための盾になってくれていたというのに」


クラウス様は椅子から立ち上がり、ベッドの縁に腰を下ろして、私の顔を真っ直ぐに見つめた。

もう、彼が私から視線を逸らすことはない。

氷のように冷たかった青い瞳には、今は春の陽だまりのような、どこまでも深く温かい愛情が満ちていた。


「エリアナ。君に隠し事をし、冷たく接し、何より……君の命を危険に晒し続けてしまったこと。本当に、すまなかった」

「……もう、いいんです。全部終わったんですから」


「いいや、終わっていない」


クラウス様は、私の手を握ったまま、ゆっくりと片膝を床についた。

まるで、騎士が主君に忠誠を誓うかのような、あるいは――。


「私たちを結びつけていた『借金による三年間の契約結婚』の書類は、昨夜のうちに私が破棄した」

「えっ……」


「これからは、義務や借金のためではなく。……呪いや、過去の贖罪のためでもなく」


彼は私の手の甲に、羽のように軽い、けれどひどく熱を持ったキスを落とした。


「私は、ただ一人の男として、君を愛している。……エリアナ。私と、本当の結婚をしてくれないか」


その言葉に、私の目から再び大粒の涙が溢れ出した。

十年前の初恋。彼がずっと心に秘め、守り抜いてくれた想い。

それが今、遠回りを経て、ようやく私のもとへと真っ直ぐに届いたのだ。


「……はい」

私は、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、最高の笑顔を作って頷いた。


「喜んで。私の、愛しい旦那様」


窓の外では、雪解けを告げる春の風が吹き抜け、中庭の青いリコリスが朝日に輝いて揺れていた。

長い長い、十年間の氷の季節が終わった。

これからの私たちは、契約書なんかじゃない、互いの心と魂で深く結ばれた、本当の夫婦として生きていく。

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