第57話 アルベルト・アインシュタインの証明
どうして自分は救えなかったんだろう。
あの妖艶なる彼女を。あの時、彼女を助けられたのは、力をもった自分だけだったのに。
どうして自分は救えなかったんだろう。
あの虚ろなる彼を。あの時、彼を止められるのは、彼の危うさに気付いていた自分だけだったのに。
どうして自分は救えなかったんだろう。
あの、自らが恋慕を寄せている、世界で一番大切な想い人を。あの時、想い人の傷を癒せるのは、一番近くにいた自分だけだったはずなのに。
自分が弱かったのがいけなかったのだ。どれだけ外面を強くしても、蓋を開ければ、とても弱く、脆い。いざというときに何も出来ない、臆病で脆弱な自分が、嫌いだった。
あの二人ならどうしたのだろう。あの、拓真に付き従う二人なら、彼女を、彼を、想い人を、救えたのだろうか?そんなことはわからない、過去の仮想なんて考えても仕方のないことだ。だが、あの二人は諦めることだけはしないのだろう。きっと、何もできずに後悔だけが残った自分とは、何か違う結果にたどり着けていただろう。あの二人は、自分よりもずっと強い。自分とは、違う。自分には強さがないから、弱いから、あの二人と同じことはできないのだ。
最近までは、そんな風に考えていた。
でも、それは間違いだと気付かされた。それこそ諦めだと気づいた。あの二人と自分は違う。しかし、それがどうしたというのだ。そんなもの、何もしない理由には断じてならない。
あの二人に負けたくない、そう思った。
想い人はまたやって来た彼と彼女を止めるために、過去と向き合い決意したのに、感じる必要もない劣等感に卑屈になっているような自分ではありたくなかった。強くなろうとしている想い人の横にいつまでもいられるように、自分も強くなる。
そして、いつかは――
荘厳さの中に穏やかな雰囲気を秘める神社の境内に、鮮やかに舞い落ちる紅葉に紛れ、無機質な銃弾と矢が空を穿ちながら飛び交う。
二人――椿とマリアベル――は、それぞれの独特な足捌きで俊敏に動き回り、回避と攻撃を繰り返していた。
「初めてお会いして、勝負をした時はなんとも呆気ない幕切れでしたけど、今度はちゃんと決着をつけたいですね」
拳銃片手に聖書を抱える修道女が、戦いの最中とは思えないにこやかな笑みで語りかける。
「そうだな、私も弾切れなんて実につまらない幕引きだと思っていた」
白と朱が対照的な服に身を包み弓を引く巫女も、心底楽しそうに、可笑しそうに、笑う。
何がきっかけだったのか、不意に、すれ違い、時にぶつかり合っていた無数の銃弾と矢の応酬が、示し合わせたようにぴたりと止んだ。巫女と修道女は立ち止まって、互いに相対する。
突然、マリアベルはガシャリと重々しい音を拳銃から発しながら弾層を取り出し、椿に見せつけるように、その白く長い指で摘んで掲げる。
「これはその筋の銃使いには割りとメジャーな物なんですが、"内燃弾層"といいまして、弾を魔力から精製するので、体力の続く限り無限に撃てるという代物です」
マリアベルは"インフィニティ・トリガー"を再び拳銃に装填した。次いで椿を見つめる。貴女は? とでも言いたげな瞳だった。
椿もそれに応える形で手に握る弓を差し出す。
「そうか、私の弓は"五月雨"といってな。矢をつがえる必要がなく、私が弓を引けば、具現化した矢が放たれる仕組みになっている。私が武器を弓矢にすると決めた折に、綾乃桜の家系が総力を挙げて造ったらしい」
「素晴らしいですね。両者共に弾切れの心配なし。勝負を決めるのは紛れもない互いの実力……ぞくぞくしません?」
「貞淑であるべき修道女がぞくぞくとか言うのはどうかと思うが、まったくもって同意だな」
次に攻撃したのは同時。放たれた道具たちは互いが互いを撃ち落とす。そこからはまた先程のような撃ち合い。避けては撃ち、射っては避ける。一発でも直撃すれば死に繋がりかねない武器が、空中で何十発も飛び交う。そんな生死すれすれの状況で笑っていられる巫女と修道女が、ここにはいた。
「貴女のその……弓矢、ですか。それは実際、戦いに向いていないように思われますが、どうして貴女はそのような物を自らの武器としたのですか?」
突然に、マリアベルが椿に話しかけた。今度は攻撃の手を緩めることはなかったが。そんなマリアベルの問いに、椿は少し困ったような苦笑いをしてから答えた。
「ん……こんなことを言いたくはないが、私は弓矢に関しては天才的だったんだよ」
小学生になった頃、椿は自分に最も合う武器を選ばされることになった。綾乃桜家は、家業を継ぐ子に対して六歳から退魔の訓練をさせることになっている。まだ世間の常識すらわかっていない遊びたい盛りの子供に、退魔の訓練を優先させるというのだから、酷な話だ。椿には、当然椿以外の人生を生きたことがないので、それを酷だと思うための比較材料がなかったのだが。
椿はまず汎用性の高い刀剣を選んだ。次に少し特殊な薙刀。槍、銃、暗器――古きから新しきまで、あらゆる武器を取っては試した。驚くことに、椿はそれらをすべてそつなく使いこなした。訓練すればどの武器だろうとも一流に至るだろうという素質が、椿にはあった。親族たちは椿の才能を喜び、あとは椿の好みで武器を決めればいいと言った。そして武器を選んでいた椿は、整然と並んでいる武器たちの端に、古びた弓矢を見つけた。
椿はそれを手に取り、じっと見つめた。何故だか、胸が高鳴るのを感じていた。わけもなく、ただその武器に魅入られてしまった。
薄い、しかし確かな衝動に駆られ、椿は矢を一本つがえて、十数メートルほど離れたところで落ち行く一枚の木の葉に狙いを定め、指を弦から離した。
正しい射ち方なんて知っているわけがない。しかし、本能的な何かが身体を勝手に突き動かしてくれた。椿は無駄のない、流麗なる動作で弓を引き、矢を放った。そして、まるで木の葉が矢に引き寄せられるように、椿の放った矢は、銀の残滓を引きながら、揺れ落ちる木の葉を捕らえた。椿はそれに感動を覚えたりはしなかった。なぜなら、矢を放った瞬間に、もう中ることを確信していたのだから。そんなことより、もっと弓矢と触れ合いたかった椿はそれで止まることなく、二本、三本と舞い落ちる木の葉を容易く射抜き続けた。
親族全員が騒然とした。初めて射った矢が、不規則に舞う小さな的に中ったのだ。それも、一度きりのまぐれなどではなく、何度も何度も中て続けた。こんなことは、今までの綾乃桜家の、どの退魔師にもなかったことだ。そもそも、本来なら後衛からのサポートが主な用途となる弓矢を武器にすること自体が極めて稀なのだ。椿が手にしていた古びた弓矢だって、おそらくただの手違いで持ってこられてしまった祭事用の道具だったのだろう。しかし、椿からはまさしく天賦の才が感じられた。他の武器が霞んで見えてしまうほどの、圧倒的な才能が。いや、才能なんて陳腐な言葉で片付くものではない。まるで弓矢のために椿が生まれたかのような、椿のために弓矢があったかのような、そこまで思わせるほどの絶対的な何かだった。
椿も未だ冷めやらぬ心で、思った。
私は生まれながらにして退魔師として生きなければならないことが決まっていたことを不幸に思ったことはない、これといった願いもない。ただ、ほんの少しの感謝なら、私の分身にこんなところで出会えたことに、と。
「圧倒的な実力があったからこそ、貴女は弓矢で戦うことを許されていたわけですか。しかし実力が拮抗してしまえば、貴女の弓はどうしても攻撃に時間がかからざるを得ない不便な武器ですよ」
「そうでもないさ、弓矢というのはとても応用が効くんだ」
そう言って、椿は急に矢先を上に向けた。そして矢を三本、上空に向けて放つ。そしてマリアベルに照準を合わせ、"五月雨"をたわませて、具現化した矢を解き放つ。その疾矢はマリアベルの右腹部に食らい付かんとするが、単発の攻撃などマリアベルはいとも簡単にかわす。しかし椿も中ると思っていたわけではない。先程、虚空に放った三本の矢がマリアベルの頭上に降り注ぐ。マリアベルは上を見て、少し落胆したような表情を見せた。
「時間差攻撃ですか。確かに拳銃ではこんなことはできませんが、自由落下に任せた速度なんてたかが知れてますよ。こんな攻撃なら簡単に……?」
避けられるはずだった。マリアベルが頭上の三本を凝視すると、違和感があった。どれもマリアベルに中るように飛んでいないのだ。このままマリアベルが動かなければ一本たりとも中らない、避ける必要すらない。
駆け巡るような不安に、マリアベルは視線を前に移す。椿は新たな矢を、二本同時に具現化させて、マリアベルに狙いを定めていた。マリアベルはそこまで見てようやく悟った。
あれは避けられない。
避ければ頭上の三本が中ってしまう。
(頭上の矢は私を縫い止めるためですか――!)
「どうだ? こんなこともできる弓矢というのもなかなかの武器だろう?――"影の式・無縫"」
得意気に笑っていた椿は"五月雨"を一杯に引き絞り、解き放つ。
頭上に三本、正面に二本。避けられないし、撃ち落とせもしない。マリアベルはどうしようもなかった、しかしそんなことは矢には関係なく、速度を緩めることなくマリアベルの目前にまで迫っていた。
半ば勝利を確信した椿は見た。マリアベルの表情に浮かんでいる、諦めと、失意を。しかし、それは勝ちを諦めている目ではなかった。なぜか、自分に失望したような、そんな目。
刹那、椿は背中を得体の知れない何かが這いずり回るような悪寒に襲われた。
そして、次の瞬間には、二本の矢が粉々に砕け散り、消え去っていた。
驚愕に揺れた意識を持ち直し、マリアベルに視線を向ける。修道服のフードが脱げ、滑らかに揺れる金髪が露になっていた。黒の修道服に垂れ下がっている金色が非常によく映えているが、椿が意識を奪われたのはそこではなかった。
マリアベルは左腕に抱えていた聖書を捨て去り――二丁目の拳銃を握っていた。
二丁拳銃。
それを以てして、マリアベルは本来対処しようがなかった二本の矢を撃墜、いや、粉砕したのだ。
俯いているせいで表情がよく見えないマリアベルがゆっくりと、重々しく口を開く。
「……久しぶりです、とても。私が聖書を捨て、こうして両手に拳銃を握るのは。私が戦闘中にもかかわらず聖書を抱えているのは、暴力の中でも修道女として、人としての慈悲忘れてはならないという自分への注意のためでした。私は聖書という秩序を捨て、拳銃という暴虐を握ります。これで、私を縛り付けていた慈悲は消え去り、私と同等の暴虐を持っている貴女を、たとえそれが一方的な暴力になろうとも、聖書を捨てた私は一片の容赦もなく倒します」
「随分と喋るんだな、聖書がないと、人格まで変わるのか?」
「いいえ、むしろこうして話していないと人格が変わりそうなんです。聖書を捨てると、今まで聖書を捨てて戦い、殺してしまった敵との嫌な思い出が蘇ってしまいますから」
「っ……!」
顔をあげたマリアベルの射殺すような冷たい瞳に、椿は息を詰まらせ、たじろいだ。
殺される。端的にそれだけを感じた。
マリアベルは拳銃を両方とも持ち上げて、呟くように告げた。
「いきますよ」
銃口を向けられた椿は、反撃のことも忘れて横に飛び退いた。
次の瞬間、椿の背後にあった鳥居が、粉々に砕け散って、消滅した。崩壊、ではなく、消滅。跡形もなく、残骸すらも微かにしか残っていない。一体、あの一瞬でどれだけの弾数を撃ち込めば鳥居が消し飛ぶというのか。 椿自身があんなものを喰らえば――
「安心してください、今回の私の役割はあくまで貴女の足止めですから。殺すつもりはありませんので、文字通り足でも撃ち抜くだけですよ」
自分で言った冗談が可笑しかったのか、マリアベルの口の端が少しつり上がった。その笑みは狂気すら含んでいて、普段の温厚なマリアベルからは想像もつかなかった。
「……今の攻撃は当たってたら死んでいたがな」
「あら、貴女なら絶対に避けると思っていたというのは、私の買い被りでしたかね? あんなのはただの威嚇射撃です。まあ、私が本気を出せばこの程度は造作ないという誇示でもありますが」
「ふん、私だってあれくらい出来るぞ」
「それでも、貴女の弓では私の二丁拳銃に追い付くことはできません」
言って、マリアベルはまた椿に二丁拳銃を向ける。弓を構えていた椿は構えを崩してまた横に飛び退いた。
後ろを振り返れば、椿のいた場所にはぽっかりとクレーターができていた。
二丁拳銃が厄介なのは弾数が二倍になるからではない。交互に撃つことによって、撃って、次に撃つまでの間が無くなるから反撃ができないことなのだ。
椿はおもわず舌打ちする。
「く、そ……!」
「お願いですから、死なないでくださいね。私は手加減をしないのではなくできませんので、万が一にですが、もしかしたら誤って殺してしまうかもしれませんから」
「調子に、乗るなっ……"雨の式"直立版!」
椿は爆撃のような銃弾の嵐をかわしながら、"五月雨"に矢を具現化させ、マリアベルが椿に照準を合わせる前に解き放つ。
一本が十本、十本が百本、百本が千本――
上からではなく、地面と平行に飛んでゆくそれらは、雨というよりはまるで濁流だった。連射に関しては椿の力を最大限に引き出した技が、マリアベルに襲いかかる。
しかし、マリアベルは一片の揺るぎも見せず、両手の拳銃をつき出した。そして、けたたましい発砲音の重奏を響かせ、マリアベルは数千の矢を一本たりとも残すことなく相殺した。
息を上げ、額に汗をにじませた椿は、一度だけ深呼吸をし、疲労と驚きに揺れる瞳を閉じ、"五月雨"を構えるのを止めた。
「防ぎきってしまいましたが、まさかこれで終わりですか?」
「……」
マリアベルの問いに、椿は目を閉じたまま答えない。
「終わりだというなら、もう降参してください。貴女では私には届きませんでした。もし降参するなら、足を撃ち抜いたりもしません。ただこの場に私としばらく留まっていただくだけです」
「……使いたくは、ないんだがな……」
「なにか言いましたか? よく聞こえなかったのですが」
「……一つ聞かせてくれ」
「何でしょう」
「あなたの目的は何なんだ? 私にはどうも、あなたが氷室に協力的なようには見えないんだ。何か氷室や天理ちゃんとは別の目的で動いてるんじゃないか?」
マリアベルの身体が微かに揺れた。しかしすぐに元の佇まいに戻り、少し考えるような素振りをして、拳銃を下ろした。
「ええ、まあ、正直なところはそうですね。私は氷室さんに協力したいがために行動を共にしているわけではありません、むしろ目的は逆です。私は氷室さんを止めるために、氷室さんに付き従っているのです」
「要領を得ないな。つまり、どういうことだ」
怪訝な顔で質問する椿に、マリアベルは微笑して、
「私と氷室さんが遭遇したのは、今から半年くらい前、イギリスのでのことでした。あの時、イギリスでは人を食らう人間、食人男と呼ばれていた、悪霊に取り憑かれた人間が巷を騒がせていました。私は教会からその男の始末を命じられたんですが、標的は移動型でありながら知恵もある厄介な悪霊だったので居場所が特定できず、イギリス中を駆け回ってたんです。詳しいことは省きますが、私は食人男に追い付いた時に、氷室さんを見つけてしまいました……自らを赤く染めながら、食人男を殺している氷室さんを」
マリアベルの表情に陰りが生まれた。その時のことを思い出したのだろう。
根拠はないが、氷室は多分、天理と同じ殺し方をしたのではないか、椿はそう直感した。
「もちろん、氷室さんはその男が悪霊に取り憑かれているとわかっていて殺したのでしょう。氷室さんは見境なく人を殺すような快楽殺人者ではありません。しかし氷室さんは、たとえそれが憑かれているにしても、何事でもないように食人男を、人を、殺していました。別に氷室さんは精神に問題があるというわけではありません、異様ではありますが根本的には正常です。そんな、年端もいかない正常な少年が、その瞳になんの感情の変化も見せないで、人を殺していたんです。氷室さんの異様さは、異様すぎるほどに異様なんですよ。私はその時思いました。ああ、この子はなんて……危ういんだろう、と」
「危うい、か……」
ぴったりだ。あまりにも、ぴったり。
氷室は、とても危ういのだ。何故だかはわからない。しかし、氷室から感じられるのは、不明瞭で、曖昧な危うさ。何をしなくても、そこにいるだけで感じられるような、絶対的な危うさ。
危うい、危うい、危うい。
まるで、いつかはわからない、しかしいつかは必ず爆発する核爆弾を見ているような。 そんな、危うさ。
「氷室さんの異様さは危うすぎるんです。氷室さんには力があります。それこそ、世界を歪めてしまうようなとてつもない力が。だから、私は、いつか世界を歪めようとした氷室さんを止めるために、氷室さんと共にいます。私には氷室さんを止められるという確信も自負もありません。しかし、私よりも弱い貴女にはなおさら氷室さんを止めることができないでしょう。天村拓真をどうするつもりなのか、氷室さんは教えてくださらなかったので知りません。しかし、来るべき時のために、今はまだ氷室さんを咎めることはできません。貴女たちには悪いですが、大義のもとに、世界のための犠牲になっていただきます」
マリアベルは椿に銃口を向けた。降伏しないなら、何時でも撃つ。睨みつけるような目がそう語っていた。
そんなマリアベルに、椿は――
「……決めた」
そう小さく呟くだけだった。
マリアベルは溜め息をついて、呆れたように椿を見る。
「何をですか? 先程から貴女の言動が噛み合っていない気がするのですが」
「あなたは間違ってるよ。あなたに世界なんか、救えない」
「それは、氷室さんを止められないという意味でしょうか。そうですね、私に氷室さんを止めるだけの力量があるのかは不確定です。それでも、私より弱い貴女には――」
「そういうことじゃない。あなたが氷室を止められるかどうかなんて関係ない」
椿は目を開けてマリアベルを見据えた。その双牟には、強固なる覚悟が宿っている。
「犠牲なんて言っている時点で、あなたは世界を救えない。人にはそれぞれの小さなセカイがあるんだ。他の誰とも異なる、小さな小さなセカイが、私にも、あなたにも、拓真にもな。一人の中にある小さなセカイすら救えないあなたが、世界なんて救えるわけがないんだ。誰かの、拓真の小さなセカイを犠牲にして大きな世界を救うなんて、そんなのは、欺瞞だ」
「子供のような理想論を言わないでください。何かを犠牲にしなければ、大きな何かを得ることはできないんですよ」
「じゃああなたは犠牲を出さないための努力をしたのか?」
「っ……それは、」
言葉を詰まらせたマリアベルに対し、椿は極めて冷静に言及を続ける。
「これまで氷室と一緒にいて、多分あなたは何もしていないだろう。いつか世界を救う、それまで何もせず犠牲を出し続けるつもりか? 精一杯頑張って、頑張って、自分の最善を選び続けて、それで犠牲が出るのは仕方がないかもしれない。きっとそれは必要な犠牲だったんだろう。でも、あなたのまるで諦めたような犠牲は、ただの逃げだ。心底では氷室が怖いから、向き合わずに逃避しているだけじゃないか」
「……自らの最善が、現実の最善とは限らないでしょう。そんなことも俯瞰できないようでは、無駄に潰れるだけです。感情に任せて、手当たり次第にすべてを救おうとしたって、何も救えないんですよ!」
マリアベルの口調が次第に感情的になっていく。まるで言われたくないことを言われて、言い訳をする子供のように。
「手当たり次第すべてを救おうとして、全部救ってやればいいだろう! どうせ一度だって、すべてを救おうとしたことなんてないくせに、そんな風に決めつけて諦めるんじゃない! 私たちは万能ではない、それでも、誰も救わない理由にはならないだろう!」
「うるさいん……ですよっ。私が氷室さんを怖がっている? そんなわけ、そんなことがあっていいわけ、ないじゃないですか! 私がそんな臆病な、臆病で、いいわけが……ないんですよ!」
「っ……そうか、そうだったんだな」
もはや感情をむき出しにして叫ぶように言葉を発するマリアベルを見て、椿は悟った。 同じだ、同じだったんだ。
マリアベルも、無力な自分が嫌いで、その無力を嘆いて、強くなることを心の底で諦めている。
少し前の、椿と同じだった。椿は今、マリアベルと、昔の自分と、相対していた。
「あなたは今、氷室のためでも、自分のためでも、ましてや世界のためでもなく、ただやみくもに動いているだけだ。それは結局誰のためにもなっていない。そんな偽りの満足のために戦う人間に、私は負けたりしないよ」
「そうですか、それではどうにかしてもらいましょうか、この圧倒的な実力差を!」
マリアベルの拳銃は椿に照準を合わせ直した。銃口の向いている方向からして、マリアベルはすでに椿を足止めするだけにはとどまる気はないようだった。
しかし、椿はなおも落ち着いている。それどころか、口元には微かに笑みすら浮かんでいた。
「だから、さっきから言っているだろう。決めたんだ、私は使うぞ」
「だから、一体何を使うというんですか? その弓で出来ることなんて、矢を放つことくらいですよ? そしてその唯一の攻撃は私には届きません!」
「そうさ、だから、私は矢を放つだけだ。ただし、今までとは比較にならないほどに強力なやつをな」
「……わかりました、だったら、私は貴女の矢を正面から受けとめましょう。貴女の矢が私に届けば貴女の勝ち、できなければ私の勝ちです!」
「受け止めることなんて出来ないよ、これはそんな次元の技じゃないんだ。まあ、あなたの欺瞞を打ち砕くには、そういう勝負はいいのかもしれないがな」
「たとえ欺瞞でも! それは私が最善を選んだ末に出した自らの正義です! 私は私のやり方で氷室さんを止めます、貴女に邪魔はさせません!」
椿の顔から笑みが消えた。そして、ゆったりとした動きで"五月雨"を構えた。
「私にも、大切な人がいる。しかしな、私は彼を救おうだなんて思わない。私は彼と一緒に頑張るだけだよ。そして、世界はあなたに救ってもらえるほど弱くない」
矢が具現化する。極限まで弦を引き、"五月雨"をたわませ、
「いくぞ――"白桜・花咲"」
音なんて、なかった。矢を放った折に聞こえる、弦の奏でる独特な乾いた音が。
衝撃なんて、なかった。矢が飛んでゆく時に発生するはずの風の衝撃が。
矢すらも、なかった。椿は矢を放ったはずなのに、その矢が、どこにも見当たらない。
何も、なかった。椿が弓を引いたということ以外に変化したことなど、なかった。
マリアベルは呆然として周りを見渡す。そして、笑みをこぼす。
「……ふふ、何も起こらないじゃないですか」
「いいや、あなたの拳銃、片方壊れてるじゃないか」
「っ……!?」
マリアベルは拳銃に目を向けた。左手の拳銃を、見事に矢が貫いていた。次第にひびが大きくなっていき、ついには銃筒が崩れ落ちた。
「そんな、何を……!」
動揺を隠せないマリアベルに対して、泰然とした椿は、もう構えている必要はないと言わんばかりに"五月雨"を下ろした。
「私の矢は、もはや速いなどというレベルじゃない。なんせ光の速さを越えているんだからな」
「光の速さを、越えた? それは、つまり――」
「光速を越えれば時間を遡ることができる。アインシュタインの相対性理論によると、そうだと聞いていたが、私がそれを真実だと知ったのは一年前のあの日から一ヶ月後だったよ。あの日まで時間が巻き戻ればいいなんていう馬鹿げた願いが矢に表れてしまったのかもしれないな……さあ、どうする? もう拳銃は使えないぞ」
「何を言って……まだ片方が残っているじゃないですか!」
マリアベルは右手の拳銃を椿に突きつける。しかし椿は動こうともしない。
「残念だがそれは使えないよ。弾倉が入っていないからな」
マリアベルは引き金を二、三回引いた。しかし手応えはなく、カチリカチリと味気ない音が虚しく響くだけだった。歯軋りをして椿を睨む。
「どうしてっ……!」
「あなたは一度、"インフィニティ・トリガー"を抜いて私に見せただろう? 私の矢はその時の拳銃まで時間を巻き戻したんだ。いいか? 私の矢が貫くのは、あなたが持っている銃の現在ではなく、過去だ。時間を遡る私の矢は、言い換えれば周囲の時間を巻き戻すことができる矢ということなんだよ」
「矢が中っていないところでも、時間を戻せるんですか」
「具体的な範囲は、私にもよくわかっていないんだけどな」
「そんな、神にも等しい能力を、自由に使えるのなら、どうして貴女は今まで、」
「自由じゃないからだよ。私は神じゃないからな。使うにはそれなりの代償がいるんだ」
「代償……」
椿は自嘲するように笑った。 そして唐突に唐突な質問をする。
「あなたは、私が今何歳だかわかるか?」
「年齢……? 高校一年生だから、十五歳か、十六歳ではないのですか?」
「そうだ、今の私は十六歳だ。まあ、私は四月生まれだから、どちらかといえばもう十七歳に近いんだけどな」
「それが、どうしたっていうんですか。そんなこと、なんの関係も――」
「私の肉体年齢は、理論上で十九歳と三ヶ月だ」
「十、九……歳?」
マリアベルは自らの耳を疑った。椿の年齢は十六歳のはずだが、肉体年齢は、十九歳。つまり、それが指し示す意味は――
「ああ、でもさっきあなたに使ったから十九歳と五ヶ月だったな」
「十九歳と、五ヶ月……つまりそれが、代償というわけですか」
「そうだ、周囲の時間を巻き戻す代わりに、私の時間が進む。十分程度を巻き戻して、二ヶ月以上進むんだから、なんとも等価交換とはいかないようだがな」
「……貴女は私を倒すために二ヶ月も使ってしまったわけですか」
「まあな。若いうちの二ヶ月だ、そこまで問題でもないだろう」
「そんなわけないでしょう! 本来なら二ヶ月かけて進むはずの成長を一瞬で終えてしまうんですよ? いえ、貴女はいままでに二年程度身体の時間が進んでいましたか。それだけの急激な成長をした身体が、今後も無事に成長して、生きていける保障なんてないんですよ!?」
「そうだな、でも私には、それだけの覚悟がある。命が惜しくないわけじゃない、ただ、守れなければ、命があったって仕方のないものだってある」
「命よりも、守りたいものなんですか?」
「ああ、命よりも、だ。馬鹿げていると思うか? 私も以前はそんなものはないと思っていたんだがな、実際あるんだよ。命よりも大切なものは。それは人それぞれ違うものだが、見つければわかるんだ、これは命をかけても守りたいってな」
マリアベルは項垂れたように肩を落とし、うつむいた。
「……天理さんにも言われました。私には氷室さんを止められないし、それは私の役目ではないって」
「そうだな、天理ちゃんの言う通り、氷室を止めるのはあなたでもないし、だからといって私でもない、それは拓真の役目だ。ただ私はそれを見届けなきゃいけないから、彼についていく。それだけだ」
マリアベルはしばらく黙り込んで、それから頬を緩めた。泣いてしまいそうなぎこちない笑顔を浮かべ、椿と相対する。
「わかり、ました。私の負けです。貴女はこの先に行ってください」
「ああ、ありがとう」
「……天村拓真は、まだ氷室さんには及ばないように思います。だから貴女が、手助けしてあげてください。氷室さんを止めてあげてください」
マリアベルはゆっくりと頭を下げた、その表情は誰にも見えない。
「わかっている。任せろ」
途端に、神社の景色がホログラムのように崩れ始めた。
椿は目を閉じる。次に目を開けた時には、一年十組の教室の景色が視界に広がっていた。
理事長室。
天理が退室し、そこには天宮と早蕨だけが残っている。椅子に深く腰かけ、眠っているようかに目を閉じて動かない天宮と、扉の前に立ち尽くし、こちらもまた微動だにしない早蕨は、室内に独特の静寂を作り出していた。
「ねえ、早蕨君」
不意に、口を開いたのは天宮だった。
「用件」
「ん……ああ、用件を言えってことかな?」
「正解」
「そ、わかりづらい話し方をするよね、君は」
「用件」
「そう焦らないでよ。で、君はいつまでそうしているつもりなの?」
「無限」
天宮は一層深く腰かけて、項垂れるように上を見上げた。
「いつまでも、かあ……でもさ、白い人形はもう意味がないってわかっただろうし、そんな見張ってたってどうせボクはこの部屋から出ないよ? 君には他にやることがあるんじゃない?」
「不在」
「あるでしょ、やること」
「例示」
「そうだね……たとえば、柊ちゃんのところに行くとか」
「不要」
「そんなことはないはずなんだけどなー……てゆーかさー、そのしゃべり方止めたら? めんどくさいだけじゃん――氷室くん」
その瞬間、早蕨の黒衣が水に溶けゆくインクのように消え去り、長髪の、深い闇のような瞳を持った少年が顕になった。
そしてその少年は、紛れもなく、氷室だった。
氷室は、生きていた。
氷室は、死んでいなかった。
生きていたのが、氷室だった。
死んでいなかったのが、氷室だった。
少々驚いたような顔をして、氷室は天宮を見ていた。
「っとと、やるなあ天宮ちゃん……いつからや?」
「いつからでもないよ、勘だしね。かまをかけただけ」
「絶対嘘や」
「うん、嘘だけど。本当のところはね、早蕨君がここにいたことがヒントになっちゃったかな」
「早蕨、てか俺やな。なんでそれがヒントになったんや?」
「ボク調べたんだけどさあ、早蕨君なんてこの世界のどこにもいなかったんだよね。全世界の過去を覗いても、どこにも見つけられなかった。まるで氷室くんみたいに。で、もしかしたら早蕨君って氷室くんなのかも、って」
「思っちゃったわけか」
「うん、思っちゃった」
「はっ、敵わんなあ」
氷室は髪をかき揚げて笑う。
「それで、これからどうするの?」
「拓真のところに行くわ、バレたしなあ。まあ、バレんくてももうすぐバラして行くつもりやってんけど」
「そっか、じゃあいってらっしゃい」
「……止めへんの?」
「止めてほしいの?」
「いや、全然」
「てゆーかさー、止められるわけないじゃん。ボクは何でも識ってるだけで、何もできないんだから」
「俺はそんな非力な天宮ちゃんが大好きやで」
「ボクが戦闘能力までもった最強存在だったら嫌いだったって意味?」
「大好きやから教えてや、結局天宮ちゃんて何なん?」
「んー? クイズ形式でいこうか。一、心を読める妖怪"サトリ" 二、世界中のどこでも、過去でも現在でも未来でも覗くことができる妖怪"百目" どっちだと思う?」
「えー……天宮ちゃんのことやから、どっちもやない?」
「大正解。"サトリ"と"百目"の混血で生まれてきたのがこの天宮報ちゃんなのでした」
天宮がそう言い終えたときには、氷室は理事長室から出ていた。ドアが開いた形跡はなかった。また、氷室は初めからそこにいなかったかのように消えていた。
「ふわ、眠くなってきた。今日はちょっと無理しすぎたかなー。ま、ボクはもう寝ても大丈夫でしょ。あとは子供たちの仕事、お節介な大人は退散ってねー……」
目が虚ろになっていた天宮は沈むようにして、深い眠りについた。
なんの心配もしていない、安心しきった子供のような顔で。