第13章 後編 「やるべきこと」
斎場が宿泊できないため、叔母たちは通夜の前日に家に泊まることになった。最後に家族水入らずで過ごしたいのだと言う。
「泊まるけど、いいよね?」
軽く告げる声。布団が足りないと一度は口にしたが、持参するから大丈夫だとすぐに返された。疲労と緊張で限界に近い中、ほんのひと言でも胸に重みを感じる。私は軽く「うん」と答えながら、胸の奥で小さくため息をついた。どうしてこうも、私一人で家の中のすべてに神経を払わなければならないのか。
叔母たちは楽しそうに荷物を置き、部屋を整える。背中に孤独感と責任感が重くのしかかる。母は静かに座り、手伝おうとするが、主体的に動ける余裕はなさそうだ。通夜、葬儀の準備と並行して、お風呂場や居間、じーちゃんの部屋の掃除も行う。
納棺と通夜は、ばーちゃんが亡くなってから九日後に行われることになった。
家の中は、亡くなってからの時間を経て少し落ち着いたはずだったが、それでも静かに張り詰めた空気が漂っていた。祖母の遺体はこの家にあり、日常の中で静かに存在感を放っていた。生活音ひとつひとつが、張り詰めた糸のように響く。
呼吸のリズム、家具のきしむ音、子どもたちの小さな声――静かな家の中で、すべてがやけに大きく聞こえた。
通夜当日、親戚が次々に集まる。私は祭壇の花を整え、お茶菓子を用意し、書類や持ち物の最終確認を行う。やることは無数にあり、感情を挟む余裕はほとんどない。手を動かすことで、胸の奥に潜む悲しみや焦燥を少しずつ押し込める。動作のひとつひとつが、現実に立ち向かうための呼吸のようだった。
香典を金庫にしまおうとして、扉を開けたとき、奥に小さな箱が見えた。
そういえば、と思い出す。
痴呆が出る前、ばーちゃんの長寿祝いでレストランを予約した。従兄弟たちから一万円ずつ集め、足りない分は私たち夫婦で出した。夫と二人で真珠の問屋まで行き、八ミリほどの白真珠が連なるネックレスを選んだ。
その場では、ばーちゃんは嬉しそうに首につけて見せてくれた。
けれど翌日。
「いらねーからやるよ」
そう言って、私に向かって放り投げた。
従兄弟たちは、そのことを知らない。
私は箱を手に取り、しばらく眺めたあと、娘を呼んだ。
黒い喪服を着た小学生の娘は、少し緊張した顔で立っている。
「これ、つけてみる?」
娘は戸惑いながらも、小さくうなずいた。白真珠のネックレスが、細い首の上で静かに光った。
目の端で子どもたちの様子を確認する。
遺影の写真もこの前日、完成品が届けられた。柔らかく微笑む祖母の姿が、祭壇の中心に静かに輝いている。写真一枚にも、家族の記憶や愛情が重なるのを感じた。
通夜と葬儀は、静かに、しかし確実に進んでいった。
棺が火葬場へ運ばれる音。祭壇のろうそくの揺らめき。花の香り。すべてが現実の重さを伴って胸に迫る。私の手は疲労で重いが、止めるわけにはいかない。書類、香典、供花、祭壇――一つひとつ確認し、整えていく。
やるべきことに手を動かし続ける。
そうしている間だけ、悲しみは形にならずに済んだ。
その日、娘は通夜のあいだも、翌日の葬儀でも、ずっとそのネックレスを外さなかった。
葬儀がすべて終わり、家に戻ると、家の静けさが逆に胸の奥に積もった疲労を際立たせた。
深呼吸をひとつ。
胸に乗っていた重さが、ほんの少しだけほどけた。
とはいえ、完全な安堵ではない。やるべきことを終えた安堵感と、淡々とした疲労感、そして残る小さな悲しみが混ざり合い、胸の奥に静かに居座っている。
姉家族の問題も、この時点ではまだ解決していない。関与は最小限でも、私の神経にかかる負荷は消えない。家族の事情を整理し、手を動かすしかない孤独感が、家の中に重く垂れ込める。それでも、やるべきことを終えたことで、ほんの少しだけ呼吸を取り戻せた。
数日後、ばーちゃんの遺産の分配が行われた。じーちゃんの意向通り、現金は全員に平等に分配された。
叔母のひとりが、私が仕事で家にいない時に「以前借りていたお金を返済」に来たらしい。じーちゃんから聞いた日常の雑談としての話だ。「それはそれだから」と受け取らなかったそうだ。
私はこのことを知っているが、叔母は私が知っていることに気付いていないだろう。小さな心の距離が、淡く胸に残った。
夜のリビングで、深呼吸をひとつ。
香典を金庫にしまおうとして、扉を開ける。私は真珠のネックレスを箱に戻し、静かに金庫の奥へしまった。
祖母を見送り、すべてを終えた夜だった。
父の葬儀では、実子なのに何も役割を与えられなかった自分がいた。それを教訓に、今回の祖母葬儀では、じーちゃんが喪主として位牌を、母が花束を、叔母たちは遺影や陰膳、花束を、夫が骨壺を――それぞれ役割を持って動いた。
私は、父の時に味わった悲しみを、家族に感じさせたくなかった。
悲しみを抱えながらも、淡々と現実を受け止め、家族を守るために動く。その数日間の緊張と責任は、ここで一区切りとなった。
心に残る虚しさはあるものの、日常を再び整え、次の一日を迎える準備ができる、静かな実感が残った夜だった。




