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第14章 「握り返された手」

結婚18年目。


ばーちゃんが亡くなって、一年が経った頃だった。


家の中は、表面上は落ち着いていた。

仏壇の花を替える手つきも慣れ、朝晩手を合わせることも日課になっていた。


「いない」という現実は受け入れきれていないのに、「いない生活」には慣れ始めている。

そんな、不思議な静けさの中で過ごしていた。




その少し前から、じーちゃんの様子が少しずつ変わっていった。


夜中に物音がする。

台所の引き出しが開いている。

居間の椅子の位置が微妙にずれている。


「誰かが動かした」

そう言う。

亡くなった人が部屋にいた、と真顔で話した。

冗談ではなかった。目が、本気だった。


私は最初、どう受け止めればいいのか分からなかった。

以前、否定したことで状況が悪化したことがあったため、私はただ「そうか」と返すようになっていた。

でも胸の奥では、何かが静かに崩れ始めている感覚があった。




ばーちゃんと親戚夫婦が、豪華客船で世界一周に行くからおいでと誘ってきた、とも言った。

私は否定せず「すごいね」と返した。

その夜、仏壇に向かって、じーちゃんを連れていくのはもう少し待ってほしいと小さくお願いした。




夜も眠れなくなっていた。

布団に入っても二時間ほどで目が覚める。

朝方、暗い居間でぼんやり座っている姿を何度も見た。


足のむくみもひどくなっていた。

靴下の跡がくっきりと残り、皮膚が張って光っている。


それでも本人は言う。

「大丈夫だ」


その言葉に、どこか頼ってしまっていた。

大丈夫だと言うなら、まだ大丈夫なのだと。




この頃、家は、叔母たちの訪問で絶えず賑わっていた。

週に一度の叔母、月に二度の叔母、月に一度の叔母が顔を出す。

それぞれの訪問は短時間でも、家の中の空気に絶えず影響を与え、私の神経を緊張させた。

普段の生活音が重なり、休む間もなく、胸の奥で小さな疲労が積もっていく。




ばーちゃんの一周忌の朝。

じーちゃんは布団の上で、小さく言った。

「今日は具合が良くない。お前らだけで行ってこい」


顔色は悪く、声にも力がなかった。

私は迷った。

無理をさせたくない。

でも一周忌だ。親戚も集まる。


結局、親戚が来て賑やかになると、じーちゃんはゆっくり起き上がった。

「やっぱり行く」


その姿を見て、ほっとしてしまった自分がいる。

今思えば、あの日が分岐点だったのかもしれない。

休ませてあげればよかった。

無理を止めるべきだった。




一周忌を終えて、家の中が静かになった頃から、じーちゃんの体調は目に見えて不安定になった。


食欲が落ち、動くのも億劫そうになる。

言葉数も減った。

何度も病院へ行こうと言った。


「まだ大丈夫だ」

その言葉を、何度も聞いた。

どこまでが意地で、どこからが本当の体力なのか分からなかった。


ある日、立ち上がる時にふらついた。

その瞬間、私は強い不安を覚えた。


「もう無理だよ。行こう」


そう言って、ようやく病院へ行くことに同意してくれた。

そして、即入院。




私は一瞬、耳を疑った。

「今日から入院です」

そんなに悪いのか。

ただ体調が悪いだけだと思っていた。

点滴を打って、数日で帰って来られると本気で思っていた。


入院から数日。

ベッドに横たわるじーちゃんは、急に小さく見えた。

声を出すことも難しくなり、会話はほとんど目で交わすものになった。

私は何を話せばいいのか分からなかった。


「大丈夫だよ」

そう言いながら、自分が一番信じていなかった。




ある日、ベッドの横に座り、手を握った。

たくさん仕事をしてきた無骨な手だった。

とても温かく、こんな力が残っていたのかと驚くくらい、ぎゅっと握り返してきた。


驚くほど強かった。

その瞳は、真っ直ぐだった。

言葉はないのに、何かを必死に伝えようとしていた。


私は勝手に解釈した。

「家を頼むぞ」ーーそう言われた気がした。

重かった。

その一握りは、責任そのもののようだった。




入院から一週間。

あまりにも、早かった。


病院からの電話。

表示された番号を見た瞬間、心臓が強く鳴った。

車を走らせながら、信号が長く感じた。


間に合わなかった。

病室には、ピーという無機質な音が響いていた。

じーちゃんは、静かに息を引き取っていた。

眠っているようで、まるでばーちゃんを追いかけるかのようだった。



あれだけ元気だった人が、

一週間でこんなにも変わるなんて。


現実が追いつかなかった。

涙は出るのに、どこか遠い。

頭の奥がぼんやりしていた。




葬儀は、前年と同じ形式にした。

段取りも流れも、もう分かっている。

花の配置。

受付の手順。

僧侶への確認。


ただ一つだけ、今回は自分で決めたことがあった。

叔母たちの宿泊を対応できる斎場にした。

前回の経験を経て、遺体のそばで夜を過ごす環境を整えることに、私は慎重になっていた。


二年続けて、喪主側の段取りをこなす。

泣くより先に確認。

悲しむより先に手配。

感情は、後回し。

それが現実だった。




父の葬儀では、実子なのに何も役割を与えられなかった自分がいた。

その経験があったから、祖母の葬儀では家族それぞれに役割を持ってもらった。


祖父の葬儀では、喪主は夫。位牌も夫が持つことになった。

母と叔母たちは遺影、陰膳、花束二人。

骨壺は男孫の中で年長の弟が持った。


私は全体を見守りながら、家族を守る覚悟を静かに胸に刻んだ。




遺産相続は、じーちゃんの遺言通りに進めた。


土地は私名義。

その他の預貯金は、親族で均等に分割。


ふと、ばーちゃんの遺産分配のときを思い出した。

ある叔母は「これは、じーちゃんとばーちゃんが一生懸命貯めたお金だから、受け取るのは申し訳ない」と言って遠慮していた。

けれど、じーちゃんが「良いんだよ、受け取っとけ」と言うと、すぐに受け取っていた。

「ああ、遠慮してるふりか」と思った。


淡々としているように見せつつ、嬉々として受け取る叔母もいた。

(後日、「借りてたから返しに来た」と言っていたけれど、結局じーちゃんに「受け取っとけ」と言われ、そのまま受け取っていた。)


でも今回のじーちゃんの遺産分配では、そんな場面は一切なし。

家族のやり取りは淡々と進み、揉め事もなく終わった。

(嬉しさを隠しきれない人もいたが、以前のような遠慮や借りたから返すアピールはなく、淡々と受け取っていた。)

それだけで、胸の奥がふっと軽くなる気がした。




書類を一枚ずつ確認しながら、

私はようやく実感した。


これで、本当に二人ともいなくなった。

家も土地も残った。

しかし、その中心にいた人たちは、もういない。


夜、誰もいない居間に座る。

静かすぎる。

あの咳払いも、

新聞をめくる音も、

テレビのボリュームを上げる声も、もう聞こえない。

胸の奥に、ぽっかりと穴が空いた。

悲しいというより、空白だった。


それでも日常は続く。

子どもたちは学校へ行き、

私は食事を作り、洗濯をする。

止まっている暇はない。


でも、あの握り返された手の感触だけは消えなかった。

あれが、最後の会話だった。

祖父の死は、ただの別れではなく、

私に「引き継ぐ」という現実を刻んだ。


その重さを、私は静かに受け取った。

まだこの時は、

それがどこまで続くのか、

分かっていなかった。

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