兄妹と兄弟 Ⅱ
アイバーン・オルバスが5歳の時、彼の父親は病でこの世を去った。
残された母子はとりあえず親族の元に身を寄せたものの、いつまでも甘えていられるほどそこも裕福なわけではない。
そのため、母・エルマは伝手を頼りとある貴族の家で下女として働くことになった。ゼクタス子爵家にである。
最初、エルマは貴族の家で働くことに不安を感じていた。やはり貴族と言う存在が怖かったのだ。
まあ、それも無理はないだろう。全ての貴族がそうという訳ではないにしても、中には平民を人とも思わぬような輩もいる。
例えそれがほんの一部であったとしてもそう言った連中にまつわる悪い噂は貴族全体への悪評となってしまうわけだ。
ゼクタス子爵はそんな横暴な貴族とは違う。仕事を紹介してくれた知人はそう言ってくれたがそれでもエルマは不安を拭えなかった。
ただ、幸か不幸か彼女は使用人の中でも一番低い地位であったため子爵家の人間と顔を合わせる事はまず無い。なので、そこまで心配する必要は無い……はずだった。
だが子爵家で働き始め数か月が経った頃、ちょっとしたメイドのミスにより当主であるモーガンと直接対面する事態になってしまう。既に主人は出仕したものと思い込んだメイドがモーガンの部屋の掃除をエルマに申し付けたのだ。
だが、その日モーガンは少し遅めに家を出る予定となっており、そこでエルマと鉢合わせすることになる。
モーガンが在宅していることに驚いたエルマはただひたすら頭を上げ謝罪した。「謝ることはない」というモーガンの言葉も耳に入らず何度も謝罪の言葉を繰り返した後、逃げるようにしてその場を立ち去ったのだった。
数日後、エルマはモーガンから直々に呼び出しを受ける。
この間の件だとエルマは直感した。主人が在宅しているにもかかわらずその部屋へと入り込んだことで不興を買ったのだと、そう思った。
本来、その程度の事で当主が下女を直接呼びつけるようなことはない。メイド長に注意を与えるなり処罰を申し伝えるなりすれば済む話だ。
しかし、そんなことなど知らないエルマは刑場に連れ出される罪人のような面持ちでモーガンの元へと出向く。
モーガン・オースチン・ゼクタス。齢は40を少し過ぎたあたり。
つい数年前までは王国騎士団の副団長を務めていた人物で、今は一線を退きアルテナ高等学院において騎士科の剣術師範として後進の育成に務めている。
その経歴に相応い彼の厳つい容姿はエルマを恐れさせるに十分だった。
もしかするとお手討ちにされるのかもしれない。ふとそんな考えが頭をよぎり、エルマはうっすらと涙さえ浮かべる。
勿論、モーガンにそんなつもりなどない。手討ちにするどころかそんなエルマの様子にむしろ慌てているようでさえあった。
暫くの間、そんな気まずい空気で部屋は満たされていたが、やがてモーガンの口から思ってもいなかった言葉が発せられた。
「明日から屋敷の雑事はしなくてよろしい。代わりに私の身の回りの世話をするように。」
そして、これは決定事項であり既にメイド長にも伝えてあると付け加えた。
が、いきなりそんなことを言われてもエルマにはそれを受け入れることなど出来るはずもなかった。
自分はただの平民でろくにマナーも知らない。失礼な真似をして旦那様に不快な思いをさせてしまうことになるだろう。なので、どうか考え直してほしい。エルマはそう言って固辞したのだった。
それを聞いたモーガンは気まずそうな表情を浮かべた。エルマの言い分も尤もなのだ。
かと言ってモーガンとしては申し付けを取り下げるわけにもいかなかった。彼にとってそれは極めて重要なことなのだった。
そして、モーガンは意を決したように口を開く。その顔にはまるで惚れた女性を目の前にして恥じらう少年のような表情を湛えていた。
「そんなことは気にする必要などない。とにかく……私はお前に側にいて欲しいのだよ。」
世の中にはひと目惚れというものがあるらしいが、まさか自分がそうなるとは思わなかった。後々、モーガンはエルマにそう語った。
あの後、中々首を縦に振ってくれないエルマをモーガンは必死の思いでまさに”口説き”落とし、何とか側仕えにすることが出来たのである。
そんな2人の関係が主人と使用人からいつしか男と女のそれに変わって行ったのもごく自然な成り行きだったのだろう。
モーガンは10年程前、妻に先立たれその後はずっと独り身だった。対するエルマも夫を亡くし今はフリーだ。なので、2人の間に障害など無い。
さすがに平民であるエルマを後妻として迎えるのは難しかったが、愛妾とする分においては誰も文句をいう者などいなかったのである。
ただ、モーガンとしてはエルマに屋敷へ入って欲しかったのだが、それだけは叶わなかった。アイバーンがいたからだ。
アイバーンと共に屋敷で暮らすよう勧めてはみたものの、それでもエルマには受け入れることが出来なかった。いずれ来るであろう別れのことを思うと、そこまで甘える気持ちにはなれなかったのだ。
エルマは決してモーガンの想いを疑っていたわけではない。
だが、向こうは子爵家当主で自分はしがない平民の女でしかないのだ。いつまでもこんな幸せな時間が続くわけは無いと覚悟していた。
その時のためにアイバーンとのささやかな暮らしもそれはそれで維持しておかなければならない、それがエルマの考えだった。
もしかしたら、父親以外の男と親しく一緒にいる自分を見せたくはない、そんな気持ちも多少はあったのかもしれない。
そして、その時は意外な形でやって来る。
それはモーガンの気持ちが変わったとか親戚筋から横槍が入ったとか、そんな理由ではなかった。むしろ、一般的には喜ぶべき出来事がこの場合は2人を引き裂く原因となってしまったのだ。
エルマが妊娠したのである。
ゼクタス子爵家にはモーガンと先妻との間に産まれたひとりの男子がいた。その子は既に成人しており、子爵家の跡継ぎとしてお披露目も済んでいる。
なので、今さらエルマとの間に子が出来たところで後継者問題が起こるわけでもなく、モーガンとしては老いてから産まれた我が子をただただ可愛がる人生を送れば済むはずだった。
但し、それが普通の家の場合ならばだ。
ゼクタス子爵家は始祖より続く武門の家柄であった。過去には王国騎士団長も何人か排出し、モーガン自身も副団長まで務めたほどの名家である。
そんな子爵家の跡取りは頭も良く優しい性格の人間ではあるものの、不幸なことにひどく体が弱かった。頻繁に熱を出し、1年の内のほとんどをベッドの上で過ごさなければならないほど病弱だったのだ。
そのため、「武門の家に相応しい跡取りとは言えない」と陰で囁く親戚筋もいたのだが、他に子がいない以上敢えて口を出しては来られずにいるといった状況だった。
しかし、そこへもうひとり子が産まれたらどうなるか?
おそらく後継者を巡る問題が起こるであろう。例え第1子であろうと跡継ぎに相応しくないと判断されれば廃嫡されることだってある。
尤も、最終的にそれを決めるのはモーガンなのだが、それでも周りが騒ぐことで息子はひどく傷つくに違いない。それだけは避けたかった。彼は息子のこともまた深く愛しているのだ。
こんな事態を恐れ後妻ももらわず独り身でいたはずが、エルマと出会いつい気を緩めてしまった。モーガンは自分の失態を悔やんだ。
そして、そんなモーガンの胸の内をエルマも十分理解していた。自分がいてはモーガンを苦しめてしまうだけなのだと考え、身を引く決断をする。
エルマの暇乞いを聞いたモーガンは暫くの間、何も言えずにいた。息子への愛情とエルマへの愛、そしてまだ見ぬ子への想い。言いたいことが次から次へと湧き出して来るものの、どうにも言葉に出来なかったのだ。
やがてモーガンはその目を真っ赤にさせながらやっとのことで声を絞り出した。
「その子のことは頼む。元気な子に育ててやってくれ。」
そして半年後、エルマは男の子を産んだ。
名前はフレッド。モーガンが付けてくれた名前だった。
突然弟が出来たアイバーンは多少戸惑いはしたが、すぐにそれを受け入れた。いろいろ思うところはあったのかもしれないが、純粋に弟が出来た事を喜んだ。
ただ、時折母親が哀しそうな顔をするのだけが少し気になったが、理由を聞いたところでどのみち僅か7歳の子供には理解出来なかっただろう。
母と兄の愛情に包まれ、フレッドは元気にすくすくと育った。
やがて彼は兄に倣って剣の訓練を始める。
兄・アイバーンはフレッドの憧れだった。見事入学を果たしたアルテナ高等学院の騎士科において「100年にひとりの天才」と称されるような、強くて賢くてそして優しい自慢の兄だ。
いつかは兄のような人間になりたい。それがフレッドの夢だった。
だがフレッドが6歳の時、そんなささやかながらも幸福な彼の人生に思ってみない転機が訪れた。ゼクタス子爵家の跡取りが病で亡くなったのだ。
この日からフレッドの運命は大きく変わることになる。何しろゼクタス子爵家の血を引く唯ひとりの子となってしまったのだから。
その後、モーガン自らが密かにエルマの元を訪れフレッドを引き取りたいと申し入れた。身勝手な願いだということはモーガンも重々承知していたが、血統を絶やさぬことが貴族当主としての責務なのである。
当然、非難の言葉を浴びせられるだろうと覚悟していたモーガンだった。しかし、彼の予想に反してエルマは静かにそれを受け入れた。
勿論、エルマとてフレッドと離れるのは身を切られる思いである。とは言え、元々貴族の血を引いている以上はいつかこんな日がくるかもしれないと覚悟していたのだった。
だが、問題はフレッドだ。僅か6歳にして母親から引き離されるなど、到底受け入れられることではない。当然のようにそれを拒絶した。
しかしどうあがこうと運命に逆らうことは出来ず、エルマの説得もあってフレッドは泣く泣く子爵家に入ることを受け入れたのだった。
「そうだったんですか……。」
フレッドから身の上話を聞かされたイルムハートは感慨深げにそう呟いた。
人にはそれぞれ色々な過去がある。そう頭では解っていても直接本人からそれを聞かされれば、やはり驚かずにはいられなかった。
実のところイルムハートのほうがもっと驚くべき素性を持っているわけだが、まあそれはそれだ。
「オースチン団長とオルバス団長が兄弟だったなんて全く知りませんでした。何も聞いていませんでしたので。」
「それについてはあまり他人には話さないようにしていたからね。」
フレッドがゼクタス子爵家へ戻る際、エルマから平民の血を引くことは極力他人に話さないよう釘を刺されたらしい。貴族となる我が子の将来を危惧してのことなのだろう。
貴族社会においては庶子の素性についてあまり詮索されることはない。貴族同士の火遊びにより子供が出来てしまうケースも良くあるので、そこは深く突っ込まないのがマナーとされていた。
なので、関係者が口をつぐんでいさえすればそうそう秘密が漏れることはないのだ。
「兄が騎士団を辞めさせられた時もそうだった。」
そう言ってフレッドは遠い目をする。
「兄が追い出された本当の理由については君も薄々気付いていると思うが、あれは彼の資質と評判を妬んだ者の策略だったんだ。
当時の幹部達にとっては平民でありながら高く評価されている兄の存在が邪魔で、それを追い落とすために仕掛けたことだったんだよ。全く腐った連中だ。」
フレッドは彼らしくもない昏い目をしながらそう言い捨てた。
「当時の私は騎士団に入りたてで詳しい事情までは分からなかったものの、それでも兄に非がないことだけは分かっていた。というか、信じていた。
だから幹部連中に抗議しようとしたのだが、兄はそれを止めたんだ。そんなことをすればお前の経歴に傷がつくだけでなく、下手をすると平民の子だということが明るみになってしまうかもしれないと言ってね。
私としてはそれでも構わなかったのだけれど、その後の兄の言葉で思いとどまったんだ。」
「オルバス団長は何と?」
「兄は言ったんだよ。「お前にはもっと高い地位に昇ってほしい。そして騎士団を改革するんだ。二度と私のような目に会う者が出て来ることのない、そんな騎士団にしてくれ」とね。
それを聞いてしまったら、もう迂闊な真似など出来るはずがないだろ?」
フレッドの言葉を聞いたイルムハートはハッキリと理解した。幾多の敵を退け王国騎士団の改革を成し遂げたその原動力が何だったのかを。
「あと、それについてはウイルバート殿にも感謝しているんだ。」
「父にですか?」
「ああ、フォルタナの騎士団に兄を誘ってくれたこともあるが、他にもいろいろと助力してくれたんだ。騎士団の改革に手を貸してくれそうな有力貴族を紹介してくれたりね。
当時の私など何の力も無いただの若輩者でしかなかったんだ。だから、もしウイルバート殿の助けが無ければ改革を成し遂げる事など不可能だっただろう。」
そうは言っているがそれを効率的に活用し自分自身のコネクションを築き上げたのは誰でもないフレッド自身なのだ。彼の才覚があればウイルバートの助け無しでもいずれは目的を達成したに違いない。
それにしても、ウイルバートにしろアイバーンにしろ、子供の頃から一緒にいるにも拘わらずまだ知らない部分がいろいろあるのだなとイルムハートはしみじみ思う。
そして、ふとある事を思い出した。
「そう言えばオルバス団長から母親は王都の知人が面倒みてくれているのだと聞いたことがありますが、それはもしかすると……。」
「父だよ。」
そんなイルムハートの問いにフレッドは何故か苦笑しながら答えた。
「兄がフォルタナ領へ行くと決まった途端、父は急に家督を譲ると言い出してね。
老齢のためというのが理由だったけれどそれは口実で、実際は当主を退き母と2人で暮らすのが目的だったみたいなんだ。
今は保養地にある別荘で2人のんびり暮らしているよ。私に家を押し付けてね。全くいい気なものさ。」
そうは言っているが、その声に父親を責めるような響きなど無い。むしろ、喜んでいるようにさえ聞こえる。
「それは良かったですね。」
フレッドの話を聞いたイルムハートは妙にほっとしている自分を感じていた。
数奇な運命に振り回されてしまったエルマだが最終的には幸福を手に入れたのだ。それが自分のことのように嬉しかった。
そして、イルムハートの顔にそんな表情が浮かぶのを見たフレッドの口元もまた自然とほころぶ。
「やはり君は兄の言っていた通りの人間だったね。」
アイバーンが何をどうフレッドに伝えたか興味はあったが、それを聞くのはやめたほうがいいだろうとイルムハートは思った。どうにも気恥ずかしくなるような言葉が返って来る予感がしたのだ。
そんな穏やかな空気に包まれる2人。すると、そこへフランセスカが真剣な顔つきで近付いてきた。
「団長、お話があるのですが宜しいでしょうか?」
「何だい、そんなに改まって?
言っておくけど酒はダメだよ。一応、まだ職務時間内なのだからね。」
フレッドはおどけた様子でそう答えて見せた。
尤も、フランセスカがそんな事を言いに来たわけではないことぐらいフレッドも分かってはいるだろう。ただ、彼女が相手だとつい軽口を叩いてしまうようである。
最初は貴族らしくない振る舞いだと思ったものだが、彼の身の上を知った今ではそれも納得だった。
「そうではありません。どうしても聞いて頂きたいお願いがあります。」
だが、フランセスカはそんなフレッドのおふざけを完全にスルーした。どうも、かなり思い詰めているようだ。
「何かね、言ってみなさい。」
その様子に気付いたフレッドは真面目な顔に戻りフランセスカに尋ねた。その脇ではイルムハートも何事かと表情を引き締める。
するとフランセスカはそんな2人の思考を一時停止させるような、そんな意表を突く言葉を口にしたのだった。
「そこにいるイルムハート・アードレー殿との試合について、団長の許可を頂きたいのです。」
「はい?」
想像すらしていなかった彼女の言葉に思わず間抜けな声を上げてしまうイルムハートとフレッド。そして、そんな2人を強い視線で見つめるフランセスカ。
それは春の始まりの穏やかなとある日、これから3人の周りにだけ嵐が吹き荒れそうな、そんな予感を抱かせる一コマであった。