第8章 中編 「普通の朝」
子どもと、ゆっくり朝ごはんを食べる。
それだけのことが、少し不思議だった。
トーストの焼ける匂い。
コップに注いだ牛乳の白さ。
バターが溶けていく様子。
テーブルに座っても、
急かされる感じがない。
「早く食べて」
と、強い声を出さなくていい。
テレビから、朝の情報番組の笑い声が流れる。
芸人の軽い掛け合い。
スタジオの拍手。
その音が、ただの音として聞こえる。
以前は、テレビの声さえうるさく感じていた。
どこかで常に、別の音を探していたから。
誰も怒鳴らない。
誰も何度も同じことを聞かない。
「ごはんまだ?」
繰り返される問いかけに、
苛立ちを押し込める必要がない。
ただ、普通の会話がある。
「今日、参観日だよね?」
私が聞くと、子どもがすぐに答える。
「うん、そうだよ」
そんなやり取りが、妙に新鮮だった。
当たり前のはずの会話。
それなのに、どこか柔らかい。
休日の夫が、お茶を飲みながらぽつりと言った。
「やっと寝れてる顔してる」
「え?」
思わず聞き返す。
「前はさ、ずっと目の下クマあったから」
自分では気づいていなかった。
洗面所の鏡の前に立つ。
確かに、顔つきが違う。
眉間のしわが、薄くなっている。
目の奥の張りつめた感じが、少し緩んでいる。
大きな変化ではない。
けれど、
ずっと力が入っていたことに、ようやく気づく。
イライラが減った。
子どもに強く言いすぎることも、減った。
前なら。
牛乳をこぼす。
靴下が見つからない。
宿題を忘れる。
そのひとつひとつが、
「これ以上、増やさないで」
という焦りと苛立ちに変わっていた。
今は違う。
「あーあ、拭こうか」
それで終わる。
気づけば、くだらない話で笑っている。
テレビの変な動物映像で、
みんなで声を上げて笑う。
その笑いが、ちゃんと腹の底から出ている。
作り笑いじゃない。
無理のない笑い。
じーちゃんも、どこか穏やかだった。
座椅子に座り、湯のみを両手で包んでいる。
湯気がゆらゆらと揺れる。
「静かになったなぁ」
ぽつりと、そう言った。
その声には、
寂しさと、安堵が半分ずつ混ざっている。
長年一緒に暮らしてきた相手がいない。
その事実は、きっと軽くない。
それでも。
怒鳴り声も、物音も、慌てる気配もない日々は、
やっぱり楽なのだろう。
私も、同じことを思っていた。
普通の生活って、
こんなに楽だったんだ。
朝ごはんを食べて、
テレビを見て、
予定を確認し、
洗い物をする。
ただ、それだけ。
誰かの失敗を先回りして構える必要もない。
夜の不安を抱えたまま朝を迎えなくていい。
家の中に、
少しずつ余裕が戻ってきている。
洗濯物も、今日は少ない。
それだけで、
気持ちが整う。
それでも。
楽になっている自分に、
どこかで「いいのかな」と思う瞬間はある。
ばーちゃんは、施設でどうしているだろう。
寂しくないだろうか。
そう考えることもある。
けれど。
介護から離れることと、
情をなくすことは違う。
その線引きを、
やっと自分に許し始めた。
食器を洗いながら、窓の外を見る。
光がやわらかい。
何も特別なことは起きていない。
ただ、穏やかな朝。
でも、その穏やかさが、
私にとっては奇跡みたいだった。
このまま、
少しずつでいいから、
普通に戻れたらいい。
そう願える朝が来たこと自体が、
もう、十分だった。




