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第5話 ママとシゲさん

* * *


「シゲさん…だから言ったじゃないですか~。どうするんですか?」

ハンドルを握りしめ前を向いたまま、ヒロシがシゲさんに向かって言いました。


「どうする・・・って、決まってるじゃね~かよ!このままだよ」

シゲさんは、ヒロシの言葉に少しイライラしたように答えました。


「こ、このまま・・・って、そんなことできないに決まってるじゃないですか!」

ヒロシは、今度はシゲさんの顔を見ながら大きな声をあげました。


「うるせーな!何とかなるから大丈夫だよ!前見て運転しろよ!・・・ったく」

シゲさんは、自分の顔をじっと見つめるヒロシから少しでも遠ざかるように助手席の窓を開けて、外に肘を突き出しその上に自分のあごを乗せて外を見つめました。


「出て行きゃいいんだろ・・・出て行きゃ・・・」

シゲさんが、そうつぶやいた言葉は風を切って走る車の音にかき消されてヒロシの耳までは届きませんでした。




昨日、シゲさんは仕事がお休みでした。

シゲさんは、カゴから溢れ出した一週間分の洗濯物を一度全部カゴから出して、どれから先にこの小さな洗濯機に放り込むかを考えていました。


そんなシゲさんの足元では、あずきと黒猫が洗濯物の山の上で嬉しそうにじゃれ合っていました。

洗濯物の山に顔を突っ込んで穴掘りをしているあずきのことを気にもせず、シゲさんは

「よし!とりあえず今日は下着と作業着だな・・・」

と、山の下の方に埋もれている作業着のズボンを引っ張り出しました。


シゲさんがズボンを勢いよく引っ張り上げると、穴掘りをしていたあずきの細い体が、ズボンの裾からスルスルっと飛び出してきました。

「おまえ、何やってんだ?」


あずきは、せっかく掘り進んだトンネルをシゲさんに奪われてしまったので、再び洗濯物の山に顔を突っ込み穴掘りをはじめました。

そんなあずきの横では、黒猫が顔にすっぽりと被さってしまった、シゲさんのパンツを取ろうと必死にもがいていました。

「あ~!もう!邪魔だからあっちで遊んでくれよ!」

ついにシゲさんは我慢が限界になって、あずきと黒猫の首をつかまえて、そのままソファーの上へ連れて行きました。


そのとき

「ピンポ~ン」

と、シゲさんの部屋のチャイムが鳴りました。


「やべ!早くお前ら隠れろ!ほらほら!」

シゲさんは、ソファの上でまたじゃれ合い始めたあずきと黒猫の首を再び捕まえると、今度は押入れの中へ放り込みました。そして、押入れの扉を慌てて閉めると、すぐに玄関に向かいました。




あずきと黒猫が、シゲさんに助けられてから、何ヶ月かが経っていました。

シゲさんが住んでいる、このアパートはペットを飼うことは禁止でした。

でも、シゲさんは、あずきと黒猫をずっと内緒で飼っていました。

幸い、シゲさんの住んでいるアパートは、かなり古いアパートで、隣の部屋にはずっと借り手が現れず、猫がいることは誰にも気付かれることはありませんでした。


たまに大家さんが家賃を取りに来るときだけ、シゲさんは、あずきと黒猫のことを押入れの中に放り込んで見つからないようにしていました。


あずきと黒猫も、自分たちがこの部屋にいることが他の誰かにバレてはいけないというのが何となく分かっていました。だから、たまに押入れに閉じ込められた時は、シゲさんが「いいよ」と言うまで、二人でおとなしく待っていました。





「はーい! あ、おばちゃん・・・おはようございます。・・・あれ?今月の家賃、まだですよね?」


玄関のチャイムを鳴らしたのは、やはり大家さんでした。

この大家さんのことを、シゲさんは「おばちゃん」と呼んでいました。


シゲさんが、以前助けた野良猫を引き取ってくれたのが、この大家のおばちゃんでした。

おばちゃんは、一人暮らしで、シゲさんのアパートのすぐ前の小さな一軒家に住んでいました。

シゲさんが、道端で車にはねられてケガをしていた野良猫を動物病院へ連れていき、治療が済んだあとどうすれば良いのか困っていたとき、偶然に動物病院の前を通りかかったおばちゃんがシゲさんに声をかけてくれました。


「おやおや・・・可愛い猫ちゃんだこと。ケガしてるねぇ・・・どうしたんだい?」


シゲさんが事情を説明すると、おばちゃんは

「あたしも、ひとりじゃ寂しいしね・・・」

と言って、その猫を快く引き取ってくれました。




「おはよう・・・あ、家賃じゃないのよ。 ねえ? シゲちゃん、ちょっと聞きたいことがあるんだけどね・・・」

大家のおばちゃんは、シゲさんが自分のことを「おばちゃん」と呼ぶようになってから、シゲさんのことを「シゲちゃん」と呼ぶようになりました。


「・・・はい。なんですか?」

シゲさんは、一瞬イヤな予感がしました。


「うん。あのね・・・シゲちゃん、上の人がね・・・シゲちゃんの部屋で猫飼ってるんじゃないか?って言うのよ・・・」

おばちゃんは、メガネの奥の細い目でチラッと上を見上げて言いました。


「シゲちゃん、飼ってないでしょ? 猫なんて」

おばちゃんは、まったく疑う様子もなくシゲさんに聞いてきました。



「猫なんて飼ってるわけ無いじゃないですか~」

と、答えるつもりのシゲさんでしたが、なぜか次の瞬間シゲさんの口から出たのは


「・・・すいません。実は、飼ってるんです・・・猫 」

という言葉でした。




* * *


「シゲちゃん・・・本当なの?」

おばちゃんは、メガネの奥のいつもは細い目をまん丸くしてシゲさんを見上げました。


「はい・・・すいません。本当なんです・・・」

シゲさんは、申し訳無さそうにそう言うと部屋の奥へ戻り、押入れの扉をガラッと開けました。


シゲさんが押入れの扉を開けると、あずきと黒猫が折り畳んである布団の中からモゾモゾと顔を出しました。


「シロ・・・クロ・・・もう隠れなくていいぞ・・・」

そういうと、シゲさんは振り返ってまた玄関へ歩いて行きました。


あずきと黒猫は、布団の中から並んで出した顔を見合わせると、2匹同時に押入れから飛び出してシゲさんの後を追って玄関の方へ走り出しました。


あずきと黒猫が玄関へ行ってみると、ドアの向こうには初めて見る人の姿がありました。

黒猫は、そのおばちゃんの姿を見た途端、無意識にソファーの後ろに回り姿を隠そうとしました。

あずきもそんな黒猫の行動を見て、慌ててソファーの後ろへ逃げ込みました。


「おい・・・もう隠れなくていいよ・・・」

シゲさんが、あずき達に声をかけると、2匹はゆっくりと様子をうかがいながらシゲさんの足元へ近付いてきました。


「おやおや・・・ほんとだ。2匹もいたんだねぇ・・・」

おばちゃんは、シゲさんが禁止になっている猫を内緒で飼っていたことに、怒る素振りも見せず玄関の中へ入ってくると、そこにしゃがみこんで


「さあ、怖がらなくていいからおいで・・・」

と、目を細めながらあずきと黒猫を呼びました。


あずきと黒猫は、おばちゃんに頭や胸をやさしく撫でられると、嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らしました。


おばちゃんは、しばらくの間あずきと黒猫を撫でたあと

「どっこいしょ・・・」

と言いながら、ゆっくりと立ち上がってシゲさんの顔を見上げました。


「・・・さて、シゲちゃん。どうしよう?この子たち・・・シゲちゃんも分かってると思うけど、ここはペットダメなのよ・・・」

おばちゃんは、困った顔をしてシゲさんに言いました。


「はい・・・分かってます。すいませんでした・・・」

シゲさんが、小さく頭を下げておばちゃんに謝ると


「ねえ?シゲちゃん・・・シゲちゃんのことだから、この子たちも捨て猫だったんでしょ?」

おばちゃんは、軽く微笑みながらシゲさんのことを見上げました。


「はい・・・この黒いのはひどいケガをしてて・・・」

シゲさんは、ちょこんと座っておばちゃんの顔を見上げていた黒猫のことを軽く足で小突きました。


あずきと黒猫は、シゲさんとおばちゃんが何か自分たちのことを話していることが何となく分かりました。


「おい・・・なんか、やばそうじゃないか?」

黒猫は、おばちゃんの顔をじっと見上げているあずきに向かって言いました。


「うん・・・なんだろう?」

あずきは、おばちゃんとシゲさんの顔を交互に見ていました。そのときシゲさんは、今まであずきが見たことがない硬い表情をしていました。


「ね~え?・・・シゲちゃん・・・」

シゲさんが、何も言えずにいたのを見かねておばちゃんが切り出しました。


「ねえ、シゲちゃんさえ良ければ、この子たち・・・あたしんちで面倒見させてくれないかしら?」

そう言うと、おばちゃんは、またしゃがみこんで黒猫の頭をやさしく撫でました。


おばちゃんが、黒猫の頭を撫でていると、あずきが「自分も撫でて・・・」とでも言いたそうにおばちゃんに近付いてきました。


おばちゃんは、「よしよし・・・」と小声でささやくように言いながら、今度はあずきの頭を撫でました。


そのとき、そんな様子を見ていたシゲさんが口を開きました。


「おばちゃん・・・おばちゃんの気持ちは嬉しいんだけど・・・コイツらは、コイツらのことは、俺が面倒みたいんです。」

シゲさんは、真剣な顔でおばちゃんに言いました。


そして

「おばちゃんに迷惑かけちゃって本当に申し訳ないと思ってます…近いうちに出てきますから、もう少しだけ目つむってもらえませんか?」

と、おばちゃんに深々と頭を下げました。


そんな、真剣な顔のシゲさんをはじめて見たおばちゃんは

「シゲちゃん、そんな…やめて、頭上げてちょうだいな。あたしだって、こんなこと本当は言いたくないんだけどね・・・ただ、他のお部屋の手前もあるから・・・ごめんね。どうしたらいいのかしら・・・ごめんなさいね」

今度は、おばちゃんが、申し訳なさそうにシゲさんに頭を下げました。


「おばちゃん・・・おばちゃんには、前も世話になっちゃったし、これ以上やっかいかけられないから・・・少しだけ待ってください。お願いします・・・」

シゲさんの足元では、あずきと黒猫が不思議そうな顔でシゲさんを見上げていました。




仕事場へ向かう途中の車の中で、助手席のシゲさんは、ぼーっと外を眺めていました。


「で、シゲさん・・・あのアパート出て、行く当てあるんですか?」

ヒロシは、シゲさんのことを本気で心配しているようでした。


「いや・・・これから探すしかないな・・・大家のおばちゃん、ひと月だけ待ってくれるって言ってくれたから、それまでになんとかするわ」

シゲさんは、窓の外を眺めたまま答えました。


そのとき、シゲさんの胸のポケットからプルルルル…という音が聞こえてきました。


「あ、電話だ・・・」

シゲさんは、左手で胸のポケットから携帯電話を取り出しながら、右手でカーラジオのボリュームを下げました。


しかし、携帯電話を広げたシゲさんは、なぜかそのまま画面を見たまま電話に出ようとはしませんでした。


「シゲさん?出ないんですか?」

ヒロシは、不思議そうに聞きました。

シゲさんが握り締めた携帯電話からは、プルルルル・・・という呼び出し音がずっと鳴っていました。


そのまましばらくの間、シゲさんは画面を眺めていましたが電話に出る様子はありませんでした。


そして、電話の音が聞こえなくなると、シゲさんは軽くため息をついて電話を「パタン」と折りたたんで再び胸のポケットにしまいました。


「シゲさん・・・誰からだったんですか?」

ヒロシが、シゲさんの顔色をうかがいながら聞くと、シゲさんは、ラジオのボリュームを上げながら


「見たことない番号だったから・・・」

とだけ答えました。


「・・・そうですか。最近、変なの多いですからねぇ」

と、ヒロシはシゲさんに合わせて言いましたが、電話の相手がシゲさんの知らない人ではない。とヒロシは感じていました。



仕事場へ着いて車から降りたシゲさんとヒロシは、後ろの荷台から荷物を下ろして、建築中の建物の中へ運び入れました。荷台の荷物がすべて運び終わると、シゲさんは

「ヒロシ・・・悪いんだけど、ここ一人で大丈夫か?」

と、ヒロシに向かって聞きました。


「え?あぁ・・・大丈夫ですけど・・・どうしたんですか?」

ヒロシが、きょとんとした顔でシゲさんに聞きました。


「うん。ちょっと用事を思い出した・・・悪い。すぐ戻るから頼むわ…」

と言うと、シゲさんは、車の運転席のドアを開けて中に乗り込みました。



「シゲさん・・・どうしたんだろ? さっきの電話か?」

ヒロシが、ひとり言をつぶやくと同時にシゲさんは、勢いよく車を発進させました。




* * *


「ママ~!」

アキちゃんは、後ろを振り返ってママに手を振りました。


今日は、アキちゃんの授業参観日でした。

本当は、父親参観日でしたが、お父さんのいないアキちゃんのおうちではママが授業参観に

来ていました。


教室の後ろで他のおとうさん達と並んで授業を見ていたママは

「アキ!前を見なさい!」

と、少し恥ずかしそうに声に出さないで口だけ動かしてアキちゃんをにらみ付けました。


アキちゃんは、前を向きなおして、先生が算数の問題を黒板に書いたとたん

「はい!はい!は~い!」

と元気いっぱいに大きく手をあげました。



「あの子ったら・・・本当に答えが分かって手をあげてるのかしら?」

ママは、先生が問題を出すたびに元気よく手をあげているアキちゃんの後ろ姿を見ながらつぶやきました。



キ~ン コ~ン カ~ン コ~ン・・・


教室にチャイムが鳴って、授業参観が終わりました。


「はい。今日はこれで終わりだから、みんなお父さんと一緒におうちに帰っていいですよ」

先生が、そう言うと

「せんせいさよーならー。みなさんさよーならー!」

と、大きな声が教室に響き渡りました。


みんなは、教室の後ろにいるお父さんのそばに駆け寄って、一緒に手をつないで教室を出ていきました。


「アキちゃん!ばいば~い!」

まさるくんが、黄色い帽子を振りながらアキちゃんに言いました。


「まさるくん、ばいば~い!」

アキちゃんも、小さい体に大きな赤いランドセルを背負って、ママのそばに駆け寄りました。

「ママ~!帰ろ!」

アキちゃんがママの手を引っ張って教室を出ようとしたとき


「すみません・・・ちょっとお時間いいですか?」

と、アキちゃんの先生がママに声をかけました。


「え?私ですか?・・・はい・・」

と、ママが立ち止まるとママの手を引っ張っていたアキちゃんは、不思議そうな顔をして振り返りました。


「アキちゃん・・・先生、アキちゃんにお願いがあるんだけど、いいかしら?」

先生は、振り返ったアキちゃんに向かって微笑みながら言いました。


「なあに?先生・・・」

アキちゃんは、きょとんとした顔で先生に向かって聞き返しました。


「うん。あのね・・・アキちゃん、今からウサギさんのごはんあげてきてもらえないかなぁ」

先生は、にっこり微笑んでアキちゃんにお願いしました。


そんな先生のお願い事を聞いたアキちゃんは、顔中いっぱいの笑顔で

「うん!」

と大きな声で答えると、嬉しそうに赤いランドセルを左右に揺らしながら教室を飛び出していきました。


廊下を走るアキちゃんのパタパタという音を聞いて、先生は思い出したように教室のドアから顔を出してアキちゃんに向かって言いました。

「アキちゃーん!先生とおかあさんはここでお話ししてるからね~!」


「はーーーーーい!」

アキちゃんは、廊下を走りながら振り返らずに大きな声で手を振って答えました。



「アキちゃんは、ほんとうに動物が大好きですね・・・」

先生は、アキちゃんの後ろ姿を眺めながらママに向かって言いました。


「そうなんです・・・誰に似たのか・・・」

ママは、目を細めながら小さく苦笑いしました。そして

「先生? お話って・・・アキが何か・・・?」

ママは、少し心配そうな顔をして先生に聞きました。

「ええ、ちょっと気になりまして・・・」

先生は、目の前にあるイスをズルズルと引きずってママの前へ差し出して言いました。

「どうぞ・・おかけください」


「あ、はい・・・」

ママが、そのイスに腰を下ろすと、先生はもう一つイスを動かして、ママの正面に置き、自分もそのイスに腰掛けました。しかしすぐに、思い出したように立ち上がって教室の前の方へ歩き出しました。

「実は、おかあさんに見せたいものがあるんです・・・」

先生は、自分の机の引出しをガラガラと開けながら言いました。


そして先生は、引出しの中から紙の束を取り出してくると再びママの正面に座りました。


「え~っと・・・あ、あった・・・」

と、先生はひとりごとを言いなが、その紙の束から一枚だけ抜き取って、ママに差し出して言いました。

「おかあさん・・・これを見ていただけますか?」


ママが先生から受け取った一枚の紙は、クレヨンで絵が描かれた画用紙でした。



「あ、はい・・・アキのですか・・・?」

と言いながらママは、その絵を見ました。そして、その絵を見た瞬間


「え?・・・・これ・・・・」

ママは、そういうとそれ以上なにも言えなくなってしまいました。

そして、何も言わずにじっとその絵を見つめました。


「実は、今回は、お父さんかお母さんのどっちか一人だけを描いてください。ってことだったんですけど・・・」

と、言うと先生は他の生徒が描いた画用紙を何枚か机の上に並べだしました。


「他の子はみんな、お父さんかお母さんのどちらかを描いてるんですけど・・・アキちゃんのは・・・」

先生は、そこから先は何も言いませんでした。


ママは、先生の話を聞いている間もずっと何も言わずにその絵に見入っていました。


ママが、見たその絵には

髪の長いママ、その左側にはおかっぱ頭の小さな女の子が描かれていました。

アキちゃんでした。

そして、そのアキちゃんの左側にもう一人・・・

にっこり笑った髪の短い男の人が描かれていました。

その男の人が、アキちゃんのパパだというのは、ママにはすぐに分かりました。



そして、ママはゆっくりと顔を上げて先生に向かってつぶやくように言いました。

「先生・・・やっぱり子どもには父親がいないとダメなんでしょうか・・・・」


先生は、ゆっくりとイスから立ち上がってママの横を通って教室の窓の外を眺めながらいいました。

「お母さん・・・この学校にはアキちゃん以外にも、事情があってお父さんしかいない子や、お母さんしかいない子が何人かいますよ。でも、みんなとっても良い子ですし幸せだと思います。両親がそろっていないからと言って幸せじゃないというわけではないですよね。」


先生は、まだ窓の外を眺めながら続けて言いました。


「アキちゃんは、やさしくて思いやりのあるとても良い子です。友だちもたくさんいるし・・・お母さん、見てください。あのウサギのお世話もアキちゃんがクラスで一番一生懸命やってくれています。」

先生は、ちらっとママの方を向き、ママと目を合わせると再び窓の外に視線を戻しました。


そしてママも、窓のそばへ近付いてきて校庭を見下ろしてみました。


ママが、3階の教室の窓から校庭を見下ろすと、校庭のはじに建てられた小さな小屋のなかにアキちゃんの姿がありました。

アキちゃんは、小さなほうきを使って、その小さなウサギ小屋の中を掃除しているようでした。

ママと先生は、そんなアキちゃんの様子を何も言わずに眺めていました。


アキちゃんは、小屋の中の掃き掃除が終わると、小さな入口から這い出して、大きな袋の中から銀色の食器にウサギのエサを入れました。そして再び小屋の中へ入ると、ウサギがエサを美味しそうに食べるのをしゃがみこんでいつまでも眺めていました。


「アキ・・・」

ママは、そんなアキちゃんの姿を見て、あずきがごはんを食べているとき、床に寝転がってあずきがごはんを食べ終わるまでいつまでも眺めていた姿を思い出しました。


「アキちゃんは本当にやさしい子です・・・。」

先生は、もう一度言いました。そして、少し間をおいてから


「でも・・・最近・・・」

先生は、そう言うと、くるっと窓に背を向けてさっきまで座っていたイスの方に歩き出しました。


「最近、なんですか!?」

ママは、驚いたように先生の方へ向きなおして聞き返しました。


先生は、ゆっくりとイスに座り直して机の上に並べた子供たちの描いた絵をぼんやりと見つめながら言いました。

「はい・・・最近、アキちゃん・・・・おうちで何かありましたか?」

先生は、色とりどりの画用紙からママの顔へ視線を移しました。


ママは、その先生の質問に一瞬言葉を失いかけましたが、しばらく考えたあと


「ええ、実は・・・」

と、ゆっくり話し始めました。




* * *


「そうですか・・・猫ちゃんが・・・」

先生は、ママの話を聞いたあと、しばらくの間考えてからゆっくりと話だしました。


「ええ・・・あれから・・・猫がいなくなってから・・・元気に明るくなったかと思うと、急に黙り込んで悲しそうな顔をしたり・・・私もどう接したら良いのか、たまに分からなくなるんです。」

ママは、先生の顔を見ずにじっと床を見つめたまま話しました。


「やっぱり、おうちでもそうですか・・・」

先生も、ママの話を聞きながらママが見つめている床を同じように見つめていました。


「え?おうちでも・・・って、アキ・・学校でもそうなんですか?」

ママは、先生の言葉を聞くと驚いて顔を上げて先生の顔を見ました。


「・・・はい。いつものアキちゃんは元気いっぱいなんですけど、最近は急に元気がなくなって・・・休み時間にも校庭で遊ばないで一人で教室に残って絵を描いてたり・・・ってことがたまにあるものですから・・・」

先生は、心配そうな顔でママの目をみつめながらそう言うと、ゆっくりと立ち上がってまた自分の机に向かって歩き出しました。


そして、さっき開けた引き出しのひとつ下の大きな引き出しを開けて、一冊のノートを取り出しました。


「おかあさん・・これ見ていただけますか?」

先生がその一冊のノートを差し出すと、ママは

「・・・はい」

と小さく返事をして手を伸ばしました。



その時・・・




廊下から、パタパタ・・という足音がママと先生がいる教室に聞こえてきました。



「アキちゃんだわ・・・おかあさん、このノート・・・家で見てみてください」

先生は、早口でそう言うと目の前の机の上に並べた画用紙を急いでかき集めて自分の机の引出しにしまいました。

そして、ママは先生からノートを受け取ると、脇に置いてあったバッグの中に急いで滑りこませました。


ママが、イスから立ち上がってバッグを左の肩にかけたと同時に、アキちゃんが勢いよく教室に飛び込んできました。


「せんせー!終わったよー!」

アキちゃんの赤いスカートには、細かいワラのくずがたくさんくっ付いていました。


「あら。ありがとう、アキちゃん!じゃあ、今日はママと一緒におうちへ帰ってね。」

先生は、アキちゃんの頭を軽くなでて微笑みながら言いました。


「じゃ、アキ!帰ろっか?」

ママは、アキちゃんの頭に黄色い帽子をちょこんと乗せると元気よくアキちゃんに向かって言いました。

そして、ママは先生と目を合わせると小さくうなずきました。


先生も、ママの目を見ながら小さくうなずきましたが、その先生の表情は、口元は微笑んでいましたが目は笑ってないようにママには見えました




* * *


「ねえ・・・アキ?」

ママは、学校からの帰り道、アキちゃんと手をつないで歩きながらアキちゃんに声をかけました。


「うん? なあに? ママ」

黄色い帽子をかぶったアキちゃんは、ママの顔を見上げました。

アキちゃんは、ニコニコしていました。


「あ・・・うん。えっと・・・あ、アキ! あのウサギさん、アキが一番よく面倒見てるって、先生誉めてたよ」

ママは、アキちゃんの顔を見ると、本当に言いたいことが言えなくなってしまいました。


「うん!だって、可愛いんだよ!ウサギさん。」

アキちゃんは、本当に嬉しそうな顔で答えました。


「そう。 なんて名前なの?ウサギさん・・・」

ママは、そんなアキちゃんの表情を見ているうちに、言いたかったことを「言うのはやめよう」と決めました。


「あのね!2ひきいるんだけど・・白いのが、ひめか。それでね、黒いのが、くるみって言うんだよ!アキが名前つけたんだぁ!」

アキちゃんは、そう言うと、嬉しそうにママとつないだ手を大きく前後に振りました。




その日の夜、アキちゃんがベッドに入ってスヤスヤと寝息をたてたのを確認してから、ママはこっそりと玄関のドアを開けました。

そして、ゆっくりと音を立てないように外に出たママは、車に乗り込んで静かに発車しました。



ママは、しばらく車を走らせるとファミリーレストランの駐車場へ入りました。


「いらっしゃいませ・・・お一人ですか?」

レストランの店員の女性がママに向かって声をかけました。


「あ、いえ・・待ち合わせですので・・」

そう言うと、ママはお店の中を見渡しました。

ママが、店の一番奥のソファー席に目をやると、こっちを見ている一人の男性が目に入りました。

「あ・・・いましたので・・」

そう、店員に答えると小さく頭を下げたママは、急ぎ足で店の奥へと歩いていきました。




ママが、その男性の座っている席に近付くと、その男性は軽く右手を上げました。

そして、ママが男性の反対側に腰をおろすと同時に言いました。




「どうしたんだ? 急に・・ もう電話もしないって言ってたのに・・・急に会いたいだなんて」

その男性は、少し心配そうな顔でママに聞きました。


その時、ママと男性の席にさっきの店員の女性が水の入ったグラスとおしぼりを持ってきました。

「いらっしゃいませ。ごゆっくりどうぞ・・」

店員は、ママの前に水の入ったグラスとおしぼりを置くと、小さく頭を下げて言いました。


「あ、すいません。コーヒーください・・・」

ママは、店員が立ち去る前に注文を済ませると、グラスを手にとって一口水を飲みました。


そして

「ごめんね。昨日は・・・電話なんてしちゃって。仕事中だったんでしょ?」

ママは、その男性の目を見ずに両手で握り締めたグラス見ながら小さな声で言いました。


「いや・・いいんだ。俺の方こそ、昨日はどうしても都合がつかなくて・・・なにかあったのか?」

男性は、そう言うとコーヒーを一口飲みました。




「うん。 あのね・・・」

ママは、そこまで言うと、そこから先の言葉がなかなか口から出てきませんでした。



そして、しばらく考えこんでから、何かを決意したかのようにやっと次の言葉を口にしました。



「あのね・・・実は・・・アキのことなんだけど・・・」


ママは、まだグラスを見つめていました。




「・・・うん。 アキがどうした?」


男性は、真剣な顔でママの目をのぞきこんで聞き返しました。





その男性は、シゲさんでした。




* * *


「カオル・・・どうした? アキに何かあったのか?」

シゲさんは、ママの顔を覗き込むように聞きました。


「ママは、しばらく何も答えずに下をうつむいているばかりでした。」


隣のテーブルからは、若い男女の笑い声が響きわたっていました。

その笑い声のする方に、ママはゆっくりと顔を向け、再び目線を自分の手元に移したママは、何も言わずにバッグの中から1冊のノートを取り出しました。


授業参観の日、アキちゃんの担任の先生からママが手渡されたノートでした。


「ねえ、これ見て・・・」


ママは、小さい声でそう言うと、そのノートをシゲさんの前に差し出しました。


「ん? なんだ、このノート・・・」

シゲさんが、そのノートを手に取りました。


「おえかきちょう?」


シゲさんが、ママから受け取ったノートは、アキちゃんのおえかきノートでした。

「先週、授業参観があったの。その時にアキの担任の先生から渡されたのよ。」


「そっか・・・」

シゲさんは、一言だけ言うと、そのノートの表紙をめくりました。


そのノートには、アキちゃんが書いた元気いっぱいの文字と、色鉛筆で書かれたカラフルな絵が所狭しと描かれていました。


シゲさんが、ペラペラと何枚かページをめくってみると

どうやら、それは、絵日記ノートのようでした。




【4がつ1にち どようび はれ】


きょうは、まさるくんがおうちにあそびにきました。

まさるくんとあずきといっしょにかくれんぼをしてあそびました。

あずきはかくれるのがとってもじょうずでした。

アキもかくれんぼがもっとじょうずになれたらいいのになあと

おもいました。





【4がつ2にち にちようび くもり】


きょうは、ママといっしょにおばあちゃんのおうちにいきました。

あずきもいっしょにいきました。

おばあちゃんちのコロとあずきはなかよくあそんでいました。





【4がつ3にち げつようび はれ】


きょうのきゅうしょくはカレーでした。アキは、にんじんがたべたくなかったけど、

あずきはにんじんがだいすきだから、アキもがんばってぜんぶたべました。





【4がつ4にち かようび くもり】


きょうは、こくごのじかんにさくぶんをかきました。

アキは、あずきのことをさくぶんにかきました。せんせいは、とってもじょうずにかけましたねってほめてくれました。おうちにかえってきて、あずきにもさくぶんをきかせてあげました。




【4がつ5にち はれ・・・・




「なあ、このあずきって・・・猫、飼いはじめたのか?」

シゲさんは、アキちゃんの絵日記に何ページか目を通したあと、ママに聞きました。


「ええ、そうなの・・・正確には、飼ってた・・・なんだけどね」

ママの表情が少し寂しそうな顔になりました。


「飼ってた? どうしたんだ? 死んじゃったのか?」

シゲさんは、身を乗り出してママに聞きました。



「いいえ、ちがうの・・・いなくなっちゃったの」

ママは、顔を上げてシゲさんと目を合わせました。


「いなくなった? 逃げ出したのか?」

シゲさんは、ママにそう聞き返したとき、なぜか一瞬頭の中に自分の部屋にいるシロとクロのことを思い浮かべました。


「私の不注意で…アキがもの凄く可愛がってたの・・・その猫。」

ママの目にうっすらと涙が浮かんでいるようにシゲさんには見えました。


「そうか・・・いつ頃の話だ? 最近なのか?」

シゲさんは、ノートをパタンと閉じて、テーブルの上に置くと、コーヒーカップに手を伸ばしました。


「いなくなったのは、3月半ば頃かしら・・・もうだいぶ経つんだけど、それからずっとアキがおかしいの・・・急にメソメソしたり、かと思えばすごく明るく元気になってみたり・・・精神的に不安定みたいで・・・私、どうしたらいいのか・・・」

ママは、今まで誰にも言えず思いつめていたことを一気に話し出しました。



「そうだったのか・・・ペットロス・・・ってやつかなぁ」

シゲさんは、コーヒーカップを持ち上げて口に近づけようとしましたが、カップの中が空なことに気づいて、再びテーブルの上にカップを戻しました。


「あ、すいません・・・コーヒーおかわりください。」

シゲさんは、近くを通りかかった店員に声をかけました。


コーヒーのおかわりを注文したシゲさんは、空いたコーヒーカップから隣に置かれていたノートに目を移しました。

そして、少しの間ぼんやりと眺めたあと、突然何かに気付き驚いたような表情でママの顔を見て言いました。


「え、おい! 3月って・・・この絵日記の日付、4月になってるじゃん」

シゲさんは、慌ててノートを手に取ってペラペラめくって絵日記の日付を確認しました。



「・・・そうなの。その絵日記、4月から始まってるけど、その頃もう猫はいないの・・・あずき、もういないのに、アキったら・・・ずっと毎日毎日あずきと遊んだって書いてるの・・・」

ママの瞳には、さっきよりもたくさんの涙が溢れていました。


そんな、今にも涙がこぼれ落ちそうなママの瞳を見たシゲさんは、自分のジーパンのポケットに手を突っ込んでハンカチを引っ張り出しました。

しかし、ポケットから引っ張り出したそのハンカチが、あまりにもクシャクシャで、もう何日も洗濯していないことに気付いたシゲさんは、何も言わずにそっとまたジーパンのポケットにハンカチを押し込みました。


そして、テーブルの上に置いてあった紙ナプキンの入れ物をママの前にそっと差し出しました。


目の前に紙ナプキンを置かれたママは、その意味が分かっていましたが、何も言わずに自分のバッグから、きちんとアイロンの掛かった清潔なハンカチを取り出して自分の目頭を押さえました。


そんなママの様子を見たシゲさんは、ポリポリと軽く頭を掻いて、そっとまた元の位置に紙ナプキンの入れ物を戻しました。


そして

「コホン・・・」

と軽く咳払いをしてから、シゲさんは真剣な顔でママに向かって言いました。





「なあ、カオル。アキに会わせてくれないか?」




* * *


「アキに会わせてくれないか?」

シゲさんは、もう一度ママに向かって言いました。


ママは、何も言わず黙っていました。

そこに、店員がコーヒーのおかわりを持ってきました。

店員の女性は

「お待たせしました」

と言い、シゲさんの空いたカップにコーヒーを注ぎました。

そして、何も言わずに差し出したママのカップにもコーヒーを注ぐと

「ごゆっくりどうぞ」

と言い残して奥へと消えていきました。


うっすらと湯気が立ち上るコーヒーカップに、ミルクをほんの少しだけ垂らしたママは、スプーンで軽くかき回すと、カップの中でゆっくりと形を変えていく白いミルクの渦を眺めていました。


そして、コーヒー全体がゆっくりとミルク色に染まったとき、ママが静かに口を開きました。


「うん・・・でも、アキに会う前に・・・お願いがあるの・・・」



「お願い?」

シゲさんは、不思議そうな顔をしました。


「うん・・・」

そう言うと、ママは再び黙り込みました。



「なあ、ひとつ聞いてもいいか?」

口を開いたのはシゲさんの方でした。


「うん。なあに?」

ママは、パッと顔をあげました。


シゲさんは、テーブルの端に置いたノートを再び自分の前へ移動させると、その表紙を見ながらママに言いました。

「なあ・・・まだアキの名前、前のままにしてあるのか?」

ノートの表紙の下のほうにマジックで大きく書かれたアキちゃんの名前の名字はシゲさんの名字が書かれていました。


「まだ、俺の名字使ってくれてるのか・・・?」

シゲさんは、ずっとそのノートを見つめていました。



ママは、少し困った顔をしながら、コーヒーをひと口飲んだあと小さな声で言いました。

「あのね、お願いっていうのは・・・」


そんな、シゲさんの質問を無視するように続けるママの言葉に、シゲさんは、ママと同じようにコーヒーをすすりながら耳を傾けていました。




「わたしたち、もう一度、一緒に暮らせないかしら?」




「ぐふっ! ゲホゲホ! ゴホッ!」


突然のママの言葉に、シゲさんは飲みかけていたコーヒーを吹き出しそうになり、慌てておしぼりで口をふさぎました。


そして、まだゲホゲホしながら、甲高い声でママに言いました。


「お、おい! それマジで言ってんのか?」

シゲさんは、ようやくゲホゲホがおさまって、おしぼりをテーブルの脇に置くと、今度はグラスを手にとって、一気に水を飲み干しました。


「それって、もう一度やりなおそう・・・って意味に取ってもいいのか?」

シゲさんは、必死で冷静なフリをしながらママに聞きました。




「うん・・・ってゆーか、実は・・・籍、まだ抜いてないの・・・ごめんなさい」

ママは、コーヒーカップをぼんやり眺めながらそう言ったあと、シゲさんの顔を上目づかいでチラッと見ました。

シゲさんは、ママの顔を見ながらポカンと口を開いたまま、何か言いたそうな顔をしていましたが、何も言えない様子でした。


そんな、シゲさんの顔を見て、ママは少しだけ口元に微笑みを浮かべながら

「なんて、顔してるの?」

と言いました。


「・・・・だ、だってお前! 離婚届、出したんじゃないのか!?」

シゲさんは、ポカンと開いた口から、やっと言葉を出すことが出来ました。


「ごめんね・・・どうしても、出せなかったの・・・。だから、アキも私も名前なんてかえる変える必要なかったの」

ママは、シゲさんの顔色をうかがうように小さな声で言いました。


そんな、ママの告白を聞いたシゲさんは、しばらくの間、何も言わずただ口をパクパクしていましたが、脇に置いたおしぼりでもう一度口の周りを拭いてから、ゆっくりと落ち着いて話し出しました。



「そ、そうだったのか・・・知らなかったよ。俺は、てっきり・・・急に月に一度の面会も断られたから、新しい彼氏でもできたのかと思ってた・・・」

今度は、シゲさんがママの顔色をうかがうような目つきで言いました。



「そんな、余裕なんて無かったわ。別れてからは、どうやって女手ひとつでアキのこと育てたらいいのか必死で・・・仕事と家のことで追われてばっかりで・・・」

ママは、苦笑いしながら続けました。


「それでね、今更ながら最近になってやっと分かったの。あなたが仕事仕事!ってがんばってくれてたのは、私やアキの為だったんだって・・・そんなことも分からずに、家庭に寄り付かないあなたを追い出すようなことしてしまって・・・ごめんなさい。私も、自分で働いてみてやっと分かったの。今、アキがこんな状態でも私一人ではどうすることも出来ないし、こんな時にあなたがいてくれたら、どんなに心強かったか・・・私には父親の代わりは無理みたい。勝手なことばかり言ってごめんなさい。でも、やっと気付いたの。私たちには、やっぱりあなたが必要だってこと・・・」


ママは顔をうっすらと赤くして、目には涙を浮かべながら言いました。


そして、何も言わずにうつむいているシゲさんの顔をチラッと見たママは、

「勝手よね・・・今更、こんなこと・・・」

と、言って苦笑いしました。

「勝手なんかじゃない・・・」

ずっと黙ってママの話を聞いていたシゲさんが、ようやく口を開きました。


「え?」

ママは、少し驚いたように顔をあげました。



「カオルは、勝手なんかじゃないよ・・・勝手なのは俺の方だよ。アキが小さくて、大変なときに勝手に会社辞めて独立するなんて言い出して、家にも帰らず毎日仕事のことばっかり考えてて、カオルの言うとおり確かに家に寄り付かなかった・・・ってゆーか、気付いた時には、お前やアキの顔をまともに見れなくなっていた。それで、家に帰りづらくなってしまって・・・カオルがアキの子育て、家のこと、頑張ってくれていたのは分かってた。分かってたから、余計に会わす顔がなくて・・・ごめん。」

シゲさんの目にも、うっすらと涙が溢れていました。


「カオルが、籍を抜いてなかったこと、俺たちがまだ夫婦として繋がっていられたこと、まだ、アキのパパでいられたこと、すげー嬉しい。それから、もう一度一緒に暮らしたい・・・って言ってくれたこと、俺はずっと思ってた。最近は会えなかったけど、月に一度アキと会った時、何度カオルに言い出しそうになったことか・・・でも、言えなかった。前向きに頑張ろうとしてるお前やアキのこと考えると言い出せなかった。


すげー嬉しいよ。本当にいいのか? 俺でいいのか?」


シゲさんは、興奮気味に一気に話しました。



そんな、シゲさんのことを隣のテーブルの若者たちが、不思議そうに覗き込んでいました。


「うん。あなたさえ良ければ・・・もう一度、アキのいいパパになってあげて・・・」

ママは、そう言うとニッコリと微笑みました。



「うん・・・カオル。ありがとう。本当にありがとう!」

シゲさんは、テーブルの上に伸ばしていた両腕を膝の上に置きなおしてからママに向かって小さく頭を下げました。


そんな、シゲさんのことを見たママも

「こちらこそ またお願いします」

と、慌てて頭を下げました。

同時に頭を上げたシゲさんとママは、目を合わせると、照れくさそうに笑いました。



「あ、そうだ! 俺さぁ、実は今、猫飼ってるんだよ。このアキの日記見てて、なんか偶然だな~って思って」

シゲさんは、照れくさそうに目を細めて言いました。


「ふ~ん、そうなの・・・変わったね。昔は、アキが犬飼いたいって言っても絶対に許さなかったじゃない。動物嫌いじゃなかったの?」

ママが、意外そうな顔をして聞きました。


「え? 動物嫌い? とんでもない! その逆だよ。だから、中途半端には飼いたくなかっただけだよ。」

シゲさんは、タバコに火を点けながら答えました。


「それでさぁ、思ったんだけど、アキ、そのあずきって猫が居なくなって今大変なんだろ?俺がいま飼ってる猫・・・実は、2匹いるんだけど真っ黒なのと真っ白いのがいるんだよ。会わせちゃまずいかなぁ? 特に白いのなんて、このあずきとそっくりだし・・・余計なこと思い出させちゃうよな・・・」

シゲさんは、絵日記ノートをペラペラとめくりアキちゃんが色鉛筆で描いたあずきの絵を見ながら言いました。


絵日記の中には、白い猫を胸に抱きかかえた小さな女の子、その両側には、やさしそうに微笑むパパとママが描かれていました。


「うん・・・そうね。今のアキ猫には過敏になってるから・・・前も、あずきがいなくなって落ち込んでるアキのこと心配して近所の人が子猫が産まれたからどう?って連れて来たことがあったんだけど、アキったら・・・」

ママは、そこまで言うと悲しそうな顔で話すのをやめました。


「アキ、イヤだって?」

シゲさんは、ぼそっと聞き返しました。


「うん。あずきが帰って来たときに他の猫がいたら、あずきが戻って来れなくなっちゃう・・・って」

ママは、広げられた絵日記の中のあずきを抱いたアキちゃんのことを見ながら答えました。


「そうか・・・本当にアキはあずきのことが大好きなんだな・・・」

シゲさんも、ママが見ている絵日記の中のアキちゃんを見ていました。

「そうなの。アキにとってあずきは本当に特別だったみたい・・・」

* * *


「ねえ、シゲちゃん。引越しはいつなの?」

最後の家賃を取りにきたおばちゃんが、荷物をまとめているシゲさんに向かって言いました。


「あ、え~っと、来週の日曜日に・・・」

シゲさんは、部屋中に散らかっている荷物をどこから手をつけて良いものか、腕を組んで考え込んでいました。


「シゲちゃん。なんか、ごめんなさいね・・・追い出すみたいで・・・」

部屋の中で荷造りをしているシゲさんに向かって、おばちゃんが玄関から声をかけました。


「そんなことないですよ・・・おばちゃんには、いろいろお世話になっちゃって・・・ありがとうございました。またちょくちょく遊びにきますね・・・」」

シゲさんは、大きなダンボール箱に服や本などをごちゃ混ぜにして放り込みながら言いました。


「そうね。いつでも遊びにきてちょうだいね・・・約束よ。 ねえ、シゲちゃん、今度の部屋は猫ちゃん一緒でも大丈夫な所を探したんでしょ?」

おばちゃんが、足元で甘えている黒猫とあずきの頭や胸のあたりを撫でながら聞くと、それを聞いていたシゲさんは、いっぱいになったダンボール箱にテープで蓋をしている手を止めました。


そして、しばらく考え込んだあと、おばちゃんの顔を見て口を開きました。


「おばちゃん・・・実は、俺・・・結婚してるんですよ。ちょっと訳あって離れて暮らしてたんですけど、今度また一緒に暮らせることになって・・・それで・・・」

シゲさんは、そこまで言うとダンボールに貼り付けたテープをビリリと切りました。


「あら、そうだったの・・・知らなかったわ~。あたしったら、シゲちゃんは独身なのかとばっかり思ってたわ。そう・・・それは、良かったわね・・・シゲちゃん、お子さんもいるの?」

おばちゃんは、少し驚いたような声を出しましたが、メガネの奥の細い目はやさしく微笑んでいました。


「はい。子どもは、娘が一人・・・いま3年生なんです・・・あ、そうだ! え~と・・・」

シゲさんは、そう言うと部屋中に散らかった荷物の中から一枚の写真を見つけ出しておばちゃんに差し出しました。


「娘です・・・だいぶ小さい時の写真ですけどね・・・アキって言うんです。」



おばちゃんが、シゲさんからその写真を受け取ったとき、おばちゃんの足元に絡みついてじゃれていたあずきが、その動きを止めました。


そして、あずきはまん丸い目でシゲさんの顔を見上げると「にゃ~」と鳴き声をあげました。


「ねえ、いま なんていったの?」


あずきには、シゲさんとおばちゃんの話している言葉は分かりませんでした。しかし、たった今、シゲさんの口から出た言葉は、あずきには聞き覚えのある言葉でした。

その言葉を聞いたとき、あずきは体中が熱くなるのを感じました。そして、どこか懐かしくてとってもやさしい気持ちになったような気がしました。


「にゃ~」

あずきは、もう一度なき声をあげました。


「どうしたんだ?」

シゲさんの足元にすり寄ったあずきに向かって黒猫が声をかけました。


「うん・・・なんでもないの・・・」

黒猫に声をかけられたあずきは、シゲさんのそばから離れて再びおばちゃんの元へ近付きました。


「はい、よしよし・・・お前は甘ったれだねぇ」

おばちゃんが、また近付いてきたあずきの喉元をやさしく撫でてやると、あずきは目を細めて「ごろごろ・・・」と喉をならしました。


「おまえたち、家族が増えるんだって・・・良かったねぇ。おねえちゃんにいっぱい可愛がってもらいなさいね・・・」

そういうと、おばちゃんは、もう片方の手で黒猫の頭もやさしく撫でました。



「おばちゃん・・・実は、そのことなんですけど・・・」

おばちゃんが、あずきと黒猫のことを撫でているのを、荷造りしていた手を止めてぼんやり見ていたシゲさんが口を開きました。


「え? そのことって・・・なんのことだい?」

おばちゃんは、しゃがみながら顔をあげました。


「こいつらのことなんですけど・・・実は、訳あって娘には会わせられないんですよ・・・」

シゲさんは、そういうと自分もあずきたちの後ろにしゃがみこんで、あずきと黒猫の背中をゆっくり撫でました。


「あら・・・そうなの? かわいそうに・・・」

おばちゃんは、あずきたちから手を離して「どっこいしょ」と小さい声で言いながらゆっくり立ち上がりました。


「それで、もし・・・おばちゃん、迷惑でなかったら、こいつらのこと面倒見てもらえませんか?」

シゲさんは、おばちゃんの顔は見ずにあずきと黒猫の背中を見ながら寂しそうな声で言いました。


おばちゃんは、少しの間考えたあと、ゆっくりと口を開きました。

「そう・・・この子たちならあたしも大歓迎だけど・・・シゲちゃんはそれでいいの? 前に、この子たちは自分が面倒見たいって言ってたじゃない」


「ええ、そうなんですけど・・・ちょっと状況が変わっちゃったもので・・・でも、おばちゃんだったら安心して任せられるし・・・」

シゲさんは、ゆっくりと立ち上がりながら答えました。


「そう・・・お嬢ちゃんのこと考えたら仕方ないわよね・・・わかったわ。あたしんちで面倒見させてもらうわよ。会いたくなったらいつでも会いに来てちょうだいね・・・」

おばちゃんは、そう言うとまたしゃがみこんで、あずきと黒猫の頭を撫でました。


あずきと黒猫は、シゲさんとおばちゃんがどんな会話をしていたのかは分かりませんでしたが、シゲさんが寂しそうな顔で自分たちのことを見ていたのが、少しだけ気になりました。




「ねえ、アキ・・・今度の日曜日、パパに会うんだけど・・・」

ママは、ニコニコしながら美味しそうにケーキをほおばっているアキちゃんに向かって言いました。


「え? パパ?」

アキちゃんは、驚いて口のまわりにクリームをいっぱいつけたまま、ママの方に顔を向けました。


「うん。日曜日、パパに会うの・・・」

ママは、小さくうなづくとアキちゃんに微笑みかけました。


「でも、ママ~、もうパパには会えないんじゃなかったの?」

アキちゃんは、口のまわりのクリームをべろんと舌で舐めながら聞き返しました。

「うん・・・そうだったんだけど・・・あのね、アキ。よく聞いてちょうだい・・・」

ママは、そう言うとアキちゃんのそばに近付いて腰を下ろしました。


「あのね・・・アキ。今までずっとパパと離れ離れで暮らしてたでしょ? でもね、今度またパパとママとアキと3人で暮らそうかと思ってるの・・・アキはどう思う?」

ママは、アキちゃんのほっぺたに付いたクリームを指で拭き取りながらやさしい声で聞きました。


アキちゃんは、きょとんとした顔でママの話を聞いていましたが、少し考えたあとニコニコしながら答えました。

「う~んと・・・アキ、パパと一緒に住めたらすご~く嬉しい!」


「そう、嬉しい? 良かった!」

ママは、アキちゃんの鼻を指で軽くつまむと、左右に小さく動かしました。そして、ニコニコしているアキちゃんのおでこに自分のおでこをくっつけてささやくように言いました。


「アキ・・・今までごめんね・・・」




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