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第11章 「小さなひび」

父がいなくなって、家は静かになった。


叱る声も、まとめる声もない。


それでも、時間が経てばそれぞれの生活に戻っていくのだと思っていた。


崩れるとしても、ゆっくりだろうと。



ある日、弟が何気なく言った。


「なぁ、義兄さん最近ずっと家にいるんだけど。なんで?」



……え?


平日の昼間。


仕事に行っているはずの時間。


嫌な予感がした。



会社に確認すると、義兄は長期で休んでいると言われた。


さらに同僚から事情を聞いた。


少し前から腰痛で休みが続き、有給で対応していた。


戻ってきた矢先の仕事中、機械を破損。

しかも、その数日後にも別の機械を破損したという。

高額な損害が出ていた。


その後、再び腰痛が悪化したと言い、長期休暇を取ることになった。


診断書の提出はなく、理由のない長期欠勤扱いとなった。


社内規定で在籍継続は難しいと通達されたらしい。



「部署変更なら戻ってくるかって本人にも聞いたけどな」


同僚はそう言った。



……残してもらえる道、あったんだ。



それでも義兄は退職を選んだ。



紹介したのは私だった。


税金滞納で借家に移るとき、

せめて仕事だけは安定してほしくて、

自分の職場を紹介した。


その手前、気まずさと責任感が胸に広がった。


私が間に入ったのに。



姉に聞いた。


返ってきたのは、会社への不満。


「給料安いし」


「上も最悪だし」


「あんなとこ、どうせ続かない」



そして、自分の夫への他人事だった。


「辞めたいって言うんだからしょうがない」



止めなかったの?


これからどうするの?


聞きたいことは山ほどあった。


でも口から出たのは、


「……そっか」


それだけだった。



姉は働きながら「会社しんどい」と言う。


運動会の日、姉夫がいない理由を聞いた他の保護者に向かい、姉は大きな声で「休ませてもらえなかった」と愚痴をこぼしていた。


でも実際には、運動会より前の期間、姉夫が腰痛で長期休業していた間、他のメンバーが業務をカバーしていた。そのため、運動会の日に休まれると残業上限を超えてしまい、姉夫には出勤をお願いせざるを得なかったのだ。


残業上限などの特別な理由がなければ、子どもの発熱や学校行事に理解のある職場だからか、姉は結局辞めない。


姉は無自覚だった。自分は不満を口にするだけで、家庭や会社の事情、現実とのズレには気づいていない。


文句は言う。けれど自分は辞めない。

その温度差に、胸の奥で小さな違和感がくすぶっていた。



踏ん張る、と言ってほしかった。


もう一回やり直す、と。


迷惑かけた分、頑張る、と。



その言葉を、どこかで待っていた。



でも姉は、ただ会社の不満を並べるだけだった。


言葉は続くのに、心は届かない。


その隙間に、胸の奥で小さなひびが広がっていくのを感じた。



義兄は実家にいても姿を見せなかった。


食事は二階へ運ばれ、

誰もいなくなってから下に降りてくる。


顔を合わせることもない。



昼間のリビングは、静かすぎた。


人の気配はあるのに、姿がない。


二階からたまに物音がする。


その音が、妙に大きく聞こえる。



母も弟も口数が減った。


会話が続かない食卓。


笑い声が消えた家。



問題はそこにあるのに、

誰も強く言わない。


問い詰めもしない。


時間だけが、何もなかったかのように流れていく。



その空気の中にいると、自分まで鈍っていく気がした。


実家に行くだけで、疲れるようになっていた。


帰る場所のはずなのに、

玄関を出た瞬間、ふぅ と息が吸える。


「ああ、外のほうが楽だ」


そんなふうに思ってしまう。



ここ、私の実家なのに。



それでも、まだ願っていた。


立て直せるかもしれない、そう思っていた。


父がいなくなった今こそ、

姉には踏ん張ってほしかった。


私は、まだ見捨ててはいなかった。


このときは、まだ。


けれど、胸の奥で小さなひびが確かに広がっているのも、分かっていた。

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