侯爵と侯爵令嬢
王都到着後しばらくの間、イルムハートは挨拶回りの日々を送っていた。
と言っても、政治的影響力を持つわけでもない彼が回る先は限られており、相手はアードレー家と縁の深い者達ばかりである。
皆とは6歳の誕生会で顔を合わせているので、初対面の人間を相手にするよりもずっと楽ではあった。
そして今日は、その中でも一番重要な人物の元を訪れる日だった。
スチュアート・ポートレー・クルーム。クルーム侯爵家当主でイルムハートの母セレスティアの兄。
本来なら一番先に挨拶に訪れるべき相手なのだが何分彼は王国の財務大臣を務めており、そう簡単に会える相手ではなかった。
重要な役職に就く彼のスケジュールは、例え休息日であっても予定がぎっしりと詰まってるのだ。
伯父甥のよしみから、これでもかなり早く面会の予定を入れてくれたほうである。
それだけ大臣職が忙しいと領地経営をしているヒマがないのではないかと思われるが、実のところ彼は領地を持っていない。
彼だけではない。国政に携わる貴族達は皆領地を持たない貴族なのだ。
王国直轄領の地名から領地名(貴族名)を授けられてはいるものの、そこを治めているわけではない。
あくまでも国政を行うのが彼等の任務で、それに専念するため領地経営を免役されているのだ。
そして彼等には領地からの収入に代わり、国から歳費が支給される。
領地収入のように不作や経営不振による減収がなく財政が安定するのが強味ではあるが、逆に言えば自助努力により収入を上げるといったことも出来ないので、どちらかといえば経済力は領地持ちの貴族よりも劣ってはいた。
だが、それに代わる”権力”というものを彼等は持っていた。
その役職次第によっては、格上の貴族とも対等以上に渡り合えるのが彼等の真の強味なのである。
彼等は政務貴族、または宮中貴族と呼ばれていた。片や領地持ちは領治貴族、地方貴族と呼ばれる。
イルムハートの伯父クルーム侯爵は、その政務貴族のなかでも最上位に位置する人物なのだった。
ちなみにこの国、と言うかこの世界では地球での感覚に比べれば侯爵家の数が少なかった。
ここバーハイム王国では辺境伯を含めた侯爵相当の家は僅か10家しかない。王族の血縁である公爵家が20家以上あるのに比べればかなり少ない方であろう。
それは侯爵という爵位の位置付けが違うせいであった。
この世界でも侯爵が上位伯爵としての意味合いを持つのは同じなのだが、決して強い力を持った伯爵が侯爵になるわけではない。
侯爵とは、国から特別な権限を与えられた貴族のことを言う。
国政において重要な役職を務める者。または隣国と国境を接する領地を持ち、その警備や外交を担う者。(但し、ドラン大山脈を挟み隣国と接する領地は別である)
彼等には国家運営に関わるような案件に対しても、自らの判断で行動出来るだけの権限が国王より託されている。
そう言った特別な存在が侯爵となれるのであって、例え広大な領地を持ち強い影響力を持っていたとしても、それだけでは侯爵にはなれないのだ。
地球で言えば、初期の貴族制における侯爵の意味合いに近いのかもしれない。
現在、バーハイム王国においては隣国と接する領地を支配する侯爵が2人、辺境伯が2人。そして、重要な大臣職を担当する侯爵が6人。
この計10人、世に十侯と呼ばれる人物がバーハイム王国の屋台骨を支えているのだ。
尚、余談ではあるが、大臣職そのものは決して特定の侯爵家が世襲するわけではない。
ある程度、専門知識を生かせるように考慮されてはいるが各大臣職に持ち回りで就任するようになっている。過度な権力の集中を防ぐためである。
クルーム侯爵も家督を継いだ当初は一段格下の商務大臣を務めていたが、イルムハートが産まれた頃に財務大臣へと昇格している。
そんなクルーム侯爵の屋敷は、アードレー家の屋敷とは大通りを挟んで反対側にあった。
アードレー屋敷と同様に通りからは数区画離れているだけなのだが、その一区画の広さが尋常ではない。
前世では”○○ドーム何個分”という表現がなされる場合があったが、まさにそのレベルである。一個人の邸宅がだ。
それだけの距離があるため、”ご近所さん”を訪れるにも馬車は必須である。
尤も、距離の如何にかかわらず、上位貴族には徒歩で移動するような物好きははいないだろう。馬車での移動が貴族の常識でありステータスでもあるのだから。
それに……。
(こんな上位貴族が住むエリアを徒歩でうろついていたら、絶対怪しまれるよね。)
この辺りは常に警備の兵が巡回していた。もし徒歩で移動しようとすれば、必ず彼等に誰何されることになるだろう。
ある意味、家紋付きの馬車が通行証代わりにもなっているのだ。
(こっそり屋敷を抜け出して遊びに行く……ってのは無理そうだね。)
別にそんなことをするつもりはないし、イルムハートには転移魔法というものがあるので出来ないわけでもないのだが、何となくそんなことを考えた。
貴族としての不自由さを改めて感じたのだ。
とは言え、当の貴族たちはそんなことは感じていないのかもしれない。不自由さを補って余りある特権があるからだ。
結局、そんなことを考える自分は根が庶民なのだと、窓の外に流れる景色を見ながら苦笑するイルムハートだった。
クルーム侯爵邸はアードレー屋敷に比べれば少し小さい建物であった。
と言っても、王都駐在事務所と駐在官屋敷を含めればの話であって、純粋に居住スペースだけで見ればむしろ遥かに大きい。
まあ、片や本邸、片や別邸では比べること自体が間違いではあるのだが。
門から木立の間を抜けていくと正面に大きな円形の花壇があり、その先に屋敷がある。花壇がロータリーの役割をしているのだ。
花壇を周り屋敷の玄関前に付くと、そこには執事服に身を包んだ男性と数人のメイド服の女性が一行を待ち構えていた。
彼等に出迎えられて馬車から降りた人影は4つ。
イルムハートとマリアレーナとアンナローサ、そしてコートラン子爵アメリアが付き添いとしてやって来ていた。
執事はイルムハート達を邸内のサロンに案内したが、アメリアだけは別室へとひとり招かれていく。
アメリアはこの後すぐアードレー屋敷へと戻ることになっているので、先に挨拶を済ませてしまうためである。
それと、イルムハートに関してウイルバートからの伝言をいくつか伝えることになっていたが、それは子供達に知らせていない。
別に秘密の話というわけではないのだが、あまり大人の本音というものを聞かせたくないとの考えからだった。
「それじゃあ、ゆっくりしてらっしゃいね。」
「付き添い、ありがとうございました。」
そう言葉を交わして、アメリアとはそこで別れる。
イルムハート達がサロンに招き入れられると、そこには2人の女性が待っていた。女性、と言ってもひとりは幼い少女だったが。
内、一人にはイルムハートも見覚えがあった。クルーム侯爵夫人ディアンヌだ。
6歳の誕生パーティーの際に夫妻でフォルタナを訪れてくれたので、イルムハートとも初対面ではない。
もう一人はおそらく、というかこの状況では間違いなく娘のミレーヌであろう。
クルーム侯爵家には2人の子供がいるが、上の子は男子で既に成人しているからだ。しかも、今日は仕事で不在だと聞いていた。
「今日は、ディアンヌ伯母さま。今日は、ミレーヌ。」
2人に向かってマリアレーナが挨拶をする。やはりもうひとりは娘のミレーヌだった。
「ご無沙汰しております、ディアンヌ伯母さん。イルムハートです。」
「お久しぶりね、イルムハートさん。少し見ない内に、ずいぶんと立派になられましたわね。」
続いてイルムハートが挨拶をすると、ディアンヌはにっこり笑ってそう答えた。
ディアンヌは小柄で丸顔のせいか、実際の年齢よりもかなり若く見える。幼さが残っていると言ってもいいかもしれない。
常に優しく笑みを浮かべているが、それは微笑んでいるというよりニコニコしていると表現した方が合っている、そんな女性だった。
しかし……娘の方はそうでもないらしい。何やら険しい目つきでイルムハートを見つめていた。
「ほら、ミレーヌもご挨拶なさい。」
母親に言われてソファから立ち上がった少女は、多少ぎこちないながらもスカートの裾を摘まんで挨拶をする。
「……初めまして、イルムハート兄さま。ミレーヌ・ポートレー・クルームです。」
姉達とはその口ぶりからして仲は良さそうなのだが、どうやら初めて会うイルムハートのことは少々警戒しているように見えた。
(そう言えば、僕より年下の子供と接するのはこれが始めてだな。)
年下から見れば警戒されてしまうような人相なんだろうか?と、少しショックを受けた。
「初めまして、ミレーヌ。僕のことはイルムと呼んでもらって構いませんよ。」
内心の動揺を隠しながらなんとか笑顔でそう言うと、先ほどまでの警戒した様子はどこへやら、ミレーヌの表情が今度はパッと明るくなる。
「イルム兄さまは本当に優しい笑顔をなさるのですね。マリア姉さまやアンナ姉さまのおっしゃる通りでしたわ。」
(はぁ?)
当惑するイルムハートをよそに、ミレーヌはマリアレーナとアンナローサに嬉しそうな笑顔を向ける。
「言った通りでしょ。イルムは強くて賢くて、そして何より優しい子なのですよ。」
「どう?ミレーヌちゃん。イルムくんのことは気に入ってくれたかしら?」
「はい!ミレーヌはイルム兄さまのお嫁さんになります!」
(はい?)
何やら3人で盛り上がっているようだったが、イルムハートにはさっぱり状況が理解出来なかった。
救いを求めるようにディアンヌへ視線を送ると、彼女は苦笑交じりに説明してくれる。
「お二人がイルムハートさんのお話ばかりするものだから、ミレーヌもそれに染まってしまったみたいなの。
いつの間にか3人の間ではミレーヌが貴方のお嫁さんになると決まったらしくて……実はあの子、今朝からずっと緊張してて大変だったのですよ。」
どうやら2人の姉は幼いミレーヌを弟の自慢話で洗脳してしまったらしい。
ミレーヌはイルムハートより3つ年下で、今年6歳になるはずだ。そんな、まだろくな判断力も備わっていない幼い子供が、姉達によって美化されたイルムハートの虚像を真に受けてしまったのだ。
聞けば先ほどのミレーヌの態度も、警戒していたのではなく緊張から来るものだったようだ。
(何してくれてるんですか、姉さんたち……。)
イルムハートとしては呆れるしかない。
2人の姉が気に入るくらいなのだからミレーヌは良い子なのだろう。そんな子を誑かすようなマネを自分の姉がしているかと思うと、申し訳ない気持ちになって来る、
「申し訳ありません、伯母さん。ミレーヌにおかしなことを吹き込まないよう、姉さんたちには僕から良く言って聞かせますので。」
だが、ディアンヌの反応はイルムハートの予想を、そして期待を完全に裏切るものだった。
「あら?私は反対するつもりはないのですよ。イルムハートさんが相手なら、何の異存もありませんわ。」
そう言ってニコニコ笑うだけだった。
先ほどの苦笑は緊張しすぎる娘に向けたもので、姉たちの行動については容認している様子である。と言うか、ディアンヌもまた洗脳されつつあるのかもしれない。
もはやイルムハートには返す言葉も浮かばず、引き攣った笑いを浮かべるしかなかった。
周りの音がどこか遠くのほうから聞こえるような、そんな非現実感に浸っていた。要は現実逃避したのである。
そんなイルムハートの精神が正常モードで再起動したのはクルーム侯爵が入室して来てからのことであり、それまでにはかなりの時間を必要としたのだった。
クルーム侯スチュアートをひと目見て、その役職を言い当てられる者は少ないだろう。とてもそうは見えないのだ。
別に大臣としての威厳や知性が感じられないわけではない。むしろ、より強く感じさせるタイプである。特に前者は。
では何故かと言えば、理由はその体躯にあった。
上背は2メール近くあり、体はがっしりとしている。そして、整ってはいるがやや強面の顔に金色の髪を短くカットしたその姿を見て、彼が文官であることを想像するのは難しいだろう。
どう見ても将官クラスの軍人にしか見えないのだ。
そして、彼がイルムハートの母セレスティアと兄妹であることも、かなりの人間を驚かせる事柄である。これ程似ていない兄妹も珍しい。
正直、イルムハートも初対面の時はかなり面食らった。大臣であることもそうだが、セレスティアの兄としては意外すぎる人物だったのだ。
その時はまだ前世の記憶に目覚めていなかったので、子供心に畏怖の念を感じもした。
だが、その見た目に反してスチュアートは温厚で柔和な人物であった。少し言葉を交わしただけで、イルムハートもすっかり彼に懐いたのだった。
「よく来たね、イルムハート。元気そうで何よりだ。」
「ご無沙汰しております。伯父さんもお変わりないようで何よりです。」
スチュアートの言葉にイルムハートが立ち上がってそう応えると、続いて2人の姉も挨拶をする。
それに軽く頷き返した後、スチュアートは「まあ、楽にしなさい。」と言って姉弟達を座らせた。
「それにしても、この3年で随分と逞しくなったものだ。これは先々が楽しみだね。」
イルムハートを見つめながら、スチュアートは感慨深そうにそう言った。
確かに、3年も経てば子供は見違えるほどに成長する。しかもイルムハートの場合、体は子供でも精神は前世の成人した人間のものなのだ。普通以上に大人びて見えるのも当然と言えば当然である。
「王都の暮らしはどうだね?と言っても、まだ来たばかりで良く分からないかもしれないが。」
「はい、実際まだ何人かのお屋敷を訪ねた以外は自分の屋敷から出ていませんので、正直、王都がどんなところか良く分かりません。
ですが、その凄さは感じました。その規模も人の数も、ラテスとは比べ物にならないですね。驚きました。」
自分の問い掛けに答えたイルムハートの言葉に、スチュアートは思わず「ほう」と言葉を漏らした。
その内容に対してではない。それ自体は当然の感想でしかないのだから。
スチュアートが興味を示したのはイルムハートの受け答えに対してだった。その言い様はとても8歳の子供のものとは思えなかったのだ。
(頭の良い子だと聞いてはいたが……これは、思っていた以上だ。)
「そう言えば、高等学院入学までの間、冒険者の見習いをするらしいじゃないか。よくウイルバート君が許したものだね。」
「それについては、僕も正直意外でした。」
そう言いながら、イルムハートはその話をした際の父親の顔を思い出した。何やら煮え切らない表情で、やたらとセレスティアを気にしていたような気がする。
冒険者見習いの件については多分に母セレスティアの意向が大きいのだろう。
そうでなければウイルバートが認めるはずがない。それくらいは言われなくともイルムハートにも解っていた。
「ただ、冒険者見習いと言ってもひと月かふた月に一度、勉強の合間に高ランク冒険者に連れられて実地を見学するだけのようなものです。
それでも、いろいろな体験をすることが自分のためになるとお母様に言われました。
あと、こちらでは剣や魔法の訓練があまり出来ないので、その代わりの意味もあります。」
冒険者見習いも訓練の内などと、それは貴族の常識ではない。スチュアートはそう思ったが口には出さなかった。
(騎士団や魔法士団から訓練を受けていると聞いた時にはまさかと思ったが、どうやら本当らしいな。
ウイルバートはこの子をそういう道に進ませようと考えているのだろうか?)
おそらく、この甥っ子は剣や魔法の才に恵まれているのだろう。それを見越して両親はこの子の才能を伸ばしてやろうと考えているのかもしれない。
スチュアートは先ほどアメリアから伝えられたウイルバートからの伝言のひとつを思い出し、そういう事かと納得した。
『イルムハートの盾になってほしい』
それだけだった。
最初は何かトラブルでも抱えているのかと思ったのだが、そういうことではないのだ。
身内の贔屓目を抜きにしても子供とは思えないほどに知的であり、しかも剣や魔法の才能にも恵まれている。
将来は有望であり、しかも辺境伯の子息ともなればいろいろと悪い虫も付くかもしれない。
それに目を光らせてくれ、そういう事なのだとスチュアートは理解した。
まあ、多少親馬鹿な気はしないでもないが、貴族社会にはパワーゲームの一面もある。少しでも目につく者は取り込むか、あるいは潰すか。
そういう厄介事に巻き込まれないようにと考えるのは、親として当然の配慮だろうとも思った。
スチュアートは”予言の子”については知らされていない。
いくら信頼できる義兄であろうと、ウイルバートとしてもさすがにそこまで打ち明けるわけにはいかなかった。
そのため、伝言はどこか曖昧な表現になってしまったし、スチュアートも間違ってはいないが正確に理解したわけでもない。
しかし、逆にそれがウイルバートの狙いだったとも言える。
どんな形であろうと、王都で強い力を持つスチュアートがイルムハートの後ろ盾になってくれれば、少なくとも王国に叛意を持つ勢力がイルムハートを取り込もうとする事態は避けられるだろう。
今はそれで十分なのだった。
そして、それを知らないスチュアートは、目の前の甥っ子が”普通に”成長したその姿を想像する。
「君は将来何になりたいのかな?騎士や魔法士を目指しているのかい?」
彼は、イルムハートが冒険者になろうとしているなどとは微塵も思っていない。それは極めて常識的な思考である。
イルムハートもそれが分かっているので、正直に答えるつもりはなかった。
「僕は……。」
例によっていろいろな経験を積んで、それから決めるつもりだという型通りの返答をしようとしたその時、今まで2人の姉と話し込んでいたミレーヌがいきなり会話に割り込んできた。
「イルム兄さまは将来ミレーヌの旦那さまになるのですよ、お父さま。」
再度の爆弾発言にイルムハートは唖然とさせられたが、スチュアートのほうは落ち着いたものだった。
どうやら娘の”結婚宣言”を聞くのは初めてではなさそうだ。既に慣れてしまっているのだろう。
これが”親馬鹿”ウイルバートであれば思わず気色ばむところであろうが、その点スチュアートは常識人であった。娘の扱い方もよく分かっている。
「そうかい。ならばミレーヌも、イルムハートに似合うような立派なレディにならないとね。」
「はい、お父さま。」
そう返事をすると、ミレーヌは花のような笑顔を浮かべた。
会話としては上手くあしらった形になるのだが、イルムハートにとっては何か外堀を埋められているような気になってくる。
この件について2人の姉には厳重に抗議をする必要がありそうだ。
そう考えるイルムハートだったが、同時にそれが受け入れられる可能性は低いだろうことも解かっていた。
今のイルムハートには引き攣った笑顔を浮かべる他に出来ることはない。
結局、その後はミレーヌの独壇場となり、屋敷を辞した時にはぐったりと疲れ果ててしまっていたイルムハートなのだった。