第10章 中編 「無言の帰宅」
夜中、姉から連絡が入る。
「急変した」
それだけだった。
コロナ禍で、子どもは病院に入れなかった。
乳児を抱える姉も、来ることができなかった。
子どもたちを夫に任せ、
私はすぐに家を飛び出した。
心臓が速く打つ。
ハンドルを握る手に力が入る。
夜の道を走りながら、
ただ一つだけ願っていた。
——間に合ってほしい。
病院に着く。
母と弟は、もういた。
間に合わなかった。
白い病室。
父は静かだった。
母が手を握りながら、何か語りかけている。
弟は腕を組み、立っている。
私は、少し離れた場所で立ち尽くす。
涙は出ない。
ただ、呼吸が浅い。
看護師に葬儀社の手配を促される。
リストから電話をかける。
夜中で出ない。
呼び出し音だけが、長い。
繋がらない。
もう一度かける。
出ない。
時間だけが進む。
焦りだけが増える。
長姉夫婦も到着する。
ようやく折り返しの電話が来る。
住所を伝える。
父を家に帰すための手配。
その途中で、看護師に呼ばれる。
父の支度が始まるという。
行きたい。
でも電話を切れない。
帰す段取りを止められない。
電話を終えて病室へ向かう。
末期の水も、身支度も、すべて終わっていた。
間に合わなかった。
最期にも。
そのあとにも。
父の顔は青白い。
でも穏やかだった。
眠っているようだった。
整えられた手。
整えられた肩。
触れる。
体温が低くなっていた。
その冷たさが、現実だった。
それぞれの車で実家へ向かう。
エンジンをかける。
カーステレオから流れたのは、
「アイノカタチ(MISIA)」
続いて「逢いたくていま」。
声を出さないように泣いた。
そして――
「オレンジ(SMAP)」
どうして今、と思う。
けれど止めなかった。
夜明け前の道。
涙で滲む信号。
父は、無言で家に帰る。
もう誰とも話さずに。
「もう、弱音を受け止めてもらえない…」
ハンドルを握りながら、心の中でつぶやく。
実家に着く。
朝の光が差し込む。
父の椅子が、そのままある。
新聞も。
コートも。
でも、そこに父はいない。
母と弟が最期を看取った。
私は間に合わなかった。
悔しさと、
ほんの少しの安堵が、
同時にある。
言葉にならないまま、
胸に残る。




