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第五章

1

祠の前に着くと、灯火はもうそこにいた。

夕暮れの光に包まれて、笑っている――ように見えた。

「……また、来てくれたんだ」

その言葉に、尚斗の足が止まる。

どこか少しだけ、言い回しがひっかかった。

「昨日、来るって……言うたやん」

言いながら、自分の声が頼りなく揺れるのを感じた。

灯火は首をかしげ、すぐに小さく笑った。

「え……そうだっけ? ……ごめん、最近ちょっと、ぼーっとしてたかも」

いつもと同じ声だった。

でも、胸の奥には冷たい風がすり抜けた気がした。

覚えていないだけ。たぶん、それだけのこと。

そう言い聞かせながら、尚斗は横に座る。

灯火は何も言わず、空を見上げていた。

風が髪を揺らし、その隙間からこぼれる表情に、“空白”がある気がした。

言葉にできない違和感だけが、ふたりの間に小さく灯っていた。


2

昼休みのざわつきが、教室の隅まで流れ込んでくる。

尚斗は弁当のふたを開けたまま、箸を動かせずにいた。

窓の外では、風に揺れる体育館のカーテンが、まるで手招きするように波打っていた。

その揺れをぼんやり眺めながら、気づけば口の中で、小さくつぶやいていた。

「……灯火……」

その瞬間、前の席の男子がこちらを振り返った。

「ん? なに? 今なんて言った?」

尚斗は一瞬、息を止めた。

声に出したことすら気づいていなかった。

「いや、なんでもない。独り言」

「ふーん……“トウカ”って誰? 女?」

にやにやとした顔に、周りの数人が気づいて、ちらちらと視線を寄越してくる。

尚斗は弁当の中身を見たまま、箸を強く握った。

「そんなんちゃう。ただの、地名みたいなもんや」

「ふーん、変なの。田舎って、妙な名前の場所あるもんな」

そのまま話題は別のところへ流れた。笑い声だけが、尚斗の席を素通りしていく。

弁当の味は、まったくしなかった。

灯火のことを、名前を、口に出しただけで……何かが壊れる気がしていた。

話せない。話さない。

だからこそ、あの火のある夜だけが、現実から少し浮いている気がする。

誰にも知られないまま、その場所だけが確かで――それが、怖くもあった。

放課後のチャイムが鳴ったとき、尚斗は真っ先に席を立った。

鞄を抱えて廊下を歩く。靴音が、誰の足音にも混ざらない。

校門を出て、川へ向かう道を歩きながら、考えていた。

今なら、名乗れる気がした。

名前を教えたら、もしかしたら――

でも、尚斗はそれを頭の中だけで何度も繰り返して、最後まで声にしなかった。

夕焼けが遠くを赤く染めていく。風が背中を押していた。


3

土手を下りると、灯火がこちらを振り返った。

風に髪がなびき、夕陽がその輪郭を柔らかく染めていた。

「……あ」

声にならない声。

その目が、一瞬だけ迷ったように揺れる。

尚斗はそれを見逃さなかった。

「誰だっけ」と言いかけたような――そんな目を、していた。

けれど、灯火はすぐに微笑んだ。

いつも通りの、あの笑顔で。

「今日も、来てくれたんだね」

尚斗は返事をしないまま、隣に腰を下ろした。

何かを壊したくなくて、声が出なかった。

風が草を揺らし、川の音が遠くで響いている。

灯火は祠のほうを見ながら、静かに言った。

「最近ね、夢をよく見るの。

 誰かがそこにいるのに、名前が思い出せない夢」

尚斗の喉がひくりと動いた。

言えば、たぶん全部思い出してくれる。

けれど――

「……なんでもない。疲れてるだけかも」

灯火はまた笑った。

けれどその笑顔は、ほんの少しだけ遅れていた。

尚斗はポケットの中で手を握りしめた。

名前を、言えばよかった。

でも、それを渡すことが――終わりの合図になる気がして、どうしても口にできなかった。

名前を呼ばれないまま、今日も日が暮れていく。

それでも尚斗は、その隣にいた。

呼ばれなくても、忘れられても、

ただそこにいることだけが、自分にできることだった。


4

祖母は黙って湯呑みにお茶を注ぎ、尚斗の前にそっと置いた。

「……ばあちゃん」

声は小さく、空気を揺らすこともなかった。

それでも祖母の手が止まる。

「今日な……あの子に、名前を……呼ばれへんかった」

祖母は少しだけ目を伏せたまま、手をゆっくり動かす。

何も言わないまま、鍋の火を弱める音だけが部屋に残った。

やがて、ぽつりと呟くように言った。

「……昔な、この町に、“火の子”がおるって噂があってな。

夜な夜な祠に現れて、人の痛みを火にして、空へ送るって……

顔も名前もわからんけど、見た人は“あったかかった”って、そんな話や」

尚斗はうつむいたまま、拳を膝の上で握りしめた。

「その子もな、最後は自分のこと、全部忘れてしまったらしい。

……誰かの痛みばっかり灯して、自分のこと、なんも残らんようになって……

気づいたら、ふっとおらんようになってたってな」

「――ただの昔話やけどな。信じるかどうかは、お前しだいや」

祖母の声は淡々としていた。

慰めでも脅しでもない。ただ、そこにある古い風景を語るように。

尚斗は返事をしなかった。

口を開けば、何かが崩れそうだった。

静かにお茶をひとくち飲むと、祖母は席を立って台所へ戻っていった。

尚斗の背中に、「あったかいうちに食べなよ」とだけ声を残して。

湯気の向こう、畳の匂いが少し濃くなった気がした。

尚斗は両手で湯呑みを包み込み、火でも灯すようにじっと見つめていた。

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