第1章 「継ぐか、失うか」
2005年、私は結婚した。
四人きょうだいの三番目。
上に長姉と次姉、下に弟がいる。
長姉は私とほぼ同じ時期に結婚した。
相手は跡取り。
いずれその家を背負う人だ。
だから姉は自然と、そちら側の人になった。
次姉は、昔から言っていた。
「私が母さんの実家、継ぐから」
本気とも冗談ともつかない口調で。
弟は最初から候補ではなかった。
あの家は母の実家で、母は四姉妹の長女だった。
けれど四人とも外に出た。
誰も家を継いでいない。
血はつながっているが、直接の跡取りはいない。
そんな家だった。
新婚生活は、穏やかだった。
駅から少し歩く、公園近くの二階の一室。
同棲していた頃の部屋と似ていたけれど、
結婚を機に少し広い部屋に引っ越した。
六畳二間に、少しだけ余裕ができた。
この部屋には、未来の夢も詰まっていた。
いつか子どもが走り回るかもしれない。
小さな食卓で、たくさんの笑い声が弾むかもしれない。
近くの公園で子どもを挟んで並んで散歩したい。
そんな小さな希望も膨らませていた。
雨の日は外階段がきしむ。
それでも、そこは私たちだけの場所だった。
味の薄い味噌汁で笑い合い、
もやし中心の夕飯でも満足して、
夜更かしして翌朝あわてる。
「そのうちソファ買おうね」
「宝くじ当たったらな」
何も持っていなくても、未来だけは、たくさん持っていた。
あの頃の私は、本気で思っていた。
人生は、ゆっくり自分のペースで広がっていくものだと。
父は、かつて母の実家に入ったことがある。
いわゆる“マスオさん”のような形で。
苗字は父のまま。
でも、うまくいかなかった。
祖母と決定的に合わなかったのだ。
価値観の衝突。
祖母の強さ。
父の不器用さ。
全部が噛み合わなかった。
祖母は強い人だった。
自分が正しいと信じて疑わない。
人の物でも「それは自分の物だ」と言い張る。
祖母が誰かを非難すると、
周囲まで同意しているかのような空気になり、
いつの間にかその人が悪者にされていた。
父は耐えた。
でも、限界が来た。
そして家を出て、近所に家を建てた。
私はその空気を、子ども心に感じていた。
何を言っていたのかは覚えていない。
でも、怒鳴っていたことだけは覚えている。
大人の声は大きくて、重くて、
居間の空気がぴんと張りつめる。
祖母の声が鋭くなると、父は黙る。
沈黙のほうが、怒鳴り声より怖かった。
その重さだけが、胸にずっしり残っている。
あの家は、難しい。
子どもでも分かるほどに。
2006年。
母の実家に顔を出した日のことだ。
夕方の座敷。
湿った畳の匂い。
じーちゃんがそばを打つ音。
いつもの風景。
でも、その日の空気は少し違った。
「この家を継ぐ人がいない」
じーちゃんの声は、思ったより弱かった。
次姉はまだ独身だった。
「継ぐ」と言ってはいたけれど、結婚相手は見つかっていない。
見つかったとしても、その人が一緒に背負うとは限らない。
現実は、簡単じゃない。
じーちゃんは、私を見た。
目に、涙が滲んでいた。
「できれば……頼む」
“頼む”。
それはお願いというより、祈りに近かった。
父が出た家。
うまくいかなかった家。
祖母が今もいる家。
そこに入れというのか。
帰りの電車の中、私はほとんど喋らなかった。
夫が静かに言った。
「お前しかいない、って感じだったな」
否定できなかった。
“お願い”ではなく、残された私に消去法のように託された――そんな気がした。
長姉はもう別の家の人。
次姉は不確定。
弟は対象外。
残ったのが、私。
その夜、布団の中で天井を見つめた。
新婚の部屋は静かだった。
誰の視線もない。
誰の怒鳴り声もない。
この生活を守りたいと思う。
でも、じーちゃんの目が浮かぶ。
あの人は、家を守ってきた。
お盆の集まりも、正月も、法事も。
全部あの家があったからだ。
もし誰も継がなければ。
あの家はどうなる?
壊される?
売られる?
知らない人のものになる?
想像すると、胸が締めつけられた。
夫とは何度か話し合った。
そのたびに、私の胸の奥で別の不安が膨らんでいた。
もし私が「継ぐ」と決めたら。
この人はどう思うだろう。
父が出た一度壊れた家に、もう一度入るということ。
負担を背負わせることになる。
それが原因で、いつか後悔させてしまうんじゃないか。
最悪の想像もした。
私の決断のせいで、この人が離れていってしまうんじゃないか、と。
それが、怖かった。
2年近く、答えは出なかった。
次姉は相手を探していた。
でも現実は思うようにいかない。
私は心のどこかで願っていた。
誰か、代わって。
でも時間は進む。
夫と何度も向き合った。
「やるなら、俺も一緒にやる」
その言葉は重みのある言葉だった。
逃げることもできた。
でも、逃げたら一生どこかで引っかかる気がした。
私は“できない”と断れるほど、強くなかった。
“やらない”と言い切れるほど、割り切れなかった。
そして少しずつ、自分に言い聞かせるようになった。
私がやるしかない。
あのときの私は、まだ知らなかった。
家を継ぐということが、
建物を受け取ることだけではないと。
人間関係も。
過去の確執も。
人の癖も。
期待も、不満も。
全部まとめて、相続するということを。
新婚生活の軽やかな空気の中に、
目に見えない重りがひとつ落ちてきた。
まだ小さな重さだったが、確実に、私の人生の向きを変え始めていた。
そして「家族だから」という言葉が、
静かに私の自由を縛り始めていた。




