姉の思惑と弟の困惑
イルムハートがアルテナ高等学院に入学して半年が過ぎ、季節は初夏へと移り変わった。
当初懸念していた同級生達たちとの心の壁も完全ではないにしろ徐々に無くなり、イルムハートは学院生活を十分に満喫していた。
そんなある日、エリオとサラと3人で昼食を終え食堂から教室へ戻る途中、後ろから不意に声を掛けられる。
「君がイルムハート君だね?フォルタナ辺境伯アードレー家の。」
振り向くとそこには、白で縁取りされた腰下辺りまでの短いローブを纏った男子生徒が立っていた。
このアルテナ学院には制服といったものは無いが、学院生である証としてのローブが支給される。
ローブは入学年毎に色分けされたリボンで縁取られ、またその胸には学科を表す刺繍がほどこされていた。
その男子生徒が纏うローブの縁取りは白、そして胸には剣が交わる刺繍がついているので彼が騎士科の5年生であることが判る。
「そうですが、貴方は?」
イルムハートがそう尋ね返すと、男子生徒は右手を胸に当て大仰な動作で自己紹介を始めた。
「失礼、私はアンベール・ランデック・レオポトス。レオポトス伯爵ランデック家の第2子だ。」
貴族の子同士が初対面の挨拶を交わす場合、名前や家名と共に自分が第何子であるかを伝えるのが通例とされていた。”格”を明確にするためだ。
貴族の場合、家柄と同時に家督の相続者かどうかでその者の格付けがなされる。
爵位が同じでも跡取りかそうでないかでは当然”格”は違うし、また爵位が劣っても跡取りであれば上位の非相続者より上として扱われる場合もあった。
そのため、自分の立場をはっきりさせることが必要になっているのだ。
「どうも初めまして、ランデック先輩。イルムハート・アードレー・フォルタナです。」
この場合、相手はこちらのことを知っているようなのでイルムハートは名前だけを名乗る。
「それで、僕に何か御用でしょうか?」
相手は騎士科、それも5年生だ。イルムハートとは何の接点も無い。そんな彼が何の用だろうか?
戸惑うイルムハートだったが、次いでアンベールの放った言葉によりさらにその困惑は深まることとなる。
「今日は君に剣の試合を申し込みに来た。
どうだろう、受けてくれないだろうか?」
「剣の試合?」
あまりにも予想外の台詞にイルムハートは思わず聞き返してしまう。
それはそうだろう。相手の意図が全く分からないのだ。
もしかして新入生イビリか?とも思ったのだが、目の前のアンベールは多少プライドが高そうではあるもののそこまで意地の悪い男にも見えない。
第一、騎士科の生徒が学術科の下級生をイビったところで何になるというのか?
「ええと……試合する理由を聞かせていただけますか?」
イルムハートとしては極めて真っ当な質問をしたつもりだった。
だが、その問いに対しアンベールは全く予想外の反応を示した。答えるどころか、逆に彼の方が戸惑い始めたのだ。
(何なんだよ、一体?)
何かを言おうとして思いとどまり、それでも何とか口を開きかけるのだが、やはりこれも言葉を飲み込んでしまう。
そんなアンベールの様子に、イルムハートは増々意味が解らなくなる。
やがて少しバツの悪そうな表情を浮かべながら、アンベールはやっと口を開くと
「理由については姉上に尋ねてみてもらえるだろうか。
とりあえず今日はこれで退散することにしよう。
返事は近日中に頂きたい。良い返事を期待している。」
そう言うだけ言って、そそくさと去っていった。
結局、疑問が解消されることは無く、むしろ謎だけが深まったままのイルムハートは呆然としながらアンベールの後姿を見送ったのだった。
理由も分からないままに試合を申し込まれたイルムハートだったが、アンベールの言葉からこの件に姉のどちらかが関わっていることだけは理解した。
なので帰宅後、さっそく2人の姉を捕まえて問い質してみる。
すると、先ずは下の姉であるアンナローサがそれに答えてくれた。
「お姉様の卒業まであと半年ですものね、そろそろ皆さん焦り始めたのだと思うわ。」
だが、それでもイルムハートには意味が分からない。
上の姉マリアレーナの卒業に何の関係があるというのか?
そんなイルムハートの反応が可笑しかったのか、アンナローサはうふふと笑って見せる。
「その方がイルムくんに試合を申し込んだのはね、お姉様の交際相手に選ばれたいためなのよ。」
「マリア姉さんの交際相手に?それと僕との試合に何の関係があるのですか?」
「それはね、お姉さまが交際相手を選ぶにあたり、イルムくんより強い男性であることを条件とされているからなの。」
「はあ!?」
衝撃の事実であった。
イルムハートが言うのも何だが、マリアレーナは美人で頭も良く、そして優しい女性である。その上、辺境伯家の次期当主となる人間だ。彼女との交際を望む男性はそれこそ星の数ほどいるだろう。
アンナローサが言うには、その選別条件として『イルムハートより強い事』を挙げているというのだ。
貴族の場合、自由恋愛より政略結婚のほうが多いのは事実だが、アンナローサは王国最上位貴族の子である。つまりは、相手を選ぶことが出来る側だった。
しかも、父にして現当主であるウイルバートには結構相手を無理強いするつもりなどこれっぽちも無い。
むしろ、結婚自体させたくないのが本音だろうが、さすがにそれを口にするわけにもいかないだろう。
そんなわけで、マリアレーナの相手は彼女自身に選ぶ権利が与えられていた。
なので、本人が条件を決めること自体に問題は無いのだが……何故そこにイルムハートの名が出てくるのか?
「殿方というのは強く無ければいけません。私をそして家を護ってくれるだけの力が無ければ相手としてふさわしくありませんからね。」
呆然と見つめるイルムハートに対し、マリアレーナはさも当然のように答えた。
「本当のところは交際を申し込んでくる相手があまりにも多すぎるので、それを遠ざけるためのものなのよ。」
そう言いながらアンナローサは面白そうに笑う。
何でも、入学早々マリアレーナは男子生徒の注目の的となったらしい。
やがて交際の申し込みを数多くされるようになり、面倒になった彼女はまずイルムハートよりも強い事を相手の条件としたのだそうだ。
最初は遥か年下の子供など取るに足らないと考えていた者達も、イルムハートが騎士団から剣の手ほどきを受けていると聞いてその条件の難しさを理解する。
普通、貴族の子が剣を習う場合は剣術道場の師範から教わるのであって、実戦要員である騎士や騎士団から手ほどきを受けることなどない。求める強さの次元が違っているからだ。
それにより、まずは国政科の者が脱落した。
彼等とて剣を使えないわけではないが、騎士団に鍛えられた相手と闘って勝てると思うほど己惚れてはいなかったのだ。
次いで脱落したのは魔法士科の生徒。
学院における魔法の授業は知識や制御に重きを置いているため、戦闘に関してはそれほど自信があるわけではない。
まして、剣だけでなく魔法も魔法士団に教えを受けていると聞いてはあきらめるしかなかった。
残ったのは剣士科、それもある程度訓練を重ねた上級生のみとなる。
だが、彼等には2つの不幸が重なった。
そのひとつは当時まだイルムハートが学院に入学していなかったこと。
まさか、ラテスまで乗り込んで行くわけにもいかず、不本意ながらそのまま卒業していった者が数多くいた。
そしてもうひとつは、そのプライドである。
いくら騎士団仕込みとは言え、遥か年下の子供を相手に騎士科の生徒が本気で闘うわけにもいかない。
ましてや、ようやく入学して来たイルムハートが所属したのは学術科だった。
同じ騎士科ならまだしも、学術科のしかも下級生相手にこちらから試合を申し込むなど彼等のプライドが許さなかったのだ。
しかし、マリアレーナの卒業まであと半年となった今、もはやなり振り構ってもいられない。卒業してしまえば接点も無くなってしまうため、これが最後のチャンスという事なのだろう。
(何してくれてるんですか、全く……。)
イルムハートとしては頭を抱えるしかない。
そして、ふとある事に気付く。
「ちょっと待ってください。という事は、他にも試合を申し込んでくる人がいるかもしれないという事ですか?」
「かもしれないじゃなくて、確実にいるわね。
5年生だけじゃなくて4年生や3年生あたりからも挑戦者は出てくると思うわよ。
まあ、さすがに卒業生までがそれに加わることはないだろうけれど。」
アンナローサの言葉にイルムハートは愕然とする。
全くもって冗談ではない。この先マリアレーナが卒業するまでの間、そんな連中にからまれ続けるのかと考えただけで頭が痛くなった。
「大丈夫、誰が来ようとイルムの相手ではないわ。」
マリアレーナはそう言って笑ったが、問題はそんなことではないのだ。いちいち相手をしなければならない自分の身にもなってほしい。
さすがのイルムハートも今回ばかりは強く抗議しようと口を開きかけたのだが、その前にまたアンナローサが追い打ちを掛けてくる。
「もしかすると、ダウリンさんも参加して来るかもしれないわね。彼もお姉様に交際を申し込んで来たひとりのはずだわ。」
「ダウリンさん?」
「そう、ロードリック・ダウリン・ルベルテ。ルベルテ子爵家の……確か第2子だったかしら?
彼は騎士科の5年生で席次は第1位なのよ。」
席次とは騎士科内におけるランキングのことである。
騎士科には学業成績とは別に単純な剣技の強さのみで順位を付けるならわしがあった。将来は実戦部隊へ所属することになるのだから、強さにこだわるのは当然かもしれない。
その順位は全学年を対象とした席次戦によって決定されており、つまり席次1位ということはこのアルテナ学院において最強であることを意味する。
とは言え、イルムハートの実力からすれば相手が1位だろうと何位だろうとさほど問題ではない。
ただ、相手をしなければならない人間がまたひとり増えることに変わりはなく、その現実がイルムハートに深いため息をつかせる。
「いえ、彼の場合おそらく試合を申し込んできたりはしないはずです。」
だが、マリアレーナの考えはアンナローサとは違うようだった。
「何しろ席次第1位ですからね。その地位の重さは他の方々と比べ物になりません。
まさか学術科の1年相手に自分から試合を申し込むなど、到底出来る事ではないでしょう。」
(だと良いけど……。)
まあ、そのロードリック・ダウリンとやらがどう動くにしても、既に複数の挑戦者がイルムハートとの試合を求めてくるのはほぼ確実と思われた。
これをどうやって回避するか?そもそも、回避は可能なのか?
それが、今のイルムハートにとっては最優先で考えなければならない課題となったのだった。
そして翌日。
その日は授業が終わってから新人3人組の訓練を行う予定となっていた。
「そりゃ災難だな。
まあ、お前の姉さんはメチャクチャ美人で人気もあるから、先輩達が熱を上げるもの無理はないか。」
イルムハートが昨日の件を話すと、ジェイクが苦笑交じりに言った。
「それにしても、アナタに勝負を挑むなんて正気とは思えないわよね。勝てると思ってるのかしら?
Cランクのベフさんより強いというのに。」
次いでライラが呆れた声を出す。
ちなみに、ベフは先日見事試験に合格し、晴れてCランク冒険者となっていた。
「そんなこと皆は知らないしね。なにせ僕が冒険者をやってることすら知らないんだから。」
イルムハートが苦笑交じりに言う。
「そうなの?」
「だって、わざわざ他人に教えるような事でもないだろ?」
「それはそうだけど……でも、もし知ってたら試合を申し込むなんて無茶なことはしてこなかったんじゃないかしら。まあ、今さらだけど。」
確かに、今さらではある。
「ところで、そのランデックという先輩はどんな人なんですか?」
「剣士科の5年で第6位の席次持ちだ。」
ケビンの質問にはジェイクが答えた。
「俺も顔を合わせたことはないけど、伯爵家の息子なんでやっぱ気位は高いって話だ。いかにも”上位貴族の子”って感じの人間らしい。
席次が6位だけあってそれなりに強いんだろうが、イルムハートの相手になる程じゃないと思うな。」
「そもそも、イルムハート君に勝てるような人間が学院生の中にいるとは思えませんしね。」
ケビンがそう言いうと皆が同意して笑う。しかし、当のイルムハートだけは表情を曇らせたままだった。
「勝てるとか勝てないとか、問題はそういうことじゃないんだよ。
試合を申し込まれる度にいちいち相手をするのは正直面倒で仕方ない。
なんとか相手に諦めさせる方法は無いものかな……。」
そんなイルムハートの言葉にケビンが「それならいっそ、呪詛魔法で相手の記憶を……」と言い出し、「それはやめろ!」と全員に却下された。
「全くアンタは時々とんでもないことを言い出すわよね。
……ところでイルムハート、それってマリアレーナ様だけ?アンナローサ様の方は大丈夫なの?」
ライラはケビンを睨み付けた後に、ふと思いついたようにイルムハートの顔を見た。
「アンナローサ様も同じくらい人気があるから、もしかしたらそっちの相手とも試合するはめになったりしない?」
「ああ、それは大丈夫。問題無いよ。」
イルムハートはそう答えたものの、実はアンナローサも同様に交際希望者へ条件を出していたことが発覚していた。
「私の出した条件はね、『イルムくんに負けないくらいカッコイイ人』よ。」
昨日、イルムハートに問い詰められたアンナローサはそう答えたのである。
そんな彼女の言葉に唖然とするしかなかったイルムハートではあったが、少なくとも直接勝負を挑まれるような条件とは思えなかったため、その件については一切聞かなかったことにしたのだった。
「なら良いけど、それでも結構な数の生徒が試合を挑んでくることには変わり無さそうね。」
「結構な数って……そんなにいるかな?」
「アナタはマリアレーナ様の人気を甘く見過ぎよ。」
ライラにそう言われ、イルムハートはげっそりした表情を浮かべた。
「それについてなんだが、上手い方法があるぞ。」
すると何やら思いついたらしいジェイクが口を開く。
「まあ、一度も戦わずに済むわけじゃないけど、一回きりで済ます方法ならある。」
「どんな方法?」
「挑戦者を集めて勝ち抜き戦をするのさ。で、最終的に勝ち残った者だけにイルムハートと闘う権利が与えられるってことにするんだ。
どうだ?これならいちいち全員を相手にする必要もないだろ?」
そう言ってジェイクは得意気に胸を張った。
だが……。
「却下。」
あっさりとライラに否定されてしまう。
「考え方としては有りだと思うけど、でも現実的じゃないわね。
仮にそれをやるとして、参加者を取りまとめたり組み合わせを考えたり、そう言った仕切りを誰がするっていうの?
それに、皆は1番になるためじゃなくてイルムハートに勝つことが目的で試合を申し込んでくるのよ?
なのに他の人に負けたせいでイルムハートと闘えなくなるなんて、そんなルールに納得するはずないでしょ?」
「それは……そうだな。」
それには何も言い返せず、ジェイクはがっくりと肩を落とす。
しかしジェイクの案は決して無駄ではなく、イルムハートに何かのヒントを与えたようだった。
「……そうか、そうだよね。何も全員と試合する必要はないんだ。
一番強い相手とだけ試合すれば……うん、それならいけそうだ。」
イルムハートの表情が急に明るさを取り戻す。
尤もそれは無邪気な明るさではなく、どこかしら黒い笑みにも見えた。
何やらとんでもないことを企んでいるに違いない。
ジェイク達はそんなことを思いながら、ひとり呟き続けるイルムハートを呆れた表情で見つめるのだった。