「何ために生きているのか」の問いに
「何のために生きているのか」という言葉を時々受けます。「自分で考えろ」とか「中二病」的な考えとして話を切る人もいます。けれど、この言葉は本当に深い意味を持つと思うのです。
先ず大切なのはその言葉を発する元となった『思い』を確認する必要があります。
「何のために生きるのか」。子供ならば思春期の自我の発達の中で悩んでいるのか、大きな喪失体験があったのか、いじめは無いのか、生命に関する疑問か、どちらにしても何か深く重い『何か』を含んでいる場合がありますのでよくよく見てあげることが必要だと考えます。柔らかい空気で包みつつ、ゆっくりゆっくり話を聴く。内容によっては様々名機関の早期介入が必要な場合もあるので柔らかな空気の底で慎重さが必要だと思います。
大人の場合は更に複雑で、大きな喪失体験や健康問題や家族等々解決方法の助言ではなく、ひたすら聴いて相手の心が傷つかないように細心の注意を払います。ただ長年生きたうえでのお互いの考えを語りたいという場合もあるので本当に注意深く、確認しつつ相手の思いの「核」を探さなければならないなと常々考えています。
「何故生きているのか」この言葉は重く少し及び腰になるのは仕方ないと思います。けれど、この言葉は確実に何かしら意味を持ち、悩む事は決して「無意味」ではない事は確信しています。答えは出なかったとしても長く悩んだからこそ「分からない」という答えがでたのです。でも、もしこの悩みが深すぎて身体や日々の暮らしに影響がでたのであれば医療、又は相談窓口はたくさんあります。
1人で悩む程に苦しくなるのがこの命題。悩んだら聞いてくれる存在がいることは忘れないで下さい。また相談を受けて悩んだら医療や相談窓口やがあることを思い出して下さい。支える人々がいます。