第1話 アキちゃんと白い猫
【ちっちゃいあきみ~つけた】
「ねえ、ママ。いいでしょ~」
アキちゃんがママのセーターをひっぱりながら言いました。
「ねえってば~」
「ダ〜メ!もう、捨て猫なんて拾ってきて!元の場所に返してきなさい!」
ママは、忙しそうに夕飯の用意をしながらアキちゃんに言いました。
「やだやだ~!ちゃんと可愛がるから~、ねえ!飼っていいでしょ~!」
アキちゃんはあきらめませんでした。
「そんなこと言って、いつもアキは途中で飽きちゃうでしょ」
ママは冷蔵庫のドアを開けて中を覗き込みながら言いました。
「ちゃんとアキが面倒みるから~!ねえ、飼ってもいいでしょ~」
アキちゃんは、今にも泣き出しそうな声を出しました。
ママは、アキちゃんのほうに振り返り、しゃがんでアキちゃんに顔を近づけてこう言いました。
「いい?アキ、よく聞いてね。たとえ小さなネコちゃんでも、いのちがあるのよ。
生きものを育てるのはとっても大変なことなの…。
病気にだってなるし、ちゃんとゴハンも毎日あげなきゃいけないのよ。
アキがネコちゃんのことを飽きてしまっても、ネコちゃんは一生懸命生きているの。
アキがちゃんと面倒をみないと病気になって死んじゃうかもしれないの。
そうなったらネコちゃんは、よけいに可哀想でしょ。」
アキちゃんは、何も言わずにただうつむいてママの言葉を聞いていました。
するとママは、アキちゃんのほっぺたを両手でやさしくつつんで言いました。
「アキ、その猫ちゃんのことちゃんと面倒みるって約束できるの?」
アキちゃんは、こぼれ落ちそうな涙をこらえながら小さな声で言いました。
「アキ、ちゃんと面倒みれるもん。ちゃんと可愛がるもん…アキ…」
そこまで言うと、アキちゃんの目からは大粒の涙があふれ出しました。
そんなアキちゃんの顔をじっと見つめていたママは、小さなためいきをついてから言いました。
「もう、仕方ないわね…それで、どこにいるの?そのネコちゃんは」
ママは、アキちゃんのほっぺに流れた涙をやさしく手でぬぐいながら言いました。
そのママの言葉にハッとしたアキちゃんは顔をあげました。
「…ママ、いいの?」
アキちゃんは、恐る恐るママの目をのぞき込みました。
ママは、やさしくほほ笑んで小さく
「うん」と言いました。
「ママ~!だいすき!ありがとう!ぜったいに可愛がるからね!」
アキちゃんはママに抱きついて大喜びしました。
「こっちこっち!」
アキちゃんは、ママの手をひっぱって玄関へ走りました。
アキちゃんが玄関のドアを開けると、小さなダンボール箱がひとつ置いてありました。
「あのね!公園でまさるくんとあそんでて見つけたの!でも、まさるくんちは犬を飼ってるからダメだって…ねえ、ママ。ほんとにいいんでしょ?」
「うん。ちゃんと、アキが可愛がるのよ」
そう言いながら、ママがダンボール箱の中をのぞき込みました。
ダンボール箱の中には、真っ白い毛の小さな小さな子猫が大きな目で見上げていました。
子猫はママとアキちゃんの顔を見つめて
「ニャ~、ニャ~」と細い声で鳴いています。
「まあ、なんて小さいの? かわいそうに…」
ママは、子猫を両手でやさしく持ち上げました。
「よしよし、あら…こんなにガリガリになっちゃって。おなか空いてるでしょう…アキ、冷蔵庫からミルクを持ってきてちょうだい」
「うん!」
そう言うと、アキちゃんは、ドアを開けて急いで家の中へ消えていきました。
そんなアキちゃんを見ていたママが
「やれやれ…」
と小さなためいきをつくと、ママの腕に抱っこされていた子猫はペロペロ…とママの手を一生懸命に舐めました。
その日から、アキちゃんは毎日まいにち子猫とあそびました。ちゃんとゴハンもあげました。
トイレのそうじも毎日アキちゃんがしました。
寝るときも、ふたりはいっしょの布団で眠りました。
子猫は「あずき」という名前になりました。
「どうして、あずきなの?」
と、ママが聞いてもアキちゃんは
「いいの!あずきちゃんなの!」と言うだけでした。
あずきは、女の子だったのでアキちゃんは、あずきの首にピンクの首輪をつけました。
小さな鈴がついていて、あずきが歩くとチリンチリンと音がしました。
アキちゃんとママは、あずきのことをとっても可愛がりました。
アキちゃんとあずきは、何をするときもいっしょでした。
アキちゃんが宿題をしているとき、あずきはアキちゃんのひざの上で丸くなって終わるのを待ちました。
あずきがゴハンを食べているとき、アキちゃんは床に寝ころがってあずきが食べ終わるのを最後まで見守りました。
「お風呂もいっしょに入る!」
とアキちゃんは言いましたが、それはママにしかられたのでできませんでした。
でも、アキちゃんがお風呂に入っているあいだ、あずきはバスマットの上で丸くなってアキちゃんが出てくるのを待っていました。
アキちゃんが学校に行っているとき、あずきはいつもソファーの上にちょこんと座って窓から庭をながめて過ごしました。
あずきは、アキちゃんの家に来てから外に出たことがありませんでした。
外に出ると車にひかれてしまうかもしれないので、ママが絶対に外に出してはだめ!とアキちゃんに言ったからでした。
いつも見ている窓の外は、なんだかとっても不思議だとあずきは思いました。
明るくなったり、暗くなったり、たくさんの水が落ちてきたり、この前なんて上の方から白くてふわふわしたものが落ちてきました。
その白くてふわふわしたものが、あっという間に窓の外の小さな庭を真っ白につつんでしまいました。
とてもきれいでした。白い毛のあずきは自分もその中に溶けてしまうような気がしました。
ずっと見ていても面白くて飽きませんでした。
あずきは、これはきっとアキちゃんが、あずきがお留守番をしている時、たいくつにならないように小さなお庭に魔法をかけているんだと思いました。
ある日、いつものようにあずきが窓の外を見ていると、庭の木の枝に一羽の小鳥がやってきました。
小鳥は、部屋の中からこっちを見ている、雪のような白い子猫を見つけてこう言いました。
「あら子猫ちゃん、かわいそうに…そんな狭いところに閉じ込められているのね」
あずきには、小鳥の言っている意味がわかりませんでした。
「なんで、わたしがかわいそうなの?閉じ込められてるってなあに?」
おかしなことを言う小鳥だと思いました。
いつも同じ小さな庭の中にいる小鳥のことをかわいそうだと思っていたのはあずきの方でした。
「わたしなんて、こんなに大きなお部屋の中で自由にしていられるのに、それにくらべてあの小鳥さんは、あんなに狭いところでかわいそうに…」
次の日、あずきがまた窓の外の小さな庭をながめていると、今度は、あずきよりも大きな黒い猫が庭を横切りました。
黒い猫は、家の中のあずきに気が付くとゆっくりと近付いてきました。
窓のすぐそばまでやってきた黒い猫は、部屋の中のあずきのことをしばらくながめると
「ふんっ」
と言って、どこかへ消えてしまいました。
その日から、あずきは窓の外の世界がなんだかとても気になりました。
「あの小鳥は、どこへ行ったのかしら?あの黒い猫はどこへ行ったのかしら?こんなに狭い庭なのに…」
みんな、どこに隠れているのかしら?
日曜日の朝、いつものようにアキちゃんはあずきにゴハンをあげていました。
あずきがお皿のゴハンを全部食べ終わるのを見届けてから、アキちゃんは自分の朝ごはんを食べ始めました。
おなかがいっぱいになったあずきは、アキちゃんが座っているイスの下で大きなのびを一回だけして丸くなりました。
「アキ!早く食べちゃってね!今日はおばあちゃんちに行くのよ!」
そう言うとママは、大きなゴミ袋を抱えて、勝手口から外へ出て行きました。
「は~い。ねえ、ママ~、あずきは連れて行っちゃだめ~?」
名前を呼ばれたあずきがびっくりしてイスの下で飛び起きました。
「だ~め!おばあちゃんちはコロがいるでしょ?」
ママが、キッチンの小さな窓の外からアキちゃんに言いました。
「そっかぁ、あずき…ごめんね。おるすばんしててね」
アキちゃんが、パンのかけらをあずきにそっと差し出すと、あずきは、不思議そうな顔をしてアキちゃんを見上げました。
「あずき。夕方には帰ってくるからいい子にしててね!」
アキちゃんが玄関のドアを閉めながらあずきに声をかけました。
アキちゃんとママが出かけて、家の中にはあずきだけが残りました。
あずきは、いつものようにソファーの上に飛びのって窓の外をながめました。
今日の窓の外は、なんだかキラキラしていました。
気持ちのいい光が、庭のお花や葉っぱをきれいに照らしていました。
あずきはしばらく庭をながめていましたが、いつの間にか眠ってしまいました。
「ガタン!」
という音にビックリしてあずきが飛び起きました。
あずきは、細くて長いしっぽをピンと立てて、音がした台所の方へと恐る恐る近付いてみました。
台所は、とくに変わったようすはありませんでした。
ほっとしたあずきは、ソファーへ戻ろうとしたとき、勝手口のドアが少し開いているのを見つけました。
「きっと、ママが閉めわすれたんだ」
あずきが、勝手口の方へ近付いて少しだけ開いたドアの外を見てみると、ドアの外で何やら黒いものが動くのが見えました。
「なにかしら?」
あずきがもっと近付いてみると、黒いものはスーッと消えていなくなってしまいました。
少しだけ開いた勝手口のドアのすきまからチラっと見えた黒いものが、なんだかとても気になったあずきは、そーっと外を覗いてみましたが、そこに見えるのは、今朝、ママが抱えていた大きなゴミの袋だけでした。
あずきは、少しだけ開いたドアを前足で軽く押してみました。
思ったよりも簡単にそのドアが開いたので、あずきはビックリしてピョンと一歩うしろへ下がりました。
さっきよりも大きく開いたドアからは、ひんやりした風が入ってきて、あずきのふわふわした白い毛を揺らしています。
あずきは、またドアのほうへ静かに近付いてみました。
もう、小さなあずきの体が通るのにじゅうぶんなほど、ドアは開いていました。
あずきは、自分が家の外へ出てはいけないことを知っていました。
前に一度だけ、ママが庭で洗濯物を干しているとき、あずきは少しだけ開いた窓から庭へ出ようとしたことがありました。
でも、そのときアキちゃんが大きな声で「あずき!お外へ出ちゃだめ!」
と言ったので、あずきはそれから家の外へ出ようとは、考えたこともありませんでした。
でも今日のあずきは、なぜかとっても家の外へ出てみたい気分でした。
キラキラしているお庭をもっと近くで見てみたいと思いました。
あの小鳥や、黒い猫がどこに隠れているのか確かめてみたいと思いました。
黒い猫……
「そうだ!わかった!さっき動いてたのは、きっとあの黒猫だったんだ!」
その瞬間、あずきは勝手口のドアの外に飛び出していました。
あずきは、しばらくの間、何が起きたのか分かりませんでした。
ドアの外へ出た瞬間、強烈な日の光に全身がつつまれて、あずきは目がくらみました。
目の前が真っ白になって、何も見えなくなりました。
あずきは、ぎゅっと目をつむってから、ゆっくりとその大きな目を開いてみました。
そこで、あずきが見たのは、今まで家の中では見たことのない世界でした。
あずきの白くてふわふわの体をひんやりとした風が吹き抜けました。
見上げてみると、そこにはいつもある白い天井はなく、はるかはるか遠くまで続く深くて青い空が広がっていました。
そこには、あずきのからだの毛とおなじ白い綿のようなものがふわふわと浮かんでゆっくりと流れていました。
なんだか、とてもいい気分でした。
ぶるぶるっ!と一度だけ身震いしてから、あずきはゆっくりと歩き出しました。
あずきは、家の壁づたいにゆっくりと、そして慎重に裏庭を歩きました。
家の端まで行き、そして右の方に曲がって歩いていくと、あずきの目の前にはいつもの見慣れた小さな庭が現れました。
あずきは、そのとき初めて、いつも自分が見ていた小さな庭は窓の中だけの広さじゃなくて、もっと大きなものだったのだと知りました。
窓のガラス越しに見ていたいつもの木々や花たちは、冬の日差しに照らされていっそうキラキラ輝いていました。
庭一面に敷かれている手入れのされた芝生が、部屋に敷かれたじゅうたんよりも、あずきの小さな肉球に心地よい感触を与えていました。
「あ、そうだ!あの小鳥さんや黒猫さんたちはどこにいるんだろう?」
あずきは周りをきょろきょろと見渡してみましたが、そこには誰もいませんでした。
あずきが耳を澄ますと、家の中では聞いたことの無い、いろいろな音が聞こえてきました。
家の前を走り去る自動車の音や、近所で遊ぶ子供たちの声、遠くから聞こえてくる犬の吼える声…
そんな初めて聞くいろいろな音を、あずきは不思議そうな顔をして聞いていました。
「なんの音だろう?」
そのとき、あずきの耳にどこかで聞き覚えのある声が聞こえてきました。
「あらあら…お外に出られるね」
あずきがびっくりして顔を上げると、いつもの木の枝にあの小鳥がちょこんととまっていました。
「てっきり、あなたは家の中から出られないのかと思っていたわ」
その小鳥は小さな片方の羽を広げて家の中を指しました。
「ううん、ちがうの。本当はお外に出てはいけないの。でもドアが開いていたから…どうしても出てみたくなっちゃって…」
あずきは、少し悪いことをした気分でした。
「そうだったの。でも、子猫ちゃん…外の世界はとってもステキでしょ?あなたは知らないと思うけど、外の世界はこのお庭の何倍も何十倍も広くて大きいのよ」
小鳥のその言葉を聞いて、あずきはもっともっといろいろな場所へ行ってみたくなりました。
「ねえ、小鳥さん。あなたはいろんな所へ行くことができるの?」
あずきは小鳥のいる木のすぐ真下まで近付いて小鳥に聞きました。
「ええ、もちろんよ。だって、わたしは空を飛べるんですもの。どこへだって行けるわ」
そういうと、小鳥は木の枝からサッと羽ばたいてあずきの頭の上をクルッと一回り飛んでみせました。
あずきは、自分の上をパタパタと飛んでいる小鳥を見上げました。
小鳥が気持ち良さそうに飛んでいる広くて青い世界は「空」というのだと、あずきはそのとき初めて知りました。
「わ~、すごいな。私も空を飛べたらいいのに…」
あずきは心からそう思いました。この小鳥のように大きな空を自由に飛び回っていろいろな世界を見てみたいと思いました。
「うふ。残念だけど、あなたには空を飛ぶのは無理ね…だって羽がないでしょ」
そういうと小鳥は、ぴょこんと物干し竿の上に舞い降りました。
「そうかぁ…」
残念そうな顔をしているあずきに向かって小鳥は言いました。
「でも、あなたにだってそんなに身軽な体があるじゃない…どこへでも走ったり登ったりできるはずだわ」
あずきは、小鳥にそう言われてハッとしました。
「そうだわ。この小さなお庭から出てみよう!」
あずきは、ブルブルッと身震いをしてから、ブロック塀の上へピョンと飛び乗りました。
「ねえ、ママ… 早く帰ろうよ~」
ママのとなりでこたつに入っているアキちゃんが、ママの耳元でつぶやきました。
「おやおや…アキちゃん、今日はずいぶんとソワソワしてるわねぇ。どうしたの?」
アキちゃんとママの正面に座っているおばあちゃんがママの湯飲みに2杯目のお茶を注ぎながら言いました。
「実はね、おかあさん。うちで猫を飼い始めたのよ…アキったら、その猫のことが気になって仕方ないみたい…」
ママは、アキちゃんの頭の上に手を置いてアキの髪をクシャクシャっとなでました。
「だって~、いつもひとりでお留守番してるから、お休みの日はいっぱい遊んであげたいんだもん」
アキちゃんは唇を少しとがらせながらママの手を左手で払おうとしました。
「あら、そうなの…アキちゃんはやさしいのね~」
おばあちゃんが目を細めながらアキに言いました。
「この子ったら、こんなに猫が好きだったなんて知らなかったわ。でも、初めはどうなるかと思ったけど、本当の妹みたいに可愛がってるから良かったわ…どっちが遊んでもらってるか分からないけど…」
ママが小さい湯飲みを両手で握り締めながらアキちゃんの顔を見ると、アキちゃんが催促するような目でママの顔を見上げました、ママは声に出さずに「ね~」とほほ笑みました。
「そうだったの…アキちゃん、じゃあ早くおうちに帰って猫ちゃんと遊んであげなくちゃね!」
そう言うと、おばあちゃんは「よっこいしょ…」と言いながらこたつから立ち上がり、テレビの置いてあるサイドボードの引出しから小さな封筒を取り出しました。
「はい。アキちゃん、おこずかい…これで猫ちゃんのオヤツでも買ってちょうだいね」
おばあちゃんは、アキちゃんが遊びに来ると必ずおこづかいをくれました。
おこずかいと言っても、いつも決まって封筒の中には500円玉が一枚だけでした。
それでもアキちゃんは、そんなおばあちゃんが大好きでした。
いつもなら、アキちゃんはおばあちゃんの家に遊びに来ると、ママが帰るといっても
「まだ、帰りたくな~い」
と言っていたのですが、今日はあずきのことが気になって仕方ありませんでした。
おばあちゃんから受け取ったおこずかいが入った封筒を小さな手の平にぎゅっと握りしめたアキちゃんは、「おばあちゃん、ありがと」と言うと、もう待ちきれないとばかりに、こたつから立ち上がってママのセーターの肩の辺りを軽く引っ張りました。
「ねえ、ママ…はやく~」
「はいはい。わかりました…じゃあ、おかあさん、またね」
そう言って、ママが立ち上がったときには、もうアキちゃんは玄関に向かって走り出していました。
家に帰る車の中でもアキちゃんは、あずきのことが気になって仕方ありませんでした。
外は冬が終わりに近づき、空の青さがほんの少しだけ濃くなったようでした。
空は一面の青空で、白くて柔らかそうな雲がふんわりと浮かんでいました。
アキちゃんは、助手席の窓からその雲を眺めて、「あずきみたいだな…」と思っていました。
おうちに帰ったら、思いっきりあずきのことを抱きしめてあげようと思いました。
この気持ちが良い青空の下を、あずきと一緒にお散歩したいな~と思いました。
アキちゃんを乗せた車が家の車庫で停車すると、すぐにアキちゃんは車から飛び降りて玄関へ走りました。
「ママ、ママ!早くカギ開けてよ~」
アキちゃんは玄関ドアの前で、足踏みしながらやっと運転席から下りて来たママに向かって言いました。
「はいはい…待って!」
アキちゃんにせかされて小走りで玄関までやってきたママが、バッグからカギを取り出して「ガチャン」とドアのカギを開けました。
「あずきー! ただいま~! ごめんね~!」
アキちゃんは小さな赤い靴を脱ぎ捨ててリビングに続く廊下を走りました。
アキちゃんは、小さな四角い曇りガラスがいくつもはめ込まれたリビングのドアを思い切り開けてリビングに入りました。
「あずき~、あずきちゃ~ん。ただいま~」
いつもなら、アキちゃんが帰ってくるとドアの前で待っていてリビングにアキちゃんが入ってきた瞬間、アキちゃんの胸へ飛び込んでくるはずのあずきでしたが、今日はなぜかアキちゃんが声をかけても姿を現しませんでした。
「あずき~、どこにいるの~?」
あきちゃんは、リビングの中をキョロキョロしながらあずきを捜しました。
「あら? あずきいないの?」
アキちゃんが脱ぎ捨てた靴を玄関に揃えてから、ママがリビングに入ってきて言いました。
「あ~!わかった~! あずきったら、かくれんぼをしてるんだわ!」
アキちゃんがクルッとママの方に振り向き、ニコッと笑いました。
「よ~~し! 隠れてたって見つけちゃうもんね~!」
そう言うと、あきちゃんは、四つん這いになってソファの下を覗き込みました。
「あれ~? ここじゃないな~」
アキちゃんが、四つん這いのまま、ハイハイしながらあずきを捜していると
「あ! やだっ! 私ったら…どうしましょう!?」
おばあちゃんちから帰る時、おばあちゃんにお土産として渡された野菜の入ったビニール袋をぶら下げたまま、ママがキッチンで立ちすくんで叫びました。
普段は、冷静で慌てることなど滅多にないママが突然大きな声をあげたので、ハイハイしながら、「あずき捜し」をしていたアキちゃんは、ビックリしてママの方に顔を向けました。
ママは、泣きそうな表情でアキちゃんの顔を見ました。
「アキ…どうしよう。ママ、勝手口のドア開けっ放しだったみたい…」
ママの声が少し震えていたような気がしました。
そんなママの心細い声と表情をアキちゃんは初めて見たような気がしました。
そんなママを初めて見たアキちゃんの心に、突然なにか得体の知れない重いものが「ずしん」とのしかかって来ました。
「え…? じゃあ…あずき、お外に出ちゃったの…?」
急に不安で怖くなったアキちゃんは、ママのところに駆け寄ってママの腰に思いっきり抱きつきながら、消えてしまいそうな声でママに聞きました。
「うん…たぶん。」
ママのその言葉を聞いたとき、アキちゃんの少しばかりの期待は、胸の中から消えてなくなってアキちゃんの大きな瞳から涙が自然とあふれ出してきました。
「アキ、きっとそんなに遠くへは行ってないから…さがそ!」
ちょうど、あずきの体の幅と同じくらいに開いた勝手口のドアを見つめながら、ぼうぜんとしているアキちゃんをギュッと抱きしめてママがやさしい声で言いました。
ママの声が、いつもの冷静でやさしい感じに戻ったのを聞いたアキちゃんの胸から、ほんの少しだけ不安が消えたような気がしました。
そして、次の瞬間、アキちゃんとママは何の合図もしていないのに、ほとんど同時に玄関へ向かって走り出していました。
その頃…あずきは、生まれてはじめて味わう外の世界に夢中でした。
庭と道路の境にあるブロック塀の上にピョンと飛び乗ったあずきは、その塀の上を静かに歩き出しました。
そして、塀の終わりまで辿り着くと、そのまま道路の上へ飛び降りました。
「アキちゃんにしかられるかしら…」
そんなことを考えましたが、もっとこの外の世界を見てみたいという気持ちの方が大きかったあずきは、一度だけアキちゃんの家を振り返ったあと、道路を駆け出しました。
少し走ったあと、あずきはもう一度振り返りました。
アキちゃんの家が少し小さくなって見えましたが、もし何かあればすぐに引き返せる距離だったので、あずきは少し安心しました。
そうして、あずきはたまに振り返ってアキちゃんの家と自分との距離を確認しながらゆっくりと道路のはしっこを歩きました。
途中、いくつかの小さな曲がり角があって、その細い路地の向こうには何があるのか…
とても興味がありましたが、ここを曲がってしまうと帰り道が分からなくなりそうで怖かったあずきは、道路をひたすらまっすぐに歩きました。
あずきは、見るものすべてがはじめてで、夢中でキョロキョロしながら歩きました。
途中で何度か立ち止まり、はじめて嗅ぐ不思議な匂いをかいで見たり、空を気持ち良さそうに飛び回る鳥たちを見えなくなるまで眺めたりしていました。
「お外はこんなに気持ちが良くて楽しいのに、どうして今までアキちゃんは出してくれなかったんだろう?わたしなんてひとりでもお外を歩けるのに」
少しずつ外の世界に慣れてきたあずきは、歩くスピードを速めました。
今まで、道路のはじっこを歩いていたあずきは、気持ちが大きくなってきて知らない間に道路の真ん中を堂々と歩いていました。
そんなことにも気付かずに歩いているあずきの後ろの方から、一台の自動車がものすごい音をたてて近づいてきました。
しかし、車の走る音など今まで聞いたことのないあずきは、そんなことはお構いなしでした。
道路の真ん中を歩いている小さなあずきの存在に車の運転手はまったく気付いていませんでした。
そのとき、あずきは初めて自分の後ろの方からもの凄い音をたてて近づいてくるものがあることに気付きました。
あずきは、ハッとしてその場に立ち止まって後ろを振り返りました。
しかし、その時すでにその自動車は、あずきのすぐ近くまでせまっていました。
あずきは、いったい自分の身に何がおきているのか理解できませんでした。
そして、あずきが自分のすぐ近くまでせまって来ている自動車が赤い色をしていることに気づいたとき、今まであずきの体に降り注いでいた明るい日差しは、薄暗い影に変わり、その直後、赤い自動車はスピードを変えることもなくあずきの小さな体の上を通り過ぎました。
あずきは、恐怖のあまり逃げることも忘れていました。声を出すこともできませんでした。
赤い自動車の影を見た瞬間、その時はじめてアキちゃんが自分のことを外に出さなかった理由がわかりました。
こんなに楽しくて気持ちが良い外の世界に出してくれないなんて、アキちゃんは自分にイジワルしているのかと、ついさっきまで思っていましたが本当は外の世界はとっても危険だからアキちゃんは自分を外に出さなかったんだ…と気付きました。
アキちゃんに申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
もうアキちゃんと一緒に遊んだり、ごはんを食べたり、同じ布団で寝たりできなくなってしまうと思いました。こんなことなら、もっとアキちゃんに甘えておけばよかった…と思いました。
そして、小さくてふわふわな白い毛のあずきは、道路の真ん中で、その体をもっと小さく丸めたまま動かなくなりました。
冬がもうすぐ終わります。
アキちゃんちの小さな庭にある小鳥が遊びにやってくる木には、緑色の小さな葉っぱが顔を出し始めました。空の色もその青さが少しだけ深くなりました。
小鳥たちも気持ち良さそうに大空を飛び回るようになりました。
氷のように冷たかった北風も、まだひんやりとしていますが、少しずつやわらかく吹くようになってきました。
その、ひんやりとしたやわらかい風が、道路の真ん中で丸まって動かないあずきの上を音も立てずに吹きぬけました。
あずきのふわふわした白い毛が風に揺れました。
あずきはとても良い気分でした。
さっきまでの怖かった出来事が今はもうずっと前のことだったような気がしました。
再びあずきの体には暖かな白い日差しが降り注いでいました。
あずきの小さな体はゆっくりと上下に揺れていました。そのゆっくりとした揺れがあずきはとても良い気持ちでした。
アキちゃんがいつも抱っこしてくれているときと同じような感じでした。
自分の顔に何かが触れているのに気付いて、あずきは目を覚ましました。
あずきがゆっくりと目を開きかけたとたん、無理矢理なにかがその目を閉じさせました。
びっくりしたあずきは、ブルブルッと顔を左右に振り完全に目を見開きました。
「やっと、気付いたか…」
それは、あずきが初めて聞く声でした。
ビックリしてその声のする方へ顔を向けると、そこにはあずきよりも一回りほど大きな体をした黒い猫があずきのことを見つめていました。
「あ、あなたは…だれ?」
あずきは、やっとの想いで声を出しました。
「どうやら、ケガはないみたいだな…」
あずきの質問など、まるで聞こえていなかったかのように、その黒い猫は言いました。
そしてもう一度、あずきの顔を「べろん」と舐めました。
あずきは、赤い自動車が通り過ぎる瞬間、怖さのあまり小さな体をさらに小さく丸めて地面にうずくまっていました。
そのおかげで、偶然にも自動車はあずきの体の上を通過してあずきの体はケガ一つしないで済んだのでした。
でも、あずきはあまりにも怖くて気を失っていました。
そんなあずきのことを、この黒猫は首元を咥えて持ち上げて道路の端っこへ連れてきてくれたのでした。
あずきは、自分がケガ一つしていないことが分かり、やっと落ち着いて考えることができるようになって、黒猫が自分のことを助けてくれたのだとようやく気付きました。
「黒猫さん、ありがとう。わたしのこと助けてくれたのね」
まだ心配そうにあずきのことを見下ろしている黒猫に向かってあずきが言いました。
「ばかやろう! こんな道路の真ん中をフラフラ歩いてるからこんな目に遭うんだ!車にひかれて死んじまってもおかしくなかったんだぞ!」
黒猫が急に大きな声でどなったので、あずきは小さな体をビクッとさせました。
「ご…ごめんなさい…わたし、お外に出るのが初めてだったから…ごめんなさい」
あずきは、大きな瞳に涙を浮かべて小刻みに震えながら言いました。
そんな、涙が今にもこぼれ落ちそうなあずきの顔を見た黒猫は、少し困った顔をしながら言いました。
「なんだって? おまえさん、外に出るのが初めてなのか?」
黒猫は、「信じられない」と言うような顔をしていました。
「うん。今まではずっとアキちゃんの家の中だったの…それで、今日はじめてお外に出てみたの。」
あずきは、「アキちゃん」という言葉を口にした時、アキちゃんのことが急に恋しくなって今すぐにでも家に帰りたい気分になりました。
「あぁ、あの小さな女の子の家だな…おまえさんがいつも家の中から外を眺めていたのは知っているよ。」
黒猫は「ふんっ」と鼻を鳴らしました。
あずきは、黒猫が鼻を「ふんっ」と鳴らしたのを聞いてハッとしました。
「ねえ、もしかして黒猫さんはわたしのおうちの庭に遊びにくる猫さん?」
あずきは、どうして今まで気付かなかったんだろう?と思いました。
あずきが、少しだけ開いたドアから外に飛び出す直前、チラツと見えたあの黒い影はきっとこの黒猫に違いないと思いました。
「あぁ、おまえさんの家の庭は毎日通っているよ。近道なんでね…使わせてもらってるさ」
黒猫はぶっきらぼうに答えました。
「やっぱり! わたし、黒猫さんのこと家の中からいつも見てて、いったいどこからやってきて、どこへ消えてしまうのか…とても不思議だったの。だって、外の世界がこんなに広くて大きいなんて知らなかったんだもの…ねえ、黒猫さんのおうちはどこにあるの?」
あずきは、ぴょこんと立ち上がって黒猫に言いました。
「ははは、家か・・おいらには家なんてものは無いのさ。おまえさんと違って、おいらはのら猫だからな…」
黒猫は、明るく答えたつもりでしたが、その声はどこか寂しそうな声だとあずきは思いました。
「そうなの…じゃあ、ごはんとかはどうしているの? 寝る場所は…?」
あずきは、その時なぜかアキちゃんの顔を思い出しました。
「う~ん…そうだな~、食料は毎日適当に調達してるよ。寝る場所なんて決まってはいないさ。天気が悪けりゃ屋根がある場所で寝るし、星空がキレイな夜は公園のベンチで星を眺めながら寝るのさ…」
黒猫は、目をつむって何かを思い出すような顔をしながら答えました。
「星? それなあに? そんなにキレイなものなの?」
あずきは、興味津々で聞きました。
「おやおや…おまえさんは星も見たことないのかい。夜の空ぐらい見たことあるんだろ?」
黒猫がすこし驚いたような顔であずきのことを見下ろしました。
「夜の空なんて見たことないわ。だって、夜は家の中からはお外が見えないんだもの。」
あずきの家は、夕方になると家中の雨戸を閉めるのはアキちゃんのお仕事でした。
「ほぉ…それは、なんてもったいないんだろう。あんなにキレイな星空を見たことがないなんて…夕べだって、そりゃあキレイな星空だったぞ…」
黒猫は少し得意になって言いました。
「うわ~、そうなんだぁ…わたしもキレイな星空、見てみたい…」
と、あずきが得意げな顔をしている黒猫に向かって言いかけたとき、あずきは黒猫の後ろの方からこちらへゆっくりと近づいてくる影に気付きました。
あずきが、その影に気付いたのとほぼ同時に、黒猫もその影に気付いたようでした。
黒猫は、表情をこわばらせてクルッと体を後ろの方へ向けました。
あずきのすぐ正面に背中を向けた黒猫は、あずきよりも一回り以上も大きな体だったので、あずきからは自分たちへ近づいて来るものが何なのか、見ることができませんでした。
そのとき、あずきの目の前に座り込んだ黒猫が、ほんの少しだけ後ろに下がりあずきとの距離をさらに近づけました。
それは、まるで何者かに気付かれないように、あずきのことを隠しているかのようでした。
「いったい、なにが…?」
興味津々のあずきが横に首を伸ばして、近づいてくるものを見ようとしたとき、黒猫の黒くて細長いシッポが、まるで生き物のように、スルスルッとあずきの顔の前へ伸びてきました。
そして、その黒くて長いシッポは、あずきの顔に巻きつくようにして、あずきの目を覆い隠しました。
「見るな! 逃げろ!」
黒猫は、背中を向けたまま低く小さな声で、あずきに向かって言い放ちました。
一瞬何が起きているのか分からなかったあずきが
「え?…なん・・で…」
と、言いかけた言葉をさえぎるように、黒猫はもう一度あずきにむかって言いました。
「いいから! 走って逃げろ!!」
黒猫は、今度は大声で、しかもあずきの顔を睨みつけながら怒鳴りました。
黒猫があずきの方を振り返ったせいで、あずきの視界が少し開けました。
「何してるんだ! 早く!!」
と叫ぶ黒猫の肩越しにあずきが見たものは、あずきよりも一回り以上大きな体の黒猫よりも、その何十倍も大きな体でキバを剥いて近づいて来る1匹の茶色い犬の姿でした。
第2話に続く