初めての魔獣と初めての戦闘
そこは小さな泉と一面の花畑、そしてそれを囲む樹々からなる小さな森だった。
いくら1年を通して温暖な気候であると言っても今は真冬のため、さすがに花は咲いていないが、春から秋までの間は色とりどりの花々が競うように咲いている母親のセレスティアお気に入りの場所だ。
城内の庭園にある豪華な花々もいいが、野に咲く花もまた風情があって心洗われる気持ちになるのだそうだ。
2人の姉、マリアレーナとアンナローサも自由に花を摘むことが出来るこの場所を気に入っていた。
そのため家族でよくピクニックに訪れては、ここでゆったりとした時間を過ごしたものである。
だが、今日の目的地はここではない。ここが出発点となるのだ。
イルムハートは再度透明化魔法をかけ直してから、次いで飛行魔法を使った。
ゆっくりと上昇して森の上に出ると、そこで少し上昇の速度を上げる。
20メートル四方ほどの泉が豆粒程度の大きさになったところで、いったん上昇を止めて周囲を見渡した。
数キロ離れた場所には領都ラテスがあり、かなり大きな街ではあるのだがこの位置からであればその全貌が見渡せた。その中心にはフォルテール城も見える。
「なかなか壮観だなぁ。」
まだ飛空船に乗ったことはないので、空の上からこの世界を見るのは初めてだった。
城内では人目を気にして、もっぱら室内で飛行中のバランスの取り方ばかり練習していたのだ。
「さてと、そう景色を眺めてばかりもいられないか。」
今日は観光に来たわけではなく、ある場所までたどり着くために城を脱け出して来たのだ。
目的の場所はドラン大山脈。
6千メート級の山々が連々と続き、厳しい大自然が人の立ち入りを拒んでいるこの大山脈は、遠慮なく魔法を使うにはもってこいの場所だった。
ここからドラン大山脈まではおよそ200キロメートルほどの距離がある。
脱け出したことを悟られないよう、夕食前までには戻らなければならないイルムハートに与えられている時間は残り2~3時間程度しかないが、それでも十分辿り着けるだろうと考えていた。辿り着きさえすれば帰りは城まで転移すればいいのだから。
そう頭の中で目算を立てながら最初はゆっくりと、そして徐々に速度を上げ、イルムハートはドラン大山脈を目指して空を飛んでいった。
途中、いろいろと速度の上げ下げを試しながら1時間ほど飛んだ。
正確なところは分からないもののかなり距離は稼いだようで、ドラン大山脈はどんどんとその大きさを増してゆく。さらに速度を上げることも可能だったが、このペースでもあと1時間ほど飛べば山裾まで到達しそうに思われた。
まずはその前に1度休憩を取ろうと場所を探していたイルムハートは、ある地点で魔力が激しく動いていいることに気づいた。どうやら戦闘が行われている様だ。
より詳しく探査してみると、人間と魔獣が戦っているらしいことが判る。
「魔物か!」
本来、魔物とは人のように後天的に魔力に目覚めるのではなく、先天的に魔力に覚醒したまま生まれてくる生物の総称であり、その中で知性をもつものを魔族と呼び、そうでないものを魔獣と呼んでいた。
だが、魔族が獣と同じ括りで呼ばれるのを嫌ったため、いつしか魔物とは主に魔獣のことだけを指すようになったのだ。
魔族や魔獣は先天的に魔法の能力に恵まれており、なんと知性を持たないはずの魔獣でさえ魔法を使うことが出来た。
魔法がイメージによって発動するものである以上、それは驚くべきことである。おそらく本能的に魔法を発動させることが可能で、それを遺伝により受け継いでいるのだと考えられていた。
魔獣の種類によって使える魔法は様々だが、身体強化魔法についてはほとんどの魔獣が使えるため、普通の獣に比べると何倍もの強さを持つ。
そんな魔獣が群れで人を襲っているのだ。
襲われているのは、おそらく小規模の商隊だろうか。
護衛も数人いるようで、魔獣相手に戦ってはいるものの何分数が違い過ぎた。魔獣は10匹近くいる。
これを商隊側の油断と断ずるのは少々酷であろう。
襲われている場所は割と大きめの街道で、このようなところは通商の安全確保のため領軍によって定期的に魔獣討伐が行われる。なので、今回のように大量の魔獣が群れで現れることはまずないのだ。また、領軍が定期巡回しているとなれば当然、盗賊団も寄り付かない。
商隊は常識の範囲で必要最低限の護衛を伴い旅をしていたのだが、運悪く魔獣の群れに襲われてしまったようだ。
「見捨てるわけにはいかないね。」
おそらく、このままでは商隊の全滅は確実だろう。面倒ごとに巻き込まれるのは避けたいが、かと言ってこのまま見捨てるほど冷酷でもない。
イルムハートは商隊が襲われている方へ向きを変えると、一気に速度を上げた。と同時に透明化を解除する。
透明化と言っても相手の視覚を誤魔化す程度のものでしかなく、派手に動き回ればそこに ”何か” がいることはすぐに分かってしまう。
もし別の魔物と間違えられ、商隊側から攻撃されてはたまらない。
そのために透明化を解除したのだが、正体は隠す必要があるので顔の周りだけは多少ぼやけて見えるように細工する。領都から離れた土地とは言え用心は欠かさない。
その場所には数分で到着した。
やはり襲われていたのは商隊で、3台ある馬車は砦代わりにするため一か所に固まって止められていた。
商人たちは馬車の中に避難しているらしく、外に出ているのは5人の武装した護衛達だけだ。
全員が傷つき、そのうち一人の男は立っていられないほどの傷を負ったようで、馬車に寄りかかるようにして座り込んでいる。
残る4人は負傷者を庇う様に周りを取り囲んでいたが、追い詰められているかのような感じはいなめない。
そんな彼らをさらに外側から取り囲んでいるのは、ブラッド・ファングと呼ばれる犬型の魔獣だった。身体強化以外の魔法は使えないため単体ではそれほど脅威ではない魔獣なのだが、群れで行動するため出遭ってしまうとなかなか厄介な相手である。
何匹かは護衛達の手によって退治されてはいるが、それでもまだ10匹近くが残っていた。
イルムハートはブラッド・ファングたちの後方に降り立つ。
突然空から現れた見知らぬ人影に護衛達は驚きと警戒の目を向けてきたが、とりあえずそれは無視する。イルムハートに気づいた2匹のブラッド・ファングが襲い掛かってきたからだ。
おそらく、身体の小さなイルムハートのほうが護衛達より倒しやすいと判断したのだろう。威嚇もそこそこに飛びかかってきた。
まあ、普通であれば正しい判断なのだろうが・・・不幸なことに、相手が ”普通” ではなかった。
イルムハートは異空間に収納していたショートソードを取り出すと軽く振り抜く。
すると、最初に飛びかかってきたブラッド・ファングの首がすとんと切り落とされた。
数的不利な状況にある今は1匹ずつ確実に仕留めていく必要があり、それには首を落とすのが一番だった。魔獣といえど首を切り落とされて尚、生き続けられるものはそう多くはない。
返り血を浴びないように移動しながら、思わぬ反撃に理解が追い付いていない2匹目の首もサクッと切り落とす。
(んー、さすがに少し硬いな。)
ブラッド・ファングたちは身体強化を使っているようで少しばかり硬い手応えを感じたものの、それでも手こずるほどではない。身体強化ならイルムハートも使っているからだ。
1匹くらいなら強化なしでも何とかなりそうだったが、これだけの数だ。無理をする必要はない。
「グルルル・・・。」
瞬時にして仲間2匹を失ったブラッド・ファングたちは、イルムハートの方が脅威だと判断したのか、護衛達の囲みを解くと彼の周りに集まって来た。
大きく開かれた口元には赤く染まった鋭い牙がむき出しになっていたが、これは護衛達の血で染まっているわけではない。興奮すると魔力を帯びた牙が赤く染まる特徴があるためで、これがこの魔獣の名前の由来でもある。
(あと7匹か。)
どうやら全部で10数匹程度の群れだったようで、残った7匹がイルムハートを取り囲むように輪を作るとゆっくりとその周りを回り始めた。飛びかかるタイミングを狙っているのだろう。
(まあ、群れとしては少ない方だし、さっさと片付けてしまおうか。)
多い時には 20匹から30匹ほどの群れを作ると本に書いてあったことを思い出す。それに比べれば少ない方だろう。
とそこで、イルムハートは自分が魔獣と遭遇するのはこれが初めてであることに今更ながらに気が付いた。本からの知識はあるものの、今まで実物を見たこともなければ、ましてや戦ったことなどあるわけもない。
加えて、この世界に生まれて生き物を殺したのもこれが初めてだった。
なのに・・・魔獣に対しての恐怖は感じなかったし、命を奪ったことへの罪悪感も抱かなかった。
別に無謀なわけでもなければ命を軽視しているわけでもない。
単純に、殺そうと向かってくる相手を返り討ちにした、ただそれだけの事と割り切っている自分がいた。
この世界に生まれ育った者であれば、その感覚は特に異常なものではないのかもしれない。
だが、前世の価値観を持っていながらもそう考えてしまう自分にイルムハートはふと疑問を抱く。
(前世の僕って、いったいどんな人間だったんだろう?)
もしかするとヤバい職業の人間だったのだろうか?と、少しだけ不安になった。
そのせいで一瞬イルムハートの注意が逸れたのを見逃さず、ブラッド・ファングたちが一斉に襲い掛かってくる。
「おっと、危ない。」
イルムハートはそう声を漏らしたものの、さほど焦った様子もなく軽々と攻撃を躱してゆく。思考加速によりブラッド・ファングの攻撃の軌道を全て見切ることが出来るのだ。
そして、躱しざまに振り抜かれたショートソードによって、1匹、また1匹とブラッド・ファングの首が切り落とされていった。
残り4匹まで減らし、さらに一番大きな身体をした個体の首を切り落とすと、急にブラッド・ファングたちの動きが止まる。
しかも動きを止めただけでなく、先ほどまでの興奮状態も消えてどこか怯えすら感じさせるようになっていた。
もしかすると、今のが群れのリーダーだったのかもしれない。司令塔を失い、次にどう行動すべきか迷っているようでもある。
そして、その結果彼らが取った行動は・・・逃走であった。
残った3匹のブラッド・ファングは、この場からの離脱を選び一目散に逃げ出した。
「去る者は追わず、というわけにもいかないか。」
イルムハートには敗者に追い打ちを掛けるような趣味は無かったものの、他の商隊や旅行者が襲われる可能性を考えればここで彼らを討伐しておく必要があった。
なので、風魔法を放つ。
「あっ・・・。」
魔法がブラッド・ファングたちを捉えたのを見て、イルムハートは思わず声を上げた。
放った風魔法は、かまいたちのように相手を切り裂く効果を持つものだった。
それなりに加減したつもりでいたのだが、その魔法は3匹のブラッド・ファングを原型を留めぬほどに裁断してしまったのだ。戦いの中で思わず力が入ってしまったようだ。
(やっちゃったなー。)
イルムハートは内心で冷や汗をかいた。そして、商隊のいる方向でなくてよかったと安堵する。
もし、魔法を撃った先に誰かいれば、間違いなく巻き込まれていただろう。助けに来たはずが、逆に被害を与えてしまってはシャレにならないところだった。
そんな内心の焦りを隠しながら、イルムハートは商隊の方へと振り向く。
見ると、護衛達は今目の前で起きたことを整理出来ずに呆然とした顔で立ち尽くしている。戦闘の騒ぎが静まったためか、馬車から首をだして辺りを伺っている商人らしき者もいた。
「大丈夫ですか?」
イルムハートはあえて距離を保ったまま、声を大きくしてそう尋ねた。
「あ、ああ、大丈夫だ。」
その声で我に返った護衛の男がそう答えてきた。
「そっちの人の怪我は?」
「大丈夫、命に別状はない。」
どうやら座り込んでいる男の怪我も命にかかわるほどのものではないらしく、イルムハートはほっと胸を撫でおろす。
「いや、助かったよ、ありがとう。しかし凄いね、君は。」
言葉を交わしているうちに気持ちが落ち着いてきたのだろう。護衛の一人がそう言いながらイルムハートの方へと歩み寄ろうとする。
だが、イルムハートにはここでのんびり話をしているつもりなどない。時間が惜しいこともあるが、何より身元を探られるのは避けたかった。
「気にしないでください。それじゃ、僕、急ぎますので。」
イルムハートはさっさと透明化魔法で身を隠すと、一気に空へと飛び上がった。
「えっ!?」
目の前の人間が突然消えてしまったことに護衛達は再び呆然とする。
「ど、どうなってるんだ?今の子供はいったい・・・?」
「いきなり空から降って来たかと思えば、あっという間に魔物の群れを全滅させちまった・・・。」
「しかも、今度はパッと消えちゃったのよ?こんな事、誰かに話しても絶対信じてくれないわよね。」
「・・・言わない方がいい。頭がイカレた思われるぞ。」
今起きた出来事が、自分だけが見ていた夢ではないということを確認しあうかのように護衛達は声を上げる。
だが、夢ではないことはハッキリしたものの、それ以外はいくら話し合っても答えが見つからない。
その後、「・・・そろそろ、傷の手当をしてもらないだろうか・・・。」という負傷した男の苦しそうな声に皆が我に返るまで、しばらく騒ぎは続いたのだった。
非現実的な出来事と負傷者の手当で商隊が大騒ぎになっていた頃、イルムハートはすでに遥か遠くの空を飛んでいた。ルート変更を含めても、それほど時間をロスしたとは思えなかったが、それでも念のため少し速度は上げていた。
結局、休憩は取れなかったものの、それほど疲れも感じていなかったので、このまま飛び続けることにする。
そして1時間ほど飛ぶと、予測通りドラン大山脈の麓までたどり着く。
「これは・・・人を拒む山と呼ばれるのも納得だ。」
目の前に見える風景に、イルムハートは半ば呆然とした声で呟いた。
そこには、はるか雲の上まで続く岩の壁が立ち塞がっていた。
その高さは遠くからでも確認できた。なので、今更驚くことではない。
だが、切り立った壁だけが延々と続くこの景色は全く想像していなかったのだ。
見渡す限りの壁、壁、壁。イルムハートが思い描いていた緩やかな傾斜を持つ山の裾野など何処にも見当たらない。
火山ではなく地殻変動で出来た山脈らしいので、ある程度の険しさは予想していたがここはそれを遥かに超えていた。
「んー、少し考えが甘かったか。」
イルムハートはいったん地面に降り、これからの行動を考える。
最初、イルムハートは山の中腹辺りに平坦な荒地を探し、そこで魔法を試してみるつもりだった。
だが、この様子では一気に頂上近くまで登る必要がありそうだ。しかも、そこに丁度良い場所があるかどうかも分からない。
「もう少し、辺りを調べてみようか。」
およそ1000キロメートルほどの長さがあると言われるドラン大山脈。場所によっては傾斜が緩やかな部分もあるだろう。
そう考えたイルムハートは、岩壁に沿って飛んでみることにした。しかし、しばらく飛んでみてもほとんど景色は変わらない。
多少、傾斜が緩くなっている場所もあるにはあったが周りに比べればという程度で、やはり壁にしか見えない。
「やっぱり登るしかないのかな・・・。」
山脈の端まで行けば、おそらく山並みも緩やかになっていくだろう。
だが、同時にそれは人が立ち入り易くなることを意味するためイルムハートには都合が悪い。
やはり、上に登って場所を探すしかないようだった。
イルムハートは目の前の岩壁を見上げながら、この後どうするかを考えた。
上に行くのは決定である。問題は、程よい場所を探すのにどれくらいの時間がかかるかということだった。ここまで来るのにもそれなりの時間を費やしているため、残り時間はそう多くはない。
「今日はここまでにしておこう。」
帰り時間は厳守である。先ずは、今回の件についての秘密を守ることが重要だった。
多少心残りはあったがそこは割り切り、今日のところは帰ることにする。
「魔物と闘って、それなりに面白い経験もしたし・・・まあ、いろいろ中身の濃い一日ではあったかな。」
あの商隊の護衛達が聞いたら総ツッコミが入りそうな、そんな独り言を呟きながら転移魔法を発動させると、イルムハートは早々に家路についた。