最終話 主人(マスター)と悪魔(メイド)の主従関係
「う、あああああああ――!!」
呻きが咆哮へと変化し、雷が轟くようなそれは空間を激しく震動させる。瘴気は周囲の空気を呑み込みながらその手足を外へ外へと延ばし、どす黒い闇を伝染させてゆく。
「あ、あ、あ、あああ……!」
そして、思い立ったように黒い瘴気は拓真に向かって収束し始めた。密集したそれらは軋むような雑音を発しながら禍々しく蠢き、苦痛に折れ曲がった身体を包み込む。大量の血液を流し続けていたところどころの傷口が、数秒でひとつ残らず塞がった。
「……っ!」
拓真がいっそう大きく目を見開く。体の芯を荒れ狂う業火で焼かれたような激痛が走り、もはや声にならない叫び声をあげた。
瘴気の変動が落ち着いたように止むや否や、拓真は腕をだらりとぶら下げ、その肩とこうべを地面に向けて落とす。
「……」
そして、おもむろに表情の無い顔を上げた。真紅の瞳に輝きはなく、濁った血液のごとき色彩をそこにたたえている。少しばかり荒いでいる呼吸を繰り返しながら、まだ自己の存在を認識できていないかのように立ち尽くしてぴくりともしない。
幾ばくかの間をおいた後に、薄汚れた原石のような真紅の虹彩が氷室に焦点を合わせた。目の前のソレと視線が交差した瞬間、一年前の恐怖が脊髄を駆け昇り、凍てつくような寒気が肌を舐めたのを氷室は感じた。
拓真が前触れなく左手を地面と水平に掲げた。すると瘴気がそこに集中し、何かを形成していった。
それは剣、いや、棒と言うにも過ぎた、円柱に近い形状を保ちながら揺れ続ける、闇が作った非常に曖昧な物体。
拓真はそんな抽象的な具象物を握り締め、陽光に照らすように高々と持ち上げた。
「拓、真ぁ……」
氷室は既に視界も朧気になり、声を出すのにも喉を絞るような辛苦を強いられていた。ましてそこから動くことなどできようはずもなかった。
「……キエロ」
あの時の続きを始めるように、拓真は地を這いずるような声音で氷室に死を宣告する。そして、左の腕を今までからは考えられない程の速度で振り下ろした。
轟音に次ぎ、コンクリートが瓦礫となって四方八方へと吹き散らされる。つんざくような風音が鼓膜を打ち震わせ、同時に身体中の肌膚を切り裂くような暴風が氷室を叩く。
「……っつ、あ?」
半ば諦観の心持ちで死を覚悟していた氷室は、その身に依然として感覚器官が働いていることを訝しんだ。
徐々にまぶたを持ち上げて倒れ伏した地面から見上げると、そこには右の掌で瘴気を押し止め、左手を額に当てて溜め息をつく天理が佇んでいた。
この世の理など介さないとでも言うように、莫大な破壊力を擁した一撃を浴びたはずの天理には傷一つついていない。心底から困っているらしい声色で、天理は言葉を洩らした。
「う゛~ん……予定とはだいぶ違うけど仕方ないわねー。臨機応変に対応しないと人生は上手くいかないし、思い通りにいくことなんて、全体からみればほんの一握りなんだものね」
「……おい、天理……」
「あら、死に損ない。そんなところでぼろ雑巾の真似をしているなんてよっぽど暇なのね。どうでもよくないことだけど、思考の邪魔になるから消えてくれない?」
か細い声に呼び掛けられた天理は振り返り、嘲笑するように唇を吊り上げて暴言を連ねた。
「……なんで急にツンデレしとんねん」
「私は考え込んでいる時に話しかけられるとツンデレになるという設定を今になってねじ込むことを試みてみたのよ」
「……つまり、今までまともに頭使ったことがなかったっちゅうことか」
「どうでもよくないことだけど、私のことを馬鹿みたいに言わないでくれるかしら? むしろ考え込む必要がないほどに世の中がとるに足らなかったのよ。……ていうか、あんた本当に死にそうね。せめてその腕の出血だけでもなんとかしてあげるわ」
天理がそう言い終え、氷室がそちらに意識を向けたときには、もう"村正・金剛"を受け止めた腕の裂け目は塞がっていた。心なしか、視界のブレも治まってきたように思えた。
「おお、ありがとさん」
「礼はいいから、絶対に"大虚構"を解くんじゃないわよー……拓真、さしずめ今は拓魔かしらね。これに"絶対魔王政"を使われると、もう天理ちゃんは面倒になっちゃって」
――消しちゃうわ。
氷室は途中で切られた台詞に、そんな言葉が聞こえたような気がした。
「……了解や」
「……」
拓魔《、、》は一度瘴気の塊を霧散させ、再び左手に瘴気を凝縮させた。
一体何が目前の天理を殺すに至らない要因だったのか、それを探るように闇は変形という試行錯誤を繰り返す。
威力か、当てた場所か、形状か――そんな飛び交う思考と直接繋がっているかのように、せわしく形を変えてゆく。
――ああ、足りなかったのは、精度か。
結論はそこに辿り着いたのだろう。なぜなら、突然に瘴気が具体的な形を作り始めたからである。
先ずは細身の棒に。一本から一枚と表現するに相応しい姿になるまで、薄く、薄くその身を研ぎ澄ませる。先端は鋭利に、大部分を反り返らせ、持ち手の箇所だけは、楕円柱の表面に繊細な装飾を。蠢いていた闇は最高密度にまで圧縮され、完全にその姿を確立させる。
拓魔の腕と同程度の長さをした、刃紋のない暗黒の日本刀。いや、黒一色ではあるが、姿形はあの"村正・金剛"とまったくの相似。
漆黒の村正を、拓魔はその手に造り出したのだ。
言うなれば、"村正・黒曜"。
日の光を照り返し白く輝いていた"村正・金剛"とは対照的に、陽光を呑み込み、ただ絶望の色をそこに貼り付けている。
そうして、絵の具をさっと塗りつけたように大気に闇の残像をはっきりと広げながら、"村正・黒曜"は天理に襲いかかった。
「うん、決めたわ。主人の世話は可愛らしいメイドにやらせるのが道理よね」
しかし、"村正・黒曜"は刀身を天理の血で濡らすことはなく、空を斬る虚しい音の残滓を置き忘れるだけに終わった。
「とゆーわけで。悪魔ちゃん、待ちに待った出番よ。ご主人様を助けてあげなさい」
天理は距離を切り取ってしまったかのように、それなりに離れていたはずのルシフの横に唐突に現れ、驚愕に後ずさったルシフの肩を軽く叩いた。
「~~っ……助けろと言われても、具体的に何をすればよいのじゃ?」
不覚にも乱れてしまった心音を落ち着かせながら、ルシフは眉をひそめた。天理は人差し指を下唇に当てて、
「色仕掛けでもすればいいんじゃない? その椿よりは小さいけど普通に巨乳に分類される胸とか使って、ふふっ」
「足元に転がる男ごと焼き殺してやろうか?」
「冗談よ、じょ、お、だ、ん。そうねー……それこそ拓魔の方を焼いてやればもとに戻るんじゃないかしら。殺したら拓真も死ぬけど、重症に陥らせるくらいなら魔王だけを引っ込めることができないこともなきにしもあらず、みたいな?」
最後には首を傾けて、取って付けた笑顔で締めた。
ルシフは苛立ちに顔をひきつらせたが、諦めてため息を吐いた。この天使とまともに取り合うだけ無駄な労力であるし、何故かこれは万象を知っているような節がある。だから、おそらく言っていることは正しいはずだ。
「妙に不安げじゃが、本当に大丈夫なんじゃろうな? 儂が主さまを倒せば、主さまはもとに戻るんじゃな?」
「きっとね。でも、簡単なことじゃないわよ。拓魔の単純な力は悪魔ちゃんと同等かそれ以上だから」
「わかっておるわ。魔王の恐ろしさを、悪魔が知らぬわけがなかろう」
魔王は唯一の存在というわけではない。魔王とは魔界の中にある悪魔、雑魂、魔物といった階級のようなもののうちの一つだ。故に、ルシフは幾度か他の魔王を目にしたことがあった。それらのいずれにも、ルシフは戦えばただでは済まないだろうという悔恨にも似た感情を抱いていた。そして、ここに降臨した魔王は、今まで見たどの魔王よりも凄絶な重圧を周囲に撒き散らしてそこに存在している。
天理が消え、所在なさげに泳いでいた真紅の眼がルシフたちを捉えた。身体をそちらに向けて、"村正・黒曜"の先端を地面に引きずらせながら、一歩、また一歩とその歩みを進めてくる。
距離が縮まるにつれ、ルシフには拓魔の瞳の色彩がはっきりと確認できた。純粋な紅というわけではなく、僅かに黒い濁りが混じっている。瞳独特の輝きは失せ、そこには意志といったものがまるでない。
灼熱色の眼光に射すくめられているというのに、ルシフは極寒の大気に裸で晒されたかのように身体の芯が冷えきっていったように思えた。
まったく、悪魔が何かを畏れるなど滑稽の他に何と言えよう。そう自らを嘲ってみたが、根元的な畏怖が薄れることはなくベッタリとまとわりついてきた。
「……ふん、まあ、よい。主さまを助けることは、しろと言われるまでもなく儂の役目じゃ」
両手に、穏やかに揺らめく火焔を発生させる。どこか愉しそうに唇を吊り上げる銀髪の悪魔はまるで、荒々しさの中に神秘性を含んだ吹雪のようだった。
そちらを見ることもなく、ルシフは天理に問う。
「手加減は要らんのじゃろう?」
「だから言ってるじゃない。本気を出しても多分敵わないくらいだって」
「念のための確認じゃ。……ならば下がっておれ、巻き込まれても文句は聞かんぞ」
返事がない。
気になって目をやると、もう天理はずっと離れた場所で手を振って微笑んでいた。冗談のような速さだ。
ルシフは眉根を寄せて、鼻を鳴らす。
「……やはり食えぬな、あの天使は。さて……」
拓魔に視線を戻す。天理とは反対に、その緩慢な足運びは未だにルシフとの差を詰めきらない。
機械的かつ規則的に、何の変化もなく踏み出された次の一歩が地表に着いた瞬刻――地肌がひび割れ、酸素を食い尽くす業火の柱が爆音を響き渡らせながら噴き出した。
人ひとりの身体など容易に呑み込むほど巨大な炎柱が、拓魔を体表から死灰にしようとする。周囲の景色すら夕暮れのように赤く染める火炎を眺めながら、ルシフは右手を空にかざして、一息に振り下ろした。
すると、柱の直径が一回り増加し、火勢も怒り狂ったように凄烈になる。近辺に有るものはもれなく溶解し、高められた空気は熱で情景を歪ませる。
「儂は魔王であろうと負けるつもりはない。そんなことでは最悪最凶の名が廃るからのう。相応の覚悟はしてもらうぞ?」
ルシフの言葉に応えるように、赤炎から黒い瘴気が微かに漏れ出した。次の瞬間、火炎の柱は真っ二つに引き裂かれ、闇に身を包んだ拓魔が少しだけ歩調を強めながら、鋭さを増した眼光でルシフを射抜いた。ルシフが怯むことはもうなかったが。
「流石じゃの……"檻"」
ルシフが淡白な声音でそう言い終えると、拓魔のそれとはまた質の違う闇が、空間の狭間から這い出るように現出した。そして、鳥かごを上から圧縮したような、ドーム状の監獄が精製される。
「火炎は意味がないようじゃからの、物理的な威力を見舞ってやるぞ……"握縮"」
途端に、漆黒の檻を形作る骨が次々とひしゃげてゆく。巨大な手に握り潰されるように、鳥かごはみるみる体積を減らしてゆく。このままいけば拓魔の身体よりも小さくなり、中にいる拓魔を圧死させるだろう。
しかし拓魔はそのような状況だろうと、僅かにも表情を変えることはない。"村正・黒曜"を使用することもなく、空いていた右手を残っていた隙間に躊躇なく突き込み、無造作にこじ開けた。
ゴキベキゴキ、と人間の骨格を一斉にへし折ったような音を奏でながら、拓魔はいとも簡単に"檻"から脱け出した。
「それなりに本気じゃったんじゃがのう……」
ルシフは思わず笑みを浮かべたが、反して背中には冷たい汗が伝った。
拓魔はついに走り出した。全力でルシフを狩るという意思を露にしたかのような疾走は、瞬き一つの時間でルシフと拓魔の距離を零にする。純黒の刃が大気の中でひらめき、万物を斬り裂く脅威をルシフに向けて振り下ろす。
「――っ!」
咄嗟に、視覚が直接運動器官に働きかけたと思えるような素早さで、ルシフは間一髪その凶刃をかわした。そのまま、無意識的に拓魔の腹部に炎球を伴った掌底を打ち込む。
比較的小規模な爆発が灼熱色の光を振り撒きながら広がる。それでもかなりの力を秘めた風圧が拓魔を宙に浮き上がらせ、ある程度後退させた。
「……はっ……はぁ……」
ルシフは"村正・黒曜"を避け、反撃すらできたというのに、喉が焼けるように痛んだ。
あの威圧感にあてられてしまったのだろうか、いや、そんなことはないはずだ。覚悟を決めた最上位の悪魔が、魔王とはいえあの程度のそれで畏縮することはない。
ならば何故、こんなにも心臓が激しく脈を打ち、胸を痛めるのだろうか。
拓魔は全く傷を負った様子はなく、"村正・黒曜"を下ろしたまま、考え事でもするように立ち尽くしていた。
拓真の身体で。
「……なるほどのう」
簡単なことだった。目の前の魔王は、拓真なのだ。
その拓真が、ルシフを迷いなく殺そうとした。
そんな事実が、ルシフの心をどうしようもなく切り裂くのだ。
「くくっ、儂も案外脆いものじゃな」
いや、脆くなった、か。
"契約の書"でこちらに喚ばれ。拓真や、サリエルや、椿と行動を共にし。数多の出来事があって、自分の中に変化が訪れた。
だから今は、拓魔と戦うことが心のキレを鈍らせる。
ルシフはどこか悲しげに笑って、微かな濁りをもつ声で問い掛ける。
「それでも、おぬしは儂を容赦なく殺しにくるんじゃろう?」
「……キエロ」
思わず歯を軋ませる。痛みの原因を自覚したからか、湧き出てくるドロリとした感情が心を蝕んでゆく。
それは、たぎるような憤怒。
「主さまの身体でっ! それ以上儂を拒絶するなぁ!」
ルシフの背後に、煌々とした赤光を撒き散らす巨大な何かが出現した。
それは、例えるならば火の竜。
翼にも見える背中の突起や、巨体を支える太い脚、のようなもの。手のような炎は不自然に小さく、頭とおぼしきそれは身と釣り合いをとるように大きい。炎で構成されたそれはあまりにも不安定に揺れ動き、確固とした存在を成していなかったため、竜と呼べるかはあやしい。もしや、生物ですらないのかもしれない。
翼未満の突起を羽ばたかせ、巨大な火炎の塊が翔ぶ。いや、地面からの距離を考えれば浮いた、という表現が正しいだろう。巨体であるがその駆動は迅速で、熱風を作り出しつつ、その揺らめき立つ鋭い牙の餌食にしようと拓魔との距離を詰めてゆく。
そして竜紛いのそれは、拓魔を喰らいそして――内側から破裂した。
竜の残骸が火の粉となって舞い散る中、拓魔は漆黒の瘴気に包まれながら平然として立っている。拓魔に火炎は効かない。それは炎柱で奇襲をかけた時からわかっていたことだ。驚くことはしない。すぐさま右腕を地面と水平に掲げ、叫ぶ。
「顕現せよ! "魔剣・闇を導く者"!」
地表の一部が闇色に染まり、中心からおもむろに何かが姿を露にしてゆく。
それは大剣。闇を極限まで凝縮したような純黒の刃。紅い宝石によって彩られた独特な形状の柄が、魔剣の風格を醸し出す。
ルシフがそれを握り締めた刹那、内包しきれない魔力を放出するがごとく突風が吹き荒んだ。それが抱く力は、漏れ出る闇の密度から推して量るべしだ。
魔剣は、ルシフにとって破壊行為における最大手段の一つである。陽に輝く雪のような銀髪を風になびかせながら、ルシフはそれでもまだ満足できないという風に顔をしかめていた。
――まだだ。全然足りない。もっと力が要る。何か無いのか。なんでもいい。力を――
それは、無意識の産物。気が付いた時には唇から飛び出していた、何度も目にした彼の呪文。
「"電光石火"――ッ!!」
連続的に弾ける音と共に、蒼白い火花が咲き誇る。不規則に咲いては散りゆく蒼電の花弁は、拓真とは微かに違った、白寄りの色彩を放っている。全身に電光を散らせる悪魔は、類を見ない美しさも相まって、ある種の神々しさすらあった。
「……っ。主さまに出来るなら、魔力の使い方を教えた儂にできぬわけがないと思っておったが……」
存外に、きつい。全身に電気を迸らせるこの技は、文字どおり身が焼かれる感覚に襲われる。それに、魔力を纏うのではなく放出させるため、ルシフといえども長く使えば枯渇は必至だ。
まさに、諸刃の剣。苦痛と力を天秤にかけるような、破滅の魔法。
拓真は、この苦痛をどうやって消去したのだろうか。いや、おそらく拓真は苦痛の消去などできていなかっただろう。人の身で、拓真はルシフにも耐え難い苦痛と引き換えにあらゆるものを守り通してきたのだ。
「ゆくぞ」
今度は、その魔法を以てして主人を救い出す。それが、悪魔の役目だ。
"電光石火"が一際激しく唸る。電気の花弁を身体中に散らせ、ルシフは周囲を照らすほどに輝く。"魔剣・闇を導く者"を刺突するように構え、地面を蹴り飛ばした。
一転、視覚からの情報が曖昧になり、周囲の色彩が混じり合う。"電光石火"は一瞬の内に最大速度まで加速するため、感覚がおいてけぼりになったのだ。
磁力に後押しされた身体は急激な浮遊感に伴い、音を越える速度による空気抵抗につきまとわれるため、体勢を保つことさえ困難になる。
――こんなものを自在に使っていたのか。
ルシフは必死に全身を制御しながら、頭の片隅で感服した。ここまでして自分達を守ってくれた拓真の意志に。
「――――――!」
音を置き去りにする移動速度を誇る"電光石火"を使用している中では、自らの叫び声さえ鼓膜に到達しなかった。
"魔剣・闇を導く者"を神速に乗せた一撃は、何者も寄せ付けなかった黒い瘴気すらも突破し、ついに拓魔の左肩に深々と突き刺さった。
「グ……ッ」
拓魔の顔が痛苦に歪む。ギロリと真紅の瞳がルシフを睨み付け、右手でメイド服に掴みかかった。ルシフは慌てることなく左手に拳を作り、"電光石火"に乗せて拓魔の腹部にそれを直撃させる。布が破け白い透き通った肌を露出させることになったが、拓魔を簡単に吹き飛ばし、地面に背中を擦らせた。
「いい加減に目を覚ますがよい、阿呆主さま」
「……ケシテヤル」
拓魔は立ち上がり、瘴気が揺らめいた。
突然、身体にまとわりついた漆黒の闇が激しく蠢き、球体のような何かを大量に形成してゆく。
「なんじゃ――?」
「防御や悪魔っ! 切り刻まれんぞ!」
「……!? "|矛盾で固められた否定の壁"!」
氷室の切迫した叫びに、疑問を振り切るような速さでルシフを包む半球の形状をした薄赤色の半透明な壁を造り出した。
そして、無数の鴉が夕闇に向かって一斉に飛び交うように、暗黒色の球体が放出される。球体は四方八方へ爆散し、"|矛盾で固められた否定の壁"すらも無きに等しく粉砕し、そのまま驚愕に声を出すことすらできなかったルシフを幾重にも切り刻んだ。
「……っく……」
身体中から発せられていた雷電も出なくなり、あらゆる箇所に傷をつけたルシフはその場に倒れ伏した。
自分が、負けた。
それが信じられず、立ち上がり戦おうとするが、痛みに阻害されて腕に力が入らない。
左肩からの血を"村正・黒曜"の先端から滴らせながら、拓魔が歩みをルシフへと進めてくる。
「天理っ、悪魔はもう無理や。頼むからお前が拓真を止めてくれ!」
「終わり……かしらねー」
天理が諦観の面持ちで一歩を踏み出す。
――しかし、それ以上進むことはしなかった。思い立ったように動きを止め、唇を吊り上げた後に身を翻した。
「どないしたんや……?」
「やっぱり取り止めよ。まだ終わってなかったみたいだから」
「……なんやと?」
「何が起こっているのかは知らないが、私が射つべきは拓真でいいのかな?」
凛とした、鈴を振るようなかすみがかった声が空気を震わせた。
声の主は土にまみれ、所々に破れやほつれのある緋袴と白衣に身を包んでいる。しかし些細なけがれなど介さない、風に揺れる柳のように秀麗な容姿が周囲の目に映る。いつもより伸びて、まとまりきっていない黒絹のような長い髪を流しながら、射法八節における発射直前の動作、"会"の状態で拓魔に矢じりを向けていた。
「……なんやあいつ、マリアベルに勝ちおったんか」
「ふふ、流石私の椿ね、素晴らしいタイミングでの登場だわ。ご褒美に後であの巨乳を揉んであげよっと」
手をわきわき。
「それはセクハラだ、天理ちゃん!」
少しだけ頬を赤く染めながら、"五月雨"より精製された矢を中仕掛から解き放つ。
乱気流を巻き起こし、空間を突き破るような矢も、黒い瘴気に触れた刹那に砕け散ってしまった。それゆえに拓魔にダメージはなかったが、深紅の瞳がルシフから椿に移る。
「どうやら拓真の中の何かが目覚めたようだな。……いや、性癖的なことではなくて。無論、ルシフに刃を向けるような性癖は許さないが、な!」
効かないことを承知しながら新たな矢を次々と拓魔に放つ。矢が一本として拓魔の体に触れられない様子を眺めながら、椿は天理に問う。
「天理ちゃん、拓真がああなったのはどのくらい前だ?」
「んー、10分くらい前ね」
「2ヶ月か……まったく、今日は成長期だな」
含み笑いをしながら椿はその場に留まり、一旦射撃を止めて、おもむろに弓を構え直す。
寿命を縮める一手。死に近づく感覚を受けながら、それでも椿は守るべきを守るために放つ。後悔の無い、自らの最善と確信しながら。
「"白桜・花咲"」
矢が消える。
次に、漆黒の瘴気が消える。
ルシフの傷は一つ残らず消え、拓真は氷室と戦った直後の満身創痍の状態となる。
拓真の肩に刺さる矢だけが場違いな存在となってそこにあり、拓真の瞳は深紅から黒に変化していた。
拓真が拓魔となる前にまで時間が巻き戻されたのだ。
「……あれ、なんか戻ったみたい、だな」
拓真は自分が何故元に戻ったのか分からないという風に周囲を見渡した。
「主さま!」
ルシフに呼ばれて、拓真は視線をそちらに移す。そして、自分がこれからどうすべきなのかを思い出した。
「あー……ルシフ、聞いてくれ」
どこかやり辛そうに頭を掻きながら拓真は言葉を紡ぐ。
「何をじゃ?」
「今はこうしてるけど、すぐにあの状態に戻るだろうから、これからルシフがすべきことを話しとく」
「儂が、すべきこと……?」
「俺がこうなるのは、ずっと前から何となく予想してたんだ。だからその対策として、サリエルに俺の願いを書いた"契約の書"を持たせてある」
「"契約の書"、じゃと……?」
"契約の書"という言葉に、ルシフはえもいわれぬ不安に襲われる。
"契約の書"を持ち出す、思い浮かぶ一つの理由。
拓真が何をしようとしているのか、想起される確定的な予測。
屋上の扉が大きな音を響かせながら開いた。
視線の先にいたのは、"契約の書"を両腕で抱えたサリエルだった。走って来たのか、光に透けるような白髪は乱れている。サリエルは拓真たちを見て、自らの持つ物を使わなければならない状況になっていることを理解した。"契約の書"を抱く腕に力を込もり、そして、目の端に涙が浮かんだ。
サリエルにもわかっているのだ。"契約の書"を使うということが、一体どのようなことなのかを。
「"契約の書"への直接記入による、一度きりの願いを使う。書いてある願いは、"俺を止めること"」
「な……」
ルシフは息を詰まらせた。しばらくは口の開け閉めだけを繰り返し、やっとのことで言葉を紡ぎ出す。
「主さま、分かっておらんなら教えてやるぞ……悪魔は、契約を遂行した後、」
「わかってる、魂を食うんだろ。ルシフはあの時魂なんていらないって言ったけど、"契約"だけは別のはずだ」
拓真はあっさりとルシフの言葉の続きを口にした。
そう、悪魔との契約の代償は、魂だ。言い換えるまでもなく、それは契約を終えた悪魔の主人の死を意味する。
契約を使うとは――ルシフが拓真を殺すということ。
「っ……! 分かっておるなら、阿呆なことを口にするのは止めるのじゃ!」
叱咤せずにはいられなかった。拓真の言葉が、ルシフには単なる諦めにしか聞こえなかったからだ。いや、それだけではない。自分に拓真を殺せと、拓真がそう言ったのが許せなかったからだ。
「でもそれ以外にあの俺を止める手だてはない。俺がルシフを喚び出した時、ルシフは何でも願いを叶えると言った。俺を倒せと願えば、今のルシフにできなくても、願った後のルシフにはできるんじゃないか?」
「……できるじゃろうな。しかしっ! そんなことはできぬ! 魂を、主さまのそれを食うなど!」
ルシフは銀の長髪を乱し、瞳を細かく震わせながら拓真に掴みかかる。
拓魔を止めるために拓真を殺す、それになんの意味があるというのか。本末転倒というよりは支離滅裂。矛盾に矛盾を孕んだ、理解と納得の及ばない選択。
「ルシフ」
拓真は泣きじゃくった子供をあやすように、ルシフの頭を抱き抱えて胸に押し付けた。
「信じてくれ、もうこの他に方法は無いんだ。……俺はルシフたちを守りたい。そのために、ちょっとだけ力を貸してくれ。最期まで、お前の主人でいさせてくれ、お願いだ」
拓真の声はひどく穏やかで、諦めや妥協で"契約の書"を使うわけではないことを言外に告げていた。
不本意ではあるが、これが今における最善の選択であると、ルシフは拓真の腕の中で確信できてしまった。
拓真は現状での最善を選ぼうとしている、ならば拓真の悪魔はどうするべきだろうか。
そんなこと、問うまでもない。
「……………………卑怯じゃ、主さまは」
むくれた声。
「ごめん」
「最低じゃ」
少し怒った声。
「悪い」
「しかし、儂の主さまじゃ」
これは、どんな声だったろう。
「……ありがとう」
拓真とルシフが離れて、互いの瞳の先が合致する。視界には目の前の一人しか映っていない。自分と正面にいる相手が世界の全てであるような錯覚さえする中で、拓真は悪魔に命令する。
「じゃあ言うぞ……"契約の書"の契約に従い、俺を止めろ、ルシフ」
ついにルシフは堪えきれなくなり、大粒の雫を紅く澄んだ瞳から幾つもこぼした。
ずっとそばにいようと誓った主人に、己が手を下さなければならない。事実が希望を食らいつくし、絶望だけが身体を押し潰す。
殺したくない。別れたくない。失いたくない――
稚拙で、子供のような願望が止めどなく溢れてくる。願望だけでは何も成就しないことを分かっていながらも、ひたすらに願い続けていたかった。
それでも、自分はやらなければならない。自分は拓真の、悪魔なのだから。
「かしこまり、ました……我が、ご主人様……っ」
ルシフの手に、サリエルが持っていたはずの"契約の書"が現れる。
サリエルは腕にあった重い感覚が無くなると、唇をきつく噛みしめ、腹いせに扉を蹴り飛ばした。
契約は成立した。つまり、拓真はもう確実に死ぬのだ。
サリエルはその場に座り込んで泣き崩れた。
「ぐ、おお……」
拓真の身体が痙攣した。黒い瘴気が再び吹き出し、拓真を包み込む。瞳の色が深紅へと変化してゆく。
拓真が再び魔王に呑まれているのだ。
しかし、もはやルシフにそんなことは関係なかった。
"契約の書"の666ページを開き、『天村拓真を止めろ』と書かれている行の末尾に手をかざす。
「契約執行につき制限を解除。"聖魔剣・光を導く者"を精製する」
瞬間、"魔剣・闇を導く者"に亀裂が走った。メッキが剥がれるように漆黒の刃が崩れ落ち、白銀に輝く、太陽を刀身にしたかのような剣が現出する。
ルシフは、七つの大罪の一つである"傲慢"を司るルシファーは、単なる悪魔ではない。天界から追放され、天使から悪魔になった、いわば堕天使である。故にルシフは、悪魔でありながら神の力を使うことができる。
光の力を持つルシフは、魔王すらも殺せる。
悪魔、ルシファーの意は――"光を導く者"
拓真は拓魔となり、左手に"村正・黒曜"を造り出していた。
ルシフは"聖魔剣・光を導く者"を振りかざし、濡れた瞳で拓魔を睨み付ける。
「これで終わりじゃ、魔王。我が主人を好き勝手にした代償は、高くつくと知れ!!」
銀白の刃が光輝きながら振り下ろされる。拓魔が"村正・黒曜"で"聖魔剣・光を導く者"を迎え撃つ。
だが、無意味だ。
今のルシフを止められる者など、この世の何処にも居はしない――!
"聖魔剣・光を導く者"の白刃が"村正・黒曜"の黒刃を粉砕し、瘴気ごと拓魔を斬り裂いた。鮮血が舞い、拓魔は低い絶叫を轟かせて倒れ伏す。
瘴気が消え、拓魔は完全に動かなくなる。
こうして、一つの魂を代償に魔王は止められた。
屋上から仰いだ青空には、取り残されたような一つの雲が浮かんでいた。
拓真が意識を取り戻し目を開けると、ひたすらに闇だけが続く上下左右の感覚が狂いそうな場所、いや空間にいた。皮膚からはまるで温度というものが感じられない。腕を振っても手に空気の感触がなく、動かしている実感が得られなかった。
長い時間を過ごせばあらゆる感覚が退化するだろう、ここはそんな場所だった。
「……今度こそ、死後の世界か?」
「そうではない。ここは契約を終えた悪魔が契約者の魂を食らう場所じゃ」
平淡な声に振り返ると、暗闇の中であるのに銀髪の悪魔がそこに見えた。表情には陰が差し、瞳には精彩がない。
「……そっか」
考えればわかることではないかと、拓真は軽く自嘲した。
「主さまの魂を食らわぬ限り、儂はここから出ることはできぬ。主さまも然りじゃ」
いまや希望という希望はすべて消え去り、拓真の魂を食わなければ終わらない状況になってしまったのだ。
ルシフは唇を噛み締め、拳を強く握り込む。契約を執行した時からこうなることは理解していた。それでも、その状況が目前に迫ると、感情を抑えることができなかった。それが無駄であることを頭でわかっていても、心が駄々をこね、口から拒絶の言葉を紡がせた。
「……嫌じゃ」
「ルシフ」
「嫌じゃ! 儂は絶対に食わぬからな! そんなことをするくらいなら永遠にここにいる!」
やはり、耐えられない。拓真を殺すくらいなら、二人で永久にこの世界に留まればいい。時間が止まった暗闇の中でも、拓真とならば幸せでいられる。そんな願望が今更になって溢れ出た。
そうだ、それでいい。
――拓真がいれば、他に何もいらない。
「……駄目なんだよ。それじゃ、最善の終わり方ができないんだ」
拓真は諭すようにルシフの頭を撫でる。しかし、ルシフはその手を払いのけ、射殺すような視線で拓真を睨み付けた。
「最善じゃと!? どこが、主さまを死なせることの何が最善と言える!? ……主さまを、愛しているのに!」
「……っ」
さすがに、拓真は言葉を詰まらせた。直接的にルシフが好意を口にしたことなど、これが初めてだった。
ルシフは今まで溜め込んだ感情を一気に吐き出した。
「好きじゃ。愛しておる。どこまでも、果てしなく愛しておる。主さまは今まで見た人間のどれにも属さないような変人じゃ。しかし、最強の悪魔である儂を"使う"のではなく"守って"くれたのは主さまが初めてじゃった。儂も、巫女や死神のように主さまに恋慕を抱いておる。なのに、主さまを……」
しまいには、涙をこぼしながら拓真に寄りかかった。
愛している。なのに、拓真の魂を食わなければならない。
ルシフは自分が悪魔であることを呪った。いや、悪魔であっても、拓真に喚び出されさえしなければ。もっと別の形で出会っていたならば。こんな現状には至っていなかったのに。
こうなってしまった現在を恨みたかった。しかしルシフは、拓真と過ごした、何よりも愉快だった現在までを否定したくなかった。
背反した二つの感情がせめぎあい、自らの気持ちにわけがわからなくなる。
ただ、これだけは揺るぎなく言える。
ルシフは拓真を愛している。
「……俺がルシフを嫌いになることは絶対にないよ」
優しげな声が降りかかり、頭には、温かい手の感触。それだけで十分なはずなのに、何故かルシフは満足できず不満を洩らした。
「……キスくらいしてみせぬか、甲斐性なしめ」
「はは、すまん」
拓真は頬をかきながら苦笑した。
ルシフはため息を一つ吐いて、
「……わかっておる。主さまは儂や、死神や、巫女や、理事長や、九尾や天狗、吸血鬼にドッペルゲンガー。これらのおるセカイが好きなのじゃろう?」
そう、拓真は拓真を取り囲むセカイが好きなのだ。拓真自身が作り上げた"他人との関係"という世界を拓真が何よりも愛していることを、ルシフは深く理解していた。
「ああ、俺はあのセカイの誰も欠けてほしくはないんだ」
だから、ルシフが守らなければならないのは拓真ではなく、拓真のセカイなのだ。それが主人の望みなのだから、悪魔はそれに応えなければならない。
しかし……
「だから主さまが欠けるというのか? それでは意味がないではないか! 主さまがいなくなっては……何も……」
ルシフのセカイに、拓真が欠ける。ルシフにとって、それは世界が無価値になることと同義でさえあった。最も大切な存在を失ったセカイは途端に空虚になる。
「主さま。本当に、本当に他の手段はないのか? 何か、どこか、思いもつかぬような術は、もう潰えてしもうたのか?」
「……裏技、か……」
ルシフのすがるようなか細い声に、拓真はもう一度思考を巡らせた。
まだ、誰も気がついていないような穴があるのではないか?
魂をルシフに差し出す。これはいまや逃れようのない絶対条件だ。ここをまるごとひっくり返すことはできない。
ならば、部分的にはなんとかならないか?
理にかなったようなものでなくてもいい。言い訳のような、揚げ足を取るような、道理を引っ込ませる無理はどこかにないか――?
「……あ」
あるではないか。
一般的でない、拓真だからこそできてしまうようなものだが、魂を食うという契約に対する裏技が。
「ルシフが俺を殺す必要はない」
「……………………うむ?」
聞き間違えた。初めはそう思った。
拓真の言葉にあまりにも救いがありすぎて、ルシフは自らの耳を疑った。
いま、拓真は、『拓真を殺す必要がない』と言ったのか? いや、しかし、そんなに現実は甘くはない。それでも、さっき聞こえた台詞は――
拓真は混乱するルシフを差し置いて、虚空に向けて話しかけた。
「――いるんだろ? 香香」
「やっと呼んでくれたわね。ずっと待ってたのよ?」
拓真の正面に、紫色の女性――魚間 香香が出現した。朗らかに笑って、長い髪を揺らしている。
「悪かったな、頭の回転が遅くて」
「諦めずに考えて、私を思い出したことは評価してあげるわよ」
そりゃどーも。と、拓真はおどけた調子で鼻をならした。
ルシフは突如として現れた紫髪の女にではなく、紫髪の女が突如として現れたことに戸惑っていた。
この空間には、契約者とルシフしか入ることができないはずなのだ。そこに突然出現した目の前の女が異端な存在であると悟るのに長い時間はかからなかった。
「何奴じゃ?」
「魚間 香香、つか魔王」
「っ……! 貴様がっ!」
ルシフの眼光が一気に鋭くなり、掌に炎を出して威嚇する。
目前のそれが全ての元凶である魔王。ルシフは敵意を隠すこともなく相対する。拓真はその腕を掴み、ルシフを制した。
「待て待て。"絶対魔王政"をくれた香香は悪くないぞ。喰われたのは俺のせいなんだから」
「……では、主さまは何ゆえこやつを呼んだのじゃ?」
「裏技を使うためだよ。契約を結んだ俺が死なないようにするための」
裏技。拓真は先程、ルシフが拓真を殺さなくていいと言った。ただ、わからない。そんなことが本当に可能なのだろうか? 魂をルシフが食う。これだけは覆せないのに。
「どうするかって? 簡単だ。契約を終えた悪魔は魂を食う、でもそれは俺のでなきゃいけないのか? ――例えば、俺の中にある香香の魂とか」
「っ!」
脳が百八十度ひっくり返ったかのような衝撃が走った。ルシフは出来るだけ冷静に拓真の質問を吟味する。
「……あるいは、いやしかし、人の中にある本人とは別の魂を食らうなど、聞いたことがない……」
だが、可能性はある。他のどんな手段よりもおそらく現実的だ。
そのとき、香香が口を開いた。
「本当にごめんなさい。私のわがままで、悪魔さんには辛い思いをさせちゃったわね。拓真も、身体を乗っ取ったりしてごめんね」
「具体的には言えないけど、香香が悪意をもって俺を支配したわけじゃないことはちゃんとわかってる。だから、どうして"絶対魔王政"を使ってまで俺の支配を後押ししたのか教えてくれないか?」
香香は少し逡巡して、隠しても仕方がないという風に切り出した。
「拓真を魔王を抱えた危険分子とさせておきたくなかったの。私という存在は、きっと拓真のあらゆる障害になるわ。だから、悪魔さんに私を食い殺してもらえるように計画して、その状況まで導いたのよ」
「……なるほど」
つまり、香香は自分の存在より拓真の幸せを優先したということ。
「勝手に身体を支配して、ごめんなさい」
香香は深々と頭を下げた。
「だったら、香香の謝るところはそこじゃないだろ」
「え……?」
「香香は俺を支配する時に『ごめん』って言ったよな? でも、それは間違いだったんだ。『信じて』って言ってくれればよかったんだ。それだけで俺は安心して身体を渡したよ。謝ってほしいのはその言い間違いについてだ」
拓真は、"絶対魔王政"という能力を与えて、氷室と戦わせてくれた香香に感謝していたし、信頼していた。だからこそ、香香に『ごめん』と言われて身体を取られたことに不満があった。
拓真なら香香を信じてくれると信じてほしかったのだ。
香香はしばらくキョトンとしていたが、最後には頬を弛めた。
「……そっか、そうね。まさか拓真に教えられるとは思わなかったわ。……これからも頑張りなさいよ、拓真」
「ああ」
「しかし、このような魔王は初めて見たのう」
ルシフが今までに見た他の魔王たちは、なんというか、もっとそれらしかった。
がたいも大きく、面は厳かで、纏う雰囲気も禍々しい。魔王とはおしなべてそんなものであったのだが、香香は明らかに違う。華奢な体に、落ち着いた物腰、それに、あどけなさの残る美貌。
こんな女が『私、魔王です』と言ってどれだけが信じるだろうか?
「つか香香は俺の母さんなんだけどな」
『!?』
拓真が何気なく発した言葉に、悪魔と魔王は全くの同時に振り向いた。
見た目、香香のほうがより大きな衝撃を受けているようだ。
「拓真あなた、気付いてたの?」
「"絶対魔王政"をもらった時に思い出したんだ。ずっと昔、親父はいつも母さんを『母さん』って言うのに、一回だけ間違えて『キョウカ』って言ったことがあったんだ。親父はあんまり母さんのことを話さなかったし、母さんの代わりに育ててくれてた天宮に聞くのも悪い気がしてたから、俺が母さんについて知ってることは『キョウカ』っていう名前の響きだけだった。同名の可能性も否めなかったけどな」
「主さまは、魔王の子じゃったのか。……ならば、姓の"魚間"とは……」
「逆さから読むと"まおう"になるだろ。適当にも程がある偽名だ」
ルシフは納得したように小さく声を上げた。
「ふふ、だって天村なんて名乗ったら一発でバレるじゃない。……それじゃあ、私はもう消えるわね」
「……母さん、ごめん」
「いいのよ、親より先に死ぬ親不孝な息子に生んだ覚えはないし、息子の幸せのために尽力するのが親の役目だもの。ただ、まあ……」
香香が、拓真に優しく抱きついた。
柔らかくて、いい匂いで、とても温かくて。その身に宿る安心感は、拓真に"母親"をしかと感じさせた。
「あなたを育ててあげられなかった分、ここで抱き締めるくらいの罪滅ぼしはさせてね?」
今一度、いつまでもこの温かさを忘れないように強く抱き締めた。
そして、離れるときには二人ともこれ以上ない笑顔で。
「じゃあね、拓真」
「おう、母さん」
香香は、再び闇の中へと消えていった。
「……あー、ちょっと泣きそう」
拓真は浮かべていた笑顔を消した。別に無理をしていたわけではないが、香香が消えたことによってもう一つの感情が涌き出てしまったのだ。
「主さま……」
「ま、泣いてる暇もないな。……ルシフ、俺の中にある魔王の魂を食え」
「……よいのか? 魔王とはいえ、主さまの母親は儂に食われれば二度と会えぬのじゃぞ?」
あっさりとした語調で命令をした拓真に、ルシフは確認した。ルシフも、人にとっての親がどれだけ大切なものかは理解していた。拓真を救うためとはいえ、それを犠牲にしていいのかと躊躇してしまう。
「何も失わずに成せることなんかない。母さんは俺たちのために犠牲になることを選んだんだ。だからさ、母さんが俺たちを助けてくれたことを、少しだけでも憶えといてやってくれないか。それなら母さんも報われるって、そう思う」
「……了解じゃ」
忘れない。無償で拓真を助けてくれた存在。そんな人を自分が食らうことを、絶対に忘れない。自責のためではない。尊敬や感謝を以て、彼女を心に刻み込む。ルシフは口には出さず誓った。
さて、それじゃあ、今からすることの覚悟を決めようか。
「では、魂をいただくとするかのう……目を、閉じるのじゃ」
「おう」
拓真はルシフに従って目を閉じた。元々暗闇にいたせいで、ルシフが見えなくなったこと以外にあまり変化はなかったが。
………………………………………………
なにも起こらない。しばらく待ってみたが、ルシフが何かしたこともなさそうだった。
長い儀式が必要であり、途中で動いたりしたら失敗するようなものかもしれないと思いさらに待ったが、やはり何が変わる風でもない。ついに拓真は痺れを切らし、まぶたを持ち上げようとした。
そのとき、ソレはやってきた。
唇に、柔らかくも弾力のある何かが当たった。
目を開きかけていた拓真はそれがなんなのか視ようとしたが、叶わなかった。目と鼻の先に、頬をどころか顔中を真っ赤にしてまぶたを固く閉じているルシフがいて、視界を埋め尽くしていたからだ。
――甘い味。
キスをされていることに気がつくまで、そう長い時間はいらなかった。
「……………………?………………!?」
なんのことはない。あれだけ時間がかかったのは、単にルシフが覚悟を決めるためのものだったのだ。
拓真は何も言えないまま、その甘美な感覚に身を任せた。身体が闇に融けゆくのを感じながら、拓真は眠るように瞳を閉じた。
そうして、暗闇の広がる空間には誰もいなくなった。
椿はサリエルから、"契約の書"を使うとは魂を失うことだと聞いた。
そして、もう契約は成立し、拓真の死は確定的になったことも。椿は横たわった拓真の傍らに座り込み、その手を拓真の頭に当てていた。
「……サリエル。私は、ルシフが帰ってきたとき、どんな顔をするべきなのかな?」
「……わからない」
「私はな、拓真がいない世界なんて生きたいとすら思わないよ」
「……でも、きっと拓真はあなたが生きることを望む」
「だろうな。だから、私は拓真がいない世界を惰性で生きるんだろう。死ぬまで、いつまでも空虚に」
「……」
「本当に、拓真はいなくなっちゃうんだな……!」
"白桜・花咲"を使うことも考えた。しかし、魂をルシフが食らうのはこの世ではない別の場所である。そのように、世界の枠を越えているものを一本の帯のような時間を巻き戻すことによって取り返せるのか。そうサリエルに問われ、椿はできないと気づかされてしまった。
椿が堪えきれずに涙を一つ落とした時、目の前に影が差した。
「……」
ルシフが、無言で立ち尽くしていた。
つまり、拓真は、魂をなくした。
死んだ。
「う、ああああ……」
椿は、涙が止まらなかった。
どんな顔をするべき?
どうせ泣き顔しか作れないに決まっていた。嗚咽を漏らし、しゃくりあげながら拓真にすがり付いた。
「……」
サリエルも、無言でその場に泣き崩れた。
椿は無駄とわかっていても、拓真に願わずにはいられなかった。いままであらゆる奇跡を自らの手によって引き寄せた拓真に。それが絶対的に不可能であろうとも。
「拓真ぁ……なんでもいいから、めちゃくちゃでもいいから……帰ってきてよぉ……拓真ぁ……そばに、いてよぉ……」
「いるよ。俺はずっと、お前らといっしょにいる」
それは、あの声。
誰よりも、なによりも安心させてくれる、拓真の声。
椿が涙でくしゃくしゃになった顔を上げると、拓真がいつもと変わらない、少し困ったようにもみえる優しげな笑みを浮かべていた。
「帰ってきたぜ。椿、サリエル」
「……拓真……拓真、なのか?」
「おう、こうして健在だ」
「どうして……魂と引き換えに契約をしたはずじゃ……」
「だから魂をルシフに差し出したさ。――俺のじゃなくて魔王のをな」
拓真はニヤリと笑って、椿を見つめた。
「あ…………ふふ、ふはははっ。あははははっ。……やっぱり、拓真は最高だ……!」
「当たり前だろ。俺はいつだって、お前らの……ため、に……」
突然言葉が途切れ、電池が切れたかのように拓真の身体から力が抜けた。
「え、拓真? 拓真っ!」
椿は慌てて拓真の身体を揺さぶった。
しかし拓真は全く起きない。
「気を失っただけじゃろう。それだけの傷を負って、限界なぞとうに越えておろうぞ」
「そうか、よかった……」
三人は拓真の顔を覗き込む。
「……すごく気持ち良さそうに寝てる」
「うん、拓真は本当に頑張ってくれた」
「やっと、一件落着かのう……」
今度こそ、この物語は終わりだ。
彼らは、彼らなりのハッピーエンドに辿り着いた。
これが、魔王の力をもった主人と最悪最凶の悪魔を中心にした物語の顛末。
悪魔の見上げた蒼天には雲一つなく、銀色の陽光が小さなセカイを照らしていた。