第8章 前編 「音のない夜」
本日、第8章 前編・中編・後編 の3話投稿しています。
ばーちゃんが施設に入居した。
その日の夜。
いつもと同じ時間に布団に入り、
いつもと同じように目を閉じた。
——はずだった。
夜中に、ふっと目が覚めた。
何時かは分からない。
部屋は暗く、外灯の光がカーテンの隙間から細く差し込んでいる。
天井の輪郭が、ぼんやりと浮かんでいた。
その瞬間。
考えるより先に、体が反応する。
耳を澄ます。
物音はないか。
トイレの水が流れる音は。
廊下を歩く足音は。
ドアのきしみは。
何かが落ちる、鈍い音は。
呼吸を浅くして、
闇の中に意識を広げる。
——何も聞こえない。
しん、としている。
冷蔵庫の低い唸りと、
遠くを走る車の音だけが、かすかに届く。
それでも。
体は、まだ待機していた。
「何もない」はずがない。
そう思い込んでいるみたいに。
いつ呼ばれても動けるように、
足の筋肉がわずかに緊張している。
布団の中で、指先が冷えていることに気づく。
数秒。
数十秒。
それでも、何も起こらない。
そこでようやく、
あ……降りなくていいんだ。
と、頭が追いついた。
階段をそっと降りる必要もない。
暗い廊下を手探りで歩く必要もない。
一階を確認しなくていい。
トイレの前で息を止めなくていい。
その事実を、
体のほうがうまく理解できていない。
布団の中で天井を見つめる。
「あれ……」
声に出さず、口だけが動く。
「最近、降りてないな」
そういえば、ここ数日。
夜中に目が覚めても、
階段を下りていない。
確認しに行っていない。
それでも、何も起きていない。
胸の奥に、
ゆっくりと空気が入っていく。
大きな安堵ではない。
歓喜でもない。
ただ、
静かな実感。
今夜は、何も起こらない。
恐れなくていい。
構えなくていい。
布団の中で、意識して肩の力を抜いてみる。
思ったよりも、固まっていた。
じんわりと、
血が巡る感覚が戻ってくる。
眠っていい。
そう、自分に言い聞かせる。
誰かの気配を探さなくていい夜。
物音を予測しなくていい夜。
それが、こんなにも深い静けさだとは、
知らなかった。
しばらくして、
もう一度、目を閉じる。
今度は、すぐに眠りが戻ってきた。
朝。
目覚ましが鳴る前に、目が覚める。
窓の外は、薄い青。
夜と朝の境目の色。
しばらく横になったまま、耳を澄ます。
やっぱり、静かだ。
階下から物音はしない。
急いで起き上がる必要もない。
それでも、長年の習慣で体は少しだけ早く動く。
完全には、まだ抜けない。
廊下に出る。
空気が、違う。
あの臭いがない。
アンモニアの残り香も、
消臭剤を重ねたときの混ざった匂いもない。
鼻の奥がつんとしない。
息を吸っても、胸がざわつかない。
トイレのドアを開ける。
きれいなままだった。
床も、便器も、何も変わっていない。
雑巾を探す必要もない。
ため息をつく必要もない。
洗濯機の中も、軽い。
夜中に増えた洗濯物はない。
それだけで、
体が、ふっと軽くなる。
背中に乗っていた何かが、
少しだけ降りたような感覚。
こんな朝は、いつ以来だろう。
急がなくていい。
怒らなくていい。
焦らなくていい。
ただ、朝が来ただけ。
それだけのことが、
こんなにも穏やかだったなんて。
私はキッチンに立ち、
静かな家の中でお湯を沸かす。
湯気が立ち上る。
白く、ゆらゆらと揺れる。
その揺らぎを見つめながら、
ようやく思う。
「ああ……終わったんだ」
戦いが終わったわけでも、
全部が解決したわけでもない。
けれど。
夜に怯えなくていい。
それだけで、
十分だった。




