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第7章 後編 「家に帰りたい」

ばーちゃんの足のむくみが、目に見えてひどくなった。


靴下の跡がくっきり残り、触ると張っている。

押すと、ゆっくり戻る。


いつもと違う、とすぐに分かった。


近所の医者に連絡をして、家に来てもらった。

診察を終えた医師は、静かに言った。


「紹介状を書きます。明日の朝、救急車を呼んで大きな病院へ行ってください」


“明日の朝”。


すぐではない。

けれど、救急車。


一晩待てるのに、救急車を呼べと言う。

どういう状態なのか、理解が追いつかなかった。


その夜、家の中は妙に静かだった。


ばーちゃんは、いつも通り落ち着かない様子で、


「家に帰りたい」


と繰り返していた。


ここが家なのに。

そう思いながら、何も言えなかった。


翌朝、救急車を呼んだ。


担架に乗せられるばーちゃんを、

じーちゃんが黙って見ていた。


新築の玄関を、サイレンの音とともに出ていく。


あの玄関を通るとき、

私はなぜか、


「この家に戻れないかもしれない」


と直感した。


サイレンの音だけが、やけに大きく響いた。


大きな病院での診断は、心不全だった。

そのまま入院になった。


少し、ほっとした。


家ではもう、

どうしていいか分からなかったから。


けれど、病院でも落ち着くことはなかった。


点滴を抜こうとする。

ベッドから降りようとする。

他の人の食事に手を伸ばす。


「家に帰りたい」


何度も、何度も。


安全のために、体を拘束することになった。


白いベッドの上で、

動きを制限されている姿。

その手首を見るのが、つらかった。


入院中、ばーちゃんは飴をよく舐めたがった。

でも病院では誤飲の危険があるため、禁止されていた。

それなのに、叔母の一人が「舐めさせてあげたい」とこっそり持ってきて、隠して渡していた。

看護師に見つかり、私が叱られた。


あの日も、守るべきルールと、勝手な親切の境界線を思い知った。


叔母たちは言った。


「かわいそうだ」

「そんな病院、変えたら?」

「拘束なんてする必要ない」 


けれど私は、

何が正解か分からないまま、

今は命を守ることが先だと思っていた。

 

退院の話が出た頃、病院のスタッフが私に静かに言った。


「家に戻そうと考えてる?」


言葉に詰まった。

家に戻すとなると、私は仕事を辞める必要があると思っていた。


すると、スタッフは静かに続けた。


「あなた一人が背負う必要はないよ」


私は胸の奥で、はっとした。

じーちゃんは高齢で、昼間一人で見るのはもう限界。

子どもたちもまだ小さく、私は仕事もある。

ばーちゃんは目を離すと、すぐに食べ物を口に入れてしまう。


スタッフは、叔母たちの無理解も察してくれていた。

私が一人で介護を背負ったら、潰れてしまう――そう思ったのだろう。


その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。

「ここで無理をしなくていいんだ」

自分では言えなかったその現実を、代わりに言ってくれた人がいた。


数日後、医師からもはっきりと言われた。


「在宅介護は、難しいと思います」


じーちゃんは高齢。

私は、まだ幼い子どもが二人いる。

一日中、目を離さずに見ることはできない。


その言葉を聞いたとき、胸の奥で何かが崩れた。

そして同時に、……やっと、言ってくれた、とも思った。


私たちだけでは無理だと、誰かが言葉にしてくれた。

それは敗北の宣告のようで、でも救いでもあった。


こうして、介護保険の申請を進めることになった。


説明を受け、

書類を書き、

判定を待つ。


書類の文字は、どれも冷たかった。


認定は、要介護5。 

数字で示された“重さ”。


相談の結果、老人ホームへ入居することになった。


それが、現実的な選択だった。


退院の日。


ばーちゃんは、繰り返した。


「家に帰りたい」


その“家”がどこなのか、

もう分からない。


昔の家か。

建て替える前の家か。

それとも、

記憶の中の、もっと遠い場所か。


叔母たちは「かわいそう」「家で見れないの?」と言った。

でも、もし本当にそう思うなら、1回でもいいから自分がばーちゃんと一緒に過ごしてみればいいのに、と思った。

私は胸の奥で、小さな苛立ちと諦めを感じながらも、現実的な選択として老人ホームへの道を選んだ。


ホームに入った後も、ばーちゃんと面会すると叔母たちは「さみしくない?」とか里心がつくようなことを言ったり、面会の帰りに家に寄って「家に帰りたそうだった」とか「あそこのホームは…」などと話していた。


でも私は知っていた。ばーちゃんの面倒を見てくれるだけで、私にとってはありがたい施設だったのだ。


じーちゃんは何も言わなかった。

ただ、静かに頷いた。


新築の家は、きれいなままだった。

壁も、床も。


けれど、

そこに戻る人数は減った。


やっと落ち着けると思っていた家は、

別の形で、静かになった。


それが正しかったのかどうか、

今も分からない。


ただあのときは、

それ以外の選択肢が見つからなかった。


そして私は、初めて、

「終わらせる」という選択をした。


守るために、

手放すという選択を。

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