真の恐怖とそこにある死
イルムハートが意識を取り戻した時、彼は白い場所にいた。
”白い場所”というのもおかしな言い方だが、そうとしか表現のしようがない。
辺りには白い靄のようなものが立ち込め、光源不明の温かい光で満たされている不思議な場所だ。
そして不思議であると同時に、そこはイルムハートに強い既視感を与える場所でもあった。
(ここは……そうか、あの時と同じ風景なんだ。)
”あの時”とは前世で死を迎えた彼が神の下へと招かれた時のことである。
あの時も今回同様、こんな場所から全てが始まったのだった。
しかし、異なる点がただひとつ。
前回ここを訪れた際には神々の待つ部屋へと続く光る扉があったのだが、今回はそれが無い。
辺り一面をただ靄のようなものが覆いつくしているだけだった。
(んー、どっちに行けばいいのかな?)
目指すべき方向が判らずイルムハートは困惑する。
試しに魔力探知をしてみたのだが、どうもここは特殊な空間なようで全く使い物にならない。
と言っても、何も感知出来ないと言う訳でもなかった。何かの”力”は感じられた。
だが、その”力”の存在する場所は前方なのか後方なのか、右側なのか左側なのか、近いのか遠いのか、それがさっぱり判らない。
まあ、ここが神龍の精神世界なのだとすれば彼(?)の意識が遍在化しているはずだし、その圧倒的な存在感により魔力探知など役に立たなくなっている可能性はある。
だがそれは、逆に言えば神龍は”どこにでも”いるということだ。
”探す”のではなくその存在を”捉える”ことこそが重要なのだろうとイルムハートは判断する。
彼はゆっくりと目を閉じた。
そうしてみると、この場にはおそろしく強い”気”、おそらく神気であろう、それが充満していることを改めて実感する。
セシリアの”恩寵”や”再創教団”によりユリウスへ与えられた”祝福”を見て来たイルムハートは、何となくではあるが神気というものを判別出来るようになっていた。
膨大な魔力の塊だと思っていた天狼も、実はそれを越えるほどの神気で満たされた存在であることも今なら分かるのだ。
イルムハートは充満する神気の流れを読み、そこに意識を同調させた。やがて彼の意識は流れと共にある点へと向かってゆく。
(いた!神龍だ!)
イルムハートはこの空間を満たす力の源を感じ取った。
すると、目の前の白い靄がさっと晴れる。そして、聖なる丘を模しているかのような荒涼とした岩だらけの光景が現れた。
と言っても、それが現実の風景ではないことはイルムハートにも解かっていた。
ここは精神世界。イルムハート心象風景がまるで現実かの様に見えているだけなのだ。
そして、その場にいる者達の姿もおそらくは同じであろう。
靄が晴れ、イルムハートの目の前に姿を現したのは2人の人間。
ひとりは白い服に身を包んだ子供で、膝を抱えながら地面の上にうずくまっている。
もうひとりは黒い服を着たイルムハートより少しばかり年上の青年だった。彼は少し離れた場所で腕組みをしながら子供を見つめていた。
子供の方が神龍だ。イルムハートにはすぐ分かった。
とすれば、青年のほうが怨竜に違いない。
尤も彼等が人の姿をしているはずはなく、これもあくまでイルムハートの意識がそう捉えているだけなのである。
こうしてイルムハートは唐突に彼等の前に姿を現した。
だが、どうやら既にその気配を察知していたらしく両者に驚いた様子は無い。神龍は相変わらず顔を伏せたままだし、怨竜もちらりと視線を送って来ただけだった。
そんな中、イルムハートはゆっくりと神龍へ近付き声を掛ける。
「君が神龍だね?」
すると、神龍はゆっくりと顔を上げ口を開いた。
「……君は何者だ?何故、僕の”世界”にいる?」
「これは失礼した、僕はイルムハート。
天狼から君の手助けをするよう言われ、ここに送り込まれたんだ。」
が、その言葉にいち早く反応したのは神龍ではなく怨竜だった。
「やはり、アイツか。どこまでも俺の邪魔をするつもりらしいな。忌々しいヤツだ。」
そう吐き捨てた怨竜だったが、言葉とは裏腹にその口調は落ち着いている。
「それにしても、こんなヤツを送り込んでくるとは天狼も随分と焼きが回ったものだな。
人族ごときに何が出来ると言うのか?
全く何を考えているやら。」
どうやら怨竜はイルムハートのことなど歯牙にもかけていない様子だった。
まあ、それも当然と言えば当然。
何せ向こうは神獣と同格の存在である。人の力でどうこう出来るレベルを超えた相手なのだ。どのように見下されたところで、イルムハートには腹を立てる資格すらないのかもしれない。
「それについては僕も同感なんだけどね。
けど、そうも言っていられない状況なんだよ。
ここで何とかしないと、天狼は君達をまとめて消し去ってしまうかもしれないんだ。」
「何だと!?」
イルムハートの言葉を聞き、怨竜から余裕の表情が消えた。
「神龍ごと俺を滅しようと言うのか!?
まさか、そんな無茶な真似をするはずは……いや、アイツならそれくらいやりかねんな。」
「彼ならやるだろうね、間違いなく。そう言う奴だよ。」
忌々し気に吐き捨てる怨竜と妙に落ち着いた声でそれに応える神龍。
どうやら両者とも天狼の性格を良く解っているようである。
しかし、まるで他人事のような神龍の反応にはイルムハートも少々驚きを感じた。
「君は随分と落ち着いているようだけど、このままだと本当に消滅させられてしまうかもしれないよ?それでいいのかい?
それとも、何か回避する手立てでもあるのかな?」
そんなイルムハートの言葉にも神龍は特に表情を変える事は無かった。
「そんなものはない。
今の僕には天狼の力に対抗する術などありはしないよ。
何せ、不完全な覚醒しかしていない怨竜にすら敵わない状態なのだからね。」
「でも、それじゃ……。」
「いいんだよ。
どの道、このままでは怨竜に取り込まれてしまうのも時間の問題なんだ。
そうなるくらいなら奴共々滅せられてしまう方がましと言うものさ。」
淡々とそう語る神龍。
それを見たイルムハートは彼の覚悟に感服すると言うより、むしろ命への執着の無さに驚いた。
確かに、一時的に”死”を迎えたとしても彼等はいずれ必ず復活する。そのため、今の”生”にはあまりこだわりが無いのかもしれない。
(だとしても、いくら不死の存在とは言えちょっと達観し過ぎじゃないか?)
不死になれば皆そうなるのだろうかと思ってしまったが、もう一方の怨竜と言えば
「こうなっては仕方ない。
神龍を吸収するのは諦めて、とりあえずは自由に動けるようになるのが先だな。
この身体、お前達を排除し手に入れさせてもらうとしよう。」
と、こちらは生き延びる気満々のようだ。
どうも個体によって性格はかなり違うようである。
(これは、ちょっと思惑と違ったな。)
実を言うとイルムハートは、怨竜と闘うに当たり神龍が助力してくれることを密かに期待していた。
自分がただの人族でしかない以上、怨竜と闘うには天狼だけでなく神龍の力も必要になるはずだ。そう考えたとしても仕方無いことではある。
だが、この様子だと助力はあまり期待できそうにも無い。
「でも、君の力は天狼に封印されているんだろう?
そんな状態で何が出来ると言うんだい?」
「馬鹿な事を。
いくらアイツでも俺の力を完全に封印することなど出来はしない。
出来る事と言えば俺をこの身体の中に封じ込めることと、俺に浸食され弱りつつある神龍に力を送り続けることくらいなものだ。
これまでは神龍の力を取り込むため時間を掛け弱体化してゆくのを待っていたに過ぎん。
別に滅するだけならそれくらいいつでも出来るんだよ。」
しかも、最後の望みもあっさりと打ち消されてしまった。
(何だよ!話が違うじゃないか!)
イルムハートは思わず天狼への恨み言を口にしそうになる。
まあ、確かに天狼は怨竜の力を”抑えている”と言ったが”封じている”とまでは言っていない。自分が都合よく解釈してしまっただけなのだ。
考えが甘すぎた。そう後悔するイルムハート。
そしてこの後、それがどれだけ致命的な誤算であったか、身をもって知ることになるのだった。
「先ずはお前から始末してやろうか、人の子よ。
己の愚かな行為を悔いながら消えてゆくが良いさ。」
酷薄な笑みを浮かべた怨竜がそう言い捨てた瞬間、視野とそこにいる者達の間の距離が一気に広がった。
今まで小さな部屋の中で話していたはずがいきなり広い運動場に放り出された、そんな感覚だ。
おそらくは、戦闘を意識したことでそれに相応しい舞台へと心象風景が変化したせいだと思われる。
(こうなったら、やるしかないか。)
イルムハートは腹を括った。
元々、怨竜との戦闘は覚悟の上である。そのつもりでここへ来たのだ。
まあ、多少目算は狂ってしまったが、最悪ひとりで闘うはめになることも想定はしていた。
なので、恐れは無い……はずだった。
「無駄な真似だ。
人ごときが俺に敵うと思っているのか?」
闘いに備え身構えるイルムハートを見て怨竜は嘲笑うようにそう言った。
そしてその直後、彼の身体から恐ろしい程の魔力と、そして神気が溢れ出し始める。
そのあまりの凄まじさにイルムハートの脳は思考を停止し、身体も硬直してしまう。心の底から恐怖を感じたのである。
相手がどれ程強大な力を持っているか、天狼を知るイルムハートはそれをよく解っているつもりだった。
しかし、それが純粋な”敵意”として向けられた時、これ程までに圧倒的な威圧感を与えて来るとは正直想像すらしていなかったのだ。
今までも危険な敵を相手に闘ったことは何度もある。中には、もしかすると個の力だけならイルムハートより上かもしれない敵もいた。
だが、そんな時でもここまでの恐怖を感じたことは無かった。
勿論、”怖い”と言う感情を完全に捨て切れるものではないが、それでも諦めはしなかった。勝てる可能性が僅かでもあるのならば。
ところが、今回ばかりは違った。
怨竜に打ち勝つ、そのビジョンが全く見えない。闘う前から既に敗北しか予想出来ないのだ。
そして、その先にあるものは……。
それを考えた時、イルムハートの口の中は乾き、その全身を凍えるような悪寒が包む。にも拘らず、額を流れる汗が止まらない。
彼は今、生まれて初めて真の恐怖というものを知ったのである。
怨竜の身体が輝きを発した。
そして直後に、その光は幾条もの矢となってイルムハートに襲いかかる。
恐怖で思考の停まったままのイルムハートには、それを呆然と眺めることしか出来ない。
最早、勝敗は決した。
そう思われたその時、彼の身体はかろうじてではあるがしっかりと光の矢を回避し始める。
これは頭で考えての動きではなかった。己の危機を察知した肉体が本能的に攻撃を回避したのである。全ては日頃の鍛錬の賜物と言えるだろう。
(何をぼーっとしてるんだ、僕は!)
イルムハートは我に返る。とは言え、勝機が見えないのは相変わらずだ。
怨竜が発する光の矢は次から次へと襲いかかり、大地にいくつもの大きな穴を穿ってゆく。
凄まじい威力だ。
もしこれをまともに受けてしまえばひとたまりもないだろう。魔法による防御も果たしてどこまで効果があるのか分からない、それ程の攻撃だった。
そんな中、イルムハートは思考加速を使いながらただひたすら逃げまくるしかなかった。他に出来ることが思い浮かばないのだ。
「成る程、そのすばしっこさだけは誉めてやる。
だが、逃げているだけではどうしようもあるまい。
人の力など所詮はその程度と言うことよ。」
自身の攻撃をイルムハートに回避されてしまっているにも拘わらず、怨竜に焦る様子は無い。
むしろ、逃げ回るだけのイルムハートの姿に興覚めしたようにも見える。
「そろそろ終わりにするか。」
怨竜がそう呟くと同時に光の矢の数は一気に増えた。しかも、今まで直線的だった軌道がまるでイルムハートを追尾するかのように弧を描き始める。
思考加速を最大限にまで上げ何とかそれを回避するイルムハート。しかし、それも長くは続かない。光の矢はまるで彼の動きを読むかのように先手先手を取って来るのだ。
そして、ついに光の矢がイルムハートを捕らえた……と思ったその瞬間、彼の周りには強力な防御魔法が展開され攻撃を防ぐ。
「何!?」
怨竜は思わず驚きの声を漏らし攻撃の手を止めた。
まさか、人族ごときが自分の攻撃を防御するなど思ってもみなかったのだろう。
尤も、驚いたのはイルムハートも同じだった。
光の矢を喰らってみて改めて感じたのはとても自分の力では防げないほどの威力だということ。
なのに自分は無事でいる。何故か?
真っ先にその理由に気が付いたのは怨竜だった。
「ちっ、天狼のヤツか。」
その言葉にイルムハートもやっと状況を理解した。これは天狼が送り込んでくれている力によって発動したものなのだと。
天狼がサポートしてくれていることを決して忘れていたわけではない。
だが、怨竜の力に対する恐怖のあまり、それに頼る事すら思い浮かばなかったのである。
(これなら……何とかなるかもしれない。)
その力に後押しされるようにイルムハートはゆっくりと立ち上がった。
正直、まだ恐怖心を拭い切れたわけではない。体は重く、手足にも僅かな震えが残る。
それでも、何とか勝機を見出そうと怨竜に立ち向かうべく構えを取った。
しかし、現実とは非情なものである。
「ならば、これでどうだ?」
そんな怨竜の言葉と共に暗い闇が周囲を支配し始めた。と同時に、イルムハートの身体から一気に力が抜けてゆく。天狼の力が感じられなくなってしまったのだ。
この”闇”はどうやら外界との繋がりを遮断するための結界らしい。
「俺の能力を持ってすればヤツの力を遮ることくらい簡単なことよ。」
怨竜はそう嘯いてみせたが、実際のところブラフが半分と言ったところだろう。
何故なら、もし外部からの支援を容易に断ち切れると言うのならば既に神龍に対しそれを使っていたはずだからだ。
神龍に送られる天狼の力を断ち切れば、もっと早く弱体化させることが出来る。
なのにそうしないということは、この能力には何らかの制限があると言うことに他ならない。おそらくは長時間維持するのが難しい技なのではないかと思われた。
しかし、今のイルムハートにはそこまで推測している余裕など無かった。
いや、もしそのことに気が付いたところで結局は打つ手などないのだ。
例え僅かな時間であっても弱体化したイルムハートを倒すにはそれで十分なのだから。
絶望感に包まれるイルムハート。
最早、彼には闘う気力など欠片も無くなっていた。
怨竜の圧倒的過ぎる力の前では何をしたところで無駄だ、敵うはずはないのだと言う諦めの感情だけが彼の心を満たす。
そんなイルムハートに向けて怨竜は指を1本突き出した。すると、その指から光の矢が放たれる。
既に戦意を失った相手には波状攻撃など必要無い、一撃で十分ということなのだろう。
怨竜が放った光の矢がイルムハートを襲う。
その時、彼の身体がそれを回避するかのように動いたのは果たして本能的な反射行動だったのか、それともただ単に脚の力が抜けよろめいただけだったのか。
いずれにせよ、光の矢は僅かにイルムハートの右腕を掠めただけで直撃は免れた。
が、それでも無傷とはいかない。
凄まじい威力を持つその攻撃は、掠っただけでイルムハートの右腕を付け根から消し去ってしまう。
「うわぁぁぁ!」
激痛の走る右肩を抑えながら思わずその場にうずくまるイルムハート。そして、恐怖に引き攣った表情を浮かべ声を上げた。
「ふん、無駄にあがけばその分苦しむだけだというのが解らんのか。
そのまま大人しく消え去るが良い。」
怨竜の指が再び光る。
だが、今度もそれはイルムハートを捕らえることが出来なかった。防御によって弾かれてしまったのだ。と言っても、天狼の力が戻ったわけではない。
「……神龍!?」
イルムハートを守ったのは飛び出して来た神龍だった。
未だ覚醒していない状態ではあるものの、それでも神獣の力を使いイルムハートを庇い怨竜の攻撃を防いだのだ。
ただ、その負担は大きかったらしく力を使い果たした様子でその場に膝をつく。
そして、そんな状態でありながらも神龍はイルムハートに向かってこう告げた。
「僕のことは良い。君はここから逃げろ。
今の僕でもこの結界に穴を開けるくらいは何とか出来る。
だから、君はその隙に元の世界へ戻るんだ。」
「余計な真似をするな、神龍。」
しかし、それは叶わなかった。
不快気な怨竜の声が響いた直後、何か見えない力によって神龍の身体は遠くへと弾き飛ばされてしまい、そして動かなくなる。
「そう急がなくても、じきにお前も消滅させてやる。
それまでそこで待っていろ。」
倒れている神龍に向かってそう言った後、怨竜は再びイルムハートへと目を向ける。
「これで終わりだ。」
その言葉と共に放たれた光の矢は、今度こそ確実にイルムハートを捕らえた。
矢はイルムハートの胸を貫き、そこには身体が真っ二つに千切れなかったのが不思議なくらいの大穴が開く。
「ああ……。」
もはや感情も麻痺し痛みすら感じなくなってしまったイルムハートは、光を失いつつある瞳でその大穴を見降ろす。
その時彼が見ていたのは無残な姿になった自分自身の肉体ではなく、すぐそこにある己の死だったのかもしれない。
やがて、その瞳からは完全に光が失われ、イルムハートはゆっくり地面へと崩れ落ちた。