第2章 前編 「やるなら、俺も一緒にやる」
本日、第2章 前編・後編 の2話投稿しています。
夫とは、何度も話し合った。
仕事が終わったあとの夜。
まだ何も決まっていない新婚の部屋で、向かい合って座った。
子どもはいなかった。
この先どうなるか分からない状態で、子どもを持つ選択はできなかった。
苗字が変わるかもしれない。
住む場所も、生活も、家族との距離も。
何ひとつ、確かなものがなかった。
「どうしたい?」
夫はいつも、そう聞いた。
決めるのは俺じゃない、とでも言うように。
でもその問いが、いちばん苦しかった。
どうしたいのか。
継ぐと決めれば、生活は大きく変わる。
土地も家も、人間関係も、これまでのしがらみも。
そしてなにより――
この人の人生を巻き込むことになる。
父がうまくいかなかった家だ。
価値観がぶつかり、居場所をなくし、出ていった家だ。
あの日のことを、今も覚えている。
廊下を隔てた部屋に、大人がたくさん集まっていた。
ときどき、大きな声が聞こえた。
何を言っているのかは分からない。
でも、父が困っていることだけは分かった。
父はうつむいていた。
誰も、父の言葉を聞こうとしていないように見えた。
まるで、最初から悪者が決まっているみたいだった。
長姉が泣きながら部屋に入っていった。
「どうしてお父さんをみんなで責めるの!」
空気が止まった。
私は廊下で立ち尽くしていた。
最初は分からなかったけれど、姉の言葉で、大人たちが父を責めていたことに気づいて、怖かった。
でも、姉が泣いているのを見て、
私も部屋に入り、
「お父さんをいじめないで」
と泣いた、気がする。
そのあとのことは、あまり覚えていない。
祖母は強かった。
自分の正しさを曲げない人だった。
あのとき私が怖かったのは、
祖母だったのかもしれない。
でもそれ以上に――
言い分が届かない空気が、怖かった。
そんな空気の中に、夫を入れることになる。
それが、怖かった。
私が「継ぐ」と言えば、
この人は断らないかもしれない。
でも、心のどこかで無理をするんじゃないか。
いつか後悔するんじゃないか。
最悪の想像もした。
私の決断で――
この人が離れてしまうんじゃないか。
それが、私にとって何よりも怖かった。
さらに、夫の胸の内も想像できた。
通勤時間は今よりずっと長くなるだろう。
楽しい二人の生活から、よく知らない人たちと暮らすことになる。
それを、嫌だと思わないはずがない。
私自身も、胸の奥で焦りを感じていた。
子どもを産める年齢にも限りがあり、決断を先延ばしにできない現実があった。
本当は「継ぐ」ことが嫌だったんだと思う。
だから私は、決めきれなかった。
1年が過ぎた。
それでも答えは出なかった。
じーちゃんの「頼む」は、
心の奥にずっと残っていた。
ある夜、私は夫に、あの日のじーちゃんの様子を話した。
居間で、ぽつりとこぼれた「頼む」。
目に涙が浮かんでいるように見えたこと。
長い間、家を守ってきた人が、初めて弱さを見せた瞬間だったこと。
その涙を見たとき、私はもう断れないと直感した。
夫に話したときも、「これは断れないだろうな」と思ったらしい。
私は話しながら、泣いていた。
夫は、黙って聞いていた。
しばらくして、ゆっくりと言った。
「お前、ずっと悩んでるよな」
その言葉に、何も言い返せなかった。
私は悩み続けていた。
もうすぐ、1年半。
夫は少し間を置いてから、続けた。
「やるなら、俺も一緒にやる」
迷いのない声に、胸の奥でずっと張りつめていた緊張が、ふっとほどけた。
でも、すぐには返事ができなかった。
覚悟はすぐには固まらなかった。
さらに半年が過ぎ、
最初の相談から丸2年――
やっと、私はじーちゃんに返事をした。
このとき私は初めて、自分の決断が誰かを巻き込むものだと、重く受け止めた。
それでも――
一人ではないことが、前に進む力になるのだと感じていた。




