第三章
1
黒板のチョークの音が止んだとき、教室の空気が一気に軽くなる。
尚斗は席を立たず、鞄の中の教科書の端を指でなぞっていた。
「なあ、尚斗って、放課後どこ行ってんの?」
前の席の男子が、ノートを閉じながら何気なく声をかけてくる。
教室の隅で笑い声が弾けた。
「祠のとこおるって噂やで? 変な女とおるんやろ?」
言葉が空気に乗って、別の机に伝わっていくのがわかった。
尚斗は何も言えずに、教科書の角を指で強く押した。
「……関係ないやろ。」
やっと吐き出した言葉は、小さくて誰にも届かない。
男子は肩をすくめて、取り巻きと一緒に笑いながら廊下に出ていった。
笑い声が遠ざかっても、耳の奥でずっと鳴っている。
尚斗は鞄をぎゅっと握りしめて立ち上がった。
灯火のことを笑う声が、教室のどこかに残っている気がした。
「……誰も知らんくせに……。」
2
弁当箱を開ける音だけが、尚斗の机のまわりでやけに大きかった。
周りでは、友達同士の笑い声が飛び交っている。
遠くの席で誰かが冗談を言って、教室の空気が揺れる。
尚斗の席だけが、ぽつんと取り残されていた。
箸を持つ手が、ぎこちなくご飯をすくう。
味なんか、何もわからなかった。
教室の隅で響く笑い声が、ずっと耳に刺さる。
中学の頃を思い出す。
教室の隅、同じように弁当を広げていた自分。
誰も声をかけない。
自分も、誰の声もいらないと思っていた。
今は一人になるのが怖くて仕方ない。
灯火の火があれば、全部消える。
心の奥の情けなさも、無力さも。
尚斗は箸を置いて、心の中で小さく謝った。
——結局、俺はあの火に逃げとるだけや。
「……行こ。」
誰にも見られないように鞄を抱え、尚斗はゆっくりと教室を出た。
3
土手を下りると、風の向こうに小さな背中が見えた。
昨日と同じ場所、同じ姿勢で、灯火は川の音に溶け込んでいた。
尚斗の足音に気づいたのか、灯火が振り返る。
顔を見せた瞬間、いつもの笑顔を浮かべた。
でも、その笑顔の奥に滲むものを、尚斗はもう気づいていた。
「来てくれた……」
灯火の声が川の音にかすれて、尚斗の胸の奥だけに届いた。
尚斗は言葉を飲み込んだ。
「火を灯すな」と、喉の奥でだけ響いた言葉は、唇からは出なかった。
代わりに、灯火の隣にしゃがみ込んだ。
灯火は小さく息を吸って、いつものように祠に向かって手を合わせる。
誰の痛みを灯すのか。
それを尚斗は知ろうともしなかった。
火の揺れが、自分を少しだけ救ってくれることを、知っていたからだ。
やがて、灯火の指先に小さな火が生まれる。
川風に滲まない赤い灯りが、二人の影をゆらゆらと重ねて揺らす。
尚斗は黙って、その火を見ていた。
声に出せない「ごめん」が、胸の奥で膨らんで、熱くなった。
でも、それを見ていると、尚斗の胸の奥のざわめきが静かになる。
——俺も、火が欲しいだけなんや。
心の奥で、そう認めた。
灯火は、何も言わずに笑った。
それだけで十分だと、二人とも思っていた。
4
火が空にほどけて消えると、川の音だけが土手に戻ってきた。
さっきまで灯っていた小さな熱が、まだ尚斗の胸の奥に残っている。
灯火はそっと手を下ろすと、膝の上で指を組んだ。
笑っているのに、肩が小さく揺れているのを尚斗は黙って見ていた。
「……お前……大丈夫なんか……」
尚斗の声は弱かった。
止めたいくせに、今さら止められない自分がにじんでいた。
灯火は少しだけ首を振り、笑った。
「うん、大丈夫だよ」
その目が全部嘘だと、尚斗だけが知っていた。
火の跡に指先を伸ばす。
もう何も残っていないのに、温もりだけが胸に焼きついた。
「……明日も……来るから。」
言葉にしたのは尚斗だった。
灯火は小さく息を飲んで、そっと目を閉じた。
二人を繋ぐのは、火じゃなくて――
火しかないと思い込んでる弱さだった。