第6章 中編 「待つしかない」
病院に着き、受付で弟の名前を告げる。
緊張で、手のひらが汗ばんでいた。
看護師が静かに言う。
「今、手術中です。まだ始まったばかりで、予定では約4時間かかります」
四時間。
長いのか、短いのか、分からない。
承諾書にいくつも名前を書く。
文字が少し震える。
手術待合室に案内されると、弟に付き添って病院まで来てくれた職場の人が立ち上がった。
軽く頭を下げ合う。
その存在に、少しだけ救われた。
でも。
「手術中」という現実の重さが、すぐにその安心を押しつぶした。
事情を聞く。
弟は、上棟式の足場組み立て作業中に、二階の高さから落ちたという。
祝いの日だった。
施主に申し訳ないと、救急車は呼ばないと本人が言ったらしい。
まずは自家用車で近くの個人病院へ。
だが、そこで言われた。
「ここでは対応できません」
そこから大きな病院へ、自力で移動。
移動中、弟は痛みに耐えきれず、
「痛い! あー!」
と声を上げたという。
あの我慢強い弟が。
どれだけ痛かったのだろう。
胸が締めつけられる。
そして、怒りが湧く。
どうして救急車を呼ばなかったのか。
どうして個人病院で救急搬送の手配をしてくれなかったのか。
祝いや体裁より、命のほうが大事じゃないのか。
感情が忙しく動き回る。
焦りと不安、心配と、怒りが入り混じる。
でも、今は何もできない。
ただ、待つしかない。
手術室前の待合室。
硬い椅子。
無機質な白い壁。
時間が、異様にゆっくり流れる。
いや、止まっているようだった。
もし、このまま――
最悪の想像が、頭をよぎる。
振り払っても、また浮かぶ。
時計は7時半を過ぎても、手術はまだ終わらない。
職場の人が差し入れてくれた軽食と飲み物を口にする。
味が、まったくしない。
これ以上ここに居続けてもらうのは申し訳なく、帰宅してもらった。
10時を過ぎても、手術は続く。
携帯を何度も握り直す。
父や夫に連絡を入れたい。
でも、状況が分からない。
焦りだけが募る。
そして、11時過ぎ。
ようやく、ストレッチャーが運ばれてきた。
麻酔がまだ残っているのか、弟はぼんやりとしている。
言葉はほとんど出ない。
でも。
生きている。
その事実だけで、胸の奥が少し軽くなった。
医師の説明を聞く。
足首の粉砕骨折。
最低でも、今後3回の手術が必要。
落ち方が悪ければ、命は危なかった。
その言葉に、背中を冷たい汗が伝う。
病院を出る頃には日付けが変わっていた。
夜空を見上げる。夜風が頬に当たる。
深く息を吐く。
運転席に座ると、肩に緊張と疲労がどっと乗る。
助手席の母は、疲れ切った顔で黙っている。
弟は助かった。
でも。
骨折。
手術。
入院。
これから、何が始まるのか。
祖母のこと。
家のこと。
そして、弟の生活サポート。
今までの負担に、さらに何が重なるのか。
まだはっきりとは見えない。
ただひとつだけ、確かな予感があった。
もう、これまでと同じ日常には戻れない。
その感覚が、静かに胸の奥へ沈んでいった。




