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終章

1

夜明け前の空は、深い藍に沈んでいた。

風は冷たく、木の葉の擦れる音だけが、町の静けさをやさしく揺らしていた。

尚斗は、ゆっくりと祠へ向かう土の道を歩いていた。

胸の奥に、小さな火だまりのような感覚がずっと灯ったままだった。

――あの場所に、灯火がいるとは限らない。

それでも、足は止まらなかった。

もし、もういなかったとしても。

最後に名前だけでも伝えられたら、それでいい。

いや、ほんとは、それじゃ足りんって、わかってるけど。

遠くに、祠の輪郭が浮かんだ。

夜の底に沈んでいるようで、その奥だけが少しだけ、白んでいた。

そして――いた。

そこに、灯火がいた。

祠の前に膝をついて、手を重ねて、祈るようにうつむいていた。

痩せた背中が小さく揺れている。

灯火だ。確かに、そこにいる。

尚斗の胸がきしんだ。

ずっと探してた影が、いま目の前にある。

でも、そこにはもう、自分のことなんか残ってへんのかもしれへん。


それでも、目の奥に滲んだ名前があった。

――灯火。

尚斗は、唇を噛みしめた。

この名を、一度も、渡せなかった。

それが、どれだけ取り返しのつかないことだったのか、ようやく分かった。

足音に気づいたのか、灯火がゆっくりと顔を上げた。

その瞳は穏やかで、けれど、誰を見ているのか分かっていない。

「……来てくれたんだね」

声は、あたたかかった。

でも、そのあたたかさが、今は痛かった。

その目に、“尚斗”の名は宿っていなかった。

尚斗は、一歩だけ、静かに距離を詰めた。

心臓が、喉の奥で何度も跳ねる。

「……俺の名前、まだ教えてへんかったな」

灯火の目が、かすかに揺れた。

その揺れに、尚斗は希望と後悔をいっしょに呑み込んだ。

いまなら、間に合うかもしれへん。

でも、それが最後になる。

夜の端っこが、静かに白みはじめていた。


2

「……俺の名前は――尚斗なおとや」

尚斗の声が、夜明け前の空気を揺らした。

乾いた風がすり抜けるなかで、確かにその名は灯火のもとへ届いた。

灯火の目が、はっと見開かれた。

唇がかすかに震え、何かを押し返すように声が漏れる。

「……なお、と……?」

その音を口にした瞬間、

まるで胸の奥で何かがはじけたみたいに、息が詰まった。

斜面の草の匂い。

夜の風。

誰かと肩を並べた日。

笑い声。

泣き声。

祠の火の熱。

その全部が、一気に胸に押し寄せてきた。

「……わたし……」

灯火の身体が、小さく震えながら崩れ落ちる。

「わたし……わたし……ずっと……!

 ずっと、忘れてた……っ、尚斗くんのこと……!!」

両手で顔を覆って、声にならない叫びが漏れる。

その声には、悔しさでも哀しさでもない、もっとずっと深い痛みが混ざっていた。

「怖かった……

 記憶がなくなるのが……“わたし”が、どっかにいってしまうのが……

 でも、それを言ったら、君に会えなくなる気がして……!

 だから、何も言えなかった……言いたかったのに……

 本当は、ずっと呼びたかったのに……!

 でも、呼べなかったの……!」

尚斗は、そばにしゃがみ込む。

手が伸びかけて、途中で止まる。

触れてしまったら、壊れてしまう気がして。

けれど、灯火の方から、震える身体をすがるように寄せてきた。

「なんで……なんで名前、言ってくれなかったの……?

 わたし、どんどん忘れてくのに……

 “君”って、何度も呼んだのに……

 尚斗くんが名乗ってくれてたら……わたし、壊れずにすんだかもしれないのに……!」

尚斗は何も言えなかった。

その細い肩を、静かに抱きしめた。

灯火の指先が、彼の制服の背にぎゅっとしがみつく。

小さな身体が、泣きながら揺れていた。

「……でも、今やっと、思い出せた……

 君がずっとそばにいてくれたこと……

 名乗ってくれなかったことも、わたしが忘れたことも、

 ……もう、ぜんぶ、どうでもええんよ……

 ただ、君がここにおってくれて、

 わたしが、“わたし”に戻れたことが……

 ほんまに、嬉しい……」

尚斗は、涙をこらえながら、言った。

「もうええ……もう、無理せんでええよ……

 思い出してくれて、ありがとう……」

灯火の涙が、尚斗の胸にあたたかくしみ込んでいく。

それは、ただの記憶じゃなかった。

ふたりが、

初めて、“本音”でつながった瞬間だった。


3

涙は、もう止まっていた。

けれど、灯火の頬には、泣いたあとの名残がそのまま残っていた。

尚斗の胸に顔を預けたまま、灯火は小さく息を吐いた。

「……不思議だね。思い出したはずなのに、体の芯がすかすかで……」

「なんか……“わたし”が、ここから抜けていくみたいやねん」

その言葉に、尚斗の腕が思わず強くなった。

「そんなの、あかん。お前、まだここにおるやろ……

 そんなん、嫌や……」

灯火はそっと身体を離し、尚斗の顔を見た。

でも、その瞳は、どこか遠くを見ていた。

「……ねえ、尚斗くん。

 わたし、たぶん……もう長くはこのままでおられへんと思う」

「終わらせへんって言うたやろ。

 お前がまだここにいるなら、それでええやん……!

 火なんてもう……灯さんでええやろ……!」

「……わたしも、ほんとは、ここにいたいよ。

 まだ、隣にいたい。

 もうちょっとだけ、尚斗くんと一緒にいたかった」

言いながら、灯火の声が震えた。

「でもね、わかるの。

 わたし、もう“火”の向こう側に立ってる。

 ここにおるようで、もう、あんまり残ってない」

尚斗が、唇を強く噛んで俯いた。

「……それでもええやん……!

 なんもせんでええ。もう、灯さんでええ。

 ここにおってくれるだけで、それだけで……」

「尚斗」

灯火が静かに呼んだ。

「わたし、最後に灯したい火があるの。

 誰かのためじゃない。

 わたしが……“君”のために、灯したいの」

「やめろ……そんなのいらん……

 お前が灯すたびに、何を失ってきたかわかってんのか……!

 これ以上……何もいらんって言ってるのに……!」

「でも、わたしが君にあげられるもの、

 それしか残ってないの」

尚斗は、言葉を失ったまま立ち尽くす。

灯火は、風の中で一歩前へ出た。

指先を、空へゆっくりとかざす。

「君の痛みは、わたしが持っていく。

 ほんとは……全部抱きしめて、一緒にここにいたかったけど……

 それができないなら、せめて、君を少しでも軽くしたい」

「……やめてくれ、灯火……頼むから……!」

「ありがとう、尚斗。

 君が名前をくれたから、わたし、最後まで“わたし”でいれた」

指先に、小さな火がふわりと宿る。

その光は、あたたかくて、痛くて、

触れたら泣き出してしまいそうな色をしていた。

「忘れないで。

 わたしが、君を照らそうとしてたこと。

 君のそばにいたこと、わたしは、忘れてないから」

尚斗が、何かを叫ぼうとしたその瞬間、

光が一気に彼女を包み込んだ。

叫びは声にならなかった。

灯火は、

その小さな火とともに、

やさしく、消えた。


4 

光が消えたあと、そこには――

ほんとうに、なにも残っていなかった。

祠の前に、尚斗はひとり立ち尽くしていた。

朝の光が、静かに肩に降りてきた。

風が木々を揺らし、遠くで誰かの生活の音がかすかに聞こえた。

すべてが、いつもどおりの朝だった。

けれど、胸の奥にぽっかりと空いた場所は、埋まらなかった。

灯火がいた空間が、

たしかにそこにあったことを、体のどこかが覚えていた。

手のひらをそっと見つめる。

指先に、まだ熱が残っていた。

何かを握りしめていたような、やわらかくて、ちいさな感触。

それが、灯火の、最後の火だった。

尚斗は、その温もりを胸に押し当てる。

火ではない。

けれど、ちゃんと、灯っていた。

彼女の記憶が、自分の中に、生きていた。

「……またな」

声は小さく、空へ溶けた。

応える声はない。

けれど、どこかで確かに、彼女が笑ったような気がした。

尚斗は、深く息を吸った。

胸の中に、小さな火を抱えている気がした。

それはもう灯火のものじゃない。

尚斗自身が、これから背負っていく火だった。

彼は、静かに歩き出した。

何も変わらないようで、

でも確かに、すべてが変わった朝の中を。

新しく始まる一歩を、

灯火の“温度”と一緒に、踏みしめていた。


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