序章
1
バスのドアが閉まる音だけが、頭の奥に刺さって離れなかった。
埃の匂いがついたシートにしがみついていた時間より、
降りたあとの静けさのほうが重たくて、目の奥がじんとした。
誰も迎えに来ないのは、分かってたはずだった。
……でも、最後の最後まで……
もしかしたらって……思ってた自分が、いちばん情けなかった。
錆びたベンチに制服の後ろを引っかけてしまう。
乾いた金属の感触が背中を冷やす。
鞄を膝に置いて、ポケットを探る。
折り畳んだまま何度も開いたメモ用紙。
祖母の名前と家の住所だけが、滲んで読みづらい。
「……ばあちゃん……」
声にしてみても、すぐに風が奪っていった。
誰も答えない停留所に、自分の声だけが残って消えた。
握った紙の端がじっとり湿っていて、爪で押すと破けそうになる。
小さな虫が靴先を越えていった。
尚斗はゆっくり立ち上がり、鞄を片方の肩に引っかける。
来ないのは分かってた。
でも……まだ、どこかで探してしまう自分がいる。
それをやめられない自分が、いちばん嫌やった。
鞄の中の教科書が、ごとりと鳴った。
足元の砂埃を蹴って、尚斗は川の方へ歩き出した。
2
舗装が途切れた道を、靴底で確かめるように歩く。
踏むたびに小石が鳴くけれど、耳に届くのは川の音だけだった。
バス停から続く小さな商店街は、
錆びた看板と閉じたシャッターばかりが目につく。
自販機の横に積まれた空き缶が、風に転がってカラカラ鳴った。
町が息をする音みたいだった。
川が近づくと、空気が少しだけ澄んでいた。
都会にはなかった、湿った土と草の匂いがする。
向こう岸には、枯れ草に埋もれた小さな祠がぽつんと立っていた。
土手に腰を下ろし、鞄を足元に置く。
流れる水の音が、頭の奥でうるさいものをさらっていくようだった。
川面を見つめると、逆さの自分の顔が波で途切れ途切れに揺れている。
それが、少しだけ心地よかった。
「……なんで、ここなんやろな……」
誰に言うでもなく漏らした声が、すぐに草の匂いに溶けた。
胸の奥にまだ湿ったメモ用紙がある。
祖母の名前と、この町の住所と。
頼れるのはそれだけやのに、今日はすぐに会いに行けんかった。
風が吹いて、土手の草を揺らす。
髪が頬に触れて、尚斗は鞄の上で手を組んだ。
目を閉じる。
誰の声もないのが……
いまは、少しだけ……助かった。
3
川の音に耳を預けて、どれくらい経ったのか。
目を閉じていた尚斗は、ふと何かの気配に息を止めた。
遠く、川向こうの祠のあたり。
夕暮れの色が溶けていく中で、誰かの影が、風に揺れるように立っていた。
最初は木の影かと思った。
けれど、そのそばで、小さな赤い光がちらりと揺れた気がした。
街灯でも、家の明かりでもない。
もっと弱くて、すぐに消えそうな火。
尚斗は思わず腰を浮かせた。
鞄の取っ手が手から滑り落ちて、土にかすかな音を残した。
「……誰や……」
声は、自分でも聞こえないほど小さかった。
川の音と草のざわめきに溶けて、誰にも届かない。
もう一度目を凝らした時には、光も影も、
風に紛れて滲んでいた。
何もなかったのかもしれない。
それでも胸の奥に、さっきよりも少しだけ温いものが残った。
鞄を拾い、肩に掛け直す。
遠い川向こうをもう一度見たが、もう何もない。
「……ばあちゃん……」
祖母の名前を、確かめるみたいに唇が動いた。
川風に背を押されるように、尚斗は立ち上がり、
少しだけ重たくなった鞄を背負った。
この町のどこかで、自分の名前を呼んでくれる声を探すように。