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第4話 黒ねことシゲさん

* * *


「・・・大丈夫か?」

黒猫は、星空をずっと眺めながら涙を浮かべているあずきの目を覗き込んで言いました。


「・・・うん」

あずきは、視線を黒猫の顔に移してうなずいてみせましたが、黒猫の顔は、夜の闇の中ではどこに目や鼻があるのかがすぐに分かりませんでした。


「そうか・・・じゃあ、今夜のねぐらをさがさなくちゃな・・・」

黒猫は、そう言うと辺りを見回しました。


あずきと黒猫は、大きな犬に追われて細い路地を必死に逃げて、ブロック塀に開いた小さな穴へ飛び込みなんとか逃げ切りました。

あずき達が逃げ込んだそのブロック塀の向こう側は、小さな空き地になっていて、いろんな大きさの材木が高く積み上げられていました。

その積み上げられた材木の上には、大きなビニールのシートが被せてありました。

黒猫は、その材木の山に慎重に近付いて、上に被せてある大きなシートと地面の隙間に顔をつっこんで中を覗きました。


そんな黒猫のことを、あずきはすぐ後ろから見守っていました。

黒猫は、頭をつっこんだビニールシートの隙間にそのままガソコソと音をたてながら潜り込んで、あずきからは黒猫の姿が見えなくなってしまいました。

あずきは、暗闇の中でひとりぼっちになってしまい、急に不安になって、たった今黒猫が入って行ったシートの隙間に近づきました。


あずきが、わずかに開いたシートと地面の隙間に顔をつっこもうとした瞬間、その隙間から黒猫の真っ黒い顔がニュ~っと現れました。

あずきは、びっくりして後ろの方に軽くジャンプしました。


そんなあずきのことを気にもせず黒猫が言いました。

「ここなら大丈夫そうだ・・・寒さも少しはしのげるだろう。今夜はここに寝ることにしよう・・・」


「・・・うん。」

あずきは、そう返事したものの自分がこんな場所で眠ることになるなんて信じられませんでした。

あずきは、いつも寝るときはアキちゃんの布団に潜り込んでアキちゃんに体を撫でてもらいながら寝ていました。

「このシートの中には、暖かいお布団があるのかしら?」

なんて、ありえないことをあずきは一瞬だけ期待しましたが、その期待は黒猫のあとに続いてシートを潜った瞬間に消え去りました。


黒猫とあずきは、せま苦しい材木とシートの隙間を奥のほうまで進んでいくと、少しだけ材木とシートの間の空間が広くなっているところがあり、黒猫がそこに置いてあったダンボール箱の上にぴょこんと飛び乗って言いました。

「今夜は、ここで寝よう・・・」


あずきは、しばらくの間、動けずにいましたが、覚悟を決めて黒猫が飛び乗ったダンボールの上にピョンと飛び乗りました。

ダンボールの上はあずきが思ったよりも広くて、黒猫はあずきが飛び乗ったときにはもう丸くなって寝る姿勢になっていました。

あずきは、黒猫が丸くなっている姿をしばらく見ていましたが、自分もなんだか眠くなってきて黒猫の邪魔をしないように、黒猫から少し離れて丸くなりました。


あずきが、深い眠りにつくまでにそんなに時間はかかりませんでした。


あずきは、夢を見ていました。

それは、広い広い草原でアキちゃんと追いかけっこをしている夢でした。

思う存分アキちゃんと遊んだあと、広い草原に大の字になって寝転ぶと、はるかかなたの青い深い大空に白くてふわふわした雲がゆっくりと流れていました。

「あの雲はどこまで流れて行くのかしら? この空はどこまで続いているんだろう?」

とあずきが考えていると、次の瞬間、あずきの体はその雲の上にありました。

雲の上は、あずきが想像していたよりもやわらかくて、とても暖かくて、まるでアキちゃんの布団の中にいるような気分でした。


あずきが雲の中を進んでいくと、アキちゃんが座っている後ろ姿が見えてきました。

あずきが、アキちゃんに近付くとアキちゃんがあずきに気付いてゆっくりと振り返りました。

そして、振り返ったアキちゃんの腕の中には、1匹の猫が抱かれていました。

あずきは、自分の目を疑いました。

「私はここにいるのに・・・」

アキちゃんが、どうしてここにいる自分のことを抱っこしているのか・・・あずきは、すぐに分かりました。

振り返ったアキちゃんが、抱っこしていた1匹の猫は、自分ではなく茶色い毛のまったく見たこともない猫でした。アキちゃんが、その茶色い猫に顔を近づけると茶色い猫はアキちゃんの口元をペロペロと舐めました。


アキちゃんが、その猫に向かって笑いながら言いました。

「やめてよ~、くすぐったいよぉ・・・あずき・・・」

そのとき、あずきの足元の白いふわふわだった雲が、突然煙のように消えてなくなって、あずきの体は高い高い空の上からまっ逆さまに落ちていきました。


「んニャ~ッ!」

あずきは、小さい叫び声をあげると同時に目を覚ましました。

夢を見ていたのだと気付いたとき、あずきはダンボール箱の上から落っこちていました。

あずきの声に目を覚ました黒猫が、箱の上から顔を出してあずきのことを見下ろして言いました。


「・・・どうした?」


あずきは、その声にびっくりして慌てて黒猫の顔を見上げました。

「ううん・・・なんでもないの」

そう言うと、あずきはとぼとぼと外へ向かって歩き出しました。


そんなあずきのうしろ姿を何も言わずにしばらく眺めてから、黒猫はまた丸くなって眠りにつきました。

あずきは、ビニールシートの中から外へ這い出して、夜空を見上げました。

あずきが見上げた夜空には、小さな光が無数に輝いていました。


あずきは、その星空を眺めながら、アキちゃんの顔を思い浮かべていました。

「アキちゃん、きっと怒ってるんだわ・・・あんなに可愛がってくれたのに、勝手にお外に出たりして・・・」


あずきがキラキラ輝く星空を見上げていると、あずきの後ろから黒猫も這い出してきました。

「眠れないのか?」

黒猫は、あずきの横に並んで一緒に星空を見上げました。

「明るくなったら、お前さんをちゃんと家に連れていってやるから・・・心配しないでゆっくり寝ろよ・・・」


「・・・うん。ありがとう、黒猫さん」

あずきは、そう言うと再びシートの奥へと潜り込んでダンボール箱のベッドにピョンと飛び乗りました。


あずきがシートの中へ消えたあと、少しの間星空を見上げていた黒猫は、ブルブルッと小さく身震いをしました。

「今夜は冷えるな・・・」

そして、黒猫もシートの奥へと消えて行きました。




* * *


「そうなのよ・・・私、本当にどうしたらいいのか・・・」

ママは、ダイニングのイスに座り、こたつで眠ているアキちゃんを横目で見ながら電話で話していました。


「あらあら、アキちゃん可哀想にねぇ・・・猫ちゃん無事ならいいけどねぇ」

ママの携帯電話から、おばあちゃんの心配そうな声がかすかに漏れていました。


「本当に・・・こんな時、父親がいてくれたら・・・って思うわ」

そう言うと、ママは深いため息をつきました。


アキちゃんの家には、パパがいませんでした。

アキちゃんが、今よりもっと小さい頃、アキちゃんとママは、パパとは別々に暮らすことになりました。

アキちゃんは、どうしてパパと離れて暮らしているのかは分かりませんでしたが、ママにパパの話をすると、ママはいつも悲しそうな顔をするので、アキちゃんはママの前でパパの話をすることはありませんでした。


でも、アキちゃんは、ママが大好きだしパパがいなくても、ちっとも寂しいと思ったことはありませんでした。ただ、小学校で友達に「どうしてアキちゃんちにはパパがいないの?」と聞かれたとき、アキちゃんはどうして良いのか分からなくて泣いてしまうことがありました。


そんな時だけは、アキちゃんは「パパがほしい・・・」と思いましたが、ママにそのことを伝えたことは一度もありませんでした。


「あなたたち・・・もう一度やり直すことはできないの? いまでも、アキちゃんとはたまに会わせているんでしょ?」

おばあちゃんは。ずっと胸にしまっておいた言葉をやっと口に出しました。


「うん。月に一度ね・・・」

ママは、消えそうな声で答えました。


「今回のことだけじゃなくて、これからもっとアキちゃんには父親が必要なときがきっと来るわよ・・・それに、アキちゃんだけじゃなくて、あなただって・・・」

おばあちゃんは、そこまで言うとそれ以上の言葉は口にしませんでした。


「・・・うん。わかってる」

ママが、そう答えたとき、こたつで寝ているアキちゃんが「あずき・・・おいで・・・」と寝言を言いながら寝返りをしてママの方へ顔を向けました。

そんなアキちゃんの顔を見つめながら、ママは「ごめん・・・またかけるね」と、おばあちゃんに言うと電話を切ってアキちゃんのそばへ近づき


「アキ・・・風邪ひいちゃうからベッドで寝よ・・・」

と言ってアキちゃんの小さな体を抱き抱えて寝室へ向かいました。







材木の上に被された大きなビニールシートの下のダンボール箱の上で再び丸くなって朝を待つことにしたあずきでしたが、さっき見た夢が頭の中から離れずになかなか寝付くことができませんでした。


あずきから少し離れて丸くなっていた黒猫が、そんなあずきに気付き、何も言わずにあずきへそっと近付いて、あずきの小さな体の上に覆い被さるようにして自分の大きな胸の中へ抱き抱えました。

「これで、眠れるか・・・?」


そんな黒猫の言葉に、あずきは寝ているフリをして何も答えませんでした。

黒猫の胸の中はとても広くて暖かくて、あずきはアキちゃんに抱っこされているような気分でした。そしてあずきはいつの間にか深い眠りについていました。



あずきが目を覚ましたとき、そこに黒猫の姿はありませんでした。

あずきは慌ててダンボール箱から飛び下りてビニールシートの外へ向かいました。

シートの隙間から差し込んだ外の光が、あずきの目に飛び込んであずきは一瞬目がくらみました。


そのとき、そのシートの隙間から黒い影があずきに近付いてきました。

その、あずきに近付いてきた黒い影の正体にあずきが気づいたとき、あずきは小さな心臓が止まりそうになりました。


それは、全身傷だらけで足を引きずりながら近付いてくる黒猫でした。


あずきは、その黒猫の変わり果てた姿に驚いて、一歩後ろへ引き下がりました。


あずきの前までやっと辿りついた黒猫は、口に咥えていた何かをあずきの目の前にポトッと落とし、かすれた声で言いました。


「ほら、朝めしだ・・・食え・・・夕べから何も食ってないだろ・・・こんなものしか・・・」


そこまで言うと黒猫は、ゆっくりとあずきの前に横たわり動かなくなりました。


その倒れた黒猫のそばには、1匹の魚が転がっていました。




* * *


「黒猫さん!くろねこさん!どうしたの!?」

あずきは、全身傷だらけで倒れこんだ黒猫の大きな体を、鼻先でぐいぐい押して起き上がらせようとしましたが、小さなあずきの力では、黒猫の体はぴくりとも動きませんでした。


「黒猫さん!しっかりして!」

あずきが黒猫の顔に自分の顔を近づけると、黒猫の息はとても弱々しく今にも消えてしまいそうでした。


「黒猫さん!黒猫さん!」

あずきは、一生懸命に黒猫の顔や体の傷口をペロペロ舐めました。

黒猫は、体のあちこちに何者かに噛み付かれたような跡や、引っ掛かれたような傷がたくさんありました。あずきはその傷口ににじんだ血を一生懸命にぺろぺろしました。


あずきの白い顔は、黒猫の血で真っ赤に染められてしまいましたが、そんなことは自分でも気付かないまま、あずきは必死で黒猫の体中を舐めました。



そんな時、あずきと黒猫の上に被されていたビニールシートが突然ガサガサッという音と共にはがされました。あずきが驚いて上の方を見上げると、そこにはシートはもう無くなっていて、どんよりとした曇り空があずきの目に飛び込んできました。


そして、空を見上げたあずきの視界にオレンジ色の作業服を着た一人の若い男がにゅ~っと顔を出しました。


「・・・ん? なにニャーニャー聞こえると思ったら、こんなところに猫がいたのか~」


その若い男は、目を丸くして言いました。すると、その後ろの方から違う男の人の声が聞こえてきました。


「うん?どーした?」


そこに現れたもう一人の男の人は、若い男よりも少しだけ年をとっている感じで、同じオレンジ色の作業服を着ていました。


「おお・・・猫かぁ・・・ここに住み着いてたんか? ・・・ん? この黒いの、ケガしてるじゃねーか!」

あとから現れた男は、その場にしゃがみこんで黒猫をまじまじと覗き込みました。

「こりゃ~、ひで~な・・・すぐに手当てしねーと死んじまうぞ・・・」


そういうと、その男は黒猫に向かって手を差し伸べました。


・・・と、そのとき、あずきは自分でもどうしてそんなことをしたのか分かりませんでしたが、知らない間に体が勝手に動いていました。


「痛てて・・・なんだよ!」


男の手が黒猫に触れそうになった瞬間、あずきは「ギャー!」と唸って男の手に飛び掛っていました。

そして、横たわる黒猫の前に立ちふさがり、小さい体を少しでも大きく見せようとでもしているかのように、全身の毛を逆立てて男のことをにらみ付けました。


「黒猫さんに触らないで!!」


あずきは、口のまわりを血で染めながら小さな牙をむき出して唸るように言いました。


「おいおい・・・俺はコイツを助けようとしてるだけだよ・・・」


男は、あずきに引っ掛かれた手をさすりながら困ったような顔であずきに向かって言いましたが、あずきにはこの男が言っていることは分かるはずもありませんでした。


「シゲさん・・・もう放っておいて仕事片付けちゃいましょうよ・・・雨降りそうですよ」

若い男が、あずきに睨まれているその男に向かって言いました。


しゃがみこんでいた男は、そんな若い男の言葉は聞こえていないかのように、ゆっくりと立ち上がって言いました。

「おい、車から毛布持ってきてくれや・・・」


「はぁ?シゲさん、毛布なんてどうするんですか?」

若い男は、「シゲさん」と呼ばれる男に向かって呆れたような声で言いました。


「決まってんだろ。この黒いのを医者に連れてくんだよ・・・」

シゲさんは、再びしゃがみこむと、あずきがウーウー唸りながら自分の手を引っ掻いているのも気にせずに黒猫の体をそっと両手で抱え込み、向きを変えて傷跡を調べながら言いました


「え~!だって、シゲさん・・・仕事どうすんですか!?」

若い方の男は、甲高い声で言いながら渋々と車に向かって歩き出しました。


「いいから早くしろよ! どうせ今日はこれからすぐに雨になるんだから仕事にならね~だろ!」

シゲさんは、そう言うと黒猫の顔に自分の頬を近づけて黒猫の息遣いを調べました


「よし・・・いま助けてやるからな。しっかりしろよ!」

そんなシゲさんの様子を見ていたあずきは、もうシゲさんに向かって唸るのはやめ、黒猫の傷口を、またぺろぺろ舐め始めました。


「まったく・・・さっきは、この天気なら大丈夫だぁ・・・とか言ってたくせに・・・」

ブツブツ言いながら若い男が毛布を持ってシゲさんの元へ戻ろうとしたとき、若い男のすぐ近くまでもうシゲさんは来ていました。

「おい。車出せ!」

そう言った、シゲさんの腕の中にはぐったりとした黒猫がやさしく抱きかかえられていました。あずきは心配そうに上を見上げながらピョコピョコとシゲさんの足元に絡みつくようにしてくっついていました。


そして、黒猫を抱いたシゲさんは車の助手席のドアを開け、心配そうに見上げるあずきにむかって言いました。

「お前も行くんだろ・・・早く乗れ!」


あずきは、シゲさんが何と言っているのかは分かりませんでしたが、その言葉と同時に車の中へピョンと飛び乗ると、シゲさんが乗れるように自分は後ろのシートへとすぐに移りました。


そして、ゆっくりと助手席に乗り込んだシゲさんは、運転席の若い男に向かって言いました。


「よし・・・出せ!」




若い男が、勢いよくハンドルを切りながら車を発進させたとき、あずきの小さい体が後ろのシートで横に転がりました。




* * *


「アキ・・・起きなさい、遅刻するわよ!」

ママがそう言いながらアキちゃんの部屋のカーテンを開けると、薄暗かった部屋全体が明るい陽射しに包まれてアキちゃんの顔を照らしました。


「う~ん・・・」

アキちゃんは、眩しい陽射しを避けるようにすっぽりと布団の中に潜り込みました。


「こら!たまには自分で起きなさい!もうすぐ4年生になるんでしょ!」

ママは、アキちゃんが頭からすっぽりかぶった布団をつかんで思い切りめくりあげました。


掛け布団をすっかりはぎ取られると、ひざを抱えるように丸まっていたアキちゃんは仕方なく起き上がり眠い目をこすりながら大きなあくびをしました。




あずきがいなくなって1ヶ月近くが経っていました。

季節はすっかり春になっていました。満開になった桜の花も散ってしまい新しい葉っぱが木の枝に生い茂って、重たそうに枝が垂れ下がるようになりました。


アキちゃんは、今年の桜をあずきと一緒に見るのをずっと楽しみにしていました。

だから、桜の花が満開になる前に必ずあずきを見つけなくちゃ!と思っていました。

しかし、あずきを見つけることはできませんでした。


アキちゃんは、あずきがいなくなってしばらくのあいだ学校を休みました。学校を休んで毎日のように家の近所を捜しまわりました。そして、4日が過ぎ5日目の朝・・・アキちゃんは、ママに向かって言いました。


「ねえ、ママ・・・アキ、もうあずきのこと捜さない・・・」


突然そう言い出したアキちゃんに、ママは少し驚いたように聞きました。

「・・・なんで? どうしたの、アキ?」


アキちゃんは、うつむいてママの顔を見ずに小さな声で言いました。

「うん・・・あのね。あずきはきっと、もうアキのこと忘れちゃったんだと思うの・・・だって、アキがこんなに捜しているのにみつからないんだもの・・・もうアキのところには帰って来たくないんだよ・・・キライなんだよ・・・」

アキちゃんは、哀しそうな声でつぶやくように言いました。

ママは、朝食の支度をする手を止めて、アキちゃんの方に振り返ってしゃがみこみ、アキちゃんの顔を覗き込みながら言いました。

「アキ・・・よく聞いて。あずきはアキのこと嫌いになんてなってないわよ。毎日、アキが学校へ行ったあと、玄関で寂しそうに泣いているのよ・・・そして夕方アキが帰ってくる頃になるとまた、玄関でずっと待っているのよ・・・」


ママは何も言わずにうつむいているアキちゃんの頭をやさしくなでながら続けて言いました。


「ねえ、アキ・・・おぼえてる? あずきがうちに来た時のこと・・・」

そうママが言うと、アキちゃんはゆっくりと顔をあげてママの顔を見ました。

そして大きな瞳に涙をいっぱいに浮かべながらアキちゃんが


「うん・・・」


と言うと、ママは

「あの時、アキがあずきのことを連れてこなかったら、今ごろあずきはどうなっていたと思う? きっと一人ぼっちで寂しくて・・・お腹を空かせて、もしかしたら死んじゃってたかもしれないのよ。そんなあずきのことをアキは助けてあげたんじゃない。あのね・・・本当はママ、はじめアキは猫のお世話なんてできないと思っていたの。でもアキは一生懸命あずきのこと可愛がっていたわ。ママ、とてもビックリしたのよ。アキはとってもやさしい子よ。そんなアキのことあずきが嫌いになるはずないじゃない・・・」


ママの言葉を聞きながらアキちゃんの瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちました。

「でもママ・・・。なんであずきいなくなっちゃったの? なんで帰ってこないの?」


そんなアキちゃんを、ママはやさしく抱きしめて言いました。

「・・・うん。あのね、アキ・・・ママは思うの・・・。あずきはきっと、どこかで本当のパパとママに出会ったんだと思うの・・・そして、今ごろ家族みんなで仲良く元気で幸せに暮らしていると思うわ・・・アキだって、ママと離れ離れで暮らすのはイヤでしょ? あずきだって、アキと一緒にいるのはとても幸せかもしれないけど、本当のパパとママと一緒にいるのが一番幸せなことなんじゃないかしら?」


そう言うママの声はかすかに震えて、目には涙が浮かんでいました。

そして、ママは、指先でこぼれ落ちそうな涙をぬぐいながら、抱きしめているアキちゃんの背中に向かって、アキちゃんには聞こえないように小さな声でつぶやきました。


「・・・そう・・・みんな一緒なのが、一番しあわせなのよね・・・」


ママの言葉をだまって聞いていたアキちゃんは、うずめていたママの胸から顔をはなして、ママの顔をもう一度見上げました。そして・・・

「・・・うん。 きっと、あずきは今パパとママと一緒でしあわせなんだね。 アキ、やっぱりもうあずきのこと捜さない。ねえ、ママ。 きっと、あずき・・・そのうちパパとママを連れて遊びに来てくれるよね」

アキちゃんは、目を真っ赤にしながら精一杯の笑顔をママに向かって見せました。


そんなアキちゃんの笑顔を見たママは、もう一度ギュッとアキちゃんを抱きしめると

「うん。アキはえらいね・・・きっと、あずき遊びにくるよ、きっと。 アキのこと忘れるはずないもの・・・」

と言いながら、抱きしめた腕に力を入れました。




その日から、アキちゃんはあずきのことを口にすることはなくなりました。

そして、寒い冬が終わり、季節は春になりました。


あの公園の桜の木には、うすいピンク色の桜の花が満開になりました。

そして、その満開の桜はあっという間に散り、まぶしい緑の葉っぱが生い茂りました。

毎年、桜の季節になると、ママと一緒に公園でお花見をしていたアキちゃんでしたが、今年は「お花見したい」と言い出しませんでした。




「ママ~、今日はおばあちゃんちに行くの・・?」

ベッドから起きだしてきたアキちゃんが、眠い目をこすりながらママに向かって言いました。


「そうよ。だから早く朝ごはん食べちゃってね・・・」

そう言いながら、ママがリビングの大きな窓を開けると気持ちいい春の風が部屋の中に吹き込んできました。




* * *


「シゲさん・・・ところで、この猫・・・病院連れてってどうするんですか?」

若い男が運転しながら助手席のシゲさんの顔をチラッと見て言いました。


「そんな心配はいいから前向いて運転しろよ」

自分の胸元でぐったりした黒猫を抱きながらシゲさんは答えました。


あずきは、後ろから運転席と助手席のシートの間で心配そうに顔を出していましたが、車が右や左に曲がるたびに小さな体はゴロゴロと転がりました。


「そこだそこだ!」

シゲさんが叫ぶと車は勢いよく駐車場へ滑り込みました。同時にあずきの体がまた右の方へ転がりました。


車が停車すると、シゲさんは運転席の若い男に向かって

「ちょっとここで待っててくれ」 と言い残して車から飛び降り動物病院の中へ駆け込みました。


動物病院の中には、犬や猫を連れた何組かの人たちが順番を待っていましたが

シゲさんは、そんな人たちなどお構いなしで、受付にいた若い女性に向かって言いました。


「コイツ、大ケガしてるんだ!今すぐ診てくれ!」


シゲさんの大きな声に待合室の人たちがビックリして一斉に顔を上げました。

いきなり大声をあげたシゲさんの迫力に、受付の女性も驚いて

「お、お待ちください!」

と、診察室へ走っていきました。


すると、すぐに診察室のドアが開き、中から白衣姿のメガネをかけた女性が現れました。


「先生!今すぐコイツ診てやってくれ!」

シゲさんが、胸元に抱きかかえた黒猫を先生の顔にに向かって軽く持ち上げて言いました。


シゲさんが抱えた黒猫へ、一瞬チラッと目をやった先生は軽く微笑んでゆっくりとメガネを外しながら言いました。


「・・・また あなたですか・・・」

それだけ言うと先生は、それ以上何か言いたそうなのを押さえたかのように、メガネをかけなおして黒猫へ顔を近づけました。

先生は、シゲさんの腕に抱きかかえられている黒猫の体の傷口をしばらく調べたあと、黒猫の目や口を無理矢理にこじ開けて覗き込みました。

黒猫は、抵抗する力もなく先生にされるがままでしたが、先生が左の前足を掴んで曲げようとしたとき、痛さのあまり「ギャー!」と唸って、体を左右にくねらせてシゲさんの腕から逃れようとしました。


「こらこら!暴れるんじゃねぇ!」

シゲさんが、腕に力を入れて暴れる黒猫を押さえつけていると


「じゃあ、中に入って!」

と、先生は少し怖い顔をしながらシゲさんに向かい、低い小さな声で言うと、待合室の人たちには

「すいません・・・急患なので・・・もう少しお待ちくださいね!」

と、別人のように可愛らしい声で微笑みながら言い、診察室の中へと消えて行きました。


そして、おとなしくなった黒猫をもう一度しっかり抱きなおしたシゲさんは、そのとき自分に注目している待合室の人たちに初めて気付き、慌てて

「あ、すんません。お先に・・・」

と小さく頭を下げると急いで診察室へ飛び込みました。




「・・・まったく・・・あの人は、なんでいつもああなんだろうなぁ~?」

運転席の若い男が、タバコに火をつけて、車の窓を開けながらつぶやきました。


助手席に移ったあずきは、小さい体を一生懸命に伸ばして立ち上がり、車の窓からやっと見える外を心配そうに眺めていました。


「おい・・・アイツなら大丈夫だよ。 心配すんな・・・」

若い男が、あずきに向かってなぐさめるように言葉をかけましたが、もちろんそんな言葉はあずきには聞こえてはいませんでした。


黒猫とシゲさんが病院の中に入ってから、ずいぶんと長い時間が経ちました。

あずきはずっと車の中で若い男と二人きりで待ち続けました。


「ずいぶん時間かかるな・・・やばいのかな・・・?」

若い男が初めて心配そうな声を出しました。

あずきにはその言葉の意味はわかりませんでしたが、小さな胸の奥が急に重たく感じられました。


「黒猫さん・・・大丈夫なの? どこに行っちゃったの?」

あずきには、黒猫がいったいどこへ行ったのか分かりませんでした。

車の中で、シゲさんが黒猫のことをやさしく抱っこしていてくれた時、あずきは

「黒猫さんは、これで元気になるんだわ・・・」

と思い込んでいました。

しかし、そのシゲさんは、怖い顔をして黒猫のことをどこかへ連れて行ったきり戻ってきませんでした。


その時あずきは、アキちゃんのことを思い出しました。

「アキちゃんもわたしのこと、こんなに心配してくれているのかしら? 急にいなくなったわたしのことを・・・」

そして、今すぐアキちゃんに会いたいと思いました。

アキちゃんに抱っこされて、またあのやさしさに包まれたいと思いました。安心したいと思いました。

あずきは不安で不安で仕方ありませんでした。


自分でも気付かないうちに、小さなあずきの体は、ブルブルと小刻みに震えていました。


その時、震える小さな体を懸命に伸ばして窓の外を眺め必死で黒猫の姿をさがしているあずきの体を、大きな手が「ぐいっ」と掴みました。


運転席の若い男でした


「・・・遅いよ!もう!」


男は、そう一言だけつぶやくと、あずきの体を軽々と抱きかかえて車から降りました。

あずきは、男の左腕に抱きかかえられて動物病院の中へと入りました。


そこには、たくさんの人や犬や猫たちがいました。

「ここはいったい何なんだろう?」

と、あずきは思いました。


若い男は、まっすぐに受付へ向かいました。そして

「さっき、ケガした黒い猫連れてきたオッサンいたでしょ?」

と言うと、受付の女性は一瞬迷惑そうな顔をして、診察室を覗き込んでから

「え~っと、いま・・・まだ、診察中ですけど?」

と答えました。


あずきは、若い男のの腕の中から首を伸ばしました。

「きっと、この中に黒猫さんがいるんだ!」

あずきは、待合室の中をキョロキョロしながら見渡しましたが、いくら捜してもシゲさんと黒猫の姿はありませんでした。


「黒猫さーーん! 黒猫さーーーん!!」

あずきは、我慢できずに大きな声で黒猫のことを呼びました。


しかし、いくら叫んでも黒猫の返事はありませんでした。


「ぜったいに、ここにいるはずなんだから!」

そう思い、あずきは抱きかかえられている腕から抜け出そうとして、体をくねらせながら黒猫のことを呼び続けました。

「黒猫さーん! どこにいるの!? 黒猫さん!」


「おい!コラ!暴れるなよ!」

腕の中から抜け出そうとして、ニャーニャー鳴いているあずきを若い男はギュッと押さえつけました。

と、そのとき・・・


「おじょうさん・・・あの黒猫のことを捜しているのかい?」

という声があずきの耳に飛び込んできました。


あずきはびっくりして、声のする方を振り返ると、待合室のベンチに座っているおばさんの隣に置かれた白いカゴの中から1匹の大きな猫が顔を出していました。

その猫は、もうかなりのおばあさん猫のようでした。そのおばあさん猫は、きょとんとした顔で見つめているあずきに向かってもう一度言いました。


「あの黒猫ちゃんなら、いま診察室で先生に手当てしてもらっているよ・・・ひどいケガをしていたみたいだからね・・・あんたのパパかい?」

おばあさん猫は細い目であずきを見上げながら低いしゃがれた声で言いました。


「黒猫さん・・・大丈夫なの? 助かるの?」

あずきは、必死な思いでおばあさん猫に向かって問いただしました。


「さ~ねぇ・・・あたしにゃ、わからんよ・・・でもここの先生は、あたしらにとっては、とっても良い先生だから・・・きっと大丈夫さ・・・」

おばあさん猫は、細い目をさらに細めて言いました。


すると、その時、診察室のドアが開いて、中から人が出てきました。


シゲさんでした・・・。


「黒猫さん!!」

あずきは若い男の腕からスルッと抜け出して床の上へフワリと着地すると、シゲさんの足元へ駆け寄りました。


しかし、診察室から出てきたシゲさんの腕の中に黒猫の姿はありませんでした。




* * *


「あぁ、ヒロシ・・・来てたのか。 待たせて悪かったな・・・」

診察室から一人で出てきたシゲさんが、黒猫をくるんでいた毛布を折り畳みながら言いました。


「いえ・・・それはいいんですけど、あの猫どうなったんですか?」

あずきのことを左腕に抱きながらヒロシがシゲさんに聞きました。

あずきは、シゲさんの姿を見た瞬間、すごく嬉しくなりましたがシゲさんの腕の中に黒猫の姿が無いことを知ると、今まで以上に不安な気持ちでいっぱいになりました。


「うん・・・2、3日入院みたいだ・・・麻酔打たれて寝てるわ」

シゲさんは、頭をポリポリと軽く掻きながら答えると、ヒロシに抱えられているあずきの顔のそばに自分の顔を近づけて言いました。


「おい、チビ・・・お前さんが傷口をペロペロ舐めてくれたおかげで何とかアイツ助かったみたいだよ。心配すんな・・・すぐに元気になるからな」

シゲさんは、そう言うとあずきの頭を軽くなでたあと、黒猫の血で真っ赤に汚れてしまったあずきの口の周りを指で拭き取ろうとしましたが、ちっとも汚れは落ちませんでした。



「モカく~ん・・・お待たせしましたぁ」

次の犬が診察室に呼ばれ、空いた席に腰を下ろしたシゲさんとヒロシは、一言もしゃべらずにうつむいていました。

あずきも、ヒロシの膝の上に大人しくちょこんと座って辺りをキョロキョロしていました。


その時

「お嬢ちゃん・・・あの黒猫ちゃんはどうしたかね?」

さっきのおばあさん猫が、あずきの真正面のベンチの上に置かれた白いカゴの中から顔を出していました。


「・・・うん。それが、わからないの・・・このおじさんと一緒だったのに・・・」


あずきが、そう言って隣でだまって床を見ているシゲさんの顔を覗き込もうとした時


「あなた・・・ちょっと、いいですか?」

診察室のドアとは別のドアが急に開いて、メガネをかけた女性が顔を出してシゲさんに向かって呼びかけました。

シゲさんは驚いたように顔を上げて 

「お、俺ですか?」

と聞くと


「そう、あなたです・・・こちらへどうぞ」

と、そのメガネをかけた女性がドアを大きく開いて中へ入るようシゲさんに催促すると、その女性はすぐに部屋の中へ消えてしまいました。


「あの猫、どうかしたのかな・・・?」

そう言うと、シゲさんは心配そうな顔をして急いで立ち上がりドアの中へと入りました。


シゲさんが部屋の中に入りドアを閉めると、そこはさっき黒猫が治療を受けていた診察室よりもひと回り小さい診察室になっていました。

「どうぞ、おかけください・・・」

窓際の机の上に置かれたパソコンの画面を見ながら、先生が言いました。


「あ、はい・・・失礼します。 あいつ、ヤバイんですか?」

そう言うとシゲさんは、先生の前に置かれたイスに腰を下ろしました。


「いえいえ・・・あの子なら大丈夫ですよ。すぐに良くなるでしょう。それよりも。あの猫・・・あなたが飼っている猫ですか?」

先生はパソコンから目をはなして、シゲさんの顔をじっと見ながら聞きました。


「あ・・・いや・・・アイツは・・・野良です」

シゲさんが困ったような顔をしながら答えました。


「・・・やっぱり・・・その分だと、この前連れてきた犬や猫もそうなのかしら?」

先生は、少し怒ったような口調で話していましたが、その口元は少し笑っているようでした。


「あ、はい・・・でも、それが何か?」

シゲさんは、先生のメガネの奥の瞳を一瞬だけ見て聞きましたが、目が合った瞬間すぐに視線をそらしてしまいました。

「・・・そうですか。あの時のワンちゃんや猫ちゃんたちは、今あなたが育てているの?」

先生は、メガネを外して机の上にそっと置きました。


「いや・・・わんこの方は職場のヤツが引き取ってくれて、猫のほうは・・・大家さんが面倒みてくれてます。」

と、シゲさんが、頭をポリポリと掻きながら答えると


「そうですか・・・それを聞いて安心しました。 実はね、たまにいるんですよ・・・怪我した野良犬とか連れて来て何とかしてくれ!って人が・・・初めは可哀想だからって連れてくるんでしょうけど、たいていは治ったあとのことまで考えてないの。 連れてくるなら最後まで責任持って面倒見てくれるならいいんだけど・・・ひどい人は、預けるだけ預けてお会計もしないでいなくなっちゃったりするんですよ・・・で、結局ここでしばらく里親探しして、引き取り手がいなければ・・・結局保健所ですよ。 治療して助けておいて変だけど、そのまま野良として生きていた方が幸せだったんじゃ・・・って複雑な気持ちになるわ。 ごめんなさいね・・・変な話して。あなたのような人に助けられたワンちゃんや猫ちゃんはラッキーね・・・」

と、先生はメガネをかけなおして立ち上がり、パソコンのモニターの後ろに手を伸ばして大きな窓をガラガラと開けました。


窓の外には、動物病院の小さな裏庭がありました。その庭にはきちんと手入れされた芝生が一面に敷き詰められていて、その芝生の上には3匹の犬が楽しそうにじゃれあって遊んでいました。


「あの子たちも、そういう子たちだったんです・・・」


先生は、庭の犬たちをながめながら目を細めました。

「うちで飼えるのは3匹が限界・・・」


「そうですか・・・先生、大丈夫です。アイツ・・・あの黒猫は俺が責任持って育てますよ!」

シゲさんは、黒猫のことを初めて見た時から、車の中でずっと抱きしめている間も、コイツは自分が育てよう・・・と考えていました。




部屋から出てきたシゲさんは、お会計を済ませ車に戻りました。

ヒロシとあずきは、もうすでに車の中で待っていました。


「先生、なんだったんですか?」

シゲさんが助手席に腰を下ろすと、ヒロシが膝の上にあずきを乗せ首筋を撫でながら聞きました。


「いや・・・なんでもない。大丈夫だ」

シゲさんが軽く笑いながら答えると、あずきがシゲさんの膝の上へぴょんととび移りました。


あずき達を乗せた車がゆっくりと走り出したとき、ヒロシが突然思い出したように言いました。

「あ!そういえば、どうするんですか?」


「は?なにが?」

シゲさんが、きょとんとした顔で運転しているヒロシに向かって聞き返しました。


「いや、なにが?じゃないですよ・・・アイツ、退院したらどうするんですか? ・・・つーか、こいつはどうするんですか?こいつは・・・」

ヒロシは、シゲさんの膝の上にちょこんと座って首をかしげながら、ヒロシの話に耳をかたむけているあずきの頭をポンポンと軽く叩きながら言いました。


あずきは、不思議そうに目を丸くしていましたが、ヒロシに頭を軽く叩かれるたびにその目を細めました。


「どうする・・・って、俺が飼うよ」

シゲさんが、当たり前のようにさらっと答えると


「え? 俺が飼うよ・・・って、だって、シゲさん・・・シゲさんのアパートってペットOKなんですか?」

赤信号で車を停車させたヒロシが、ビックリしたようにシゲさんの顔を覗きこみました。


「うん。だめじゃん?」

シゲさんが、また当たり前のようにそう答えると


「・・・・・しーらない。 知らないっすよ!俺は。」

自分で一度決めたことは、誰がなんと言おうと曲げないシゲさんの性格をよく分かっているヒロシは、それ以上そのことについては何も言うまいと思いました。そして、信号が青に変わり車をゆっくり発車させたヒロシは、なぜかほんの少し嬉しくなって一人でニヤニヤしていました。


そんなヒロシに気付いたシゲさんは

「なにニヤニヤしてんだ、おまえ?」


と言いながら自分もニヤニヤしていました。


その時あずきは、二人が何を話しているのか分かりませんでしたが、なぜかとっても安心した気持ちになったような気がしました。


そして、シゲさんの膝の上で丸くなったあずきは、なんだかとっても眠くなってしまいました。




* * *


「シゲさん・・・ほんとに大丈夫なんですか?」

シゲさんのアパートの前に車を停めたヒロシが心配そうにシゲさんに言いました。


あずきのことを脇に抱えながら車を降りようとドアを開きかけたシゲさんは、ヒロシの質問に答える代わりに、少し真剣な顔をしてヒロシに聞き返しました。

「ヒロシ・・・あの時のわんこは元気か?」




2ヶ月くらい前、シゲさんは道端で車にはねられてケガをした野良犬を病院へ連れて行ったことがありました。

その犬は、まだ子供でガリガリに痩せこけていました。

道路のはじっこで、うずくまりケガをした自分の前足をぺろぺろ舐めている子犬を、シゲさんが見つけて病院へ連れて行きました。その茶色い毛の子犬は、とても人なつっこくてシゲさんが助けようと近づいたとき、怖がる様子もなく、シゲさんに抱きかかえられると、ケガをしているくせに尻尾をブンブン振ってシゲさんの顔をぺろぺろ舐めていました。


その子犬には、ボロボロの赤い首輪が巻かれていました。

「お前、捨てられたのか・・・?」


シゲさんは、その子犬を放っておくことができませんでした。




むかし、シゲさんがまだ子供だった頃、家の近所で捨てられた子犬を拾ってきたことがありました。


「ねえ、おかあさん・・・うちで飼っていいでしょ~?」

シゲさんは、必死で親を説得してその子犬をシゲさんの家で飼うことを許してもらいました。

シゲさんは、その子犬に「ちーこ」という名前を付けました。


シゲさんは学校から帰ると、すぐにランドセルを玄関に放り投げてちーこと遊びに行きました。

毎日毎日、雨が降っていてもシゲさんはちーこと遊びました。

どこへ行くのもちーこと一緒でした。

毎日、ちゃんとちーこのお世話をしました。


シゲさんは、小さくて可愛いちーこが大好きでした。

ちーこも、シゲさんが大好きでした。


そして、何ヶ月かが過ぎて、ちーこは大きくなりました。

シゲさんは、だんだんとちーこと遊ぶ回数が減っていました。

ちーこが、シゲさんと遊びたがっていても、だんだんと相手をする回数が減っていました。


毎日、学校から帰ると真っ先にちーこと遊んでいたのに、友達と遊ぶほうが楽しくて

ちーこが尻尾を振って、シゲさんに飛びついてきても

遊んであげなくなってしまいました。


ちーこの散歩やごはんのお世話は、シゲさんのお母さんがするようになりました。

「明日遊んであげるからね・・・」

と、いつも心で思いながら、シゲさんはちーこと遊ぶよりも友達と遊ぶほうが楽しくて、ついつい、ちーこのことはあとまわしになってしまいました。


そのうちに、ちーこはシゲさんが学校から帰ってきても

「あそんで、あそんで・・・」

と、騒ぐこともなくなっていました。


シゲさんは、ちーこのことが嫌いになったわけではありませんでした。

ただ、ちーこと遊ぶよりも、友達と遊ぶことのほうが楽しくて、ちーこの相手をするのをサボっていました。


シゲさんは、ちーこに申し訳ないという気持ちもあって、だんだんとちーこの顔が見れなくなってしまいました。


そして、シゲさんがちーこのお世話をしなくなって数ヶ月が経ちました。


ある日の朝、シゲさんが目を覚ますとお母さんがシゲさんに向かって言いました。


「しげお・・・ちーこ、死んじゃったよ・・・」


シゲさんは、パジャマのまま裸足で庭へ飛び出しました。


久しぶりに見たちーこは、すっかり痩せてしまって、犬小屋の前で丸くなって動きませんでした。


ちーこは、眠っているのだと思いました。

しかし、シゲさんが大声で泣きながら、どんなにちーこを呼んでも、ちーこは目を開きませんでした。

眠っているようなちーこの顔は、シゲさんがちーこと初めて出会った頃の子犬の顔に戻っていました。


その日から、大人になった今でもシゲさんは、毎日ちーこに申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

「なんで、あの時、もっとちーこと遊んであげなかったんだろう? なんで、もっと可愛がってあげられなかったんだろう? 寂しかっただろうに・・・悲しかっただろうに・・・」


シゲさんは、ちーこが亡くなってから動物を飼うことはありませんでした。


そしてシゲさんは、あの日から犬だけじゃなくて、生き物すべてを大切にするようになりました。

夏、家の中に蚊が入ってきても、叩いたりせず窓を開けて外に出すようになりました。


それが、ちーこに対するせめてもの罪滅ぼしになれば・・・と思いました。


シゲさんの子供が「犬を飼いたい!」と言ったとき、シゲさんは許しませんでした。

シゲさんは、二度とペットは飼わないと心に誓っていました。

一度決めたことは、誰がなんと言っても曲げない性格のシゲさんは、ペットを飼うことはありませんでした。


そして、あの時、道端でケガをしていた子犬を助けたシゲさんは、一番可愛がってくれそうなヒロシにその犬を預けることにしたのでした。


その子犬の顔は、ちーこにとても良く似ていました。



「・・・元気にしてるか?」

シゲさんは、もう一度ヒロシに聞きました。


「はい!めちゃめちゃ元気っすよ! うちの子供と毎日飛び回ってますよ!」

ヒロシは、嬉しそうに答えました。


「そうか・・・良かった。ヒロシ、サンキューな」


そう言うと、シゲさんは車のドアを閉めて、あずきのことを抱えながらアパートの中へ入って行きました。




その日から、あずきはシゲさんと暮らすことになりました。

三日後、黒猫は無事に退院してきましたが、まだ治りきっていない傷口をぺろぺろしないように、首の周りに大きな円盤のような物を付けられていていました。


「まったく・・・これ何なんだよ! 邪魔なんだよ・・・」

黒猫は一生懸命にその円盤を外そうと首元を前足で掻きましたが、取れるはずがありませんでした。


「くそ!取れねーや・・・それに、だいたい何で俺がこんな狭い部屋の中で飼われなきゃならねーんだ・・・」

黒猫は、そう言うと、じゅうたんの上で今度はゴロゴロしながら円盤を外そうともがいていました。


黒猫は、この部屋で暮らすようになってから、毎日のようにブツブツと文句を言っていましたが、そんな文句を言いながらも、黒猫が本当はこの部屋をとても気に入っていることを、あずきは分かっていました。

本当は、この部屋が・・・ではなく黒猫は、シゲさんと・・・そして、あずきと一緒に暮らせることがとても幸せでした。


いくらゴロゴロしても円盤が首から外れない黒猫は、ようやく諦めて、窓のそばへ近づき外を眺めながらあずきに向かって言いました。


「なあ・・・お前は、ずっとここにいていいのか?」

あずきは、何も答えられませんでした。


たしかに、あずきは毎日この部屋で、黒猫と二人でシゲさんが帰ってくるのを待って、シゲさんが帰ってくると夜中まで一緒に遊んで、楽しくて仕方ありませんでした。幸せでした。

そして何よりも、あずきは優しい黒猫とシゲさんが大好きになっていました。


でもそれ以上に、あずきはアキちゃんのことが大好きだという気持ちに変わりはありませんでした。

毎日、毎日、アキちゃんのことを思っていました。忘れたことは一日もありませんでした。


黒猫やシゲさんと一緒にいて、楽しくて幸せでしたが、心のどこかでは、アキちゃんに逢いたくて逢いたくて仕方ありませんでした。

でも、あずきはそのことを黒猫には言えませんでした。


黒猫は、あずきのことを怖い犬から守ってくれました。そして、あずきのために大ケガをしてしまいました。

そんな、黒猫のことを思うとあずきは、アキちゃんの家に帰りたいなんて言い出せませんでした。


「本当なら、あの日・・・俺があんなことにならなければ、お前のこと家に帰してやれたのにな・・・」

黒猫は、申し訳なさそうにあずきの方に振り返ろうとしました。

しかし、首の円盤が邪魔をして、あずきからは黒猫の顔はよく見えませんでした。

* * *


あの日・・・あずきがビニールシートの下で目を覚ますと、黒猫の姿がありませんでした。

不安になったあずきは、ビニールシートから這い出して外に出ようとしたとき、ボロボロに傷つきながら黒猫が1匹の魚をくわえてやってきました。そして、そのまま黒猫は倒れこんでしまいました。




黒猫は、その日の朝、やっと眠りについたあずきを起こさないようにそっと外へ出て、おなかを空かせたあずきのために食べ物を探しに行きました。

そこは、黒猫も知らない街でした。

黒猫は、どこかに食べ物はないかと、ウロウロ探しまわりました。


そして、一軒の魚屋を見つけました。

まだ、夜が明けきらない空は薄暗くてどんより曇っていました。

店のシャッターをガラガラと大きな音をたてて開けた魚屋のおじさんは、忙しそうに新鮮な魚を店先に並べはじめました。


黒猫は、おじさんに気付かれないように、少しずつ慎重に近づき、店のすぐそばまで近づくと、電柱の陰に隠れて一匹の魚に狙いをつけました。


そして、魚屋のおじさんが店の奥へ消えたその瞬間、黒猫は電柱の陰から一気に駆け出しました。

黒猫が、もう少しで魚屋の店先にたどり着くという時、黒猫の耳に大きなどなり声が聞こえてきました。


「待て!お前!何やってんだ!」

黒猫は、驚いて魚に飛びかかるのをやめて声のする方を見ました。


「お前、この辺じゃ見ない顔だな・・・どっから来た?」

その声の主は、黒猫と同じくらい大きな体をした猫でした。その猫は、灰色に黒いしま模様が入っていて、その落ち着きのあるしゃべり方がとても風格のある猫でした。

おそらく、この辺のボスなのだと、黒猫にはすぐ分かりました。


しかし、黒猫はそんなことお構いなしに言いました。

「うるせー!お前には関係ない・・・」


そう言って、魚屋のおじさんが戻ってくる前に、なんとしてもあの魚を手に入れたかった黒猫は、再び魚屋の店先に向かって走り出そうとしました。


・・・と、そのとき

「待てと言っているだろう!」


その迫力のある声に、黒猫はビクッとして動きを止めました。そして、もう一度、そのボス猫のことを見ると

ボス猫は、急にやさしい声になり

「まあ、そうあせるな・・・ここでしばらく待っていろ・・・」

と、もの静かに黒猫に向かって言いました。


「だって・・・今がチャンスじゃ・・・」

と、言いかけた黒猫は、ハッと息を呑みました。


そのボス猫のうしろの方からは、いつの間にかぞろぞろとたくさんの猫たちが集まって来ていました。

黒猫は、目を丸くしてその猫たちを見ていました。


集まってきた猫たちは、大きいのや、まだ小さい子供の猫まで黒猫が数えてみると10匹もいました。

その10匹の猫たちが、ボス猫のすぐ近くまでやってくると、その中の1匹がボス猫に向かって言いました。


「あれ?見たことない子だねぇ・・・」

その猫は、赤茶色の毛をしたおばあさん猫でした。


「あぁ、ばあさん、この辺のやつじゃなさそうだな・・・」

ボス猫は、おばあさん猫に向かって答えました。


すると、そのおばあさん猫が黒猫に向かってやさしい声でゆっくりと言いました。

「あんた、この猫よりも大きな魚を取っちゃいかんよ・・・それが、ここのルールだからね・・・」


黒猫は、このおばあさん猫の言っている意味がよく分かりませんでしたが、次の瞬間ちがう猫が

「あ!来たよ!」

と言った一言で、すぐに意味が分かりました。


魚屋のおじさんが店先に戻ってきたとき、その手に大きな青いバケツをぶら下げていました。

そして、その魚屋のおじさんの姿を見たとたん、10匹の猫たちはいっせいにおじさんに向かって走り出しました。


さっきまで、とても怖そうに見えた魚屋のおじさんの顔は、空が明るくなって良く見えるようになると、本当はとても優しそうな顔をしていました。

おじさんは、猫たちが自分のまわりに集まってくると、「よしよし・・・」と言いながら、持っていたバケツの中身を店の前の道路にばらまきました。

そのバケツの中には、美味しそうな魚や細かい氷がたくさん入っていました。


そして10匹の猫たちは、道路にばらまかれた氷の中から魚を探し出して、それぞれ口にくわえるとボス猫のところへ戻ってきました。


「さぁ、はやくあんたももらってきなしゃい・・・」

さっきのおばあさん猫が魚を口にくわえたまま、モゴモゴしながら黒猫に向かって言いました。


黒猫は、あっけにとられて猫たちの様子を見ていましたが、おばあさん猫の言葉でハッとなり、自分と同じように10匹の猫たちのことを眺めていたボス猫のことを見ました。


ボス猫は、黒猫のことを見もせずに

「さぁ、みんなにまわったみたいだから、いくぞ・・・」

と、一言だけ言うと魚屋の方へ向かってゆっくりと歩き出しました。


黒猫が、慌ててボス猫のことを追いかけて店の前まで来てみると、そこには、山のような氷のかけらの中にちょうど2匹だけ魚が残されていました。


「お前さんは、そっちのだ・・・」

おいしそうな魚に手を出せずにじっとしている黒猫に向かってボス猫がポツリと言いました。


黒猫が見てみると、ボス猫が言う「そっちのだ・・・」という方の魚は、あきらかにもう1匹の魚よりも大きな魚でした。


「え、だって・・・こっちの方が大きいよ」

黒猫が、困ったような顔でボス猫のことを見ると、ボス猫は


「なぁに、あのばあさんの言うことは気にするな・・・いつも初めてのやつには一番大きいのをくれているのさ。ここにやって来るやつは、死ぬほど腹を空かせてやってくるのが多いからな・・・」

ボス猫は、そう言うと小さい方の魚をくわえてサッと駆け出しました。


そして、店から少し離れたところで立ち止まり、まだ魚をながめている黒猫に向かって言いました。

「おい。はやくしないと、かたづけられるぞ・・・」


黒猫が、顔をあげると店の奥からさっきのおじさんが姿を現しました。

黒猫は、あわててその一番大きな魚をくわえてボス猫の方へ振り返りました。


すると、そこにはもうボス猫の姿はなく、ボス猫どころか、さっきまで道ばたで美味しそうに魚を食べていたはずの10匹の猫たちもいつも間にかいなくなっていました。


「ありがとう・・・」

黒猫は、姿が見えなくなった猫たちに向かって一言だけつぶやくと大きな魚を口にくわえて、あずきの元へ走りだしました。



黒猫は、大きくて美味しそうな魚をくわえて一生懸命走りました。

あずきが目を覚ます前に、この魚を届けてあげたいと思っていました。


黒猫は、あずきが寝ている空き地まで、あともう少しという所までたどり着きました。

黒猫も、昨日から何も食べていませんでしたが、そんなことは気になりませんでした。ただ、この魚をあの小さな白い猫に食べさせてから、元の家まで無事に連れて行ってあげなくては・・・と思っていました。


昨日、黒猫とあずきが、大きくて凶暴な野良犬に襲われて、必死に逃げ込んだブロック塀の小さな穴が見えてきました。

「あいつ、まだ寝てるかな・・・もう目を覚ましてしまったかな・・・もし、目が覚めて俺の姿がなかったら不安に思ってるだろうな・・・」

そんなことを考えながら、黒猫はあずきの元へ急ぎました。


そして、もう少しであのブロック塀の穴へたどり着くというとき、黒猫は自分の目を疑いました。



犬でした。


それは、間違いなく昨日、自分とあずきを襲ったあの大きな野良犬でした。




* * *


野良犬は、黒猫の姿を見つけると「ガルルルル・・・・」と低いうなり声をあげて牙をむき、黒猫をにらみつけました。


「あの穴の中に逃げ込めさえすれば大丈夫だ・・・」

野良犬の姿を見て、一瞬立ち止まった黒猫でしたが、次の瞬間走り出しました。



ブロック塀の小さな穴に向かって走り出した黒猫のことを見て、野良犬も昨日の失敗は二度としない。とばかりに黒猫に向かって走り出しました。


そして、野良犬よりも一瞬だけ早く穴の前へたどり着いた黒猫は、その穴へ向かって飛び込もうと大きな体を低くしました。

黒猫がその小さな穴をくぐり抜けようとしたとき、口にくわえた大きな魚が壁にぶつかり、落としてしまいました。

しかし、勢いよく穴に飛び込んだせいで、黒猫の体は穴の中へなんとか逃げ込むことができました。


危機一髪で空き地へ逃げ込んだ黒猫でしたが、あずきのために運んできたあの魚はブロック塀の向こう側に落としたままでした。

昨日に続いて二度も黒猫に逃げられて、狂ったようにうなり声をあげている野良犬の足と地面に落ちた魚が小さな穴から見えました。


「どうしよう・・・」

黒猫は、魚をなんとしてもあずきに食べさせてあげたかったのに、その魚は犬のすぐ足元にありました。

もし、魚を取りに戻れば野良犬に襲われてしまうのは間違いありませんでした。


黒猫が、どうしたら良いのかわからずに、穴の近くでウロウロしていると、野良犬のうなり声が急に聞こえなくなりました。

「もしかして、あきらめたか!?」

そう思った黒猫が、頭を下げてもう一度穴の外を見てみると、なんと野良犬がその魚に気付き、ぺろぺろと魚を舐めはじめていました。


次の瞬間、黒猫は何も考えずに穴の外に向かって飛び出していました。

魚に気を取られていた野良犬は、黒猫が穴から飛び出してきたことに気付いていませんでしたが、黒猫が

「その魚を返せ!」

と言った言葉で初めて気付き、くわえかけていた魚をぽとりと地面に落としました。

野良犬が魚を地面に落とした瞬間、黒猫はサッと魚をくわえ、再び穴に向かって飛び込もうとしました。

しかし、今度は野良犬のほうが一瞬だけ早く動き、長い前足が黒猫のわき腹にドスンというにぶい音をたててぶつかりました。


黒猫の体は穴の中に逃げ込むことはできず、野良犬の足元にゴロンと倒れました。

黒猫は、すぐに起き上がり魚がどこにあるのかキョロキョロすると、倒れる瞬間黒猫の口から放り出された魚は、穴の向こう側へ転がり落ちているのが見えました。


「よかった、あそこならこの犬には届かない・・・」

そう安心したのもつかの間、野良犬が次の攻撃をしてきました。

黒猫は、野良犬が再び長い足を伸ばしてきたとき、野良犬の腹の下をくぐり抜けて逃げようとしました。

しかし、走り出そうとしたとき、わき腹に激痛がはしり、走り出すことができませんでした。


そして、今度は反対側の腹に野良犬が振りかざした長い足がドスッとぶつかり、黒猫の体はブロック塀に叩きつけられました。

そのまま、倒れこんで起き上がれなくなった黒猫は、顔をあげて野良犬のことをにらみつけました。

黒猫の体の黒い毛は、野良犬の長い爪で引っ掻かれた傷口から噴き出した血で濡れて光っていました。


野良犬は、動けなくなった黒猫のことを、どうやっていじめてやろうか・・・と、楽しんでいるかのように、よだれをダラダラながしながら喜んでいるようにも見えました。


立ち上がろうとしても、痛さのあまり動けなかった黒猫は、全身の毛を逆立てて、野良犬に負けないくらいに牙をむき出しにしてうなりながら野良犬をにらみつけました。


そんな、黒猫のことなど気にすることもなく、野良犬は何度も何度も黒猫のことを長い足で引っ掻きました。

黒猫は、逃げ出すことができず、必死で野良犬の足に噛み付いてやろうと牙をむいて抵抗しましたが、大きな野良犬の力には勝てず、黒猫は顔中にも大きな傷がたくさんできてしまいました。


そして、すっかり動けなくなってしまった黒猫にとどめを刺そうと野良犬が大きな口を開けて、黒猫の首元に噛みつこうとした時でした。

黒猫は、覚悟を決めて目をつむって最後の攻撃を待っていました。しかし、野良犬の最後の攻撃はありませんでした。


その代わりに、黒猫の耳に聞こえてきたのは

「キャイン、キャイン・・・という野良犬の情けない泣き声と逃げ出していくガチャガチャという爪の音でした」


何が起こっているのか分からずに、黒猫はゆっくり目を開きました。

そしてその時、黒猫が見たものは、自分を襲おうとしている野良犬の姿ではなく、大きな1匹の猫でした。


「大丈夫か?」

そうつぶやいた猫は、大きな灰色の体に黒いしま模様が入った、あのボス猫でした。


「な・・・なんでここに? あんたが、アイツをやっつけたのか?」

黒猫は、やっとの思いで声を出して聞きました。


「まさか・・・いくら俺でも一人では無理だ。俺には仲間がいるからな・・・」

そういうボス猫のまわりには、魚屋で見かけたあの猫たちが心配そうに黒猫を覗き込んでいました。


「ここは、俺たちの庭だ・・・あんな野良犬に好き勝手はさせない。この塀の上からいっせいに飛びかかってやったのさ・・・」

そういうと、ボス猫は黒猫の体の下に自分の顔を無理やり押し込んで、黒猫を立ち上がらせました。


「あ、ありがとう・・・魚のお礼もしていなかったのに・・・」

黒猫はふらつきながらも、なんとか自分の力で立ち上がり

「みんな、ありがとう・・・」

と、心配そうに自分を見ている仲間たちに向かって礼を言いました。


「そんなことは気にするな。それより大丈夫か?」

ボス猫が、黒猫の顔の傷をベロンと一度だけ舐めて言いました。


「あぁ・・・なんとか、大丈夫みたいだ。ありがとう・・・すまないが、俺は急いでいるんだ・・・」

そう言うと、黒猫は足を引きずってフラフラしながらブロック塀の小さな穴をくぐり抜け、落ちている魚を拾いあげました。



「本当にありがとう・・・」

もう一度、礼を言おうと黒猫が振り返ったとき、もうそこには猫たちの姿は見当たりませんでした。


「ふしぎなやつらだな・・・」

そうつぶやいた黒猫は、落とさないようにしっかりと魚をくわえて


「・・・あと、・・・すこし・・・待ってろよ・・・この魚、うまいぞ・・・きっと・・・」

そう言いながら、懸命にあずきの寝ている材木置き場へと向かいました。

黒猫は足を引きずり、体のあちこちからは血が流れていました。

それでも、なんとかたどり着くことができた黒猫は、材木にかけられたビニールシートの隙間にもぐり込みました。





「本当なら、今頃は元の家で幸せに暮らせているのにな・・・すまん」

黒猫は、申し訳なさそうにあずきに謝りました。


「黒猫さん・・・あやまらないで・・・あやまるのは、わたしの方なのに・・・わたしのせいでそんな大ケガしちゃって」

あずきは、黒猫のそばに近づいてほとんど治りかけている黒猫の体の傷をぺろぺろ舐めました。




「アキちゃん・・・ごめんなさい。 わたし、アキちゃんのところにもう戻れないかもしれない・・・」


あずきは、黒猫の傷をぺろぺろ舐めながら、そんなことを思っていました。



「アキちゃん、猫ちゃんまだ見つからないんだって?心配だねぇ…」

おばあちゃんが、美味しそうにケーキを頬張るアキちゃんに向かって言いました。




アキちゃんは、そんな、おばあちゃんの言葉は聞こえていましたが、あずきの話をするのが何だか辛くてテレビに夢中になっている振りをして答えませんでした…。


そして、もう一度おばあちゃんが、何かを言いかけようとしたとき、今度はアキちゃんの方から大きな声でおばあちゃんに言いました。


「このケーキおいしいね!おばあちゃん!」

アキちゃんは、口のまわりに生クリームをいっぱいくっつけて最後のお楽しみに残しておいた大きなイチゴを口の中に放り込みました。



「そうかい?それは良かったわ…アキちゃん、もう一つ食べるかい?」

おばあちゃんは、目を細くしてアキちゃんに微笑みました。

「うん!たべゆたべゆ~!」

アキちゃんが大きなイチゴを頬張りながら笑顔で答えると


「アキ!だめ!もう2個も食べたでしょ?」

…と、ママがアキちゃんの前にあるお皿とフォークを取り上げてしまいました。



「あ~~ん…」

アキちゃんが、残念そうな声を出しました。


「おやおや…残念でした。アキちゃん、じゃあジュースを持ってきてあげようね」

おばあちゃんは、空になったアキちゃんのコップを持って


「どっこいしょ…」

と立ち上げって台所の方へ歩いていきました。



おばあちゃんが立ち上がったとき、今までおばあちゃんの膝の上で丸くなって寝ていた、クリーム色の小さな犬が、寝場所がなくなって少し不満そうな顔でアキちゃんのそばへ近付いて来ました。



「コロ…おいで」


アキちゃんが、コロに向かって両手を広げると、コロはあぐらをかいたアキちゃんの足の中にピョンと飛び込んで、アキちゃんの口のまわりの生クリームをペロペロと舐め始めました。





「おかあさん、アキの前で猫の話しないでね…やっと、忘れかけてるみたいなんだから…」

台所でコーヒーを注ぎながら、ママがおばあちゃんに向かって小声で言うと


おばあちゃんは

「そうかい…すまないねぇ…」

と、アキちゃんのコップにオレンジジュースを注ぎながら答えました。

「それより、あんた…何度も言うようだけど…」

おばあちゃんがママの顔を見ながら少し真剣な顔で何か言いかけました。


「はいはい!言いたいことは分かってるわ…」

ママは、何か言いかけたおばあちゃんの言葉をさえぎりました。



そして


「あのね。おかあさん…実は、そのことなんだけど…」

ママが、ミルクを垂らしたコーヒーカップをスプーンでくるくるかき混ぜながら話をはじめました。



「実はね…あずきのことがあってから、ずっと考えていたんだけど、やっぱりアキには父親が必要なんじゃないかしら、って思ってるの…。これから先、アキにも私にも支えてくれる人がいないと…って」

ママは、コーヒーカップから静かにスプーンを抜き取ると、コーヒーを一口だけ飲みました。


「そうよ…あたしもそう思うわ。あ、ねえ…それって、あの人とやり直すってことでしょ?それが良いわよ。あんたたち、まだ籍は抜いてないんでしょ? まだやり直せるわ…あの人、あんないい人なかなか居ないわよ。それは、あなたが一番良く分かっているでしょ?」

おばあちゃんは、コーヒーカップを唇に当てたままじっとして動かないママに向かって言いました。


そして

「そう、それがいいのよ…あんたも、アキちゃんも」

と、ひとり言の様につぶやいて、オレンジジュースが入ったコップを持って台所を出て行きました。







「ねえ、アキ?」

おばあちゃんの家からの帰り道、車の運転をしながらママがアキちゃんに声をかけました。


「うん?なあに?」

アキちゃんは、助手席の窓から外の風景を眺めながら答えました。

車が小さな川に掛かった橋を通り過ぎようとしていました。小さな川の水が日差しを浴びてキラキラと光っているのを、アキちゃんは車の中から「きれいだな…」と思って眺めていました。

「アキ、来週の金曜日…授業参観だよね?」

橋を通り過ぎて、交差点に差し掛かったとき信号が赤に変わり、ママは静かに車を停めました。


「うん。そうだよ!ママ、来てくれるんでしょ?」

アキちゃんは、運転席のママの横顔を見つめて嬉しそうに聞きました。


「うん。行くよ…でも、今度の授業参観って本当は父親参観なんでしょ?」

ママが少し申し訳無さそうな顔でアキちゃんのことをチラッと見ると、アキちゃんは、再び窓の外を眺めていました。


「うん…みんな、パパが来るって言ってたよ。でも、お仕事でパパが来られないおうちはママが来るんだって」

アキちゃんは、別に気にしていないよ…というような顔でママに微笑みながら答えました。


「そうなの… ねえ、アキ? アキは、またパパと一緒に暮らしたい?」

ママはこのことを、今までずっとずっと自分の胸の奥にしまっていましたが、今日は思い切ってアキちゃんに聞きました。


アキちゃんは、思いもしなかったママの質問にビックリしました。

そして、何と答えたら良いのか分からずに黙っていました。


そんなアキちゃんの様子に気付いたママは

「あ、アキ…ごめんね。急にそんなこと言われても困っちゃうよね…ごめん、ごめん」

と、まるで何かの言い分けをするかのようにアキちゃんの頭を撫でながら言いました。



そして、アキちゃんの頭の上からハンドルに手を戻して運転に集中しようとしたママに向かってアキちゃんが小さくつぶやくように言いました。


「ママぁ…あたし、ママがいればいい」


そうつぶやいたアキちゃんの声は、どこか寂しげでした。



ハンドルを握ったまま、じっと前を見つめて運転をしていたママは、そんなアキちゃんの言葉を聞いて何も言えなくなってしまいました。

そして、もう一度クシャクシャとアキちゃんの頭を撫でました。




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