第四章
1
祠の前には、夏の名残を抱えた風が吹いていた。
尚斗と灯火は、いつもと同じ距離で座っていた。
灯火の指先に淡い光が灯り、それは静かに空へと昇って消えた。
「……さっきの話、さ……」
尚斗が口を開く。「あの猫、また階段のとこおったって話……」
灯火は、尚斗の方を振り返り、首を傾けた。
「……猫?」
「え、さっき言うてたやん。黒い猫が祠の石段にいて……って」
「……え、わたし、そんなこと……言ったっけ?」
尚斗の喉が小さく鳴った。
何かが、静かに胸の奥に降ってくる。
目の前の灯火は笑っていた。でも、その笑顔の奥に、確かに“空白”があった。
「……ああ、なんでもない。気のせいや」
「そっか……ごめんね、ぼーっとしてたのかも」
灯火は、ほんの少しだけ目を伏せて笑った。
その笑顔が、いつもより細く見えた。
尚斗は言葉を飲み込む。
「なんで忘れたん?」なんて聞いても、きっと笑ってごまかされるだけだ。
風が、さっきまで灯っていた火の残り香をさらっていった。
胸の奥に、ふとした違和感が残る。
尚斗は何も言えず、ただその横顔を見つめ続けた。
2
昼休みの教室。
尚斗は、いつものように弁当を広げながら、ふと無意識に口に出していた。
「……今日、灯火に……」
その瞬間、隣の席の男子がピクッと反応し、顔をしかめた。
「え、誰? “トウカ”?……人の名前?」
尚斗は一瞬言葉を詰まらせた。
まるで、自分の胸の内を覗かれたような感覚だった。
「いや、何でもない。独り言や」
そう言ってごまかすと、男子は怪訝そうな顔をしながらも、すぐに他の話題へ流れていった。
その空気の温度差が、やけに冷たく感じた。
尚斗は弁当の中身を見つめたまま、思う。
——言えんのや。
灯火のこと、誰かに話したら、
それだけで何かが壊れてしまいそうで。
口に出せないからこそ、灯火との時間は“特別”になっていく。
それは、確かな感情なのか、それともただの逃避なのか。
尚斗自身も分からなかった。
その日の放課後、川辺へ向かう道すがら。
灯火はいつもと同じ場所にいた。
でも、会話はどこかちぐはぐだった。
「この前言ってた、あのおばあさんの話……」
「え? ……おばあさん?」
「ほら、前に“毎日祠に来る人がいる”って言ってたやん」
「……あれ、わたし、そんなこと言ったっけ?」
尚斗は立ち止まり、灯火の顔を見た。
いつもの笑顔がそこにあった。
でも、その“空白”はもう、見過ごせるものではなかった。
「……昨日って……わたしと、会ってたっけ?」
灯火がぽつりとそう言った瞬間、
尚斗の心臓が、小さく跳ねた。
ああ——これは、本物や。
何かが削れてる。
火のたびに、何かが消えていってる。
それでも尚斗は、何も言えなかった。
3
風が、夏の終わりを告げるように冷たく吹いていた。
祠の前、尚斗と灯火は無言で並んで座っていた。
川の音と虫の声だけが、静かに二人を包んでいる。
灯火は祠に向かって手を合わせ、深く、長く息を吸った。
その手の中に、やがて淡い光が生まれる。
小さな炎が、彼女の指先にぽつりと灯る。
尚斗は、その火を見つめた。
そしてその横顔を、恐る恐る見た。
炎が揺れるたびに、灯火の影も揺れていた。
その姿が、一瞬遠くに感じた。
「……やっぱり、やめといたほうが……」
そう言いかけた瞬間、灯火の身体がぐらりと傾いた。
尚斗は咄嗟に肩を支える。
「おい、大丈夫か!?」
灯火はうっすらと目を開けて、かすかに笑った。
「ごめんね……ちょっと、力が抜けただけ」
「……なあ、お前、無理してないか?」
灯火はゆっくりと顔を伏せる。
そして、ぽつりとこぼした。
「……最近、よく夢を見るの。
何かを忘れた気がして、ずっと探してる夢。
火を灯すたびに、
何かが“わたしから抜けていってる”ような気がするの……」
尚斗は言葉を失った。
心の中で何度も繰り返してきた「やめろ」が、喉の奥で詰まる。
言えない。
それを言ったら、灯火が灯火でなくなる気がして。
「……また、明日な」
尚斗は、肩を支えていた手をそっと離した。
灯火は微笑んで、小さくうなずいた。
小さな炎の跡だけが、二人の間に残っていた。
4
夜の台所。
味噌汁の湯気が立ちのぼる静かな食卓で、尚斗は箸を置いた。
祖母は何も言わず、湯呑みに手を添えていた。
「ばあちゃん……祠のこと、昔から何か知ってたん?」
ぽつりと出たその言葉に、祖母は少しだけ手を止めた。
そして、なおも湯呑みを見つめながら、静かに口を開いた。
「……あそこにはな、“火の子”がおるって、昔から言われとったよ」
「火の子?」
「人の痛みを灯してくれる子や。
よう分からんけどな……
あの子は、誰かの代わりに泣く子やて。
代わりに、痛みを灯して、火に変えるんやて……」
尚斗は思わず、拳を膝の上で握りしめた。
それは、灯火そのものだった。
「でもな、そういう子は、背負ったぶんだけ、何かを忘れていく。
名前や、大事な人や、自分自身を。
そうして“火”だけを残して、生きていくんやって」
祖母は、どこか遠くを見つめるように言った。
「わたしがまだ小さいころな、町の端の女の子が、突然姿を見せんようになってな。
その子も“火の子”やったんかもしれへん。
顔も名前も忘れてもうたけど、不思議と……灯火ちゃんの目ぇ、よう似とる気がしてな」
尚斗はうつむいたまま、何も言えなかった。
「……それでも、お前、あの子のそばにいたいと思うんか?」
少しの沈黙のあと、尚斗は答えた。
「……うん。
火をやめてって言えへん自分が情けない。
でも、それでも、隣にいたいと思ってしまうんや」
祖母は小さくうなずいて、尚斗の頭をそっと撫でた。
「……尚斗、お前、ちゃんと見とるんやな。
見て、見捨てんのは……それだけで、たいしたもんや」
尚斗は、うなずいたまま、喉の奥にせき止めた何かを呑み込んだ。
その夜の祠の火はもう消えていたけれど、尚斗の胸の中には、小さな灯がまだ燃えていた。