第45話 嘘と偽物
「うああああぁぁぁ! ああ……ぁ……」
拓真は絶叫と同時に目を覚ました。
「はあっ、はあっ、はっ……氷室、は?」
周りを見ると、見慣れた自室の光景が広がっていた。
そして自分がベッドの上にいることに気づく。
掛けられていたシーツを左に退ける。
制服のまま寝ていたようで、制服が皺だらけになっている。
髪が少し濡れているのは額にも流れている汗が原因だろう。
そしてベッドの右横にいたのは、
「起きたか、主さま」
「……まる一日気絶していた」
ルシフとサリエルは拓真の気がついたことに表情を緩めた。
「気絶……そうか、殴られて……っ!」
まるで走馬灯のような記憶の濁流が拓真の頭を一杯にした。
あの"最悪"が突然姿を現し、
無我夢中で殴りかかろうとして、
修道女と少年に防がれ、
"電光石火"を使って、
そして、柊 天理が現れた。
そこが引き金となり、記憶がさらに逆行する。
中学校の屋上。
扉を開けたとき視界に広がった朱と生臭い鉄の臭い。
返り血を浴びた氷室の歪んだ笑み。
血塗れで倒れ、尚も血の海を拡げていた天理。
「う、うおえええぇぇぇ……」
そこまで記憶が頭に巡った時、拓真は嘔吐した。
酸い味と臭いが味覚と嗅覚を刺激する。
「主さまっ!」
「……水と雑巾を持ってくる」
サリエルは走って部屋を出ていった。
「大丈夫か? もしまだ吐きそうなら全部吐いてしまった方がよいぞ?」
ルシフは拓真の背中を擦りながら話しかける。
「えほっ、けほっ……大丈夫、だ。体調が悪いわけじゃない……トラウマみたいなもんだからな」
そう言った拓真の息は荒く、発汗も今まで以上に酷かった。
まさに起きながらにして悪夢を見てしまったかのような状態だった。
「……持ってきた」
そこにサリエルがグラスに水、雑巾とバケツを持って部屋に入ってきた。
「すまぬな死神。儂も助力しよう」
ルシフはサリエルから雑巾を受け取った。
二人はてきぱきと吐瀉物を拭き取ってゆく。
「……口の中を洗うといい」
ひとしきり拭き取り終え、後はルシフの前に少し残っているだけになった時、サリエルが拓真にグラスに入った水を差し出した。
「ん、ああ、ありがとな」
「……別に、褒める必要はない」
拓真が礼を言ったのに対し、サリエルの答えは何故か「褒める必要はない」だった。
サリエルはふいっと横を向いた。
照れているように見えなくもない……
「? ああ、なるほど。分かりにくいなぁ」
拓真は呆れ笑いをしながら、サリエルの頭にぽふっと手を置いて、白髪が乱れないようにゆっくり撫でた。
サリエルの表情に幸せが微妙に浮かぶ。
反比例してそれを見ていたルシフの表情に不平が浮かんだのはルシフのみぞ知っていた。
吐瀉物を拭き終えたルシフがわざとらしく咳をして、切り出す。
「主さま、これからどうする?」
「どうするって?」
「あやつと、ヒムロとやらとどうやって戦うのじゃ?」
「っ!……」
拓真は一瞬目を見開き、すっと目を閉じた。数秒の沈黙。
たまった唾を呑み込んで、拓真は、口を、開く。
「無理、だ」
「え?」
拓真の震えた声に、ルシフは聞き返すことしか出来なかった。
いつもならルシフたちを引っ張ってゆく拓真が、何をしようともせずに、「無理」とだけ言ったのだ。
「無理だ。むしろ、嫌だ。あいつらとだけは、氷室と天理だけは、戦いたくない、向き合いたくない……逃げたい」
拓真の瞳は輝きを失っていた。
「な、腑抜けたことを言うな主さま! 巫女も理事長も主さまを待っておるんじゃぞ!? ヒムロの狙いは主さまの大切なものを全て壊すことじゃと理事長が申しておった。当事者である主さまがやらないで誰がやるというのじゃ!」
「でも、俺には無理だ。氷室に対しては激昂して、天理に対しては体がすくんだ。客観的に、俺にできることなんて、ない」
「それはっ、それでもっ……」
続く言葉が出ない。
「もともと、俺は四人の中で一番弱いんだ。期待しすぎなんだよ。こんな俺にできることなんて最初から限られてるし、何をしてもお前らほどじゃない。だったら、何をしても無駄だろ」
拓真が自嘲的に笑った。
"最悪"との再開によって、いままで心の最奥に隠してきた本心が引きずり出されたかのように、拓真はひたすら消極的となる。
「それだけは、それだけは違うぞ主さま! 確かに今の主さまは非力かもしれぬ。しかし、儂らを率いて数多を救ってきたではないか! 主さまの存在は、儂らを確実に強くしていた。自身の強さだけが強さではなかろう、周りを強くする強さも主さまの強さであろうが!」
「そうだな、ルシフ。お前の言っていることは多分正しいよ。けどな、"周りを強くする強さ"なんて、自身の弱さを誤魔化してるだけじゃねえのか? 自分の弱さが分かっているから、強い周りに守ってもらおうとしてるのかもしれねえぞ? 結局、周りを強くする強さなんて、弱い人間が周りを利用するために備えた消極的なスキルなんじゃねえか?」
「っ! それは……」
ルシフは言い返せなかった。
話の内容への反論ができなかったのもそうだが、拓真がこんなことを言ったことが、現実として受け入れ難かった。
「なあ、ルシフ、サリエル」
拓真は、言う。
"最悪"に侵されてしまったかのように、ルシフとサリエルに対して最悪の言葉を。
「お前らさ、もう、俺のそばに無理にいる必要はねーぞ?」
「主……さ、ま」
「…………」
ルシフは茫然とし、今まで黙っていたサリエルも流石に動揺が隠せなかった。
「……阿呆な言動はよせ、主さま。死神はともかく、儂は契約によって主さまのそばにおるんじゃ。契約が切れるまでは、離れられるわけがなかろう」
「それは、嘘だろ」
「何じゃと?」
拓真の突然の断定。
「離れられないっての、嘘だろ。俺とルシフはまだ契約をしていないんだからな」
「何を言って、おるんじゃ。儂は主さまのメイドになるという契約を、したであろう」
ルシフの言葉には動揺が滲んでいた。
いままで隠してきた何かがバレることを予感して、困憊しているかのような様子だった。
「してなかった、いや、できてなかったんだよ、そんな契約は。ルシフ、お前は知ってるはずだろ。俺がルシフを喚び出した時に使った"契約の書" あれがなければ、契約はできないってな」
「……言うな、主さま」
拓真の口から紡がれるであろう言葉を感覚的に悟ったルシフが拓真を制止する。
そう、拓真はルシフと出会ったあの日から、"契約の書"を調べていたのだ。
あの666ページ。
ルシフを喚び出した前と後で、紙面が変わっていた。
喚び出す前は召喚の呪文が、
喚び出した後には契約の調印欄が書かれていた。
そして、
「"契約の書"に契約事項と代償を書くことによって、真に契約が結ばれる。なら……」
「言うな言うな言うな言うなぁぁぁ!」
拓真は、言った。残酷で、空虚で、厳格で、欺瞞的で、絶望的で、消極的で、破壊的で、"最悪"な言葉を。
「主人と悪魔の主従関係は、偽物だったんだよ」