第七章
1
放課後の空は、思っていたよりも高かった。
風が強くて、校舎の影を長く伸ばしていた。
尚斗は、その風に押されるように歩いていた。
鞄は持っていなかった。もう授業のことなんて、頭に残っていなかった。
ただ、祠に行かなくちゃって思っていた。
でも、それが“会いに行く”という気持ちなのかどうか、自分でもはっきりしなかった。
川沿いの道に出ると、風の音が強くなった。
空気が乾いていて、草の匂いも薄い。
土手を下りた先、祠の前に、灯火がいた。
赤い光はまだなかった。彼女は、ただ座って空を見上げていた。
その姿を見て、尚斗の足が止まった。
心臓の音が耳の奥で跳ねた。
「……来てくれたんだ」
灯火が、尚斗を見て言った。
でも、その目は――明らかに、誰を見ているのか分かっていなかった。
尚斗は、一瞬で理解した。
それは“人あたりのいい声”で、“君”に向けられた声じゃなかった。
「……うん。通りがかりや」
声が、勝手に出た。自分でも驚くくらいに自然に、嘘が口をついた。
灯火はふわりと笑った。
その笑顔が、昨日よりも遠く見えた。
尚斗は黙ったまま、祠のそばに腰を下ろした。
声も、顔も――忘れられてるのに、こうして隣に座ることはできる。
それが、悲しいとか悔しいとか、言葉にならないまま胸の奥で固まっていく。
灯火は、小さく深呼吸をしたあと、そっと手のひらを見つめた。
「……今日も、火を灯せそうな気がする」
その言葉に、尚斗の喉がかすかに鳴った。
やめてくれ。
心の中で、何度も叫んだ。
けれど、声にはならなかった。
2
祠の前に、夕陽の赤がじわじわと差し込んでいた。
灯火は地面にそっと手を置き、何かを確かめるように目を閉じている。
尚斗はその横顔を見つめていた。
いつか見た笑顔と、今そこにある静けさが、どうしても重ならない。
「……なあ」
やっとのことで声が出た。
灯火が振り返る。けれどその目に、名前を呼ばれたような色はなかった。
「なにか……?」
尚斗は喉を鳴らした。
その声が、自分に向けられたものじゃないと分かってしまうのが、つらかった。
「やめてくれへんか」
風が、言葉の端をすくっていった。
灯火の指先がかすかに止まる。
「え……?」
「火を灯すの、もうやめてくれって……言うてるんや」
ようやく出せた言葉だった。
言ったあと、全身がきしむように重くなった。
灯火は目を見開いて、数秒だけ沈黙した。
「……どうして?」
「お前……それで、どんどん壊れていってる。
昨日のことも、俺のことも、何も思い出せんやろ……?」
灯火は、小さく息を呑んだ。
けれど、答えはなかった。
代わりに、ふっと笑った。
「……ごめんなさい。あなたのこと……わたし、知らないの」
尚斗の中で、何かがひとつ、崩れる音がした。
「でも……この火は、わたしの全部だから。
灯せなくなったら、きっと……わたし、もう“わたし”じゃなくなる気がする」
笑っていた。けれど、その笑顔があまりにも遠かった。
「ほんまに、それでええんか……?」
声が震えた。
尚斗は立ち上がり、灯火の正面に立つ。
「お前、ほんまに、そうやって……何もかも忘れて、生きていくんか?」
灯火は答えなかった。
ただ、小さくうなずいて、地面に手を伸ばした。
風がまた吹いた。
尚斗は、手を伸ばしそうになって、拳を握りしめたまま動けなかった。
止められなかった。
その火が、彼女の生き方そのものだと、知ってしまっていたから。
3
火は、静かに灯った。
灯火の指先から生まれた光は、夜の祠を赤く染めていた。
風も止まり、虫の声だけが遠くで鳴いていた。
尚斗は、その火を見つめていた。
目の奥が熱くなるのを感じながら、それでも言葉は出なかった。
灯火の横顔は穏やかだった。
あまりにも、穏やかすぎて――そこに「尚斗」という存在の痕跡は、もうなかった。
「……ねえ」
灯火が、ぽつりと呟いた。
尚斗は息をのんだ。
「……さっきから、ずっと一緒にいてくれてるけど……どこかで、会ったことあったっけ?」
その言葉が、胸の奥で何かを焼いた。
尚斗は、ゆっくり首を振った。
そして、絞るようにして言った。
「いや。……ただの通りすがりや」
灯火は目を細めて、かすかに笑った。
「そっか。……でも、不思議だな。
さっきからずっと、“懐かしい”って感じてる。
名前も思い出せないのに、心のどこかが……あったかいんだ」
尚斗は何も言えなかった。
その“あたたかさ”が、自分のことだったと分かっても。
灯火の火が、空へとゆっくり上がっていく。
それを見上げる彼女の目が、どこか遠くを見ているようだった。
尚斗は、隣に腰を下ろした。
膝を抱えて、空を見上げる。
「……なあ」
沈黙を破るように声を出した。
「誰かを、ほんまに大事に思うんやったら、忘れられてもええもんなんやな」
灯火がこちらを向いた。
「え?」
「いや、なんでもない。……ただの、独り言や」
灯火は小さく笑った。
その笑顔に、もう自分の名前は宿っていない。
それでも尚斗は思った。
それでええ。
今夜は、まだ名前を渡す夜やない。
4
朝の光が、ゆっくりと町に降りてきていた。
空は晴れているのに、肌寒くて、風だけが秋の入り口を知っているみたいだった。
尚斗は、制服のまま土手を歩いていた。
誰に何を言われるでもなく、ただ、祠へ向かっていた。
足元の草がしおれている。
露がついたままの地面を踏むと、くぐもった音が鳴った。
祠の前に着いたとき、尚斗は立ち尽くした。
そこには、もう灯火の姿はなかった。
昨日まで、何度も座っていたはずの場所。
笑ってくれた場所。火を灯していた、あの場所。
今はただ、踏まれた草と、土の焦げたような跡が残っているだけだった。
風が吹いた。
乾いた草が音を立てて揺れる。
尚斗は、跡の前にしゃがみ込んだ。
手を伸ばしてみたけど、そこにはもう何もなかった。
何もない。けれど、何かが確かに“あった”気がした。
土に残った、火の名残のような匂い。
胸の奥が、ゆっくりと熱くなる。
「……あの子は、火を残していったんやな」
誰に言うでもなく、口に出してみた。
声が風に流れて、祠の屋根にぶつかって返ってこなかった。
尚斗は、しばらく黙ったまま座っていた。
目を閉じると、昨日の灯火の声が聞こえた気がした。
名前を呼ばれなかったこと。名乗れなかったこと。
それでも――あたたかかった夜。
尚斗は立ち上がった。
制服の裾が風で揺れる。胸の奥に、まだ小さな火が灯っている。
名前は、まだ渡せていない。
けれど、その火は、ちゃんとここに残っていた。
……もしかしたら。
あの子はまだ、ここにいるかもしれない。
名を渡すその時だけを、どこかで待ってくれているのかもしれない。
だから、もう一度だけ——
もう一度だけ、あの祠へ行こうと思った。