第9章 後編 「もう、無理」
家の前に着く。
ブレーキを踏み、車を止める。
エンジンを切ると、車内がしんと静まった。
昼の光がフロントガラス越しに差し込む。
ただそこにある光。
隣でシートベルトが外れる音。
姉の夫が何か言った。
たぶん、「どうも」。
語尾も、感情も残らない。
確認のように響いた。
ドアが開き、閉まる。
足音が遠ざかる。
それで終わった。
病室での「どうも」。
車内での「どうも」。
二度の軽い音が、胸の奥に残る。
怒りはなかった。
不思議なくらい、なかった。
代わりにあったのは、
はっきりとした距離感だった。
ああ、もう無理だな、と思った。
声に出さなくても分かった。
奢ってほしかったわけじゃない。
大げさな感謝が欲しかったわけでもない。
ただ、
当たり前ではないと、
分かっていてほしかった。
あの時、言葉にはならなかったけれど、
心の奥では、はっきり思っていた。
私は、あなたたちの召使いじゃない。
助けてもらったこと。
時間を使ってもらったこと。
それを、自覚しているという印が。
それが、なかったのだと思う。
家に入る。
靴を脱ぐ。
いつもの匂い。
いつもの廊下。
けれど空気は、少しだけ違う。
胸の奥に、静かな緊張が残っている。
夜。
子どもを寝かせたあと、
リビングで夫に言う。
「もうさ、なんか無理かも」
驚くほど淡々とした声だった。
夫は少し黙ってから言った。
「……俺も正直しんどい」
その一言で、力が抜けた。
同じ温度で感じている人がいる。
それだけで、十分だった。
嫌いになったわけじゃない。
縁を切りたいわけでもない。
ただ、
分かり合えるとは、もう思えない。
助け合いの前提が違う。
受け取り方が違う。
その差は、埋まらない気がした。
あの日の無言。
レジでの当たり前の会計。
二度の「どうも」。
小さな出来事の積み重ね。
それでも、確信には十分だった。
もう、無理。
それは怒りではない。
ただの結論。
自分の中で引く、一本の線。
派手な喧嘩はない。
言い争いもない。
ただ、温度が下がった。
それだけだ。
じーちゃんや子ども、夫との生活は守れる。
でも、姉や姉の夫の前で
自分の気持ちを押し殺すことは、もうやめよう。
線を引く。
距離を決める。
それは拒絶ではなく、
自分を守るための形。
夜の風が窓を揺らす。
遠くで子どもが寝息を立てる。
その音が、胸を少しずつほどいていく。
平和ではない。
でも、ここには自分の空間がある。
それだけで、今は足りる。
あの二度の「どうも」は、
もう戻らない音だった。
私はそれを胸に置き、
静かに前を見ることにした。




