第二章
1
放課後の教室は、ざわざわした声が廊下に流れていくと、すぐに色を失った。
椅子を机に乗せる音、床を引きずる鞄の音、笑い声と靴の音が遠ざかっていく。
尚斗は鞄を抱えたまま、教室の後ろで立ち尽くしていた。
黒板に書き残された文字を眺めながら、頭の奥ではさっき聞こえた噂が何度も反響していた。
——「昨日もあの河原で、誰か泣いてたってさ」
——「なんか祠のあたりで、一人で泣いてたって」
——「気味悪いし、近づかん方がええで」
誰が言ったのかも、もうはっきりしない。
ただ、胸の奥がざわついて、教室に自分の居場所がないことを思い出させた。
ドアを押すと、まだ残っていたクラスメイトの数人が尚斗を一瞥して、何も言わずに廊下へ消えた。
誰も呼び止めないのが、いまはありがたかった。
階段を下りながら、鞄の取っ手を握りしめる。
頭では「行かんでええ」と思っているのに、足は校門を出て、真っ直ぐに川へ向かっていた。
風が吹くたびに、制服の袖を揺らした。
昨日と同じ道を、同じ靴音が叩いていく。
昨日と同じように、あの火を確かめたいのか、それとも見たくないのか。
自分でもわからなかった。
川沿いの土手が見えた時、遠くに小さな背中が見えた。
あの火の輪郭はまだない。
でも、灯火がいるとわかるだけで、喉の奥が乾いていった。
尚斗は土手を下りながら、ポケットの中で指を握り込んだ。
どうせ何も言えん。
言えへんのに、俺は——
また、あいつの火を見に来てしまう。
風の音が、川の匂いを運んできた。
2
川のそばまで来ると、土手の草が足首にまとわりついてくる。
踏みしめるたびに、小さな虫が跳ねて、風の向こうに逃げていった。
尚斗の目の前に、灯火の小さな背中と、
その隣でしゃがみ込んでいる小さな子どもがいた。
子どもは、顔を両腕に埋めたまま、
声にならない嗚咽だけを土に吸わせている。
灯火は何も言わずに、ただ背中を撫でていた。
尚斗の足音に気づいたのか、灯火が振り返る。
目が合うと、何も言わずに、そっと小さく頷いてみせた。
「やるけど、いい?」
そんなふうに見えた。
尚斗は、言葉が出なかった。
代わりに、強く唇を噛んで、小さく頷き返す。
灯火は子どもの隣に腰を下ろし、
小さな声で何かを囁いた。
子どもの肩が一度だけ震え、こくんと頷いたのが見えた。
次の瞬間、灯火の手のひらの上に、
かすかな火の粒がひとつ、ふっと揺れた。
風に滲まない、静かな赤い光。
尚斗の喉が鳴った。
息を飲む音が大きすぎて、
川の音さえ遠くに追いやった。
火は子どもの胸の奥から、
灯火の手へ移されたみたいだった。
小さいのに、泣き声よりもずっと強くて、
尚斗の胸の奥を熱くしていった。
火がゆっくりと空へとほどけていく。
子どもの肩から、小さく詰まっていたものが
ほどけて流れていくのが分かった。
尚斗は何もできないまま、
ただ火の行方を追い続けていた。
3
火がすっかり空に溶けた後、子どもの肩はもう小さく上下するだけだった。
泣き声も、川の音にすっかり吸い込まれていく。
灯火はゆっくりと手を下ろすと、
子どもの頭を一度だけ撫でた。
子どもは泣きはらした目で尚斗と灯火を交互に見て、
小さく声を出して笑った。
「ありがとう……」
その声を置いて、子どもは走り去っていった。
灯火と尚斗の足元に、誰の声も残らなかった。
尚斗は、土に落ちた火の名残を探すみたいに、
さっきまで火が灯っていたあたりを見つめていた。
「……これが……お前の……」
言葉が喉で詰まった。
火の熱が、まだ胸の奥に残っていて、
それを口に出すと壊してしまいそうだった。
灯火は少しだけ息を吐いて、いつもの笑顔を作った。
だけど、頬がすこしだけ青い。
「……これが、わたしの役目だよ。」
それだけを言って、
土の上に両手をついた。
小さく肩が揺れているのを、尚斗は黙って見ていた。
何もできない自分が、
また誰かの痛みを見届けただけの自分が、
悔しくて、情けなくて。
尚斗は、そっと隣に腰を下ろした。
言葉の代わりに、指先を土に触れさせた。
そこに、まだ火の残り香がわずかに生きている気がした。
4
帰り道、川沿いの道をひとりで歩く尚斗の足音だけが、夜の冷たい空気に響いていた。
土手で見たあの火の揺れが、ずっとまぶたの裏に残っている。
火が灯って、誰かが救われる。
でも、そのたびに——
灯火はあんな顔をする。
「……なんで……」
誰に聞こえるでもなく、小さく呟いた声が、空に吸われた。
あの火を止めることが、灯火を止めることになる。
止められない自分は、結局、あの子どもと同じだ。
誰かの痛みを背負ってもらって、楽になるだけ。
ずっと、そうだった。
家でも、学校でも。
それを、また繰り返しているだけだ。
祖母の家の門の前で足を止めた。
小さな庭灯りが揺れている。
火じゃない光が、こんなに優しく感じたのは、いつぶりだろう。
「ばあちゃん……俺……」
言葉が途中で溶けて消えた。
ポケットに入れていた手が震えている。
開けた扉の奥から、祖母の声が、ゆっくりと尚斗を呼んだ。
川の音も、火の残像も、すべてがその声の向こうに溶けていく気がした。
尚斗は小さく息を吐いて、
玄関の土間に足を踏み入れた。