第12章 後編 「家族の境界線」
ついに、弟が行動に出た。
居候の期間、財布の件、子どもの発言、母のローン問題——長年積み重なった不安と怒りが、彼の中で限界を迎えていた。
私は、家族会議に立ち会うことになった。
「感情的になりすぎたら止めてくれ」と弟は言った。
自分でも限界に近いことを分かっていたのだろう。
口を出すためではない。何でも首を突っ込む人間にはなりたくなかった。
ただ事実を見届け、証言をし、必要があれば(止めきれるかは分からないが)力ずくでも制御する——それが弟からお願いされた私の役割だった。
姉と姉夫は、視線を合わせることを避けて座る。空気は重く、冷たい。
弟が静かに、しかし確かな声で切り出した。
「母のローン分の100万円、俺が分割で払うから、家を出ていってほしい」
姉は一瞬、目を見開いた。声を出さず、ただ固まる。私は胸の奥で、怒りと驚きが交錯した。これまでの違和感やため息が、じわりと再燃する。
弟はさらに続ける。
「15万×7回で支払う。それで引っ越ししてくれ」
「以前貸していた30万円も返さなくていい」と弟は言った。
以前の怪我で一年以上働けなかった期間や、手術・入院で働けなかった日々もあった弟。
それでも、母のローンや家族の生活を守るために、自分が動く覚悟を決めたのだろう。
その決意は静かで、揺るがない。
「父が守っていた家を、今度は俺が守る」
—―そう胸に刻んでいる背中が、はっきりと見えた。
それを聞いて姉は「本当に返さなくていいの?」と確認し、出ていくことを受け入れた。
心の中で《いやいや、返す気あるなら、とっくに返してるでしょ……》と突っ込んだ。
私は手を握りしめ、静かにその光景を見守った。
やっと、行動が現実になった瞬間だった。
しかし、数日後——。
「やっぱり……20万にしてほしい」
私は心の中で、声にならない突っ込みを入れた。
「20万なんて簡単に出せる金額じゃない。姉のひと月のパート代より高い金額を求めてるの?正気なのかな……」
あまりの理不尽さに、胸の奥が冷たく震える。
弟は視線を落とし、深く考える。動揺することなく、彼の背中には長年耐えてきた決意が滲んでいた。
母は小さく俯くのみ。声を発する余裕はない。高齢の母には、家族の衝突を止める力も、言葉を発する力もなかった。
私自身も、胸の奥で怒りを押し込みながら、事態を静かに見守る。
何度も思った。「どうして、ここまで非常識で、自己中心的な態度が平然と通るのだろう……?」
増額要求のひとことが、家族の信頼を崩す決定打になっていく。
その期間、第二子の卒業式があった。姉の第一子と同じ学校、同じ学年で、姉夫婦も出席していた。
式の最中、姉が手にしていたのは見慣れない新品のブランドバッグだった。
私が視線を向けると「アウトレットで買っちゃった」と言う。
その言葉の意味を、私は理解できなかった。
胸の奥がざわつき、正直、ぞわっとした。
さらに、姉は私を睨みながら、弟に向かって言った。
「◯◯は変わったよね。前は優しかったのに」
表面上は弟を責めるような言葉だが、実際には私が義兄の会社側の件を共有したせいで冷たくなったと思い込んでいるだけ。財布の件や姉と姉の子の言動、母への配慮、守られなかった二年の約束——それらすべてが積み重なった結果で弟が「出ていってほしい」と思ったのに、姉は理解できていない。
私は心の中で静かに突っ込む。
「……どの口が言うのだろう。」
実際、姉家族は私が弟を操って追い出そうとしている――いわば“黒幕”だと思い込んでいたらしい。
長姉から聞いて、思わず笑ってしまった
【弟からの依頼で、私は何も発言せず、置物のように事実だけを見届けるためにその場にいた。発言はしないけれど、必ず弟との話し合いには参加していた――どうやらそれが、黒幕になったようです…】
さらに、地方移住で家族四人分、合計すると300万近く受け取れる制度を調べて教えたのに、まったく聞く耳を持たなかった。
卒業式の時のバックを何で買ったのか聞くと、姉は逆ギレして「もうとっくに売ったよ!」と返す。
私は心の中で苦笑い。「売るくらいなら、最初から新品で買うなよ…!」と思った。
そもそも買わない方がよかったのに…と、胸の奥で小さくツッコミを重ねるしかなかった。
事実は淡々と整理されているだけだったのに、その誤解や無理解が胸に重くのしかかった。
数カ月後、姉家族は実家を後にした。
姉夫は新しい仕事に就いたが、単身赴任。家族で行けばよかったのに。
家の中は静かになり、階段を上がる足音も、お盆に乗せた食器の触れ合う音も、消えてしまった。二階の空き部屋には、姉達が置いていった荷物がまだ残っている。
当初の15万×7回の合意は、最終的に20万×6回で落ち着いた。それでも姉家族は出ていき、図々しい要求を押し通したかたちになった。
胸の奥で、弟の決断が現実になったことを実感した。
姉夫は私に小さく頭を下げて言った。
「せっかく紹介してもらったのに、辞めることになってごめん」
初めて、まともに目を合わせて会話した気がした。
ずっと胸の奥に引っかかっていたモヤモヤが、少しずつ溶けていくようだった。
謝ってもらって、ずっと引きずってもしょうがない。
私は気持ちを切り替え、静かにこの一件を受け入れた。
夜のリビングで、私は深く息を吸う。胸の奥にずっとのしかかっていた重石が、少しだけ軽くなった気がした。
「ああ……やっと終わった」
それでも、わずかな虚しさが心の片隅に残る。家族を守るために、もうこれ以上、壊れた関係を抱え込む必要はない。
弟が決め、母が受け入れ、私はただ静かに見届けた。
それで十分だった。




