第六章
1
最初に会ったときのことを、ちゃんと思い出せたらいいのに、って思う。
川の音がして、風が吹いて、火が揺れて。
それはまだ、ちゃんと覚えてる。
でも、わたしが何を言って、どんな気持ちだったのかは、ぽっかり抜け落ちてる。
それでも、隣に“誰か”がいたことだけは、はっきりと残ってる。
その人は、言葉は少なかったけど、あたたかくて。
――名前は、たぶん、まだ聞いてない。
なのに、何度も会ってた気がする。
祠の前で。夜の土手で。
火を灯すとき、いつもそこにいてくれた気がする。
「君」って、呼んでたかな。呼んでたような気もする。
でも、声には出さなかった。たぶん。
……なんでだろう。呼んでしまったら、壊れそうだったからかもしれない。
最近、わたし、なんだか変なんだ。
いろんなことが少しずつ抜けていってるのに、
火を灯すときだけ、身体が勝手に動く。
痛いものを受け取って、火に変えて、空に返す。
ずっと、そうしてきた気がする。
でも、それをするたびに、
わたしの中の何かが、少しずつ削れていってる気もする。
君のことも、そう。
もっと覚えてたはずなのに、
いまはもう、「呼べば何かが崩れてしまいそうで」呼べなくなってる。
……ほんとうは、名前を呼びたかったのにね。
2
昨日、何をしていたのかが思い出せない。
眠かったのか、ぼーっとしていたのか。
それくらいのことなら、これまでもよくあったはず。
でも、最近はその「よくある」が、だんだん増えてきている。
朝、目が覚めると、身体だけが先に動いていて、
頭の中がどこかに置いていかれたまま、
いつの間にか、川沿いの道を歩いていた。
土手を下りて、祠の方へ向かっていて……
でも、どうしてそこに行こうとしてたのかが、思い出せない。
だけど、そこに“君”がいると、不思議と安心する。
理由もないのに、そこにいてくれるだけで、
全部が正しいような気がしてしまう。
「おはよう」って、君が言ってくれたような気がした。
わたしはうなずいて、笑って、火の準備をしていた。
それが昨日だったのか、一昨日だったのか……それとも今日だったのか。
もうわからない。
君の声が、昨日よりも少し遠く感じた気がして、
何かを聞き返されたとき、
わたしは、笑ってごまかしてしまった。
「ごめんね、最近ぼーっとしてて」
そう言えば、たいていの人は笑ってくれる。
君も、笑ってくれた。
でも、その笑い方が、少しだけ遅れていたのを、わたしは知ってる。
……ほんとうは、怖かった。
思い出せないことも、それを笑ってごまかす自分も、
名前を知らないままの“君”の顔が、
少しずつ曇っていくのが、わかってしまう自分も。
でも、「怖い」なんて言ったら、全部が壊れてしまいそうで。
言えなかった。
だから、また笑った。
笑って、なかったことにした。
それがいちばん、怖かったのに。
3
火を灯すたびに、自分の中の“音”が少なくなっていく気がする。
鳥の声や、川の流れる音、風が草を撫でる音。
そういうものは、ちゃんと聞こえるのに。
“誰かの声”だけが、少しずつ、遠のいていく。
君が何かを話しかけてくれた。
問いかけてくれていたのに、
その言葉が、わたしの頭に届く前に、
すり抜けてしまう。
「ごめん、聞こえなかった。もう一回……」
そう言うのは、たぶん、これで何度目なんだろう。
君は、少しだけ目を細めて、それでも笑ってくれた。たぶん。
わたしも、いつものように笑い返した。
火のように、揺れている気持ちを、
ひとつでも繋ぎ止めたくて、
笑うしかなかった。
祠の前で、手のひらに火を宿す。
赤く、小さな光。
毎日のように繰り返してきたその瞬間。
本当は、胸の奥に誰かの痛みが届くはずだったのに、
今日は、なにも感じなかった。
火が熱いのかも、わからなかった。
それでも、火は灯る。
身体が覚えている。
頭が忘れていても。
君の視線が、胸の奥に刺さる。
痛いほどにまっすぐで、
でも、その優しさが、今は苦しくて。
わたしは、目をそらして、笑った。
「大丈夫だよ」
口が勝手に動いた。
その言葉を何度も使ってきたはずなのに、
今日は、まるで他人の声みたいだった。
火がゆっくり空へ昇っていく。
消えていくのは、火だけじゃない。
わたしの声も、
誰かの気配も、
全部、ふわりとほどけて、
空のどこかへ、遠ざかっていくようだった。
4
眠る前、目を閉じると、
必ず“君”のことを思い出そうとしてしまう。
土手に座る背中。風に揺れる髪。
何も言わず、ただそこにいてくれた時間。
それはたしかに、あったはずだったのに。
最近は、夢と記憶の境目が曖昧になってきた。
“君”が話してくれたこと、わたしはどこまで覚えているんだろう。
どれが今日で、どれが昨日なのか。
それさえも、もうよくわからない。
声が、思い出せない。
でも、不思議と、あたたかさだけは胸の奥に残っている。
声じゃなくて、まなざし。言葉じゃなくて、沈黙。
そういうもののほうが、なぜか、深く残ってる。
わたしは、きっと何度も“君”に会った。
でも、火を灯すたびに、
何かをひとつずつ落として、
そしてまた、“君”に会って――
それを、繰り返していた。
いつの間にか、“君”が同じ人だったかどうかも、
自信がなくなってきた。
声も、姿も、重ならないのに、
なぜか、“君”だけは、ずっと同じだと信じていたくて。
でも、それでも……
胸の奥のどこかが、ふるえる。
「この人は、特別だった」って、そう囁いてる。
――けど、名前が出てこない。
呼ぼうとするたびに、喉の奥で止まってしまう。
名前を言うだけのことが、
どうしてこんなにも、遠くて、怖いんだろう。
……ほんとうは、
わたしが“君”に名前を呼んでもらったこと、
たぶん、一度もなかったのかもしれない。
灯りを消した部屋で、ひとり膝を抱えて、
わたしはそっと呟いた。
「……ごめんね」
届かなくてもいい。
せめて、この気持ちだけが――
どこかで、君のそばに届きますように。