第7章 中編 「夜中の背中」
新しい家に移って、間もなく。
ばーちゃんの様子が、目に見えて変わっていった。
物忘れは、以前からあった。
けれど、それとは質が違う。
同じ言葉を、何度も繰り返す。
「家に帰りたい」
「早く帰ろう」
「ごはんまだ?」
さっき食べたばかりでも、関係なかった。
「……もう食べたよ」
そう答える自分の声が、
少しずつ強くなっていく。
ある日、つい言ってしまった。
「さっき食べたでしょ!」
ばーちゃんは、きょとんとした顔で私を見る。
怒られた理由が、分からない顔。
その表情を見た瞬間、
胸の奥が、ずしんと重くなる。
優しくできない自分が、嫌だった。
排泄の失敗も増えた。
間に合わないことが多くなり、
下着を隠すこともあった。
やがて、それはもっと深刻になった。
便を、手で触るようになった。
粘土のようにこね、
床に塗りつける。
朝、起きると。
家の中に、強い臭いが残っている日があった。
新築の白い壁に、茶色い跡。
まだ木の匂いが残っていたはずの家に、
別の匂いが混ざっていく。
雑巾を握る手に、力が入る。
何度も、何度も拭く。
きれいな家が、
少しずつ別の空気を帯びていく。
夜中、物音で目が覚める。
かすかな足音。
引き戸の音。
廊下の明かりが、ぼんやりとついている。
様子を見に行くと、
じーちゃんが一人で床を拭いていた。
何も言わず、
黙々と。
アンモニアの臭いが漂う中、
雑巾を絞る音だけが、静かな家に響く。
ぎゅっ、と水を絞る音。
ぽたぽた落ちる雫。
「起こしてくれればいいのに」
そう言っても、
じーちゃんは首を横に振る。
「寝とけ」
それだけだった。
怒らない。
ため息もつかない。
ただ、黙って片付ける。
その背中を見るのが、一番つらかった。
疲れているのか。
諦めているのか。
感情を、どこに置いているのか分からない背中。
私は隣で一緒に拭きながら、
何も言えなくなる。
拭いても、
また夜は来る。
それなのに。
叔母たちが来ると、
ばーちゃんは普通に受け答えをする。
調子のいい時間帯だけを見て、
「全然しっかりしてる」
「痴呆なんて大げさ」
「食べさせる量が足りてない」
「人の親をボケ扱いしないで」
そう言われた。
毎日一緒にいる私の言葉は、
信じてもらえなかった。
「大変だねー」と言いながら、
帰っていく。
じゃあ、代わってよ。
心の中で、小さくつぶやく。
介護保険のことも、正直よく分かっていなかった。
申請すればいいらしい。
それくらいは聞いたことがある。
でも、どこに行けばいいのか。
何を準備すればいいのか。
そもそも、
これは“介護”と呼ぶ状態なのか。
まだどこかで、
認めたくなかったのかもしれない。
新築の家は、きれいだった。
けれど、
休まる場所ではなかった。
昼も夜も、気が抜けない。
布団に入っても、
物音がすると体が反応する。
廊下の明かりがつくと、
心臓が早くなる。
夜中。
無言で床を拭く、じーちゃんの背中。
その姿を見るたびに、
「限界」という言葉が、
頭のどこかに浮かぶ。
でも。
誰も、口にしなかった。




