表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
裏 Stern Baum ~Coffee Break~  作者: kohaku
2/3

~ Coffee Break 2 ~

【SternBaum から来て下さった方】


時系列 第3章 File34 restart(再出発) 後のお話となります。


※ Cups 8~10は【Stern Baum】本遍のそれぞれ(冬、秋、緋)のルート File:47 を一読いただいた後にご確認ください。



※ この小説はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。


―――冬ルート

Cups 6 Lemon Tartレモンタルト 


カリフォルニア州 星の木ラボ。


留学先の大学での講義を終えてラボに戻った白李は、プライベートルームでその日の講義のまとめと、次回までの課題の作成に取り掛かっていた。

パソコンでの作業が一段落を終え、首や肩を回す白李。


「ん~~ッ!こんなもんかぁ~」


コンコンコン……


「はい?」


プライベートルームの扉が鳴る。


「ハク?セナです…開けて貰えるかしら?」


扉越しに、セナの声から声が掛かる。


「ん、待ってて―――」


椅子を回転させ、凝り固まった体を解しながらドアへと向かう白李。

特に鍵はかけていなかったはずだが……。


ドアを開けると、両手で珈琲を抱えたセナが立っていた。


(ああ、なるほど……)


「どうぞ?」


扉を開き、中へと誘導する白李。

ベッドサイドの小さなテーブルに、珈琲を二つ並べた。


「課題の途中だった?」

「いや、丁度ひと段落着いたところだよ。珈琲を、淹れてくれたの?」

「ええ。一目惚れして、仕入れたの―――」


そう言って、にやにやとしながらカップを差し出すセナ。


この展開、白李には以前にも体験があった。珍しい珈琲豆を仕入れた時にセナが好んで行う、銘柄当てクイズだ。


(こういう時、結構珍しい豆が多いんだよな……)


カップを受け取ると、先ずはその香りを確かめる白李。


この銘柄当てクイズ、実はかなり難しい。

セナがクイズにしたがる時は決まってかなりレアな豆の時が多く、そもそも口にする機会の少ないものばかりだ。それに加え珈琲豆というものは、銘柄だけでなくその産地や年、製法、焙煎の度合いによって味がかなり変わってくる。加えて、同じ豆でも抽出温度や時間、淹れ方によっても味が異なってくるのだ。

プロが淹れても一定の味を出すのが難しいというのに、素人のセナが淹れた珈琲の香りと味だけで、プロでもない白李が銘柄を言い当てられる確率など、ゼロに等しい。


 そこまでムリゲー(無謀)と分かっていながらも、白李が挑戦しようとするのには、きちんと理由がある。彼にとって、銘柄が当てられるかどうかなど、正直どうでもいい。当てられなくて当然であり、悔しくもなんともない。それよりも、セナが隣にいて、楽しそうに微笑む顔を見ながら、彼女が淹れた珈琲を飲む時間こそが至福であり、全てなのだ。


珈琲の花に似た、甘い香りが鼻腔をかすめる。


「ジャスミンか、はちみつのような…濃厚な香り―――」


あえて印象を口に出し、セナの反応を確かめる。彼女の頬が、かすかに動いた。


(クイズにしてくると言う事は、今までセナと一緒に飲んだ事のない銘柄で且つ、レアな豆だよな…そして、比較的手に入りやすい価格帯か手に入りやすい産地―――)


次に、白李はスプーンに一口すくい上げ、珈琲をすする。


「―――甘いな……」


(甘みの強く苦みが少ない…それでいてまろやかだから、飲みやすい。比較的低温で淹れているのは、甘みを引き出すためかそれとも、それで淹れるようにと勧められたか。いかにもセナが好みそうな味だ。

これだけの香りと甘みが残ると言う事は、果肉付きのまま乾燥させたハニープロセス製法か?だとすると、産地は環境先進国であるコスタリカが濃厚か……。

その中で、珍しい品種…もしくは、セナがクイズにしたがるような何かがある珈琲豆―――)


頭を悩ませる白李。もはや、テイスティングでの銘柄当てではなく、セナの真意を読む推理という方が近い。

ちらりとセナの方を伺うと、美味しそうに珈琲を口にしている。


(一目惚れ…と言う事は、セナも飲むのは初めてか?珈琲の生産ストーリーか、銘柄名か…何かに惹かれて購入してみたということか―――)


珍しい豆…

セナの一目惚れ……

ジャスミンの花のような、甘い香り―――


「もしかしてセナ、この珈琲、銘柄の響きに惹かれて選んだ?」


白李の言葉に、珈琲を口に含みながら驚いたように視線だけを向けるセナ。


「ええ、そうよ!」


(ああ、やっぱり――――だとすれば…)


「ゲイシャか?」


ぱぁぁと、セナの表情が晴れていく。驚きと、楽しさと、嬉しさが入り混じったような笑顔。


「当たりよ!日本の芸者とは全く関係がないと言われたけど、銘柄だけ聞いて興味を持ったわ!それにしても、凄いわハク!」


白李にとっては、この状況で銘柄を当てられた奇跡よりも、目の前で楽しそうに話すセナの表情を見れた事の方に価値がある。


「ゲイシャは、エチオピア南西部の地名“ゲシャ”から来ているんだ。俺もこの銘柄だけは一回聞いて忘れられなかったからね」


(正直に言えば、味と香りだけでは分からなかったけれど、推理だけで当てられると言う事は、それだけセナの事を分かって来たって事かな―――)


自分自身に称賛を送る白李。


「可愛いなぁ、セナ!」


思わず本音が零れ出る。

珈琲を飲み終えたセナは、携帯電話を取り出して何やら操作を始めた。

そう言えば、何か用があって部屋に来たのだろう…珈琲の銘柄当てクイズだけの為に、わざわざ白李の部屋を訪れたとは考えにくい。それならば、リビングに呼び出せば済むことだ。


「どうした?セナ」

「……ねぇ、ハク―――お願いがあるの」

「お願い?」


セナのお願いは、出来る限りで叶えてあげたい。

自分に”お願い“をしてくれるのはむしろ嬉しい。


「ハクの次のお休み…私に、くれない?」

「勿論、喜んで!」



3日後。この日の講義はなく、白李にとって丸一日の休日。

何も気にすることなくセナと過ごせるようにと、前日までに全ての課題を終え、この日を万全にして迎えた。



待ち合わせは10:00に近くのオフィス街の一角にあるショッピングサイト。

平日の昼間らしく、そこはビジネスマンやプライベートを楽しむ多くの人でにぎわいを見せていた。


(これじゃまるで、デートじゃないか!)


浮かれた気持ちを押さえるように、今までの事を思い返す白李。

よくよく考えてみれば、セナとのまともなデートにこぎつけられたことなんて滅多とない。そもそも彼女は、デートをしようなんて一言も言っていなかった。きっと、何かあるはずだ―――。


待ち合わせ場所についた白李は腕時計を見返す。約束の時間の5分前…我ながら律義な事だと自嘲のため息を溢す。


さて、セナは―――。


大体、こんな人の多いところで待ち合わせをせずとも、ラボからほど近いセナの家に迎えに行けば良かったのではないだろうか…?人込みの嫌いな彼女の事を心配する白李。


「お待たせしました、ハク」



名を呼ばれて振り向くと、一瞬誰かと疑うほど大人びたセナがそこに立っていた。


「セナ?」


InsideTraceゲームではフォースを務める程気配には敏感であるはずの白李が、彼女を探して立っていたにも関わらず、隣に並ぶまで気が付かなかった。

茶色いふわりとした髪を両サイドから編み込んでハーフアップにまとめ、白を基調としたひらりと揺れるロングスカートとジャケットに、この時期らしいサンダルで清楚にまとめた服装が、セナのいつもの雰囲気と大きく異なっていたからだ。


それだけじゃない…年頃の女の子は、ここまで化けるものかと思い知らされる。


「セナ…化粧してる?」


「ええ、すぐそこのオフィスビルに母のラボがあって、小さい頃からお世話になっている母の同僚の一人にコーディネートしてもらったの!“大学生に見えるように”って…。どう?似合ってる?」


ひらりと、やわらかくスカートを翻して見せるセナ。


そう都合よく事が運ぶはずがないと、浮かれる気持ちを極力抑え込んでいた白李にとっては、サッカーパンチ(不意打ち)を食らわされたような衝撃を受けた。

照れを隠す様に、片手で顔を覆い、フイと視線を逸らせてしまう白李。


「どうして、大学生なんだ?君はまだ16歳だろう?」

「この辺り、ハクの大学の近くだし…貴方の学友に、“ハクは休日に中学生連れて歩いていた”なんて思われたら、申し訳ないから……」


どうやら彼女には、自分が年齢よりも幼く見えるという自覚はあるようだ。

特に、アメリカではその外見から中学生…いや、小学生に見られる事も多かった苦い経験を持っていた。そんな事はつゆ知らず、白李は自分とのデートの為にお洒落をしてくれたという都合のよい解釈に喜ぶ。


(俺に合わせてくれたの?なんかもう、嬉しすぎて眩暈する!!)


口元を、手で覆い隠す白李。今この手を外せばきっと、恐ろしい程不気味なにやけ顔を曝す事になるだろう。


ああ、もう――――ずるいなぁ、セナは。


「セナ、可愛すぎ!」

「きゃっ!」


衝動が抑えられず、人目の中で彼女の身体を抱きしめた。



近くのコーヒーショップのカウンター席に並び、今日の予定を確認する白李。普通のデートならそれなりにエスコートするつもりでいたが、時間や場所を指定したからには、彼女には何かしたい事があるのだろう。


「えっとね…チーズケーキを作りたいの!」

「―――ちーずけーき?」


脈絡なく飛び出した単語に思考が追い付かず、そのまま問い返す。


「セナが、食べたいの?」


セナの好きな食べ物リスト(白李リサーチ)に、チーズケーキは初耳だった。ケーキ類ならティラミスやロールケーキが好きだったはずだ。案の定、小さく首を横に振るセナ。


「いいえ、私じゃなくて……」

「誰かに、プレゼント?」


恥ずかしそうに下を向き、こくりと頷くセナ。


「私、リアルでの料理センスないし…ハクに、作り方教えてもらいたくて…」


首傾げにお願いされて、ダメなどと答える気は毛頭なかった白李だが、先程超絶に引き上げられたテンションは確実に落ち込んでいた。



(チーズケーキって…。渡す相手は確実、男だろ?!

――――相手は、立夏か?識か…?意外に、碧の好物だったか?そういや秋兎の好物が確か、チーズケーキだったな……タンパク質や脂質、カルシウムだけでなく、家にこもりがちで不足するビタミンも摂れるだとか小難しい事を聞かされたっけ―――)



勝手なイメージを悶々と、頭の中で繰り広げる白李。眉間にしわを寄せる彼の顔を心配気に覗き込むセナ。


「えっと…ダメ―――かな?」


(誰だ?!セナが、手作りケーキを渡したい相手って―――一体!!!)


「誰?」

「えっ?」

「――――どの男に渡したいんだ?」


白李の言葉に、驚いたような表情を見せる、セナ。


「えっと、私、男性に渡すって…言ったっけ?」


(ほら、当たりじゃん!)


もやもやとした黒い感情が、湧き上がる。

ヤキモチ…そう、ヤキモチだ。


「さっき、母さんのラボに寄った時に、聞いたの。父さん、チーズケーキなら食べるって」

「・・・・・・父さん、って―――水月博士?」

「ええ。」

「今日、父さん…誕生日だから」


そう言って、少し照れながらほほ笑むセナの横顔を見て、湧き上がった黒い感情が、一気に晴れる。そう言えば、セナの母、アリア夫人のラボが近くにあると先程聞いたばかりだ。そちらに寄っていたから、待ち合わせ場所がこんな街中になったのかと納得を得る白李。


誕生日とはいえ、それぞれが仕事で特に祝いなどしないのが通年のクラーク家だが、今年は色々あったから、サプライズで何かプレゼントを渡したいのだと話すセナ。


「父さんには、いっぱい心配かけちゃったし……どうせ今日もずっとラボに籠り切りだろうから、何か食べ物で差し入れ出来たらって…」


「………協力する。俺に出来る事なら、何だって―――」

「ありがとう!ハク!!」


珈琲を飲みながら、チーズケーキの材料や作り方について確認をする二人。

持ち運びや、ラボでの食べやすさを考えるならチーズタルトにしてみるのはどうかと提案する白李に、名案だと喜ぶセナ。


とはいえ、星の木ラボにお菓子作りの道具が揃っているわけではない。カリフォルニアに来てから、メンバーのリクエストに応えるために白李が少しずつ集めた道具だけだった。

白李のアドバイスを基に、必要な道具をタブレットに打ち出していくセナ。


「タルト生地を作る為のボールや泡だて器、麺棒等は揃っているから、後は肝心のタルト型と、焼くときに生地を押さえるアルミ製のタルトストーンだけど―――まぁチーズケーキならそのまま焼けるから大丈夫か!」

「材料の方は、小麦粉と粉砂糖、バターと卵…クリームチーズと生クリーム、グラニュー糖に、レモン汁ね!」

「あとは、ケーキボックスとメッセージカードだな!水月博士のラボまで、運ぶのだろう?」

「そうね!可愛いリボンも付けたいわ!」


(むしろ、今のセナの笑顔を、水月さんに見せてあげたいくらいだよ―――)


珈琲を飲み終えたセナと白李は、早速雑貨店を巡り、18㎝のタルト型とケーキボックス、ラッピングに使うピンクのリボンを購入した。



オフィス街で働く人々に交じってランチを楽しんだ後、残りの食材を揃えるためにスーパーへと向かう二人。


カートを押しながらこういうところうろついていると、まるで―――


「You look like a young couple!(まるで若夫婦ね!)」


背後から肩を叩かれ振り向くと、白李の留学先でのクラスメイトが声を掛けてきた。

少し前にPolaris2型を使った海洋調査実習で一緒になった学生で、管理指導で同行していたセナとも面識があった学生達だ。隣にいるセナをみて、顔を赤める男子学生。


「ハクにこんな綺麗な彼女がいるなんて、あの時聞いていなかったぞ?!」

「何言ってるのよ、セナ=クラーク博士でしょ?!」


声を掛けた女学生が、男子学生の耳を引っ張り訂正する。


「えええ?!セナ博士?!」


海洋実習の時とは雰囲気の異なるセナを見て、あわあわと慌て驚く男子学生を他所に、セナは手を差し出す。


「お久しぶりです!教授からは、実習後に皆さんのまとめられた報告書を拝読させて頂きました。素晴らしい学びのお手伝いができたようで、光栄です」

「こちらこそ、セナ博士にお目通し頂けたなんで、光栄ですわ!」


手を握り返し、女学生と握手を交わすセナ。


「でも、こんなところで日用食材の買い出しなんて…後ろから見ると新婚さんかと思ったわ」

「ありがとう!そう言ってもらえるととても嬉しいよ」


ニコリと笑顔で返す白李の隣で、小さくため息をつくセナ。


「まぁ、中学生を連れていると噂になるよりは、マシかしら……?留学生なんてただでさへ目立つんだから」


(……いやぁ、化粧して大人びた君を連れて歩いているだけで、十分目立つんだけどね)


「そういえば、君達こそ休日のフードマーケットで一緒にいるだなんて、新婚夫婦の様じゃないか?!」


白李の言葉に、男子学生は照れ笑いを浮かべる。


「いやぁ、やっぱり、そう見えるか?やっぱりそう言う事だよなぁ!」

「ハクの前で何嘘ついてんのよ!クラスメイトのダニエルがお腹壊したから代わりに食材買ってきてやろうって一緒に来ただけでしょ?」


「ダニエルが?あいつ、大丈夫なのか??」

「大丈夫よ、アイツ一人暮らしでしょ?冷蔵庫の管理が出来てなくて腐った物を食べてくだしてるだけだから―――」


あきらかに嫌そうに、顔をしかめる女学生。


「でも、正直何が良いのか迷っていたのよね~」


顎を抱える女学生。白李は隣の男子学生が持つカートの中身を覗き見た。

チーズに空揚げ、酒につまみの豆…今から飲み会でもするのかというジャンキーな内容に、思わず胃もたれ的な不快感を感じる。


「セナ、紙とペン持ってる?」

「ええ、あるけど―――」


セナがショルダーバックから取り出した紙とペンを借り、なにやら黙々と書いていく白李。


「………セナ、卵を半熟になるまで煮るって、英語でどう表現する?」

「何を書いているの?ハク」

「お腹をくだしている時は水分多めで消化のいい卵粥が一番!醤油で塩分も取れると思って、食材とレシピを書き出していたんだけど……」

「アメリカの卵はPasteurize(低温殺菌)されていないものが一般的だから、抵抗力が弱っている今はサルモネラ菌が怖いわね…むしろよく煮た方が良いかもしれない」

「なるほどね―――」

「きちんと殺菌されている卵も販売はされているんだけどね…ペン貸して?ハクの言葉を私が書き出すわ!」

「じゃぁ―――」




「ほんと……新婚夫婦じゃない!――――焼けちゃうわね」


2人で楽し気にレシピを作る姿を見て、女学生が目を細めた。


「はい!これ作ってやって?で、お大事にって伝えてくれ」

「ありがとう、ハク!作ってみるわ!貴方、ホントいい奥さんになりそうね―――私の嫁にしたいくらい」


ウインクを見せると、カートを押す男子学生にジャンクフードを戻させて、白李からもらったレシピにある食材を探しに向った。


「あはは…お大事に」


手を振り見送る白李とセナ。


(……セナの一番になれるなら、いっそ嫁でもなんでも良いんだけどな―――俺)


ちらりとセナの様子を横目で伺う。目が合ったセナは首を傾げ、私達も買い物しちゃおうかと微笑んだ。


(ま……いっか。今は、このままで―――)



食材をたんまりと買い込んだ二人は、ラボに戻って早速チーズタルト作りを開始した。

エプロンを付けて真剣な彼女の横で、手順を伝えていく白李。


「先ずは生地の準備だな!」

「えっと―――薄力粉が120gと、粉砂糖40g、バターが40gに卵黄2個……」


測りで材料を図っていく隣で、白李が卵黄と卵白を取り分ける。


「こうすると、分けられるよ?やってみて―――」

「…………うーん。こう?」

「そう!上手!」



ラボに帰るなり、二人でキッチンに立って何事かと、リビングからキッチンカウンターを見守る秋兎と碧は、顔を見合わせた。


「あいつら、何作ってるんだ?」

「――――さぁ?ってか、今日のセナ…なんか大人っぽくない?ハクとお似合―――「いじゃないから!」


秋兎の言葉を打ち消す様に、言葉を重ねる碧。


(良い大人が・・・・・・分かりやすいヤキモチだな―――)


不機嫌に顔をしかめながらキッチンを見守る碧の隣で、秋兎は小さくため息をついた。


(まぁ、分らなくもないか…エプロン姿のセナなんて、初めて見たし。なんか―――新鮮)


「バターは柔らかくなったままを使うから、これに粉砂糖を入れて泡だて器でクリーム状になるまで混ぜて?」

「卵は?」

「クリーム状になったら、一個ずつ混ぜ合わせるんだ」


セナがバターを混ぜている間に、白李キッチンの戸棚から粉ふるいを取り出した。


「それは?」


いつの間にか揃っている調理器具に、驚くセナ。


「これは粉ふるいなんだけど、色んな裏ごしも出来るからあると便利なんだ」


セナの左手から泡だて器を受け取り、代わりにゴムベラを渡す白李。


「じゃぁ、俺が薄力粉を振るっていくから、セナはこれで生地を切るような感じで混ぜていって?」


「……生地を―――斬る?」


両手でゴムベラを日本刀のように構えるセナ。


「・・・・・・。えっとねぇ―――斬るんじゃないよ?切るっていうのは―――」


セナの後ろに回り込み、彼女の左手に自分の手を添える白李。セナを抱きかかえるように右手を回し、ボールに粉を振るい入れ、ゴムベラを持つセナの手を動かす。


「こんな感じ………」



これには、リビングの碧の隣で解析作業を進めていた秋兎も声を上げる。


「ハク、あんな近づかなくても良くないか?!」

「……あいつ、俺達が見ている事知っていてわざと挑発しているのか?」


碧は口元をいっそう引きつらせる。


当然、秋兎と碧がちらちらとキッチンを気にしている事は、白李も知っていた。セナの後頭部に小さなキスを落とし、ちらりと碧に視線を移すと、ニヤリと口元を綻ばせる。



(あ~い~つ~!!!)


白李のわざとらしい挑発に気付いた碧は立ち上がり、カウンターに両手をついた。


「ねぇセナ?俺も何か出来る事ない?」


ニコリと、作り上げられた満面の笑みを浮かべる碧。


「ないよ。碧は秋兎と解析を進めていてくれたらいいから」


セナを両腕の中にすっぽりと抱え込み、同じく満面の笑みを作り返す白李。


「材料いっぱい買ったし、碧も一緒に作る?チーズケーキ」


「チーズケーキ?!」


その言葉に反応し、ソファーにもたれていた秋兎がひょっこりと顔を上げる。


「チーズケーキ作ってくれてるの?!僕も食べたい!!食べる専門!」

「………ッツ!」


心中で舌打ちし、碧を睨む白李。


「私が作っているのは、プレゼントするものだから…ラボで、皆で食べる分を一緒に作ってくれる?」

「喜んで!」


睨む白李を他所に、ニコリとセナに微笑む碧。


「やった!チーズケーキだ!!」


ソファーで喜ぶ秋兎をみて、嫌だとは言えなくなった白李は小さくため息を落とす。


「じゃぁ、タルト型の代わりにこのトレイを使おうか…材料は今の倍量で生地を作ってくれる?」

「了解!」


腕まくりを行い手を洗うと、ボールをもう一つ用意する碧。


「薄力粉240g、粉砂糖80g、バター80gに卵黄4個だね!」


ソファーの背もたれから顔を出し、ニコニコとこちらを見守る秋兎。


「秋兎、分量覚えていたのか?」

「うん、任せて!きちんと聞いているよ!」


指示された分量を手際よく測り終えると、サクサクと混ぜ合わせる碧。


「生地がまとまったら、ビニール袋に入れて冷蔵庫で2時間くらい寝かせるんだけど―――今日中に渡したいなら時短テクが必要だな!」

「時短テク?」


首をかしげるセナと碧に向って、人差し指を立てる白李。


「ビニール袋に入れた生地を、その上から麺棒で1.5㎝から2㎝圧位に伸ばしてから冷蔵庫に入れるんだ。セナは丸型のタルト型を使うから、丸い感じに…碧は四角いトレイを焼き型に使うから、やや長方形に伸ばしておくと後で便利だよ」


言われたように、ビニール袋の上から生地を伸ばして形を整えるセナと碧。その間に、使い終わったボールや泡だて器を洗っていく白李。セナ達は麺棒で生地を伸ばしながら、その様子を感心しながら見ていた。


「……ハク、流石―――手際良い」

「動きに無駄がないな」


生地を冷蔵庫に入れ終わると、タルト型を二人に手渡す。


「じゃぁ、次は型の準備!これにサラダオイルをまんべんなく塗って、薄く小麦粉を振るって?その間、秋兎はこれね!」


こうする事で型から外すときに綺麗にとれるのだと、説明を加えた。ソファーからこちらを見ていた秋兎には、珈琲豆を渡す。意図を理解した秋兎はガリガリと豆を挽く。小麦粉を篩う傍らで、珈琲の甘い香りがキッチンまで漂ってくる。


「後は中に入れるタネを作るんだけど―――生地の寝かせる時間があるから、ここらでCoffeeBreakにしようか!」


セナと碧がタルト型の用意をしている間に、お湯を沸かし、フレンチプレスの用意を整えていた白李。秋兎から挽きたての豆を受け取ると、ビーカーに移しお湯を注いだ。


「白李、どうして製菓スキルまであるんだ?」


淹れたての、香りの良い珈琲を愉しみながら、碧は素朴な疑問をぶつけてみた。製菓スキルだけじゃない、白李は料理スキルも家事スキルも、このラボの中では断トツで高い。日本では一人暮らしだと聞いていたが、それにしてもだ。


「別に、普通だよ。知らないレシピはネットで調べているだけだし。一人が長くて、自分以外する人がいなかったから、自然と身についただけかな―――」

「……へぇ―――」


(レシピ見ずにチーズタルト作るって…自然と身につくレベルなのだろうか)


碧とセナは自らの家事スキルの無さを振り返り、視線を珈琲に落とす。


「まぁ、あれかな…結構めんどくさい事が苦にならないというか…好きなほう!」


(……あぁ、なんとなく、分る気がする)


人に教えるのも上手いし、面倒見が良いし…。セナと碧は、彼の言葉に妙に納得してしまう。

だが、めんどくさい事が好きだと話す白李の顔が、セナにはどことなく、寂しく映っていた。

珈琲を飲み終えた後、キッチンに戻ってタルト作りを再開するセナ達。


「次は、クリームチーズ?」

「いや、先ず生地の下準備をしておこう!冷蔵庫から生地を取り出して、5㎜くらいの厚さまで麺棒で伸ばすのだけど…」


そう言うと、ビニール袋をハサミで切り割き、薄く打ち粉をした後その上にラップをかけた。


「この上から伸ばしていこうか!麺棒に生地がくっつかないから、綺麗に伸ばせるよ!」

「おぉぉ!」


伸ばし終えた頃には、白李が冷蔵庫から先程冷やしていた型を取り出していた。型の上に、被せるようにそっと生地を置き。型の側面に、生地を指で押さえつけエッジを綺麗にカットした後、底にフォークで穴を開けていく。


「ねぇハク!残った生地は捨てちゃうの?」


カウンターから、秋兎が覗き込む。


「捨てないよ?これはそのままクッキー生地に出来るから、秋兎は型抜きしてくれる?」

「OK!任せて!!」


白李に渡されたクッキー型を生地に押し込み、楽し気に型抜きをする秋兎。


「フォークで空気穴を開けたら、一旦それは冷蔵庫で休ませておこう!その間にメインのクリームチーズを混ぜていくよ!材料は、常温で置いてたクリームチーズ200gに対して、生クリームが100cc、グラニュー糖が50g、卵が1個、レモン汁が大さじ1と、薄力粉が20gだ!」


「じゃぁ、碧はその倍だからクリームチーズ400g?」


型抜きをしながら、秋兎が首をかしげる。それだと結構な量になる。


「いや、1.5倍くらいでいいよ!多分セナの方のが少し余ると思うし」

「じゃぁクリームチーズが300で――――」


計量する碧の隣で、型抜きをしながら分量を計算していく秋兎。食べる専門だとか言っていながら、結局楽し気なキッチンに吸い寄せられるようにやってきて、クリームチーズを混ぜる大役(?)を自ら志願した。


「クリームチーズはクリーム状になるまで練り混ぜる。最初はゴムベラでつぶす様に混ぜた方が混ぜやすいよ!潰れてきたら泡だて器に持ち替えて―――」


セナと秋兎が、並んでボールを抱え、チーズを混ぜていく。なんとも微笑ましい(可愛らしい)光景だ。


「それに生クリームとグラニュー糖と卵を加えるよ?」


そう言うと、セナのボールの中に材料を少しずつ入れていく白李。彼に倣い、秋兎が混ぜるボールには、碧が材料を入れていった。


「薄力粉を入れて、粉が見えなくなったらレモン汁も一緒に入れて混ぜ合わせて…中身の完成だ!」

「出来た!」

「生地の方が型に馴染むのを待つ間、オーブンの予熱がてらさっき秋兎が型抜きしてくれたクッキーを焼こうか!」


オーブンの天板の上にクッキングシートを敷き、その上に星型に型抜きした生地を並べていく。焼いている間はリビングで寛ぐ4人だが、キッチンからただようクッキーの甘い香りが、彼らをオーブンの前に誘惑する。


「美味しそう~!」


待ちきれず、オーブンに張り付く秋兎。セナも隣から覗き込む。


「ホント!バターの甘い香りで待ちきれないわ~!」


その様子を、リビングのソファーにもたれながら、碧と白李はくすくすと笑って見守った。


「後は冷蔵庫のタルト型にクリームチーズを流し込んで焼くだけか?」


「そう!170度のオーブンで30~45分、結構簡単だろう?」

「……簡単かどうかはさておき、お菓子作りも案外楽しいな!」

「ああ、水月博士喜んでくれると良いな―――」

「なんだ、セナの作っているチーズタルト、水月さん用なのか?」


驚く碧に、「誰にあげると思ってた?」と、意地悪く尋ねる白李。フイと視線を逸らせる碧に、今日は水月博士の誕生日だそうだと、説明した。




クッキーが焼き終わったころ、タルト型にクリームチーズを流し込み最後の焼き上げを行うセナ。クッキーは冷却ラックつきの天板に並べて粗熱を取った。


「セナ、その星のクッキーの中で一つだけ、セナの気に入った星を選んで?」

「えっ?…えっと――――――」


左端のクッキーを指さすセナ。


「じゃぁ、コレ……」

「それに、メッセージを描こうか!水月博士へ―――」


そう言うと、余った卵白に粉砂糖とレモン果汁を加え、食紅で色を付けて作ったアイシングを差し出した。


「アイシングという砂糖の塊だけど、これで文字が書けるよ」




粗熱の取れたクッキーに、コルネを絞り出して文字を描くセナ。初めてで綺麗な字は書けないけれど、精一杯の想いを込めた。

父用のクッキーにアイシングを終えたセナは、残りのクッキーにも目を移す。


「………ねぇ、ハク?他のクッキーにも、描いていい?」

「え?いいけど―――じゃぁアイシングをもっと作ろうか?」


追加のコルネを作成する白李。受け取ったセナは、全ての星型クッキーにデコレーションを施した。真剣にアイシングを行うセナに、何を書いているのかと覗き込もうとすると、出来るまで見ちゃだめだと追い返されてしまった。



タルトが焼き上がる頃には、仕事に出ていた識と立夏が甘い香りに吸い寄せられるように帰宅する。

ラボ中に漂うバターとチーズの甘い香りと、ダイニングテーブルに並べたられた星型クッキーに描かれた文字をみて、思わず頬が緩んだ識と立夏。


「なんだ、みんなでお菓子作りしていたのか?」

「そうだよ!チーズケーキ作ったんだ!」

「このクッキーに文字描いたのは、セナだけどね」



”しき” ”りつか” ”はくり” ”あおい” ”あきと” ”セナ” ”ぽらりす”


それぞれの名前が描かれたクッキーと


”いっしょにいてくれて ありがとう”

”これからも よろしくね”


全部ひらがなで描かれたメッセージ。

少し歪んだ文字は、ひらから練習中の小学生の字のようだと笑った。


アイシングが乾いたクッキーを、チーズタルトにデコレーションする頃には、空は夕焼けに包まれていた。


「こんな時間になってしまったな…水月博士のラボに、持っていく?」

「ええ、ありがとう!」


事情を聴いた識が、白李とセナを水月のラボまで送ってくれた。

「俺は良いのに」と遠慮した白李だが、一緒に作ってくれたからとラボまで同行してもらったのだ。

丁度会議に入っていた水月と直接会う事は出来なかったが、父の同僚の配慮で、彼の個人用デスクの上にHappyBirthdayと書いたメモと共にチーズタルトを置いて帰った。



セナが用意したケーキボックスには、白とピンクのガーベラが、寄り添うように置かれていた。白いガーベラの花言葉は“希望”。そして、ピンクのガーベラは、西洋では“appreciation(感謝)”を表すそうだ。


星になりたいと願った娘が、様々な困難を乗り越え、ここまで成長した。


白いガーベラに“希望”を託し、彼女が、彼女らしい“色”に染めるようにと願った―――あの日から数年。今度は彼女の色に染められたピンクのガーベラが添えられて水月の元へ帰ってきた。


まだまだ成長途中の淡いピンクで、“感謝”を込めて。


“父さんへ これからも よろしくね” ―――――と。






会議から戻った水月がそのメッセージを見て、うっすらと目に涙を浮かべていた事を、セナは後日、彼の同僚の研究者から聞く事となる。


水月のデスクにタルトを置いた後、識の待つ車へ戻る際、セナは白李にあの時の悲し気な表情の意味を訪ねてみた。


「ハクは、本当に――めんどくさい事が好きなだけ?」

「え?」


脈絡なく振られた話題に、一瞬戸惑いを見せていたが、君には敵わないなと苦笑いを浮かべて話し出した。


「あの事故で両足と――――家族を失った時、一人で生きて行こうって思っていたんだ。実際はそんな事、出来っこなくて…今でも結局沢山の人の手を借りなければ生きていけないのだけど。その時の俺は、出来る事は自分でしよう…誰の手も借りずに生きられるようにって―――自分から人を遠ざけて、生きる術を身に付ける事に必死だったんだよ」

「………そう、だったの―――」


長い建物の廊下を進みながら、瞳を伏せるセナの頭をポンポンと撫でる白李。


「そんな顔しないで?セナ。結果、このスキルは自分の役に立っているし、今日こうしてセナの役にも立てた―――それは、俺にとって誇らしい事だ」


「ハク―――――私には、ハクが必要よ。それは、ラボも皆も一緒!皆、ハクを必要としているわ」


ニコリと、微笑みを返す白李。


「ありがとう、セナ。大好きだよ――――」



つづく?



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



―――春ルート

Cups 7 二番目  

(Stern Baum本遍 File:40と41の間) 


日本での調査を終えてカリフォルニアに戻った碧の携帯電話に、立夏からメールが入った。

セナのバーム研究でバディを組んでいたとはいえ、立夏からのメールは珍しい。

日本での調査で、立夏の実兄に怪我を負わせてしまった事も、謝らなければ―――。

碧はすぐさまメールを開いて確認した。


言葉を失い、青ざめた顔で立ちすくむ碧を、覗き込む白李。


「どうした?碧」


焦点の合わない彼の瞳を見て、ただ事ではないと悟った白李は、彼の手から携帯電話を奪い取り、メールをスクロールする。


”安倉千奈が、ウイルスプログラムによる事故に巻き込まれ、左手を失った“


「なん…だって」


呆然とする碧の腕を引き、タクシーを呼び止めると同時に、立夏に電話を掛ける。

立夏からは、詳しい話は病院で行うから、直ぐに碧を連れてくるようにと告げられ、二人は急いで病院へと向かった。




タクシーを降り、碧の腕を引いて病院のロビーに入ると、立夏が待合の前に待機していた。

病室へと向かう廊下とエレベーターの中で、先日カリフォルニアの大通りで車の電子制御プログラムを狙ったテロがあり、多数の負傷者が出た。その被害者の中に、偶然カリフォルニアに来ていた安倉千奈が巻き込まれていたという。

歩道を歩く人々を次々と撥ねるように暴走した車の衝撃で、左の橈骨及び尺骨を損傷したという。当直だった識に呼び出され、アルグレードもその腕を確認したが…複雑骨折などという文字では表せず、手の形を成していなかったという。


幸い彼女は意識を取り戻し、左腕以外は軽度の外傷のみで、緊急手術での処置が効を奏し、創部の大きな感染等を起こさなけば、命に別状はないという。


だが、彼女の心は―――。


病室の前で、足を止める白李。


「俺は、面会を止めておくよ。俺の両足は、今の彼女に嫌でも現実を突きつけてしまうだろうから」

「……白李―――」

「気にするな、行ってくれ」


寂し気な表情を浮かべ、碧の背を押す。


病室の扉を開けると、ベッドに臥床する茶色の髪の隣で、アルグレードが振り向いた。


「……碧?お前も、千奈の知り合いだったのか?」

「―――――ああ、まぁな。白李もVRで会っているが、”今”は遠慮すると外で待ってくれているよ」

「そう―――か。気を使わせたな。」


(白李もまた、昔の自分を思い出して、辛いだろうに……)


「寧ろ俺は、アルグレードが千奈と知り合いだったことに驚いたけど?大体お前、あまりプライベートの事話さないから。」


アルグレードはふと苦笑いを浮かべると、立ち上がった。彼を視線で追い、声を掛ける碧。


「千奈、寝ているのか?」

「ああ。左手の痛みが強いらしくて、強めの鎮痛剤を入れて貰っている。白李は外に? 」

「ああ」

「会ってくる―――」「うん」




バタン……


「……………」


病室に、残された碧。


大丈夫か? ――――大丈夫なわけがない。


頑張れ? ――――ピアノを失った千奈に、自分が何を頑張れと言えるのか。


ピアノの話?…寧ろ自分がいる事で、千奈はピアノを思い出し、辛い思いをするのではないだろうか…。


命ともいえる左手を失った彼女に、何と言葉をかければいいのかわからない。

痛みを伴わず寝てくれているのなら、碧にとっては救いだった。

ベッドサイドで、両手で頭を抱え込む碧。


「……眠り姫は、王子様のキスで目覚めるものよ?」


その声に、目を丸くして振り向く碧。


「なーんてね」


冗談めかしく口元を綻ばせる、千奈。


「やっぱり、こういう時って女の子の方が強くて現実的ね」


開いた口から、言葉が紡げず戸惑う碧を横目に、右手で体を起こす千奈。左手が使えないと、体を起こす事すら困難なのだ。硬直を解いた碧は、千奈の背中を支えて起き上がりを介助する。千奈は「ありがとう」と、微笑みを返した。


酷く落ち込んでいる事を想像していた碧にとって、微笑すら浮かべる彼女は不思議で、理解できなかった。


(どうして、君はそんなふうに―――笑えるの?)


「昨日、あの子に会ったわ―――」

「あの子?」

「ほら、碧君がご執心の―――セナちゃん」

「……セナに?」


「立夏君に連れられてきたセナちゃんは、呆然としていた私にこう言ったの。『千奈がもう一度ピアノを弾きたいと思うなら、私が左手を動かし、ピアノを弾かせてみせる』って―――」

「…ッツ!!」


(この状態の千奈に、ピアノの話をふったのか?!)


「―――『だから、生きる事を投げ出さないで』……だって」



”生きる事を、投げ出さないで――――――”



何ともセナらしい、ストレートな言葉。

だが、言葉は時に、刃となる……千奈は、その言葉を聴いて、どう思ったのだろうか。


「悔しかった。辛かった……

セナちゃんは、左手を失った私を憐れんではくれなかった。だから私、言い返したのよ。

私は、ピアニスト―――左手がなくなったって、もう一度音を奏でてみせるって」


「あっ――――――」


右手で、碧の服の袖をぎゅっと握り締めた千奈。

そして、その綺麗な瞳から、ボロボロと大粒の涙を溢した。


「涙を流すのは……私が、生きているからよ。まだ、何も諦めていないからだよ―――」


セナは、飾らない真っすぐなその言の葉で、千奈をここ(現実)に引き上げたのか。


「私ッ―――生きる事を、投げ出してない!」



千奈のその強い言葉は、彼女に掛ける言葉に悩んでいた碧の心を突き刺した。


どんなに飾った綺麗な言葉も、慰めも―――今の千奈には気休めにすらならない。

だけど、ただ現実と前だけを見たセナの言葉は、千奈の”生”を揺さぶり動かしたのだ。


かつて碧が、セナに救われたように――――――。




「ねぇ、碧君…お願いがあるの―――」

「お願い?」

「私を、ビスカムアルバムに連れて行って?」


白李との話を終え、病室に戻ったアルグレードと顔を見合わせる碧。

ピアノの話題は、彼女に辛い思いをさせるのではないかと避けていたアルグレードも、戸惑いの視線を返した。

ビスカムアルバム…あそこには、千奈が弾いていたピアノがあるからだ。


「――――分かった。病院の先生に、外出許可をもらってくる」


碧が、立ち上がった。千奈がそれでいいのならと、アルグレードも車を回す。

識や立夏に事情を説明した碧は、主治医から外出許可を得ると、車椅子を押してアルグレードのお店、ビスカムアルバムに向った。



午後の柔らかな日差しが明るく染める店内。

正面のピアノを見たとたん、千奈の、ないはずの左手が疼いた。右手を握り締め、顔をしかめる千奈。


「千奈、いきなり無理しなくていい―――」


車椅子の進行を止める碧の手を、握る千奈。


「大丈夫―――大丈夫だから。ピアノの前に……」


千奈の強い決意に、顔を見合わせて戸惑うアルグレードと碧。彼女の指示通り、車椅子をピアノ椅子の隣につけた。

千奈はスッと立ち上がると、ピアノ椅子に座り、呼吸を整える。

心臓が、自分のモノではないように高鳴り、少しの息苦しさを覚えた。


「千奈―――」


店の入り口で、心配気に見守るアルグレード。

彼女は、右手でピアノカバーを開け、ラ音を弾いた。


ポロン……


鍵盤の音が、静かな店内に響く。

そして、強張った右手を鍵盤の上に滑らせた。


右手だけで奏でられるパッヘルベルのカノン――――


その音が、切なく…苦しく―――


彼女に背を向けるように、アルグレードは静かに涙を溢した。


あんなにも、ピアノが好きで、プロになる事を夢見ていた―――そして

やっと…やっとその夢を叶えたというのに。


何故…

なぜ千奈が―――。



彼女の右手から奏でられる”音”は、ピアノの隣でたたずむ、碧の心も揺らす。

大きな瞳に涙を浮かべ、それでも強く、ピアノを弾こうとする千奈。



(そんな彼女に、俺は―――何ができだろうか)


ピアノを弾く千奈の左側に、腰を下ろす碧。包帯の巻かれた千奈の左腕に、自らの右手を沿わせた。


そして、左手を、鍵盤の上に滑らせる。



この曲は、二人が中学の時、何度も一緒に連弾した。何年も時が経ったとしても、

身体が、呼吸が、互いの”音”を覚えている―――


ビスカムアルバムに、二人の優しいピアノの音が、美しく鳴り響いた。





演奏を終えた千奈は、くったりと碧の身体に体重を預ける。


「千奈、大丈夫か?!」


やはり、病み上がりにいきなり外出とピアノ演奏は、今の千奈には酷だったか。

右腕で、彼女の身体を支える碧の肩に、顔を埋める千奈。


「……やっぱり私、碧君のピアノが好き。二番目で良いから…彼女の事、好きなままでいいから―――私の隣にいて―――?私の左手になって欲しいの」


「――――千奈」



病院に帰ろう―――と、碧は千奈の身体を車椅子に乗せた。

そして車での移動中、ただ無言で千奈の左腕に右手を添えていた。




「―――――――今は俺が、君の左手になる」


空には彼等の心を映すかのような低い雲が広がっていた・・・。





―――冬ルート

Cups 8 友達 

(Stern Baum本遍 Winter Route File:47 後)


聖倭大学 カフェテリア ―――


午前の講義を終えた白李と、学友のナオとタキは、構内にあるカフェテリアでランチを行っていた。サンドウィッチを左手で頬張りながら、ノートパソコンでカタカタと午前中の講義のまとめを行う白李の隣で、機嫌良さそうにタキが携帯電話をいじっている。


「……なぁ、タキ何かあったのか?さっきから携帯見ながらニヤニヤしてさ…」


不気味なタキを横目に、こっそりナオに確認する。ナオはにやにやしながら白李に耳うちした。


「それがさ、この前の花火大会のグループデートで、メッセ交換始めた女の子がいるみたいなんだよ!ついにタキにも春が来るかもなぁ!」

「へぇ!それはめでたいな!」


親友の幸せそうな顔を覗き見ていた白李だが、さっきまでにやにやしていたタキの顔が、どんどんと青ざめ、携帯を打つ手がぴたりと止まった。


「―――――どうした?タキ」


カフェランチを口に入れながら、不審に思ったナオは訊ねた。


「―――メッセ交換の彼女をデートに誘ったんだけど、二人デートはまだ自信ないから、グループデートならいいって…。それって、俺と二人は嫌だって事かなぁ―――」


(―――あちゃぁ……)


白李とナオは片手で頭を抱える。

がっくりと頭をテーブルにつけ、あからさまに落ち込みを見せるタキに、顔を見合わせた白李とナオ。


「いや、そうと決まったわけじゃないぞ?…奥手な子なのかもしれないしさ…」


慰めようとタキの肩をバシバシと叩いてみるナオ。


「ちなみに、なんてデートに誘ったんだ?」

「地元の話で盛り上がってさ、俺北海道出身だって言ったら、夜景綺麗だろうなっていうからさ…今度観に行こうよって誘ってみたんだけど―――」


(いきなりそれは、マズイだろ!!!)


ため息をついて視線を逸らす白李。タキは素直でいい奴だが、親友の目から見ても要領が悪い。大学の授業やレポートにおいてもそうだ。たいしてナオの方は提出物などは雑だが要領がよく、ギリギリでも上手くこなしていく。白李もどちらかというと要領は良い方だ…。


「あのさ、いきなり北海道の夜景って、ここからだと必然的に泊りだろ?彼女にもなってなくてそれはハードル高いだろ?最初はせめて近場で日帰りとかさ…」

「え?そうなの―――?」


(そりゃそうだろ―――下心あるって思われて、普通引かれるだろ)


「タキは、彼女が夜景好きだから見せてやりたいって思ったんだよな!」

「そうだけど――――」


―――まぁ、そう言うところが、タキの良いところなんだけどな。


白李はくすくすと笑う。


「笑い事じゃないぞ?ハク!」

「じゃぁ、初めはナオんところとダブルデートしたらいいじゃないか!その彼女、文学部なんだろ?女の子同士に接点があると構えなくていいんじゃない?」

「あー成る程、それも良いな!」


白李の提案に、ナオも小さく頷きながら乗り気だ。


「ホントか?!ダブルデートしてくれる?」

「おう!俺は良いぜ!丁度こっちのデートもマンネリ化して来たし、俺らにとっても新鮮でいい。だったらハクんとこも合わせてトリプルデートはどうだ?!」

「それ楽しそうだな!!やりたい!!」


乗り気なナオは白李に向ってウインクをしてみせた。先程まで落ち込んでいたタキも段々と乗り気になっている。



「はぁ?!俺はやめとくよ」

「どうしてさ!面白そうじゃん!!


(面白そうって―――お前ら)


小さくため息を浮かべ、話をぼかしながら視線を逸らす白李。


「俺が行くと、文学部の彼女らが気を使うだろ?―――色々と」


以前もナオが彼女とカフェテリアでランチをしていた時。昼食を買いに来た白李にナオが声を掛けると、彼女が席を外した経験があった。コスメチックカバーを付けているとは言え、両足義足の自分には近寄りにくいのではないかと感じていた白李は、出来る限り彼女と一緒にいる時のナオとはニアミスを起こさないように気を使っていたのだ。


「もしかして、足(義足)の事を気にしているのか?そんなん全然問題ないぞ?!」

「お前らが良くてもさ―――」


自分が原因で彼女が二人を避けたり、別れるなんて話になったら―――


そう思うと、容易にトリプルデートなど受け入れられない。


「俺も気にしない!それにさ、もしハクの足の事が原因でどうとかなるような相手なら、結局長く続かないさ」

「だよな…俺も、ハクとは卒業後もつるんでいたいし、そう言うの気にするような子ならむしろ、これから先付き合っていけないよ」


「当たり前だろう」と、さらりと言い放つナオとタキに目を見開く白李。そんな彼を見て、今度はナオとタキが顔を見合わせた。


「もしかしてハク、そんな事気にしていたのか?!」

「そ―――そりゃ…気にするだろ。」


折角できた、友人なんだ…大事にしたいと思うのは当然だ。

そう、思っていた。


「あー水臭いな、ハク!俺らハクの事親友だと思っているのに~」


そう言うと、バシバシと白李の背を叩いた。


「いてっ!痛いって!タキ」

「むしろ、やっと本音で話してくれるようになったって感じなんかな?なんかハクって俺らに対してもどこか遠慮がちっていうか、一匹狼的なところあったからさ」

「そういうハクがカッコいいって思ってたところもあるんだけどな!多分俺らには分からない苦労とか沢山してきたんだろうけど。俺は、そうやって話してくれる今のハクの方が嬉しいぜ」

「タキ―――ナオ―――」



―――そうだ、俺は…自分から壁を作っていた。


出来もしないのにカッコつけて、独りでも生きて行ってやるって思っていたから。

セナに会って、そんな余裕全然なくなって。

アイツが、俺の心の壁を外側から壊してくれたんだ。


「何?ハク、もしかして俺らの言葉に感動しちゃってる系?」

「いいや、たまにはいいこと言ってくれるなぁと感心していたんだ」

「なんだよ!つまんねーの!」


本音で話せるようになって、こうして笑えるのも

星の木ラボで出会ったあいつ等のおかげなんだ。

意見が違って、ぶつかって、それでも同じ目標の為に闘ってきたあいつ等と一緒にいたから―――。


「で、ハクも行くだろ?トリプルデート!」


ナオが詰め寄るが、白李はそっと視線を逸らせて苦笑いした。


「あーその事なんだけど…噂の“図書館の姫”は実は―――」


セナの事情について説明する白李に、タキとナオは声を揃えた。


「「極度の人見知りとコミュ障?!」」

「まぁ、最近は大分マシにはなって来たんだけど―――」


一応誘ってはみるが期待はするなと言い残し、残りの空き時間でセナのいると思われる図書館に向かった。



聖倭大学 図書館―――


天気の良い日は大きな窓ガラスが開放され、柔らかな日差しが図書館内を明るく照らし、爽やかな秋の薫る風が本棚の隙間を優しく揺らす。

壁際の長椅子に機械工学の本を山積みにし、真剣な視線を本に落とす茶色い髪に、遠巻きに男子学生の視線が集まる。


「やっぱ、可愛いよな!少し日本人離れした顔とか、2次元のお姫様が抜けだしてきたみたいでさ!」


白李の後をつけてきたタキとナオは、白李の視線の先に写るセナを観て頬を赤らめた。相変わらずの注目に、小さいため息を浮かべる白李。以前なら遠巻きに観ている方だったが、自分の彼女ともなれば話が違う。


どうにかこの視線を避ける方法はないかとあれこれ思案してしまう。


(―――セナは俺のだ!と、叫んでしまえれば楽なんだろうけどな…)


出来もしない事を脳裏に浮かべ、一人自嘲を浮かべた。


「タキの事もあるし、最初は日帰りのプチ旅行~的なノリで誘ってみてよ!」


気が乗らない白李の肩を押し出すナオ。

人見知りが強いセナが、グループデートの誘いなどOKするわけない。誘う前から答えの見えている会話に、重いため息を浮かべながら長椅子の前まで来ると、立膝をしてセナの顔を覗き込んだ。


「読書中悪いな、ちょっと話しかけていいか?」


白李の視線に気づいたセナは、呼んでいた本をぱたりと閉じた。


「ハク?どうしたの?」


山積みにしていた本を重ねて寄せ、隣に座れるようにと席を空けるセナ。


「これ、全部読んだの?」

「ええ、大体は。やっぱり大学の図書館が一番資料が揃っていて興味深いわ」

「そう―――お昼も、きちんと食べてね?」

「……野菜ジュースは、飲んだわ」「固形物も、食べてね」

「―――善処します」


娘を心配する母親のような口ぶりの白李を、遠目から心配気に見守るナオとタキ。


「あいつ等、付き合っているんだよな?」

「―――なんか、兄妹というより、親子のような会話だな…」


「ねぇセナ―――とても言い難いお願いがあるんだけど…」

「―――何?」

「グループデート、して欲しいんだ」


「……ヤだ。」

「ですよね……」


ストレートに訪ねた白李に、予想通りの返答を返すセナ。白李は苦笑いを浮かべる。

そんな白李の顔を、不思議そうにのぞき込むセナ。


「―――ハクが、グループデートなんて、何かあったの?まさか何か秘密裏の捜査を?」


セナにとっては、どこか周りに遠慮がちな白李こそグループデートなど自ら行うとは思えなかったのだ。声を潜めるセナに、慌てて両手を振る白李。


「いやいや!そんなんじゃないんだ―――ただ、同じ学部の友達に誘われて―――」


妙な詮索をされるよりはと、白李は事情をセナに説明した。とはいえ、セナの人嫌いは白李も十分に知っている。彼女に負担をかけるデートなら、ムリにする必要はない。諦めて二人でのデートを提案しようとしたその時だった。


「いいわよ、グループデート。ハクが行きたいなら」

「え?」


セナの意外な返答に、思わず声が裏返る。


「その代わり、私も努力はするけれど…ハクもフォローしてね?」

「―――良いのか?セナ」


フォローを行うなど、当然の事だ。言われるまでもなく、大切な彼女の事は気にかけるつもりでいた。白李の視線の先で、下を向き、閉じた本を両手で握る。


「……それって、ハクが私の事―――その、ご学友に”大事な人”として、紹介してくれるんだよね?」

「―――そう、だけど…」

「じゃぁ、良いよ―――」


恥ずかしそうに下を向くセナの仕草が、白李にはとてつもなく可愛く見え、こちらまで恥ずかしくなる―――


(大学生にもなって、何照れてんだ?!俺はッ)


動揺を悟られぬように、詳細が決まったらまた連絡すると言い残し、長椅子を立った。離れた位置で心配気に見守っていたタキとナオの元に戻ると、「まさかのOKを貰えた」と報告する。


良しと拳を握る二人は、白李を交えて早速それぞれの彼女達への調整のメッセージを送り合った。こうして、白李にとっても予想外のトリプルデートを行うという流れとなったのだ。



散々悩んで調整を重ねるものの、6人ともなるとなかなか調整が合わず、結局休みの合わせられた1日を利用し、レンタカーを借りて近くのキャンプ場でバーベキューをしようという話になった。



デート当日。

集合場所の聖倭大学の噴水前―――


待ち合わせ時間よりも大分に早く到着したタキは噴水前をそわそわと行き来する。


「やっぱりな―――落ち着けよタキ!シロクマみたいだぜ?」


同じく待ち合わせ時間よりも早く到着した白李は、落ち着きのないタキを見つけて声を掛けた。


「ハク?!早くないか―――」


突然にかかる声に、びくりと肩を振るわせるタキ。早く着き過ぎた自覚はあるようだ。


「実は昨日から緊張していてさ!」

「そんな事だろうと思って早めに来た」


白李の両手をしっかりとつかむタキ。これは相当、緊張していたようだ。

ナオと彼女はレンタカーを借りてから向かうと連絡が入っている。


「そう言えば、ハクの彼女は?」


タキは辺りを見渡すが、図書館の姫の姿はどこにもない。

セナをマンションまで迎えに行くと言ったのだが、皆と同じ大学集合で良いと断られたのだ。キャンプ場に行くから動きやすい服装でと注意はしておいたし、大丈夫だろうとは思うが。


「現地集合と言われた」

「へ、へぇ―――。付き合いたてにしては結構クールなカップルだな……」


2人が暫く雑談をしていると、独りの女性が声を掛ける。


「タキ君?」


声に振り向く白李とタキ。暗めの茶髪を肩までで切りそろえた、一見大人しそうな女性が噴水前まで歩いてきた。彼女は時計を確認し、ニコリとほほ笑む。


「ちょっと早く着きすぎちゃったと思ったのに、タキ君早いのね!」

「愛美ちゃん!」


タキが愛美(まなみ)と呼んだその女性は、ひらひらと揺れる膝丈のスカートに可愛いサンダルを履いたデートスタイルで現れた。その姿に、頬を赤めるタキの隣で、苦笑いを浮かべる白李。


(整備されているとはいえ、目的は炭を使ったバーベキューで伝えていたはずなんだけどな…マズったかな、これ)


手伝いはあまり期待できないと、この後の流れについて頭の中であれこれと考え直す白李を他所に、タキは可愛い服装で現れた彼女を見て嬉しそうだ。


(まぁ、タキが喜んでいるならそれでいいか…)


ちらりと時計に視線を移す白李。セナは、大丈夫だろうか。まだ集合の時間には早いが、携帯を取り出しセナに電話をかける。


『はい。』

「セナ、今どこ?」

『駐車場。待ち合わせは噴水前よね?今から向かうわ』


(駐車場?駐輪場じゃなくて―――?)


セナは車の免許を持っていないはずだ。一体誰に乗せてきてもらったというのだろうか。

顔をしかめる白李。


「そっちに行くよ―――」

『もう向かっているからいいわ―――え?あ…はい』

「?」

『いったん切るわね』


プツリと途切れた通話。何やら誰かと話をしていたようだが―――。


「ハク、セナちゃん大丈夫?」

「ああ。今駐車場って…」


「おーい!」


駐車場の方面から、ナオが大きく手を振る。その両サイドに、セナと、何度か学内で会った事のあるナオの彼女がこちらへ向かってくる。


「ナオと…セナも?」

「丁度セナちゃんとそこの駐車場で会ったからさ!」

「お待たせ、ハク」


そう言うと、白李の隣…いや、背後に隠れるように駆け寄るセナ。

細身のジーンズにスニーカーと、チュニックの上に薄手のボレロを羽織ったカジュアルな装いだ。長い茶色のふわふわとした髪は、高い位置でポニーテールにまとめられており、キャンプ地が初めてという割にはなかなか好感が持てるコーディネートだ。


「駐車場って、誰に送ってきてもらったんだ?」


少しばかり不機嫌な白李の声がセナを問い詰める。


「父さん今日はラボで学生さんの指導があるから、ついでで送ってもらったの。なかなか服装決まらなくて…ギリギリまで千奈にテレビ電話でチェックしてもらっていたから」


(ああ、そう言う事……)

ヤキモチが、胸の中でスッと消化される。


「水月博士に送ってもらわなくても、迎えに行ったのに。それに、千奈って?」

「安倉千奈――今日本に帰ってきているみたいだから、ハクのご学友達とキャンプでバーベキューでグループデートって言ったら、手持ちの服から色々アドバイスしてくれたのよ」



成る程、通りで―――。

比較的年齢の近い同性のアドバイスがあったからこそのコーディネートかと納得が得られた。


「いやぁ、びっくりしたぜ!休日なのに電気電子工学科のクラーク博士が駐車場にいると思ったら、ハクの彼女が隣にいたからさ―――ヤバい現場目撃しちまったかと思って冷や冷やしたよ」


(ヤバい現場って…なんだよ)


心の中でツッコミを入れる白李。


「よし、これで全員揃ったな!じゃぁとりあえず、自己紹介と―――早速買い出しに行こうぜ!」


ナオが場を仕切り、彼女の紹介を始めた。

ナオの隣にいる女性は、文学部で同じ年の明菜(あきな)。ナオとは付き合って半年以上になり、しっかり者同士の恋人だという印象を持っていた。頭の高い位置で髪を結い上げたカジュアルな格好で、こうして二人並んでいても、高校までサッカーをしていたというナオとは似合いの様子だ。


その明菜が紹介するのは、友人で同じく文学部で同じ年の愛美。服装からも淑やかなお姉さんタイプで、一見すると明菜とは逆のイメージだ。先日近くで催された花火大会のグループデートで出会い、タキとメッセ交換を始めたとの事だが、彼に届いたメッセージの印象ではしっかりしていそうな雰囲気がある。どこか抜けているタキには彼女のような人が似合いにも思える。


「ここ4人はこの前の花火大会で自己紹介しているから大丈夫として、こっちが親友のハクと、その彼女のセナちゃん」


紹介を振られた白李はセナの手を持ち、ニコリと作り笑顔を浮かべる。


「明菜さんとはナオと一緒にいるとこ何度か見かけてるけど、愛美さんは初めましてだね。

俺は二人と同じ海洋学部のハク。で、こっちが彼女で、その水月=クラーク博士の愛娘でもあるセナ。このメンバーだと一人年下だけど、よくうちの大学の図書館に来ているから、見かけた事もあるかもしれない」


「よろしく、お願いします―――」


緊張した様子で、お辞儀をするセナ。


「あのクラーク博士のお嬢さんなのね!」「だからよく図書館に来ていたのか!」


愛美とタキは驚いた様子で声を上げる。


「緊張せんでええよ!うちらの事はアキとマナで呼んでくれてえーから!姉ちゃんでもええし。うち兄貴しかおれへんから、妹欲しかってん!」


関西弁で気さくに話しかける明菜に、おどおどとした表情でハクに助けを求めるセナ。

変わって白李が、明菜と愛美に答えた。


「セナ、ちょっと人見知りがあるんだ」

「そりゃそうだよな!年上ばかりのところに呼んでしまったから…セナちゃん気を使わなくていいからね!」


ナオがすかさずフォローを入れてくれる。



自己紹介を終え、ナオ達がレンタルしてきた車の3列シートの最後尾に乗り込んだセナと白李。運転は普段から車に乗りなれているナオが行い、助手席で明菜がカーナビゲーションをセットして運転をフォローする。この辺りは付き合って長い恋人の余裕が感じられた。


道中、同じ文学部の女性同士が話しに華を咲かせる中、セナはこっそりと白李に尋ねた。


「ねぇハク。どうして、キャンプデートなの?」

「キャンプ、嫌だった?」

「そう言う訳ではないけれど…男性が3人とも海洋学部の学生なのだから、てっきり水族館か海洋博物館のような、貴方達のフィールドを選択すると思っていたの」

「あーそう言う事!」


普通のデートでは、先ず質問されないような内容に、白李はくすくすと笑う。


「いや、この年になると王道の水族館なんて大抵デートで使われているだろうからさ。女の子からすれば新鮮さもないし、下手すると元カレと比べられかねない。そんな中で知ったかぶりして話していると鬱陶しい記憶しか残らないからね。キャンプは経験あってもこのメンバーでは初めてだし、参加型で共同作業が出来るうえに健全なイメージがあるだろ?よっぽど嫌な記憶がない限り成功確率が高いと思ってね!」


前の二人に聞こえないように気を配りながら、こっそりと耳打ちした。


「へぇ―――考えているのね」

「そりゃ勿論!セナにも、楽しんでもらいたいと思っているよ?」

「―――アウトドアなんてフィールド外。私、何も役に立てないわよ?」


頬を膨らませるセナ。キャンプなんて言葉はインターネットや本で知っているだけで、実際の経験はない。


白李から事前に聞かされた概要を振り返っても、野外で料理をするなどあまり合理的ではないと思っていた程だ。だが、持ち前の好奇心が膨れ、楽しみにしていたのも事実だ。


「それは好都合だ。ちょっとは頼りになるところを見せられるかな!」

「…………。そう言うのは、思っていても隠しておくものなんじゃない?」

「セナこそ、男の打算的なデートプランの解説なんて、気になっても聞かないものだよ」

「そうね―――ごめんなさい。知らないふりしているわ」


フイと視線を逸らせるセナ。こういうところは、上手く空気を読んだ行動が出来ない自分が恥ずかしくなる。だが、白李は気にする様子もなく、楽しそうに笑った。


「あはは!セナのそう言う素直なところ、好きだよ」




食料品の買い込みにと寄った大型スーパーで、アプリケーション上にかき上げた買い物リストを見ながら次々と食材をカートに入れていく白李。ちらりと横目でタキを伺うと、愛美との会話は弾んでいるようだ。


「良かった、きちんと話できてそうだな」

「なんだよタキの奴、昨日は『緊張して眠れねぇ~』とか、遠足前の小学生みたいなこと言ってたくせに、ちゃっかり彼女の隣キープしてんじゃん」


たんまりと肉を選んできたナオが、二人の様子を見て微笑した。カートの中に並べられた食材を覗き見たナオが首をかしげる。


「6人もいるし、野菜系とかもっと多い方が良いか?」

「いや、多分そんな食わないだろ。女性陣あまり食べそうにないし、それよりはフルーツかデザートか…彼女らが食べそうなもの選んでもらっとく方が良いかもな」

「リョーカイ!セナちゃんは食べれそうなものある?」


白李の隣で静かについてくるセナに言葉を振るナオ。


「えっ?はい、大丈夫です。」


まだ雰囲気に馴染めていない様子で、遠慮がちに言うセナ。

カリフォルニアにいた時、海洋実習の指導者として乗り込んだ船内では、白李の留学先の学友達とはそれなりに話もしていたように感じたが、日本ではやはり勝手が違うのだろうか。


「アウトドアで使える珈琲セットを持ってきたんだ!食後に淹れようと思うから、それに合う皿添えを一緒に選びに行こうか?」

「じゃぁ俺は、アキと愛美ちゃんにデザートになりそうなものを声かけてくるよ!」


そう言うと、明菜を誘って前方を歩くナオ達と合流した。


「アウトドアで使える珈琲セット?」

「そう!バイク走らせて、出先で珈琲を淹れて飲むんだ!アウトドアカフェも楽しいぜ?」


ウインクして見せる白李に、セナは興味深げにキラキラと目を輝かせた。


「……私もバイクで珈琲したいわ!」

「よし、じゃぁ今度お気に入りの豆を買い込んで、二人でツーリングいこうか!」

「うん!!」


定番のカラメルクッキーをカートに入れたセナ達は、フルーツを選んできたタキやナオ達4人と合流すると、今度はタキの運転で予約していたキャンプ場に向かった。



自然の山の中に作られたそのキャンプ場は、テーブルやバーベキューセット、炭、トング等や包丁と言った調理に必要な物や、水回りもきちんと整備されている為初心者のアウトドア向けの場所だ。とはいえ、周りは自然に囲まれており、当然野外独特の暑さや虫等には気を使う。


買い込んだ食材をテーブルに並べていく明菜と愛美。

包丁とまな板はこれを使っていいのだろうか、どのくらいの大きさに切る?等と声を掛け合いながら、野菜の切り分けを担当した。

一方白李は少し離れた位置で黙々と炭火の準備に取り掛かる。セナは折りたたみチェアーを隣に持ってくると、小さめの炭と新聞紙を手際よく積み上げていく白李の隣にちょっこりと座り、じっとその作業を見ていた。


「そうだ―――忘れていた」


白李は思い出したように立ち上がると、荷物の中からスプレーボトルを取り出して戻ってきた。不思議そうに首をかしげるセナの前で、自らの腕や服にスプレーを振りかける。


「なあに?それ―――」

「ハッカ油と無水エタノールと精製水で作ったスプレーだ。蜂やアブにも防虫効果があるし、天然成分だから皮膚についても大丈夫だよ」


白李の腕を掴んで顔を近づけると、清涼感のあるメンソールが香った。


「メンソール…消炎や麻酔効果がある成分ね!」

「そう。ここでは虫よけ効果があるから、匂いが嫌いでなければセナも付けてて?」

「ありがとう、ハク!準備良いわね!」


全身にスプレーを行うと、食材を切り終えたナオが炭火の様子を見に来た。


「そっちはどう?」

「ん、もう少しかな…はい」


そう言うと、先程二人が全身に振りかけたハッカスプレーを渡した。一瞬、何だとボトルを見渡したナオだが、すぐさま意図を理解し、自らに振りかける。


「サンキューな!相変わらず、準備良いよな…ハク。嫁に欲しいわ」

「残念!俺はセナの嫁なんで」

「これ借りていい?」「勿論」


スプレーを受け取ると、テーブルに皿やカップ、飲み物などをセッティングしていたタキ達の元に戻って行った。



バーベキューが終わった炭の消火を確認し、珈琲を飲みながら粗方の片づけを行う白李の元に、タキが様子を見に来る。


「ありがとな、ハク。タキ達、良い雰囲気でさ!二人で食後の散歩にその辺見てくるって!」

「それはよかった!ナオ達も近くを散歩でもしてくるか?俺は珈琲飲みながら荷物の番はしておくし」

「それなら俺とアキで見ておくよ!折角だからハクとセナちゃんも二人で散歩しておいで?」


ナオの提案に、ちらりとセナを伺う白李。


「セナ、お散歩する?」

「―――ナオさん達が、良ければ・・・」

「じゃあ、行こうか!悪いな、ナオ。また代わるよ」


ひらひらと後ろ手を振ると、セナの手を握ってキャンプ場の遊歩道へと向かった。

整備され、気持ちの良い木陰を作る遊歩道を歩く二人。適度な風が、ふんわりと二人の髪を揺らす。


「絶好のお出かけ日和だな!」

「そうね!空気が気持ちいい~」


歩きながら両手を伸ばして、思い切りの背伸びをするセナ。


「セナ、大丈夫?疲れていない?」

「ええ、問題ないわ。皆さん気を使ってくれて、逆に申し訳ないくらい…」

「そこは君が気にしなくていいよ!誘ったのは俺達なんだから」


2.3歩前を歩いていたセナが、くるりと振り向き立ち止まった。


「私よりも、ハクは―――気を使ってない?きちんと楽しめている?」


白李も足を止める。


「―――そうだな…全く気を使わないわけじゃない。だけど、この緊張感や刺激は、それはそれで楽しいし、経験できてよかったと思ってる。」

「…そう。私にもっといろんなスキルがあれば、もっと貴方をフォローできたかもしれないのに…」


下を向くセナに、彼女の隣に並ぶ白李はセナの身体をスッポリと覆う様に抱きしめた。


「君は、隣にいてくれるだけでフォローしてくれているよ。それだけで俺のモチベーションがずっと上がる。こうしてハグしてるだけで、何よりの癒しだ」


「ハク―――」


両腕を離した白李を見上げるセナに、ゆっくりと顔を近づける―――。


ブー…ブー…ブー…


「――――?!」


白李のポケットに入れた携帯電話が振動する。

このタイミングで?!


セナの額にキスを落とすと、携帯電話の画面を確認する。

相手は、荷物の番をしていたナオからだ。


「どうした?」

『ハク、戻ってくれ―――タキが…』

「タキ?愛美さんと散歩に行ったんじゃ―――」


慌てた様子で、ナオが二人の戻りを催促する。後ろでは女性達の悲鳴に似た声が聞こえている。


『散歩中に蛇に噛まれたらしいんだ』

「何だって―――」


隣で話の内容を聴いていたセナは、白李の携帯を持つ手を下ろしてマイクに向かって話しかける。


「本州に生息する蛇は8種類。うちマムシとヤマカガシ以外は無毒のはずよ。先ずは落ち着いて救急コールして噛まれた蛇の特徴を伝えて。後、タキ君は噛まれた場所を心臓より下に下げて動かず心拍数を下げるように。もし毒蛇なら毒の周りが早くなってしまうわ。周りの女性陣にも少し落ち着く様に伝えてくれるかしら?隣で叫ばれると相乗効果で本人の不安と心拍を煽りかねないわ。」


意外な人物からの指摘に、一瞬言葉を詰まらせたナオ。すぐさま我に返り、次の指示を問う。


『―――あ、ああ。何か、俺に出来る事は…』

「この通話を切って救急コール。私達が戻るまで何もせずじっとしていて」


ブツリと終話ボタンを押すセナ。


「戻りましょう」

「ああ―――」


二人は走ってナオ達の元へ戻った。



キャンプ場には啜り泣く愛美と、彼女の背を撫でて落ち着かせる明菜がいた。

電話での指示通り、噛まれた前腕を下げ患部を抑えて顔をしかめるタキと、そんなタキに寄り添うナオ。白李達が戻った事に気付くと、ナオは駆け寄って来た。


「救急隊に連絡した。こっちに向ってくれるって―――。なぁ、洗ったり止血したりしなくていいのか?」

「タニケット(止血帯)は当てない方が良いわ。血流の阻害は寧ろ時計や上着は脱いで、患部が腫れた時に締め付ける可能性があるものは取り払って」


セナの指示で時計や上着を脱いでいくタキ。幸い、吐気や眩暈、呼吸困難感等のアレルギー反応は見られていない。


「うちらも何か、出来へん?!」


明菜が声を上げる。


「二人はキャンプ場の入り口付近で待機し、救急隊の誘導をお願いします。」

「わかった!任せて!」


明菜はこくりと頷くと、キャンプ場の入口へと走った。


荷物の中からエマージェンシーキットを持ちだす白李。


「ポイズンリムーバーは使えるか?」

「そうね…。腫れの状況から毒蛇による咬傷っぽくはないし、時間が経ってしまっているから効果は分からないけれど、しないよりはいいかもしれないわね――」


キャンプ場だけあり、救急隊の到着には少し時間がかかる。それまでに出来るファストエイド(応急手当)は行っておきたかった。白李は手際よく創部の吸引を試みるが、毒液らしきものは吸引できないようだ。


「ごめんなさい…私が、遊歩道を外れてしまったから―――」


メンバーの様子を見ながら、青ざめた表情で啜り泣く愛美に、咬傷部を押さえながらタキが気遣う。


「マナちゃんのせいじゃないよ、俺がしっかりしてなかったから。それに、たぶん毒蛇とかじゃないって!大丈夫だよ」

「タキ君……」


ニコリと笑って見せるタキ。それでも、両手を震わせる愛美の元に近寄ると、セナは腰を落とした。


「大丈夫です。たとえ毒蛇だったとしても、大抵は重症化するほどの毒液が注入される事は無いわ。それに、病院搬送されれば抗毒素や血清の投与で効果的に解毒できる。無毒蛇でも感染症予防の為に処置や抗生剤を投与する事があるから、念のためにオーバートリアージ(有毒蛇と仮定した処置)するのが基本だと聞いたの。不安にさせてごめんなさい…愛美さんがそんな顔していると、タキ君が不安になって心拍上がってしまう。今は傍に居て、安心させてあげてください」


普段は人見知りの激しいセナだが、緊急時は人が変わったように大人な対応を見せる。BookFairy(本の虫)と呼ばれるほど図書館に通い詰めて詰め込んだ知識は伊達ではない。白李には、とても心強く感じた。

立ち上がり、タキの隣に腰を下ろそうとする愛美に、「あっ」と声を上げるナオ。


「マナちゃんあまり近寄っちゃだめだぞ?君が隣にいるとタキが緊張して心拍上がっちまうかもしれない!」

「こらナオ!余計な事言うなよ!折角マナちゃんが近くにいてくれるのに!」

「タキさんダメですよ、興奮しないでください!心拍上がります」

「興奮って―――セナ…」


緊張感のない4人の会話を聴いていた愛美は、いつの間にか震えと涙が止まっていた。そして、くすくすと笑いだす。


「あっ……」


彼女の笑顔に、白李とナオはホッと肩をすくめた。


救急隊が到着した後、一応病院で処置を行うと、タキは近くの病院に搬送された。ナオが救急車に同乗するつもりでいたが、私が付きそうと愛美が名乗りを上げた。


バーベキューの片づけを終え、遅れて搬送先の病院へと向かう車内で、先程を振り返りナオが後部座席のセナと白李に声を掛けた。


「ありがとう、ハク、セナちゃん。情けないよな―――俺、慌てるだけで救急車呼ぶこともままならなかったなんてさ」

「ほんま…結局一番落ち着いてたん、セナちゃんやしな」


助手席にいる明菜も自嘲を浮かべる。


「私が、タキさんから一番遠い存在だからですね。タキさんに近しい皆さんは、焦燥の感情連鎖に陥っていて、いつもならできる冷静な判断が行い難い状況にあった。もし、ハクが隣で同じ状況にあったなら―――きっと私も不安で、怖くて…動けなかったと思います」

「セナ―――?」


「その時は、うちらを呼んでな!セナちゃんが動けへんかったら、うちらがハク君助けるから」


後部座席に振り向く様に体を捻る明菜に、ナオと白李も驚きを見せる。


「アキ――」「明菜ちゃん?」

「タキ君元気になったら、またみんなでどっか旅行リベンジしようよ!」


にんまりと笑う明菜に、運転中のナオも笑みを浮かべた。


「そうだな!また計画しようぜ!」


―――また、誘ってくれるの?


顔を見合わせる白李とセナは、互いに照れ笑いを交わした。


搬送された病院に到着したナオ達。

タキの腕の咬傷はそれ以上腫脹する事がなく、またタキや愛美の証言から、毒蛇の可能性が低いとの判断から、その日は抗生剤の点滴で帰宅する事が許されたのだ。帰りの車の中では、先程以上に仲が良さそうなタキと愛美に、一同は安堵を浮かべて帰路についた。



数日後、タキから正式に愛美と付き合う事となった旨がナオと白李に報告された。


「じゃぁ遠慮なく、泊り旅行に行けるな!」

「いいねぇ!どこ行く?!山の中はもう勘弁だから、今度はスキーなんてどう?!ゲレンデマジックで3割増しカッコ良く見えるっていうしさ!!」


そう言えば、タキは地元が北海道と言っていたか。前回のリベンジと言わんばかりに得意分野を持ちだすタキに、文句を重ねるナオ。


「俺スキーなんて滑れねーし!カッコよく見えるのタキだけじゃん!」

「ハクは?滑れる?!」

「――ボードなら、何度か行った事あるけど…」

「ホントお前、なんでも出来るよな―――」

「そんな事ないけど…」


(セナは寒いところは嫌がりそうだな…防寒グッズ揃えておくか)


トリプルデート旅行についてあれこれと相談するタキとナオの話を片耳に、セナとの旅行を期待する白李であった。



つ づ く?




―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



―――秋ルート

Cups 9 :Material Code

(Stern Baum本遍 Fall Route File:47後)  


2030年 カリフォルニア ――――――

クラーク研究室


薄暗い部屋、シャーレの中のバイオルミネセンス(発光生物)を顕微鏡で覗き込むセナ。黒い下地に幾千もの光る線を規則正しい形状がまるで光る星の様な形状を成して増殖を続ける。シャーレの中央から枠壁まで増殖したことを確認すると、セナはスポイト内の液体を滴下する。


脳の神経伝達物質が含まれるその雫がシャーレの中のバイオルミネセンスに触れると、瞬く間にそれは増殖を止めて硬化し、科学的エネルギーを光エネルギーへ変換する化学反応を止めた。


「安定化に、成功したか―――」

「まだよ―――」


セナの背後からシャーレを覗き込む秋兎の声が、物音一つなく静まり返った研究室に一石を投じた。緊張を崩さないセナの言葉に、再び視線がシャーレに注がれる。星形に固まっていた物質はその姿を母指大の兎の形に変化させた。小さな兎はきょろきょろと辺りを見渡し、シャーレの中をぴょんぴょんと無邪気に跳ねる。


セナの深いため息が、研究室に響く。


「成形に成功ね。おめでとう秋兎、新生物マテリアルの完成よ」


「おめでとうございます!クラーク博士!」

「ついにやりましたね!!」



研究室の証明が点灯し、固唾をのんで見守っていた研究者達が、一斉に声を上げた。


「命令物質を与える事で意図した形に増殖し、望む形に自在に硬さを調節でき増殖を止めるマテリアル。このマテリアルはBMIデバイスと接続が可能で、意のままに動かす事が出来る。耐久値と持続性の調整は必要だが、無機質と接続されたBMIと違い、微量な食物を吸収し、匂いや触覚と言った五感を伝える事が出来、かつてVRの中だけと思われていたアバターを使った活動が、この現実世界で行う事が出来る可能性が広がった」

「病室から出られない疾患の患者でも、このマテリアルを使用すればアバターを介して五感を得たまま現実世界を出歩くことが出来る。」

「外部世界を動かすにあたっては、痛覚など一部の入力値を調整する必要があるけどね」



「素晴らしいです!クラーク博士!!」

「このマテリアル、医療だけでなく様々な用途に使えますよ!」

「そう言えば、このバイオルミネセンス…まだ名前がないですよね―――」


興奮気味の研究員達が、矢継ぎ早に秋兎に詰め寄る。


「アキト博士、もう名前は決めているのですか?!」


折り曲げた腰を伸ばし、セナに視線を送る秋兎。


「ああ。この新マテリアルはセナと目指した夢への一歩―――だから、“STERNBAUM(シュテルンバーム)”と名付けるよ」


秋兎はその動く兎の結晶をシャーレからすくい上げると、手のひらに乗せた。


「シュテルンバーム―――」

「セナ―――」


他の研究者たちの目をはばからず、秋兎は椅子に座るセナの身体を後ろから抱きしめる。


「秋兎……えっ?」


背後から伸ばされた秋兎の手の先には、先程創り上げた兎形の動くマテリアルが、蒼いリボンが結ばれた指輪を持っていた。


「この新マテリアル…“シュテルンバーム”を一緒に育てて欲しい。

セナ―――俺と、結婚して下さい」




セナの耳元に、秋兎の突然のプロポーズが降ってくる。ストレート過ぎるその言葉に、周りの研究者達にも先程以上の緊張が走った。


「――――――――」


まさかこのタイミングで、秋兎からのプロポーズを聴くとは思っても見なかったセナは、目を見開いて振り返る。


振り返ったセナの唇を、突然のキスでふさぐ秋兎。


「君は二十歳になったし、研究もファーストミッションが完了した。いいタイミングだと思う―――」


秋兎の不器用な言い回しに、周りの研究者達がそわそわしながら耳うちする。


「アキト博士、女性には感情論ですよ!」

「そうです!ミッションやタイミングじゃないです、愛です!!愛を語ってください!!」


「―――でもセナは、知っているよね。俺が君だけを愛している事くらい」


新素材が出来たという興奮の中ではあるが、通い詰めた研究室で、他の研究者達がいる中で(しかも、プロポーズのアドバイスまでされているという)何ともムードの無い雰囲気だが、それも含めて秋兎らしい。


くすりと苦笑いを浮かべるセナ。マテリアルの兎に、左手をそっと差し出すと、小さな兎は自分の身体位の周径のある蒼いリボンの結ばれた指輪を、セナの左の薬指へとそっとはめた。


「知っているわよ!秋兎が私と研究にしか興味がないことくらい」


セナの言葉に、緊張して見守っていた研究員達が、ほっと胸を撫でおろす。

秋兎も微笑を浮かべた。白衣のポケットからもう一つ、蒼いリボンの結ばれた指輪を取り出すと、セナの掌にそっと置いて、自らの左手を差し出す。


「俺の分は、セナが付けて?」


いつの間に、こんなものを用意していたのだろうか。あの秋兎が指輪を買いに行くところ等、想像が出来ない。渡された指輪をじっと見つめるセナ。一人でジュエリーショップに行って指輪を選ぶ彼を想像すると、笑いが込み上げる。


「何?」

「いいえ、なんでもない!」


指輪を受け取ると、秋兎の左手にそっと入れた。蒼いリボンで繋がったセナと秋兎の薬指を見て、研究員達から惜しみの無い喜びの拍手が送られた。





カリフォルニア州内

ホテル―――


白い壁を照らすオレンジ色の薄明かりに、ぼんやりと重い瞼をこするセナ。新マテリアル“STERNBAUM”の学会発表を翌日に控えた日の夜。前日から近くのホテルに泊まり明日は朝から会場入りする予定だったセナと秋兎。一足先にシャワーを済ませ、先に布団に入るとそのまま寝てしまっていた。セナの後に秋兎がシャワー室に入ったところまでは記憶にあるが、隣のベッドには人影がない。代わりに、部屋の隅に置かれた備え付けのデスクライトがオレンジ色に点灯していた。


発表は明日だというのに、秋兎はまだ寝ていないのだろうか―――。

まさか緊張で眠れないと言う事も。


セナはまだ覚醒しきっていない体を起こし、デスクの方にふらふらと歩く。

壁を折れたそこには、机に頬をつけてもたれ掛かり、新マテリアル“STERNBAUM”で作った小さな兎を指で絡ませている秋兎がいた。


「眠れないの?」


心配したセナは、秋兎の背後から話しかける。


「ん?別に」

「発表内容のイメージング?」「いいや、内容はもう覚えた。」


小さな兎を指に乗せて、ほのかに蒼く発光するその物体をフニフニと押している秋兎の顔を覗き込む。


「もしかしてセナ、俺が隣にいなくて寂しかった?」

「別に。まだ明かりがついていたから、気になっただけ」

「俺の事、心配してくれたんだ?―――可愛いな、セナ」

「夜更かしして発表中に寝ないか、心配だったのよ?」




フイと視線を逸らせるセナに意地悪く微笑を浮かべると、秋兎は兎形マテリアルを掌に乗せた。


「CloseCode―――」


彼の声に反応し、兎形はどろりとその形状を流動させ、星型の結晶に姿を変えた。

そして、オレンジ色のライトを消すと、椅子の後ろに立つセナの手を引きベッドに向かう。


「ベッド行こう、セナ」

「やっと寝る気になった?」


ほっと溜息を浮かべるセナに意地悪い笑みを浮かべたまま、先程セナが寝ていたベッドに転がる秋兎。かすかに温もりの残るベッドに顔を埋めた後、ベッドの横で立ちすくむ彼女に手を伸ばした。


「秋兎のベッド、向こうだけど?自分で壁側のベッドが良いと言ったんじゃない」

「俺、寝るなんて、言ってないけど?」

「――――……え?」



フイと顔をそらせ、向かいのもうひとつのベッドに入ろうと足をかけるセナの腰を掴み、秋兎は強引にベッドに引きずり込んだ。


「ちょっ…と―――ん?!」


文句を言いかけたセナの唇を塞ぐ秋兎。彼女の身体に覆いかぶさり、両手を掴んで抵抗を阻害した。

やっと解放された唇で、言葉を発しようとするセナの鎖骨下に、今度は吸い付くようなキスを落とす。


「~~~ッ!」


声にならない声で抵抗を示し、熱を帯びていく顔を背けるセナ。


「可愛い、俺のダーリン(愛しい人)。明日頑張れるように、元気ちょうだい…」

「―――そんな言い方、ズルい…」


腕の中で戸惑うセナの表情を見て、愛しいものを()でるように柔らかく微笑むと、今度はそっと額を撫でた。


「ずるいよ?俺は―――前にも言ったよね…セナよりずっと、大人だから」


―――セナがいるから、頑張れる。研究も、発表もこれからだってもっと、ずっと……。

だから俺を、全部、受け入れて。


愛しい(セナ)―――。



つ・づ・く?


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――




―――緋色ルート

Cups 10 :Scarlet Line 

(Stern Baum本遍 Scarlet root File:47後)  


2030年

カリフォルニア 空港―――


空港内にアナウンスが流れて暫く、到着ロビーが急に騒がしくなった。

黒いサングラスで目元を隠し、両腕を組んで壁にもたれ、騒がしくなったロビーを見渡すセナの足元で、オートマタのポラリスが彼女の膝丈スカートの裾を引っ張る。


「入国手続きが終わったのね―――ありがとう、ラス。でも、今から人が沢山出てくるから、私は壁際で彼らを待つわ」


組んでいた腕を解き、左手ですり寄るポラリスの頭を撫でた。程なく、大きなスーツケースを押しながら、黒のサングラスを身に付けたガラの悪い二人組が出国ロビーへのゲートをくぐった。迎えの家族や恋人と挨拶や抱擁を交わす旅行客達の間をすり抜け、彼らがこのロビーで唯一“犬”を連れた少女を見つけるのに時間はかからない。


「お待たせ!迎えありがとう。セナ」

「学会発表お疲れ様、識…立夏」


両手を広げてハグを待つ織の隣を抜け、すぐ後ろを歩いてきた立夏とハグを交わすセナ。


「久しいなセナ、会いたかったよ!この前カリフォルニアから送ってくれたチョコレートや珈琲、美味しかったよ!十夜からもセナに礼を伝えるように言われている!」

「私もよ、立夏!お口に合って嬉しいわ!そうそう、昨日十夜先生から日本のお茶の葉や珍しいものが沢山届いたのよ!お礼を言わなければいけないのは私の方だもの―――」


仲睦まじげに話しをする二人を見て、面白くないと言わんばかりに目を細める織。


「……なんで夫の俺より、立夏と先にハグするんだ?!」


セナを掴み損ねた両腕を寂しく下ろす識の足元に、慰めるようにポラリスがすり寄る。


『バウッ!』

「ありがとう、ラス!お前は俺の方に来てくれるんだな―――」


互いに競う様に日本とアメリカで医師資格を取り、1週間前から国際外科学会での症例発表の為にイングランドを訪れていた識と立夏。学会での発表を終え帰国した識と共に、日本の勤務病院に長期休暇を申請していた立夏がカリフォルニアを訪れていた。


「メールで、車で迎えに来るとあったが、セナがここまで運転したのか?」


スーツケースを転がしながら、不機嫌に前を歩く識の後ろを付いて歩く立夏は、隣を歩くセナに問いかける。


「私だって!車の免許は取ったわよ?でも、運転はオートドライブシステムを使ったから、ハンドルは握っていないけどね」


小さく舌を出しながら答えるセナに、やっぱりかと苦笑いを見せる立夏。


駐車場まで先導するポラリスが車の電子ロックを解除すると、識はトランクにスーツケースを投げ入れた。無言で差し出される手に、立夏は「どうも」と笑顔でスーツケースを渡す。


「セナは助手席。これは譲らない!」


運転席に乗り込む識は、セナを隣の席に誘導した。


「はいはい…。ヤキモチやきだなぁ、識」

「セナがやかせるような事をするからだろ?!家についたら覚悟しろよ―――」


二人の微笑ましい会話を聴きながら、ポラリスと共に後部座席に乗り込む立夏。識は車のオートドライブシステムを解除し、マニュアル操作に切り替えた。


「識はオートシステム使わないんだな?」


後部座席からくすくすと笑が飛ぶ。


「“自分で運転する方が楽しいし、機械は信用できない”んだって!いつも自分で操作しているわ」


後部座席に振り向きながら、セナが肩をすくめて説明した。


「信用できないって…車の電子システムのセキュリティをPolarisと同期しているなら、どんなウイルスだって介入できないだろ?!」

「お前だって日本で自動運転使っていない癖に―――」

「そりゃ…そうだけど」


痛いところを突かれて黙り込む立夏。

今や世界の車の約半数以上がオートドライブシステムが搭載され、ナビゲーションにルートと目的地を入力するとハンドルを握らずとも目的地までAIが運転してくれる。これにより各国の交通事故が格段に減っているのも事実だった。だが今でも約半数は、金銭的な理由やオートシステムに不安を持っていたり、識のように自分で車を運転する事を楽しみとしている一部のドライバーがマニュアル運転を行っていのだ。





静かな道を走り抜け、たどり着いたのは海沿いに立つ赤い屋根の一軒家。

星の木ラボと病院のそれぞれの職場からも車で通えばそれほど遠くないこの家は、セナと織が半年前から住んでいる新居だった。


半年前、この赤い屋根の一軒家で仲の良い友人と身内だけの小さな結婚式を挙げた。

人見知りの強いセナは、結婚式をしなくてもよいと拒否したが、どうしてもセナにウエディングドレスを着せたかった識が頼み込んでやっと実現させたのだ。


碧と千奈によるピアノ伴奏と立夏と十夜によるヴァイオリン演奏が優しく響く中、同年に秋兎が発見した新マテリアル“シュテルンバーム”の自然発光により、幻想的な雰囲気に包まれた会場で、父と母の前で未来を誓った。料理はアルグレードと白李が腕を振った豪華な食卓が彩を添えた。


大好きな人達に囲まれた、その愛溢れる夢のような一日は、今でも立夏達の記憶に新しい。


「そう言えば、識はセナのウエディングドレスにやけにこだわっていたな―――」


リビングで差し出された珈琲を片手に、懐かしそうに立夏がつぶやく。


「あの白と緋色のドレスは、識が選んでくれたの」

「らしいね!和装って手もあっただろうに―――ドレス2着とは。結局あの時は、そのドレスを選んだ理由を教えてくれなかっただろう?」




結婚式では、アリアと千奈に手伝ってもらってお色直しを行った。純白のウエディングドレスから、鮮やかな緋色のカラードレスに着替え、友人達の心を掴んだ。


「あー?あれ。」

セナの隣でソファーに座り、珈琲を口に含む識は、もう時効だからと口を割る。


「白いドレスは、俺の夢だったんだ。セナの心臓を手術したあの日から、絶対にこの子にウエディングドレスを着せてやる―――それまで、何が何でも生きていて欲しいって」


セナは、定期健診の際に必ず診察室に白いバラが飾られていた事を思い出した。それは今でも続いている―――。


「じゃぁどうしてもう1着に、緋色のドレスを選んだの?」


首をかしげるセナに、珈琲カップをテーブルに戻すと、識はにんまりと口を綻ばせた。


「セナが、俺の“色”を、スカーレット(緋色)だと言ったからだ。真っ白な君を、俺色(緋色)に染める。もう君を、誰にも渡さないという意味だよ」

「!?」


顔を赤らめるセナに、「あー成る程、やっぱりね……」と頷きながらくすくすと笑う立夏。


「“あの”セナが、識の妻になっちゃうなんてね。セナは―――幸せ?」


優しく問いかける立夏に、セナは照れ笑いを浮かべた。


「……ええ。幸せよ―――。あの時図書館で、織に会えてよかった…手術してよかった…大学も研究もリハビリも、辛かったけれど諦めず頑張って良かった。だって、お星さまだって見えない世界が、こんなにも素晴らしいんだもの」


ちらりと横目で識の姿を伺うセナ。


「貴方にこの命を貰ったあの日から、私はとっくに緋色のラインを歩いていたわ。貴方の色に、染まっていたのよ?」

「セナ……」


(どうして俺の妻は、こんなにも可愛い事をいうのだろう――—)


隣に座る彼女に体を寄せ、覆いかぶさるように距離を詰める織に、正面からシュガーポットが飛んでくる。片手でそれを受け止める織。


「危ないな、立夏―――」


「悪いけど、そう言うのは俺のいないところでやってくれる?それとも…ここでイチャコラするなら俺も混ざるけど?」


ちっと舌打ちし、大人しくセナの身体を離す織。

セナの二十歳の誕生日を待って入籍し、その後、身内だけの小さな結婚式を挙げた。式後は急ピッチで先日までの学会で発表する原稿作成に取り掛かり、まともにセナとの甘い時間を過ごせていなかったのだ。


御影隼隆との決着の後、傷ついた彼女が目覚めたあの日―――

識はセナに、返事を待たないと言った。

それは彼女に、今ここで自分を選ばせる為。

だけど、自分を選んだセナに、今度は自ら”待つ”と言った。

それは、まだ若くてやりたい事が沢山あるセナの、可能性を潰したくなかったから。


セナは研究に打ち込み、秋兎と共についに新マテリアル…“シュテルンバーム”を作り出し、一つの夢をかなえた。そして、識のプロポーズを受けたのだ。


「結局俺は、待ってばかりなんだよな…セナの事」


ため息を浮かべる織に、にやにやとしながら立夏が茶化す。


「意外に忍耐強かったんだな…驚いたよ!」「あはは・・・」


(そうだ。こんなにも自分のモノにしてしまいたい衝動を抑えて、我ながらよく待っていたと思う―――立夏の嫌味に納得してしまうくらい)


乾いた笑いで返す織。



暫くの雑談の後、世話になった水月やアリアにも挨拶に行きたいという立夏は識からバイクを借りてセナの実家に向かった。


スーツケースの荷物を片付け終わり、リビングに戻った織は、ソファーからじっと海を眺めるセナに視線を奪われる。

二十歳になり、あの時よりもずっと大人びたセナ―――。

結婚式以降は、友人の千奈に教えて貰って少し化粧も始めたようだ。そのままでも十分可愛いというのに、化粧をする彼女は余計に大人びた色気をみせるから困る。


スッとセナの隣に座ると、肩を抱き寄せ唇を重ねた。


「―――私も、識の事待っていたんだけどな…」


脈絡なく、ぼそりと呟くセナ。


「ん?」

「いつまでたっても私の事、妹か子ども扱いばかりして―――」


開放された唇で、今度はセナからキスをする。驚いて姿勢を崩した識は、ソファーのアームに倒れ込む。覆いかぶさるようにセナの手が、識の退路を塞いだ。


「―――――。」


セナからのキスは、珍しい。

今度は識の首元に、そっと触れるような優しいキスを落とす。

ふわりと細い髪と小さな息が首筋をくすぐり、唇で触れられた首元から全身に、ぞくっとした震えが走った。


―――このままセナの好きにさせてみるのも一興なのだが……。


開いた左手でセナの頭を優しく撫でる織。


「そういうのは、誰に教わったんだ?……千奈に言われたの?」


セナが千奈と仲良くしている事は知っていた。同性でカフェやショッピングに出かけ、楽しそうにしている事に何ら口出しもしなかったが。


”俺の”セナに妙な事を吹き込まれては困る。


「……ほら、やっぱり子ども扱いする―――!」


顔を上げたセナは、慣れないキスに耳まで真っ赤に染め、口を尖らせている。

そんな姿も可愛い過ぎて困る。


「ダメだよセナ。セナは俺の色に染めるんだから…キスの仕方も全部、俺が教えたい」


チュッ…


ちゅっ―――ちぅ…


「待って、識ッ!」「もう待たないよ―――」


耳、頬、首、手にと次々にキスを落としていく識。



まだまだ君に教える事は沢山ある―――


これからゆっくり時間をかけて、君との時間を紡いでいこう。

だから―――覚悟して?俺のセナ……。




つ・づ・く?








評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ