第9章 中編 「当然の空気」
入院の日も、手術の日も、退院の日も。
母が車を出した。
姉の夫は免許を持っていない。
だから、病院へ行く足は母になる。
その流れは、あまりにも自然だった。
「お願い」と強く言う声もなく、
「助かった」と深く頭を下げる姿もない。
最初から決まっていた役割のように。
私はその場にいたわけではない。
けれど母から聞くたびに思った。
——ああ、やっぱり。
6年。
働いて、生活は回っていた。
それでも、いざというとき動くのは母だ。
疑問は、誰の顔にも浮かばない。
出産は無事に終わった。
帝王切開だった。
母からの連絡を見て、ほっとする。
命に関わることがなかった。
それだけは、本心でよかったと思った。
子どもに罪はない。
ただ、生まれてきただけだ。
数日後、出産祝いを持って見舞いに向かった。
その日は私が車を出した。
広い病院の駐車場。
昼前の光。
助手席には姉の夫。
乗り込む時に何か言った気がする。
「お願いします」
そう言ったのだろうか。
けれどはっきりとは聞き取れなかった。
道を案内するでもなく、
会話が弾むわけでもない。
必要最低限のやりとりだけ。
ハンドルを握りながら、
自分の立ち位置をぼんやり考えていた。
白い建物。
消毒液の匂い。
エレベーターの静けさ。
姉はベッドの上で赤ちゃんを抱いていた。
小さく、赤い顔。
その姿を見た瞬間だけは、
素直に思う。
よかったな、と。
出産祝いを渡す。
「ありがとう」
姉はそう言った。
中身のない音のように聞こえた。
少し話して、時間を区切る。
帰り際、
「じゃあ、帰るね」と言う。
返ってきたのは
「うん。どうもね」
それだけだった。
疲れているのは分かっている。
深い感謝を求めていたわけでもない。
それでも、
胸の奥が、少しだけ冷える。
病院を出る。
昼どきだった。
自然な流れで、ラーメン屋に入る。
席に座り、注文する。
会話はほとんどない。
食べ終わり、レジへ向かう。
それぞれが、自分の分を払う。
奢ってほしかったわけじゃない。
問題は金額じゃない。
出産祝いを渡し、
車も出している。
それでも、
「今日はありがとう」
その一言がなかった。
もし、
「飲み物くらい出させて」
その一言があれば、違ったのかもしれない。
自分が“してもらった側”だと、
本当に分かっているのか。
そこが、静かに分かれた。
店を出る。
車に戻る。
助手席のドアが閉まる。
エンジンをかける。
ラジオの音が遠い。
家に着く。
ドアが開く。
「どうも」
小さな声。
それだけで、終わる。
私はハンドルに手を置いたまま、
しばらく動かなかった。
怒りはない。
爆発する感情もない。
ただ、確信だけが残る。
この人たちは、
本気で「当然」の空気の中にいる。
そこに、私はいない。
いたくない。
エンジンを切る。
静けさが戻る。
一本の線が、
はっきりと引かれた。




