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裏 Stern Baum ~Coffee Break~  作者: kohaku
1/3

~ Coffee Break 1 ~

Stern Baum の箸休め小説を置いています。

浅煎りの糖度高目な珈琲は、いかがですか―――?



【SternBaum から来て下さった方】


時系列 第3章 File34 restart(再出発) 後のお話となります。


※ Cups 8~10は【Stern Baum】本遍のそれぞれ(冬、秋、緋)のルート File:47 を一読いただいた後にご確認ください。



※ この小説はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。


―――春ルート

Cups 1 con tenerezza(コン・テネレッツァ:優しく・愛情をこめて)



平日のお昼前…


その日の識は久々の休日なのだが、今日は外部からお偉い医師を招いての研修があるとの事で、特別に立夏も研修に参加させてもらう事になり、朝から二人で出かけていた。

白李は海洋研究の留学目的で渡米している為、セナの口利きで近くの大学の講義を受けに行っている。留学期間中も中間報告とレポートを日本の大学に提出しなければならないらしく、学生の本業は忙しい。

秋兎は昨夜も遅くまでInsideTraceゲームのボスから回収したソースコードの解析を行い、そのプログラミングの特徴を探っていたようだ。元々夜型人間だったらしいが、アメリカに渡ってからその昼夜逆転が輪をかけて酷くなっている。最近ではポラリスもAI機能で学習し、秋兎のパソコンがスリープモードになった時間から計算し、朝の起こす時間を調整している。


リビングでカタカタとパソコンを叩く碧は、トーストをかじりながら日本のクライアントから依頼されたシステムの修正を行っていた。元々プログラマー兼SEとしてパソコンを使って仕事をしていた為、プログラムの仕様書(システムの設計書)やソフトウェアの設計書の作成はアメリカに居てもリモートで行えた。直接クライアントと会う内容については同僚に任せる事で何とか仕事を繋いでいる。


リビングのラグマットに丸まって休んでいたポラリスの耳が、ピクリと動く。

玄関まで移動し、ドアの前にちょこんと座って主人を待つポラリス。


「ラス?セナが来たのか―――?」


碧の声掛けに、「バフッ!」と返事を返すポラリス。まもなく、玄関ドアが開いた。


「おはようございます……」


彼女の足元に、すり寄るポラリス。碧もデータの保存を行うと、ノートパソコンをぱたりと閉じて出迎えた。


「おはようセナ!」


朝からため息を浮かべるセナ。


「あら?元気ない?」「……ごめんなさい、ちょっと母さんと喧嘩して」

「喧嘩?珍しいね―――」


小さく首を振る。


「珍しくないわ…母さんとは、時折喧嘩するもの―――碧、珈琲付き合ってくれる?」

「勿論、よろこんで―――」


珈琲を淹れようと、ドリッパーを並べ、冷凍庫をあけて固まるセナ。


「あ……」

「?」


「………珈琲豆切らしちゃった―――」


容器に入れていたはずの珈琲豆がなくなっている。


肩を落とす彼女を見て、カウンターの外から、ニコリとほほ笑む碧。


「……セナ、今日はデートしようか?」

「デート?」

「そ、珈琲豆を買いに!」

「・・・うん!」


普段は識達に阻まれ(?)二人で出かける事など滅多と叶わない。

かと言って、自然な流れで彼女をデートに誘う口実など、早々見つかるわけでもない。


そう。これは、チャンスだ―――。


多少強引だとは思いつつも、碧はセナを連れて街に出かけた。後程起きてくるだろう秋兎に邪魔されぬよう、ポラリスには少し遅めに秋兎を起こし、起きたらセナと出かけている旨を伝えるように指示を残した。


こうして、守備よくコーヒーショップまでの道のりをデートとして楽しむ予定だった碧は、意表を突かれる。街に出ればそこら中に珈琲のカフェがある。

ふらりと店に入って、直ぐに出てくるセナ。その両手には、テイクアウトの珈琲が握られていた。


「はい、碧の分。この前ベネズエラの深煎りをミルクなしで飲んでたから、ブラックにしといた―――」

「あ、ありがとう…」


苦笑いで受け取る碧。こんなに早く目的を達成してしまうとは思わなかった。


「この辺ってカフェ、多いんだね―――」


当たりを見渡すと、カップを片手に歩いている市民が意外に多く、町のあちらこちらで珈琲店の看板を目にする。ここカリフォルニア発祥と言われる、珈琲や紅茶で有名なあの店の看板も目立つ。


「アメリカ人にとっての珈琲は、イギリス人にとっての紅茶や、日本人にとっての緑茶と変わらないわ。18歳以上のアメリカ人の約半数以上は毎日珈琲を飲むという統計だってある。大抵の職場には珈琲マシンが完備されているしね」


セナから手渡された大きめの珈琲カップを口にする碧。いつもよりさっぱりと薄味の珈琲に、新鮮さを感じる。


「こっちの珈琲は浅煎り焙煎がスタンダードだから、ちょっと薄く感じるわよね…うちのラボはコーヒーメーカーがない代わりに、アルや私や…最近ではハクも手挽きで淹れるから導入していないけど、希望があれば入れるわよ?」


大きなカップを口にしながら、セナが首をかしげる。


「いや、セナやアル達に淹れて貰う方が美味しいし、香りもいい」


普段ラボで飲む珈琲はセナやアルグレード…最近では白李が淹れてくれるものが多く、日本でよく飲んでいた中深煎りの濃い目の珈琲だ。その味に馴染んでいる碧にとっては、街中の浅煎りは少し物足りなさを感じた。


「豆を買う店は決めているのか?」


市中を歩きながら、碧が訊ねる。

こうして歩いていると、周りからは恋人同士に見えたりしているのだろうか…。珈琲を飲むという目的は達してしまったけれど、もう少しこうしてセナと歩いていたい…そんな思いが脳裏をよぎった。


「……もしかして、用事があった?ごめんなさい、私のんびりしちゃって―――」

「あ、いや!違うんだ…珈琲付き合う目的でデートに誘っちゃったから、もう帰るのかなって…俺は、寧ろ今日はセナとゆっくりしていたいんだけど―――」


大きな瞳をぱちぱちと瞬きさせたあと、セナは照れ笑いを浮かべた。


「なんだ、よかった~!珈琲豆はいつもビスカムアルバム(アルグレードの店)で買っているの!でも、今は全然違う方に歩いていて―――勝手に連れまわしちゃってるから、忙しかったらどうしようってドキッてしちゃった」


(俺は今、違う意味でドキッとさせられたけどな―――)


可愛いらしい彼女から、目が離せなくなる。

VRMMOの世界で、彼女の隣を独占していた時のような、おかしな高揚感が碧を襲う。


「碧はどこか、行きたいところある?」

「うーん。日用品の買い出しをそろそろしたいかな…」


粗方のモノはアルグレードが揃えてくれており、個人のモノは日本から持ち込んだ。

それでも、日用消耗品などはどうしても現地調達となる。


「じゃぁ、ついて行くわ!男の人のお買い物ってちょっと興味あるもの…」

「え?水月さんや識の買い物に付き合う事はなかったのか?」

「父さん?は、ほとんどネット調達で出歩かないわ。後は母さんが自分の趣味で勝手に買ってきているわね。識は…そう言えば、食べ物以外の買い物って見た事ないわ。」

「へぇ!そうなのか―――意外だったな。じゃぁ…」


セナの右手を掴み、歩き出す碧。


「?!」

「今日は俺の買い物に、付き合ってもらうかな―――」

「ええ!」


コンピューターに関する雑用品や文房具、洗剤等から、服等―――色々な店を見て回る二人。

日用品売り場では、セナもついでにと買い込んでいた。

ランチは近くのカフェで軽食を…その後、再びショッピングを終えた二人は、目的地のビスカムアルバムに向った。



夕暮れ時、数名の客が店内でカフェを楽しんでいる。


「いらっしゃいませー――」


グラスを拭きながら、店内に入る二人をアルグレードが物珍しそうに迎える。


「珍しい組み合わせだな?デートか?」


碧の手に握られた荷物の山を見ながら、くすくすと笑う。


「そうよ、ちょうど豆を切らしちゃって…何かおすすめある?」

「そうだな――セナが好きそうな豆なら、コスタリカかな。今は希少種のアナエロビックファーメンテーションが入ってる!」

「アナエロビックファーメンテーション?」


聴き慣れない名前に、首をかしげるセナ。


「コスタリカの一部の農園で行われている精製方法で、果肉をある程度残して密閉性の高い貯蔵庫で発酵させ、発生したガスの圧力で果肉の風味を豆に浸透させる嫌気性発酵を行っているんだ」

「じゃぁ、それにするわ!ハクが喜びそうね」

「希少種で量は出せないから、ラボで使うならグァテマラをプレゼントしておくよ」

「いつもありがとう、アル!」


アルグレードから珈琲豆を受け取ると、豆の香りを確かめるセナ。隣にいても、香ばしく甘い香りが鼻腔をかすめる。

ふと、店の隅に置かれたピアノに目を止める碧。


「マスター、ピアノ弾くんですか?」

「ん?ああ、俺じゃなくて―――昔この店を始めた頃の常連に、ピアノを弾けるやつがいてさ……ちょっとした演奏会をしていた事があったんだ――」

「……今は、しないの?」


セナが不思議そうに尋ねると、アルグレードの表情が少し曇った。

寂しげな微笑を浮かべ、ピアノを懐かしそうに見つめる。


「今は―――そいつが遠くに越してしまったから……今はすっかり物置になってしまったよ」

「――――そう…」


窓側から差し込む、午後の柔らかな赤い光が、店内を優しく、寂しく照らす。




「セナ、少し休憩していこっか?」「えっ?」


カウンターにセナを座らせる碧。


「セナのおすすめ、ミックスジュースだっけ?俺も飲んでみたいから」


セナに視線を送る碧。その視線の意図を察したセナは、彼の提案に同意する。


「………そうね、ビスカムアルバムのミックスジュースはおすすめよ!是非碧にも知ってもらいたいわ!お願いできる?アル」

「えっ?ああ、勿論…。少し待っていて―――」



カウンターの奥に入ろうとするアルグレードを引き留める碧。

「あ、アル!」「ん?」

「その人、ピアノ弾く前にこのくらいのハンマーとか、ウェッジとか使ってなかった?」


両手を広げて見せる碧。顎を抱えて考え込み、思い出したようにピアノの下にも繰り込むアルグレード。


「そういや、なんかごそごそ弄っていたな…確かこの辺に一式置いて――――あった」


ピアノの下からトランクケースを取り出し、ピアノの上に置く。


「こんなもん、どうするんだ?」

「ミックスジュース、頼みますね!」


ニコリとほほ笑み、トランクケースを受け取る碧。

不思議そうに首をかしげながらも、オーダーされたミックスジュースの対応を行うアルグレード。そう言っている間にも、新たな客が店を訪れた。


「いらっしゃいませ―――」



碧はピアノ椅子にトランクケースを置き、中を確認する。工具や調律器具が比較的綺麗な状態で保管されていた。


「……大事に、使われていたんだね―――お!電子チューナーもある…」


ピアノのカバーを開け、鍵盤の端から端まで指を走らせた。

店内に軽快なピアノの音が響き、客たちが手を止める。


「excuse me!Please don't be upset or offended.(失礼、気にしないでください)」


店内の客に断りを入れ、弦の間にウエッジを差し込むと、中央のラ音を確認し、チューニングピンを回していく。


「大丈夫そう?」


隣で碧の作業を覗き込むセナ。


「うん。かなり状態は良いよ!アルのあの言い方から、暫く放置されていたのかと思ったけど、きっと定期的に調律師がメンテナンスを行っていたんだね―――」

「……大事な人が、使っていたのかしら?」

「多分ね」


今から思えば、アルグレードに関しては知らない事ばかりだ。

識の友人、ビスカムアルバムのマスター…流暢な日本語を操り、以前日本にも来ていた事があると言っていたが。


「何か、リクエストはある?」


鍵盤の前に座る碧。


「そうね…。アルと、夕暮れ時のお客さん達の心が癒されるような曲―――」

「OK!セナは…優しいね―――」


そう言うと、鍵盤の上に両手を滑らせる碧。

優しく奏でられる旋律は、彼のオリジナルだろうか―――美しく、切なく…幻想的でとても愛おしいメロディ。


ビスカムアルバムで夕暮れ時を楽しんでいた客たちも、手を止めピアノに聴き入る。

珈琲を飲みながら、懐かしそうにピアノを見つめる客もいる。


客に珈琲を運ぶアルグレードに、なじみの客が話しかけた。


「日本人かい?とても素敵な音だ……」

「ああ、俺の友人なんだ」

「ビスカムアルバム(白い宿木)に、また”音”が戻ったな―――。優しい音が、チナに似ている―――」


碧の演奏に、懐かしそうに目を細めるアルグレード。


「そうだな…もう、この音は聴けないと思っていた―――」


ミックスジュースを飲みながら、その優しい演奏に聴き入るセナ。


30分程の演奏を終え、碧が両手を膝に降ろすと、店内から拍手が沸き起こり、客たちから声が掛かった。


「すてきな演奏ね!癒されたわ!」「お会いできて光栄よ!また聞きに来たいわ!」

「ありがとう、ございます」


ニコリとほほ笑み挨拶を返すと、セナが座るカウンターに戻る碧。


「素敵だったわ!ありがとう、碧」

「セナが喜んでくれて、嬉しいよ」


カタン…

と、碧の前にミックスジュースが用意された。

「最高の演奏だった。まさか君にこんな特技があるなんてな……」


アルグレードは拍手を送る。


「良いピアノだったよ―――アルに、大事にされているのが分かる」

「……そうか―――」


「ねぇ碧、私…碧のピアノの音好きよ!また聴きたいわ―――」

「セナ?」

「じゃぁ、ここのピアノを使うと良い。誰かが使わなきゃピアノは劣化してしまうし、俺は弾けないしな…」


是非にと提案するアルグレード。


自らは弾く事が出来ないピアノをずっと守っている。誰かを―――待っているのだろうか。

碧は目を細めた。


「それに、客の評判がいい!是非売り上げに貢献してくれ!」


にんまりと笑みを浮かべ、ユーモアを交えた。


「そうだな…セナが喜んでくれるなら、また弾きに来るよ」

「いつでも大歓迎だ」


ミックスジュースを堪能し、席を立つ碧とセナを、アルグレードが引き留めた。


「……碧」

「はい?」

「お前確か、関西の方の大学に通っていたよな―――」

「そうだけど?じいちゃんが居た頃は神戸に住んでいたから、そこから通って……」

「だったらあく――――。ッ」


「?」不思議そうに首をかしげる碧は、セナと顔を見合わせた。

アルグレードは肩をすくめて首を横に振る。


「………いや、やっぱりいい。今日はありがとう、2人とも気を付けて帰れよ?」

「ああ」

「こちらこそ、ありがとう!アル」


(……知っているわけ、ないか―――。仮に知っていたとして、何かが変わるわけじゃない)


2人が店を出た後、誰もいなくなったピアノをただ見つめるアルグレード。

少女が楽しそうに演奏する姿を、思い返しながら。




店を出て、夕暮れ時の住宅街を歩く。


結局一日セナを連れまわしてしまったな―――。

碧は隣を歩くセナに視線を落とす。


「………」

「どうしたの?」


碧の視線に気づいたセナが、顔をあげた。


「いや。今日は結構歩き回ったから、疲れさせてないかなって思って―――」

「ふふっ!大丈夫よ、私そんなに弱い子じゃないわ!碧は、優しいわね」

「好きな子には、優しくも大事にもしたいものだよ―――。一日付き合ってくれてありがとう、とても楽しかったよ」


「ずるい。………そんなふうに言われると、恥ずかしいわ…。私も楽しかったのに、言い難くなる」


視線をそらせ、頬を夕焼け色に染めるセナ。

その横顔を、碧は満足そうに見つめていた。




「ただいま~」


ラボの扉を開くと、研修から戻った識と立夏、大学から戻った白李と、ずっと家に籠っていた秋兎が一斉に玄関ドアを振り向いた。リビングに勢ぞろいしていたようだ。


「こんな時間までどこに行ってたんだよ!昼起きたら二人ともいないから、僕暇してたんだよ!」


頬を膨らませる秋兎。


「デート、だよ。ポラリスには伝えていったぞ?」

「デート?!碧とセナでか?!」

「なんだよ、悪いか?すっごく楽しかったぞ!な、セナ」


ウインクする碧にセナも微笑みを返す。


「ええ、また行こうって約束していたのよね」


言葉足らずなセナの説明に、どういう事だとヤキモキし始める織と立夏。

白李はセナの荷物から珈琲豆を見つけた。


(そう言えば、豆切らしていたな…これを買いに出ていたのか。それにしては、遅くないか?!随分とセナ、楽しそうだし……)


白李の心にも、ヤキモチの靄が掛かる。


「そうだ、ハク!珈琲を淹れてくれない?」

「ああ、良いけど―――コスタリカか?」


セナから渡された豆の香りを確かめる白李。


「アナエロビックファーメンテーションですって!」

「マジ?!希少種じゃん!!どこで手に入れたんだ?」

「ふふっ!秘密よ~」


ガリガリと豆を挽く音と、芳醇な甘い珈琲の香りが、ラボに漂う。

濃厚な珈琲に、舌鼓を打つ6人。


宵の口に飲んだカフェインで眠気がなかなか来ないメンバーは、思い思いに長夜を楽しんだ。




―――冬ルート

Cups 2 海に伸びる木 


麗らかな昼下がり。留学先の大学で講義に耳を傾ける冬城白李は、講義の内容を聴きながら、要点をタブレットに打ち込んでいた。後日、実際に海原に出ての海洋研修が行われる事も手伝い、他の生徒達も熱心に聞き入っている。


授業も終盤に差し掛かったころ、研修の要項が説明され、講堂がざわついた。


「えー。今回の実習では、わが校との交流も深い日本聖倭大学の協力の元、深海潜水にはあの水月=クラーク博士の開発したBMIアプリケーションPolaris2型を、試験運用をかねて使用させてもらう事となった。残念ながら水月博士は日本でのご都合がつかず研修にはご同行頂けないが、変わってわが校が誇る脳科学者のセナ=クラーク博士がBMIの管理指導にご同行される事となった。」


講堂の騒めきが大きくなるのに合わせ、白李のタイピングの手が止まる。


詰め込みで覚えたばかりの英語を聞き間違えたのではないかと、教授に視線を移し、各学生のタブレットに一斉配送された研修要項の資料を見直す。


そこには、確かに『技術提供・管理指導:セナ=クラーク博士』との名前が記載されていた。


(………マジ?)


驚いているのは留学生の白李だけではなかった。現地の大学生たちも、口々に歓喜の声を上げる。


「マジかよ!俺、天才脳科学者セナ=クラークに憧れてこの大学に入ったんだぜ!」

「学部が違うから絶対会えないと思っていたのに、こんなサプライズがあるなんて!!」

「お前知らないのか?!うちの図書館に良く通っているって噂だぜ?!」

「本当?!私今日から図書館通い始めようかしら!!」


流石はセナの母校…。ここでの彼女の人気は日本の比ではない。





その日の講義を終え、星の木ラボに帰ってくる白李は、帰宅するなりキッチンでガリガリと豆を挽くセナの元に駆け寄った。


「お帰り、ハク!!」


待っていたとばかりに駆け寄る秋兎と共に、キッチンのカウンターに腰掛ける。


「お帰りなさい、ハク。今珈琲を淹れようと思っていたところなの…」

「セナ、大学の海洋研修でPolaris2型の試験運用の管理指導官するんだって?」


豆を挽きながら首をかしげるセナ。


「そうよ?父さんが参加できないから、日本から父さんの部下を呼び寄せるって話をしていたけど、聖倭大学の留学生も参加するって聞いたから、指導官を引き受ける事にしたの。学部は違えど元々母校だし、手伝えることはするわ…」


白李はセナの言葉を聞き逃さなかった。


「聖倭大学の留学生(俺)が参加するから?」

「……当然でしょ?人見知りが激しい私が、知らない学生沢山のところで一人指導官なんてできるわけないじゃない?!協力する代わり、…当日は聖倭大学の留学生を私の専属助手としてつけて貰う事にしたから―――よろしくね、ハク?」


ニコリとほほ笑むセナ。

にやけているのを悟られないようにと、心の中で拳を握り締める白李。

InsideTraceユニットの活動事実を隠すための渡米の口実にと用意したアメリカ留学で、連日のレポート作成に嫌気がさしていた白李にとって、願っても見ないサプライスがやって来た。



今回の実践研修は、現在丁度カリフォルニア沖で海洋研究を行っているアメリカの海洋地理調査船に大学所有の船を使って接近乗船し、Polaris2型を使用して深海調査を行って戻ってくるという全工程5泊6日という、学生研修としては比較的大がかりなものだ。乗船できる人数にも限りがある為、大学でも成績上位の一部の学生しか参加できないにもかかわらず、短期留学生である白李が参加できる事にも驚きだが、そこはPolaris2型の試験運用を使用させてもらうという大学側の大人の事情が想像できた。


ともあれ4泊5日、専属助手という形で堂々とセナを独り占めできる!


はずだった……




実習当日。

セナと共に移動させる今回のメイン機器、Polaris2型の運搬は白李にまかされた。Polaris2型の本体を運ぶため、セナの自宅に立ち寄り彼女と共に集合場所である大学に向った白李に、集まっていた他学生の羨望と嫉妬の目が注がれる。人の、好ましくない視線には慣れていた白李にとっては、特に気にもならなかったが。


大学から同行する学生と講師陣の紹介を終え、学校が用意した専用バスに乗り込むと、白李は専属助手の肩書を使って、守備よくセナの隣の席を死守した。

深海調査に使われるバスでの移動中も彼女は膝上にパソコンを広げてPolaris2型の調整を行っているようだ。こんな時、秋兎や碧ならセナの手伝いが出来るのだろうが、専らフォース専門の白李には何もしてやれることはない。


「何か、出来る事あるか?俺に……」


忙しく両手を動かす彼女に、話しかけていいものかと迷ったが、助手として隣に乗り込んだものの何もしないのも気が引けた。


「大丈夫よ。助けて欲しい時は声を掛けるわ…」

「そうか……」


その後も、昼過ぎに配布された軽食をいつでも食べながら作業できるようにと並べてみたり、朝からフレンチプレスで淹れた珈琲を水筒に淹れて持ち込んでいたものを、折を見て差し出してみたりするものの、予想通りセナから声が掛かる事はなく、バスは運搬船が停泊する港に到着する。



Polaris2型とセナの私物(荷物)を船に積み込む白李。



今回の最重要機器であるPolaris2型は大きなトランクケースに厳重に保管されている。


そもそも、宇宙の調査より深海調査の方が難しいとも言われる理由の一つに、水圧がある。

水圧は10m潜る毎に1気圧ずつ上がっていき、深海帯と呼ばれる6000m級に潜ろうとするならば、MPa(メガパスカル)という想像もできない水圧に耐える必要がある。

また、宇宙なら容易な情報伝達も、深海となればそうはいかない。電波は深海では機能したいため、より電波力の高い超音波を使用するのだが、電波と比べて送信できる情報量が少ない。

また、深海では日光が届かず視界が悪い。そんな場所での調査を行う為の光源や、深海を縦横無尽に動き戻ってこられるだけの操作性、調査に必要な機能が詰め込まれた探査艇を、BMIで動かすというのだ。

この研究が軌道に乗れば、人類が命を危険にさらして有人探査を行うメリットはない。(一部の人間が支持する己の身体の限界への挑戦は、この際置いておく)



そんな人類の技術の限りが詰め込まれた機械だけあり、その運搬への責任は重いが、それ以上にかなりの重量もある。

当然台車を使用して運搬するのだが、両足義足の脚力と、万が一の奇襲があったとしても対応できるだろう戦闘能力をセナに買われての事だ。

大学中は義足にコスメチックカバーを使用し、ヒール音を消して歩行している為、周囲の人間は白李の両側義足の事実を知らない。技術提供を行った聖倭大学からの留学生という肩書を含めても、なぜあの男が重要機器の運搬を…と思われて当然である。



そこからは、運搬船で沖合のランデブーポイントで合流した海洋地理調査船に乗り込み、実習は開始される。船は大陸に沿って下り、東太平洋にある海溝の長さ2750㎞、最深部の深さは6669mの世界18番目の深さを誇る中央アメリカ海溝へ向かった。


今回参加した学生にとっては、海洋地理調査船そのものが憧れである。


一日目の残りは乗船しているプロの研究員達に同行し、船についての説明を受けた。その間セナは、与えられた自室で一人Polaris2型の最終調整を行った。


夜―――。


学生たちの歓迎会も含め、夕飯には海洋地理調査船のコックが腕を振るった小さなパーティが開かれた。船長主催と言う事もあり、指導官のセナも嫌々ながら参加する。

学生達に囲まれて、社交辞令の挨拶を聴くセナだが、その表情は固まったままニコリとも愛想を見せない。あれでよく社会人をやっていると、心配にすらなる。そんな彼女を常に視界に入れながら、研究員達と挨拶を交わす白李。


「お疲れさん、冬城君。君は確か…まだジュース(21歳以下)だね」


そう言って、今回の実習責任者でもある教授がノンアルコールビールを差し出した。


「あ、有難うございます。俺から挨拶に行くべきなのに」


驚いて声を上擦らせる白李。セナと違い、一般常識や社交性を持ち合わせた白李は、決して挨拶を忘れていたわけではない。我先にと教授に群がる学生達の輪に入れず、タイミングを伺っていただけなのだが、船員から声を掛けられたことでそのチャンスを逃していた。


「今回の実習、教授に同行出来て光栄です。」


丁寧に挨拶を始める白李に、フランクに話しかける教授。


「社交辞令はよしてくれ。実のところ、クラーク博士の都合が合わなくなった時点で、一度はこの話が流れる事になっていたんだ。博士の部下が訪米する話も出たが、そうなるとこの海洋調査船との日程調整に間に合わなくてね。そんな時、君を同行させる条件でセナ君が指導官を名乗り出てくれたから、実現できたんだよ」

「そうだったんですか…」


教授と話を交わしていると、社交辞令の挨拶に飽きたセナが声を掛けてきた。


「お疲れ様です、教授。私の友人を参加させて頂いて感謝しています」


珍しく、自ら挨拶するセナ。そんな彼女に、心中で苦笑いを浮かべる白李。


(なんだ、きちんと“社会人”できるんじゃないか……目上の人には。)


「こちらこそ、感謝するよ。セナ=クラーク博士。」

「いえ、お世話になった母校と可愛い後輩の為ですから」


(いや、さっきまでその可愛い後輩の挨拶を、無表情で受け流した挙句、ここに逃げてきたくせに)


白李の心の声はおさまらない。


「Polaris2型の調子はどうかな?」

「先月の深海探索では十分な働きを見せています。メンテナンスも良好、今のところ明日の実習には問題なく稼働できるでしょう。」

「それを聞いて安心したよ」


自信気にさらりと言ってのけるセナに、教授は笑顔で返した。


「そう言えば、私も気になっていたの…ハクはどうして、海洋学部を選んだのかなって」

「え?俺?!」


好奇心に満ちた目で、尋ねてくるセナ。


「……セナには、面白くない話かもしれないけど―――。

日本は小さな島国でありながら、日本海溝、伊豆・小笠原海溝、琉球海溝など、西太平洋の代表的な海溝にまたがっているんだ。

各国のEEZ(排他的経済水域)を、面積ではなく体積(つまり海水の量)で比べた海洋政策研究所の概算によると、日本の保有するEEZの体積は、世界の4番目、6000メートル以深の“超深海”に話を限れば、世界第1位になるんだ!つまり、世界で最も超深海の研究・開発をいちばん行いやすい国なんだよ。」

「・・・・・・・・・はい」

「深海には生命…いや、地球の起源が詰まっている。日本に生まれたからには、深海を目指さない理由がない!!って思ってさ」


目を輝かせ、饒舌に話しだす白李に、驚きを見せるセナ。


「ハク……バイクに乗っている時と、同じ顔をしているわね」

「あはは…どっちも好きな事だからね」

「私は今のハクの表情、とっても好きよ!」


「えっ…と―――」


ニコリとほほ笑むセナに、照れくささで言葉を失う白李。

そんな二人の会話を、グラスを傾けながら聞いていた教授はくすくすと笑う。


「海に魅了された男の相手は大変だよ、セナ君?飽くなき探求心に底が見えないからね。私も妻には色々迷惑をかけた―――。さて、年寄りはワインの味でも見に行くかな…」


そう言ってウインクを残し、船員達の輪の中に吸い込まれていった。


「―――俺も、迷惑かけるならセナが良いな……」

「え?」

「なんでもない!それよりセナ、ご飯あまり食べてないだろ?一緒に見にいこっか?」


セナの手を引いて、料理の並べられた机に向かう白李。


「長期航海で出される料理は基本冷凍されたものが多いんだけどさ、こういう運搬船と合流した後は冷凍以外の食材が豊富になるから今食べとかなきゃ損だぞ?」

「はぁい!」


2人は、珍しい料理に存分に舌鼓をうった。



翌日、Polaris2型を使った米国初の深海探索が行われた。

実習に参加した学生に、ゴーグル型のデバイスを装着し、両手にアーム操作用にデバイスを握らせ、セナの持つメインタブレットでPolarisアプリケーションを起動、BMI機能を接続させる。


重々しいトランクから出てきたPolaris2型機には、玉子のようなのっぺりとしたボディに、推進力を生むためのスクリューが魚の尾のように取り付けられている。光の乏しい深海にすむ魚に特徴的な大きな目の如く、前方180度に大きく引き伸ばされたフレームの奥には大きなレンズが設置されていた。腹びれの位置にはアームと収納スペースが設けられており、アームを使って海底をに足歩行する事が可能であり、その収納スペースには小型で軽量のモノであれば回収して持ち帰ることも可能だという。

様々な機能を兼ね備えながらも、超深海の水圧に耐えられるボディを持つPolaris2型は、確かに夢の機械だろう。


だが…船上でカタカタと動くその姿は、卵型のまあるい魚に二本の足が生えた、半魚人…かなり、奇怪な姿である。

Polaris2型の基本操作と機能についてオリエンテーションを行うセナに、「おぉぉ!!」と、感激の声を上げる学生はいても、その姿かたちに対してコメントする者は居なかった。


「………見た目に対してのコメントは無いわね。学生からは不評だったと伝えておくわ…」


タブレットとケーブルで接続されたノートパソコンに、カタカタと打ち込むセナ。


「あああ!!いえ、違うんですセナ博士!!とても―――ユニークだと感激していたのです!超深海の水圧に耐えながらも、BMIを行うだけの超音波通信精度を最大限に上げるために計算つくされた、未来型フォルムですよね!」


慌ててお世辞を並べる学生達の言葉に、後ろを向き、白李は必死で笑いを堪えた。


「じゃぁ、深海探索を始めるわよ?それぞれ持ち場の準備は良い?」


「深度モニタ、了解です」

「超音波の送受信感度、良好です」

「レーダー探索斑、現在周辺の異常はありません」

「モニター映像、問題ありません」

「記録係、始めています」

「BMIシステム、オールグリーン。いつでも行けます!」


学生達から声が上がる。


「調査開始!」


セナの号令に合わせ、Polaris2型が乗せられたゴンドラが海面に降ろされる。調査船の備品から拝借した重りに引っ張られるように、ゆっくりと沈んでいくPolaris2型。


BMIデバイスを操作している学生の視界は、モニターに映し出されて他学生にも共有された。一同の視界が、モニターに注目される。


「BMIでの海中探索は、どう?」


BMI捜査を行う学生に、セナが話しかける。

『視界がクリアでリアリティがあり、シュノーケリングをしている気分です!』

「旨く操作しないと、深海探索が大型魚の腹腔内探索になるわよ?」

『え?………』


周囲に、魚影が集まる。


「光を反射する金属の魚型ボディを持つPolaris2型…船上では確かに奇怪な形で寄り付かないだろうけれど、好奇心旺盛な魚達に突かれたり、大型魚に小魚同様丸呑みされたりして―――そのリアリティで、かの有名なサメ映画を体験する前に、BMI接続は切断してもらっていいわ。可愛い後輩が、二度と海に出られなくなったら、困るもの」


頬杖を突き、意地悪く微笑むセナに、デバイスを装着した学生が青ざめる。


『・・・・・・』

「れ…レーダー探索斑、索敵に気合入れ直します―――」

「モニター映像斑、Polarisの視界を全力でフォローします」

「お願いね?」


浮かれ気分だった学生達に、緊張感が走った。こっそりと、セナの耳元に近寄る白李。


「もし、本当にBMI接続を切断しなければいけない状況に陥ったら、Polaris2型はどうなるんだ?」

「勿論、即座に切断させるわよ。低侵襲・非侵襲のBMI技術とはいえ、恐怖体験が精神に及ぼす影響は通常のモニター探索と比べて大きいわ。心配しなくても、Polaris2型には一定時間こちらからの操作信号が送られなかった場合は自動的に浮上・帰還するようプログラミングして、海洋汚染にならないようには設計されているの。お腹の中や、スクリューの破損等がなく自動が可能な状態なら、だけどね」

「へぇ……」

「何?卒業研究でPolaris2型を使いたくなった?それとも……」


セナの瞳が、意味深に白李を見つめる。


「……バームって、防水仕様だっけ?」

「言われると思って、防水仕様で作ってみました!流石に深海までは想定していないけどね!」

「フリーダイビング”アブソリュート形式“の世界記録でも214mだぜ?俺の身体も深海は想定していません!」

「ふふふ!私もよ」


セナと白李が雑談を交わしていると、水深を記録していた学生から、200mを超えた(深海域に突入した)と声が上がった。ここから先は太陽光による光合成が困難となり、表層とは生態系や環境が大きく異なる領域となる。


「この辺りが中深層(200~1000m)域か……」

『Polaris2型、補助ライトを点灯します』


BMI操作を行う学生が声を上げた。皆がモニターに注目する。摩訶不思議で幻想的な世界が、そこに広がっていた。


「400m超えました。」『…こうなると、色のない世界ですね―――』

「この後、酸素極小層に入る……、暫く生物との遭遇が少ないな…」


モニターを覗き込みながら、学生達が話す内容に、ただ一人、ついて行けないセナ。

BMIについては管理できても、深海探索については素人同然。

彼らの興奮の理由を理解できなかった。

モニターを魅入っていた白李が、そんな彼女に気付いて隣に座る。


「大丈夫?疲れた?」

「いえ、皆さんのお話について行けていないだけよ…こんな事なら、もう少し勉強しとくべきだったわ」


苦笑いを見せるセナ。


「酸素極小層は水深600~1000メートル付近の溶存酸素量が極端に少ない場所の事だよ!」

「楽しそうね、ハク」「そりゃ…」

「見ろ!マリンスノーだ!」


学生達のテンションが上がる。ちらりと視線を向ける白李の背中を押すセナ。


「行ってきて?ハク。マリンスノーは確か炭素循環に関わっているのよね?また後で学生達の考察のまとめを聴かせてね」

「……ありがとう!行ってくるよ」


そう言うと、マリンスノーについての考察を交わす学生達に加わった。

その楽しそうな横顔を見守るセナ。


「アビサルゾーン、入りました!」

『周囲を、游泳します―――』


暫くし、Polaris2型は深海層最下部の6000m付近に到達する。ここから先は、超深海層と呼ばれる海域だ。砂のような海底がモニターに映し出された。


海底にぶつからぬようにと周囲に気を配りながら、両手に握ったデバイスでPolaris2型のアームを動かしていく学生。初めての操作にしてはかなり筋がいい。

彼らの調査の様子を伺いながら、同時にBMI操作者のバイタル測定と脳派測定を行い、異常があれば安全を考慮して直ぐに調査を中止させる体制を整えた。


『この辺は、わずかに深層流がありますね…Polaris2型の操作には、全く影響がない範囲ですが……』

「生物らしきモノは見当たらないな」

「ヘイダルゾーン(超深海層)との境界だからね…」


Polaris2型の光源を頼りに、周囲を見渡す。光源を警戒しているのか、生き物は姿を現さない。


「今日はマリンスノーの回収を行おう。マリンスノーだけでは海底生物の栄養を十分に補給できない事が明らかと言われている。実際にこの周辺のマリンスノーの成分分析を行ってみたい。」

「そうだな、生き物らしき影も見られないし、このまま上がるのも勿体ない…」

『了解。では、現地点の海中懸濁物…マリンスノーの回収を行う。』

「現地点の座標を記録します」


両腕のアームを器用に動かし、カプセルの開閉を行うと、海中に漂うマリンスノーを回収する学生。それを、Polaris2型の本体に収納し、その日の海底散策を終了した。

周囲に注意しながら、浮上を始めるPolaris2型。心配されたトラブルに巻き込まれる事なく、無事海面まで浮上させる事が出来たのだ。


セナは彼等の素晴らしいチームワークを称賛した。


「初めての操作とは思えない、素晴らしい成果ね!お見事です」


作業を見守っていた教授からは、翌日に向けた指示が飛ぶ。


「明日は予定通り役割分担をローテーションさせ、次のポイントでの探索を行う。各自今日の内容をまとめ、次に引き継ぐように」


「「「「「「「はい!」」」」」」」



Polaris2型を使った調査は、3日間に渡って行われる。

翌日二回目の調査では深海魚をの姿をモニターに捉える事に成功した。

地を這うように遊泳する深海魚を、スクリューと2本のアームを巧みに動かしながらゆっくりと追いかけ、暫しその動きを探る事が出来た。



実習4日目の、調査最終日は白李がBMI操作を行い、映し出された映像は学生達に衝撃を与えた。海底に沈んだ幾つものプラスチックごみを発見したのだ。これは何も不思議な事ではなく、世界各国の大深度調査で発見されており、それらを専門とした海洋プラスチック汚染調査も行われている。アームを使い、プラスチックごみを持ち上げる白李。なじみのペットボトルラベルが文字まで確認できた事に、学生達は息を呑み、心を痛めた。


「このマリンスノーが粒子状の有機物じゃなく、マイクロプラスチックでの沈降ってこと―――?」

「深海魚を見つけた数より、プラスチックごみを見つけた数の方が多いなんて……」

「確か、一人当たりの使い捨てプラスチックの排出量の1位が米国、次いで2位は日本だったな」

「これが、私達が目を背けてはいけない世界の現状ね」


Polaris2型を動かせば動かすほど、見つかるのは砂地に沈んだごみだった。



「ベータ波が増えてきたわね………呼吸数と脈拍も上がっている。一度その場を離脱しましょう」


モニターと彼らの様子を眺めていたセナが、教授に視線を送る。彼は小さく頷き、学生に調査の終了を命じた。


合図を受け、白李はPolaris2型を浮上させていく。Polaris2型の自動帰還機能については開始前に伝えていたが、彼は自ら呼吸を整え、上擦った気持ちを落ち着かせ、最後まで自分の意思でPolarisを海面まで浮上させたのだ。




BMIデバイスを外す白李に、セナが声を掛ける。


「大丈夫?ハク」

「ごめん、俺が上手く操作できなかったせいで―――途中で中断させてしまった……」

「………ハクのBMIの操作には問題なかったわ。そんな事じゃない―――脳派では私に、嘘はつけないわよ?」

「そうだったな…」


と、頬を掻きながら苦笑いを見える白李。セナには、全部診られていたんだ。


「知っていた事だし、あんな映像は講義で何度も見た。だけどあのリアリティの中で見ると、なんだかなぁ……」


怒りや悲しみが、一気に押し寄せる。平常心では、居られなかった。


「BMIは良い面も悪い面もダイレクトに脳に伝えてしまう。繊細な操作が必要な一部を除いて、客観的視点が必要な調査に使う”道具”としては、不向きかもしれないわね。私の管理が甘かったわ…ごめんなさい」

「セナのせいじゃない、俺は今回この目で深海の現状を見られたからこそ、海洋研究で自分がしたい事が鮮明化された。この気持ちは、きっと俺だけじゃない―――」

「クラーク博士!」


物品の片づけを終えた学生達が、セナの周囲に集まってきた。


「……皆に、辛い思いをさせてしまったわね」


肩を落とすセナに、学生達が首を振る。


「いえ、貴重な体験が出来て本当に有難かったです」

「講義の中で動画を見るよりずっと、世界の現状に危機感を持つ事が出来ました」

「今日の経験はきちんと報告書にまとめ、参加できなかった仲間達と共有したいと思っています」

「そして、海洋研究の未来に国境がない事も!」


そう言うと、学生の一人が白李に手を差し出した。


「………!!」

「聖倭大学ってだけで特別扱いだって、正直お前の事ナメてたよ。

でも、あんな現実見た後で、最後までPolaris2型を無事帰還できたのは、お前のおかげだ」


差し出された手を見つめ、そして、握り返す白李。


「ありがとう。君らのフォローのおかげだ」


立ち上がった白李は学生達と肩をたたき合う。志を同じくする仲間に、国境はないのだと。





その様子を見守っていたセナに、教授が背後から声をかけた。


「セナ君に指導官を依頼する前、君を在学時代に指導していた教授に君の事を聞いたんだ。『彼女はSternBaum…星の木を目指している』と聞いた時、子供にありがちな、夢物語だと思っていた。だが、奴は笑ってこう言ったんだ……『彼女を甘く見ないように。”SternBaumは、空にも海にも伸びるのだ』とね」

「海に、伸びる木……ですか?」


セナが訊ねる。


「マングローブと言ってね…潮間帯に生育し水面下に根を張る木で、日本では“紅樹林”や“海漂林”と呼ばれている木がある。生き物の住処や防波堤となり人々の暮らしを支え、地球温暖化対策や水質浄化にも関わっているんだ。私には確かに、君のSternBaumが水面下に根を広げる紅樹林に見えたよ―――」


目を細め、セナと、その後ろで志を交わし合う学生達に、海に広がる木を重ねた教授。人々の暮らしや地球規模の話に、戸惑うセナ。


「……それは、過分な評価で―――」

「これからの“世界”を担う若者たちも、捨てたモンじゃないと言う事だ…。我々は君達に持てる限りの技術や知識を伝えていくとしよう」

「あ…有難うございます。謹んで学ばせて頂きます―――」


いまいち教授の話の意図がつかめず反応の薄いセナを他所に、教授は一人満足げに頷いきながら船内に戻っていった。


学生達と一通り話を終えた白李が、セナの横顔を覗き込む。


「教授と、何か話していたのか?」

「……ええ、マングローブだと言われたわ」

「――――マングローブ???」


顔をしかめる白李と共に、荷物を台車で運ぶセナは話題を変えた。


「明日はハク達、ストリーマーケーブルを用いた反射法地震探査に立ち会うのよね?」

「ああ、この調査船はマルチチャンネル反射法探査システム(MCS)やマルチビーム音響測深機などを備えた深海調査研究船でもあるからな!地殻構造探査の実際が見られるんだ!」



反射法地震探査とは、エアガンで海底面に向って高圧空気を放出して周波数の異なる音源を作り出し、ストリーマ―ケーブルという受信機を使ってその反射波を拾い、その信号データを解析し、地層の密度の違いを探るものだ。比較的簡便な装置で、かつては石油資源探査の分野で発達してきたが、現在は発信機・受信機共に改善され、その精度はかなり向上しているのだとか。地殻はプレートの変動などで刻々と変化しており、定期的な調査が必要となる。


「私はブリッジでのんびりハク達の見学をさせてもらうとするわ」

「俺達の見学?反射法地震探査の、ではなくて?」

「ええ。正直海洋調査の事は専門外でよく分からないけど、ハク達の仲間と共に学ぶ姿を見るのはとても楽しいわ……青春って、言うのかしらね!」

「せ……青春ですか―――もっといい和訳がありそうだけど」

「私は大学講義の殆どをオンラインで受けていたから…そう言う経験がなくて。羨ましい」

「………そうなのか」


荷物を、セナの個室に運ぶと、夕飯時にまた迎えに来ると言い残し、白李は自室に戻っていった。

夕飯までの間、今日得られたBMIデータの解析を行うセナ。


窓の外の景色が、すっかり暗くなったころ、部屋のドアがノックされる。


コンコンコン…


「はい」


部屋のドアを開けるセナ。


「セナ、飯食いに行こう」


迎えに来た白李と共に、食堂に向うセナ。食堂に着くと、先に席に座っていた学生達が、待っていたと立ち上がった。

どうしてと、白李の顔を見上げる。


「脳科学界のダークホースと呼ばれるセナ博士と食事が出来る機会なんて滅多とないからな!是非話しが聞きたいと言われたんだ。可愛い後輩たちに、付き合ってくれないか?」

「………私が、人見知り強い事、知っているでしょ?」


セナは顔をしかめる。


「じゃぁ、友人でどうだ?会話は俺がフォローする。」

「…………」


白李に連れられ、席に座るセナに、羨望の眼差しが向けられる。


「光栄です、クラーク博士!」「ご指導いただき有難うございました!」


次々と話しかける学生に、セナは白李に視線を送る。


(早速ですか……。まだ一言も話してないじゃないか)


苦笑いを浮かべ、白李が応える。


「”指導官”は勤務時間外らしい、彼女は俺達の友人だ」


顔を見合わせる学生達。そして、


「ああ、なるほど」「そうですよね、失礼しました!」

「ようこそ、俺達のチームへ!セナさん」


「あっ………」


顔を、上げるセナは、照れ笑いを浮かべる。


「よろしく、お願いします…お兄さん、お姉さん」

「ふふっ!よろしくね、セナちゃん!」


学生達は、笑顔で答えた。


白李のフォローもあり、学生達の輪の中で食事を行うセナ。実習モードがOFFされた学生達の話題は、小難しい海洋研究ではなく、若い学生によくある友人の悩み事や恋の話……。

彼女との話題が合わなくて困るとか、この前は水族館にデートに行って引かれてしまっただとか、彼女に好きな人が出来て振られてしまっただとか。


「セナちゃんは、どんな人がタイプなの?」


女学生の一人が、セナに話を振る。


「私ですか?!」


聴き専門で通すはずだったのに、急に話を振られて慌てるセナ。


「そう!セナちゃんお人形みたいに可愛いから、パートナーになる人はきっとやきもきして大変でしょうね!」

「セナさんのパートナーになれるなら、俺ならそのくらいの試練甘んじて受けますよ!」


身を乗り出す男子学生。


「私は……」


困った顔で白李に視線を送るが、彼はにこにこするばかり。


「フォローするって言ったじゃない!」

「いや、だって俺もセナの好きなタイプ知りたいし!」


助ける気の無い白李に、諦めたセナは小さくため息をつく。


「……私は―――。夢を持って頑張っている人が好き。その人を見て、私も頑張らなきゃって思えるから。私は、コミュニケーションが苦手で…直ぐ弱音をはいちゃうから、一緒に頑張ろうって言って、ちょっと強引に前を向かせてくれるような人がいい。その人が、大変なときは、背中を押して応援できるような、そんなパートナーが素敵だと思う」


「あらあら―――」「へぇ………」


少し、驚いたような表情を見せる学生達に、耳を赤く染めるセナ。


「お…おかしなこと、言いましたよね―――」

「ううん、素敵!なんか私達よりずっと大人な回答で驚いただけ!」

「俺なんて、美人でスタイルいい子とか言っちまったし、恥ずかしいぜ!」


肩を落とす男子学生に、笑いが沸き起こる。


「ちなみに、ハクはパートナーがいるの?」「日本に残してきたとか!」


興味津々の学生達。


「残念ながらパートナーではないけど、好きな人ならいるかな」

「へぇ!どんな人?年上?年下?!」

「そうだなぁ…頑張り屋で一生懸命で優しい子。真っすぐ過ぎて危なっかしいから守ってやりたいんだけど、自由過ぎてなかなか届かないんだ。俺は、そんな自由な彼女が好きで、彼女の見ている世界を一緒に見たいと思ってる」


「あら残念、私、ハクの事ちょっといいなって思ってたのに…割り込む隙もなさそうね?」


白李に彼女の有無を聞いた訊ねた女学生は、残念そうに肩をすくめた。


「そりゃもう、彼女にぞっこんですから!」

「へぇ!ハクの想い人……そんなに大切に思われるなんて素敵ね!」


知り合いの赤裸々な告白ってなんか照れちゃうねと、隣でセナも、興奮気味に両足を揺らす。

そんな無邪気な彼女を見て、苦笑いする白李。


「・・・・・・・・・。悲しい事に、2~3回彼女の目の前で告白らしきことを言ってるんだけど、全く気付いてくれてなくってさぁ」


ため息をつく白李の肩を、男子学生はにやにやと笑みを浮かべながらアドバイスする。


「日本人は表現が回りくどいんだよ!男なら無理矢理でもキスしながら『お前を愛してる』くらい言わないとな!」

「それ、成功率どのくらい?」

「・・・まぁ、今のところ0%だな」

「じゃぁ却下だな」「あはは!」


「でも、ちょっと強引な告白って、女としては憧れるわよね!」

「そうそう!ただし、”好きな人からに限る”だけどね~!」


女性陣の追い打ちを聴き、「絶対にするものか」と心に誓った。




雑談を終えた学生達は、自室に戻る。セナを部屋まで送った白李は、彼女の部屋のドアを閉める前に提案した。


「明日、ブリッジじゃなくみんなと一緒に海洋調査の見学をしないか?」

「えっ……?」

「Polaris2型の”指導官”はもう終わったんだろ?だったらもう、セナはあいつ等の友人だ。小難しい話は俺が隣で説明してやる。……傍に、いてくれないか?」

「ハク―――」

「明日、朝食前にまた迎えに来るよ。そのまま強引にデッキに連れて行くから!覚悟して」


白李はウインクを見せると、セナの返事を聴かないまま、「おやすみ」と扉を閉めた。


「………」





翌日の実習5日目。船の研究員が、海洋調査に関わる様々な技術員を紹介して回った。

結局、白李に手を引かれ、セナも学生達について一緒に回る事となった。機械の構造、ケーブルの準備…研究員から専門用語で説明される内容を、白李がかみ砕いてセナに伝える。

元々、好奇心旺盛なセナにとって、知らない事を知る見学や白李の説明はとても興味深く、気付けは自ら質問を行うほどに聴き入っていた。


そしていよいよ、船尾に放たれたエアガンから、圧縮空気が一定間隔で海中に放出される。それは巨大な音波となり、海底面と馳走境界面で反射し、パルス(信号データ)としてストリーマーケーブル(受信機)で収集され、観測されたデータは船内のラボで解析される。


「イルカなんかが使うパルス信号システムと、基本は同じだ。使う装置が大がかりだから、結構大変な作業だけどね」

「へぇ!」


大きな機械を大勢のチームで動かしていく様子を、楽しそうに見つめるセナ。だが、急に研究員達の動きがあわただしく変化した。船内で観測データを待っていた研究員が、デッキに走ってくる。


「ハイドロフォン(受信機)のチャンネルが合わない!」

「どういう事だ」

「反射波は届いているはずなのに、信号データが収集できないぞ!」



「何か、あったのかしら……」


白李の顔を見上げるセナ。白李もまた、共に見学していた学生と顔を見合わせた。

非常事態が起きている事は明白だった。


「チャンバーの出力プログラムがイカレてる!離れろ!」


今度は突然、コントロールを失ったエアガンが連続放出される。

大きな(パルス)が、海面を揺らす。また、ストリーマーケーブルを巻き上げ支えていた機械が誤作動を起こし、ケーブルが続々と海に放出された。


「どうなってるんだ?」「プログラムが誤作動を起こしているらしい…」


研究員の誘導で、一時船内に避難する学生とセナ達。


「プログラムの誤作動…これってまさか」

「セナ、耐水性バームは持ってきているな?」

「ええ……」


もしものためにと忍ばせていたバームを取り出すセナ。彼女からバームを受け取ると、頭部と両手に装着し、ポインター型デバイスを右手に握る。


「待ってハク!」

「Force Program、link on!」(フォース始動)

「無理よハク!アシストが居ないわ!」

「セナはカリフォルニアの秋兎に連絡を取ってくれ!」

「……秋兎?碧じゃなくて?」


秋兎は記憶がすべて戻っていない。

InsideTrace戦闘を行う事で、意図せぬ記憶を呼び起こしてしまうかもしれない。


「―――あいつは、大丈夫だ。頼んだ!」


そう言うと、白李は船外に飛び出した。


「……もう!BARMI Program Link on!」


セナもまたバームを接続し、カリフォルニアにあるラボへコールを行う。

何十回ものコールの後、不機嫌な声が返答をよこした。


『はい、セナ?』

「秋兎、”お願い”助けて!」

『……ヤダよ、僕寝てたのに~』

「(寝ていたって…もう昼過ぎよ?!)お願いッ――」


祈るように、目をぎゅっと瞑るセナ。


『“俺”が、変わる』


電話越しの声のトーンが、低くなる。この声は…裏アキト―――?


『Assist Program ―――link on』

「裏アキト、今回相手にするのは、Augmented Reality Enemy Data(拡張現実敵情報)……“アライド”の可能性が高いわ―――」

『了解。セナは、安全なところから、絶対出ないで』

「でも…ここは海の上、バームは耐水仕様だけど、ハクの義足はそうじゃない!私をフォースにして欲しいの」


コスメチックカバーを装着しているとはいえ、彼の足は金属でできた筋電義肢。戦闘で海水を被るような事があれば、たちまち動けなくなってしまう。

そんなセナの心配を、秋兎の一言が制した。


『無理。セナを守りたいから、ハクは戦うんだ。だから俺は、君をフォースにしない』


「私だって、ハクを守りたいのよ?!」


セナの声が、震える。こうしている間にも、ソースコードの固まりが、白李に襲い掛かっていた。


『じゃぁ、頑張ってって、応援して?ハクがアライド倒して、戻ってきたら、ありがとうって、ハグしてあげて』

「………」


秋兎の声が、途切れる。おそらくフォースの白李との通信を行っているのだろう。外界の音を遮るように、白李がバームのマイクを手でふさぎながら話をする。

船が、大きく揺れる。倒れたバケツや制御を失ったケーブルから、海水がしたたり落ちてデッキが濡れる。研究員達は、必死で機械を抑えようと、それぞれの持ち場で動く。


起動させたバームが映し出すARグラフィックが、電子制御された海洋調査機器に黒い靄が蠢く姿を見せた。


(やはり、ウイルスに乗っ取られていたのね……)


足場の悪いデッキを走り抜け、ソースコードの固まり…アライドに斬りかかる白李。

アライドもまた、凧の足のように延ばされた幾本もの黒いロープを、白李に向って伸ばし襲いかかる。


ソースコードのラインが見えていない学生や研究員達は、目の前で起きている不可識な現象と、デッキを走り抜ける白李の動きに目を見張った。


「もしかして彼が、本物のInsideTraceUnit?!」

「本物のInsideTrace戦闘を見るのは初めてだぜ……」


アライドの鞭のような攻撃を、人ならぬ動きで避けていく白李。コスメチックカバーが、幾分かの防水機能となっているが、そう長くは持たない。


「何だよ―――、ハクのあの動き…」「人間じゃ、ないみたいだ―――」


口々に、学生達が声にする。

彼等の横で、両手を握り締めるセナ。


「ハクは…彼は、両大腿義足よ。コンピューター制御で動く彼の足は、本当は海水に晒されるわけにはいかないのに、私達を守るために、戦ってくれているのよ。」

「クラーク博士―――?」


セナの言葉に、振り向く学生達。そんな彼らを、哀しい目で睨むセナ。


「人間じゃないみたいだなんて、言わないで!」


学生達は、はっと口を抑える。そして、顔を見合わせてて声を上げた。


「ハクだけに任せるなんてできないわ!……私達にも、何か出来る事はないかしら?」

「そうだ、俺達も―――一緒に戦うべきだ!」

「暴走している機械を、手動運転に切り替えて押さえる事は出来ないだろうか?」

「デッキに流れる海水をふき取る事ならできるはずだ!」

「よし、行くぞ皆!」


「―――皆……」


何かできる事を…と、船内を飛び出す学生達。

彼らの後を追って船外に出ようとするセナの手を、大学教授が止めた。


「教授?!」

「彼らに、任せよう。学生とはいえ彼らは、海の上での作業も、海洋調査機器の構造の把握とトラブルシューティングについても学んでいる。万が一の有事に対する対処を行う力もある。」

「しかし…」

「君が繋いだ星の木の枝が、彼らにチームとしての動きをさせているんだ。我々は、信じて見守るのが仕事だよ」


あわただしく動く船外を、セナは教授と共に見守った。



「足元が悪いな!あのアライドの動きは止められないのか?!」

『動きを、遅らせる。Pass code、resist time Program(転送、時間抵抗プログラム)』


白李の呼びかけに、即座に反応する秋兎。元バディの呼吸が、蘇る。

蒼色の光を放つポインター型デバイスで、襲い掛かるアライドの腕を切り刻んだ。

途端、先程まで1本1本が意志を持った腕のように伸び襲い掛かってきたアライドがその動きを急激に遅くする。


「なんだ?」

『処理速度、急激に遅くする、プログラムを、入れた。』


成る程、これだけ遅いと時間が止まっているのも同然だ。一気にアライドの本体まで走り込む白李。途中、動きの遅いアライドの腕を切り刻み、デバイスにプログラムを吸収させていく。


『十分。Pass code、Virus destruction Program(ウイルス破壊プログラム)』

「よし!タイミングばっちりだ、流石秋兎!やっぱり、俺のアシストはお前じゃないとな!」

『…………ハク』


二重螺旋を描く右手の蒼い光を、黒い靄の固まりに突き刺した。

黒い霧から伸ばされたソースコードのラインは、瞬く間に蒼色に塗り替えられていく。それぞれの機械に伸ばされたソースコードを遡りウイルスプログラムを破壊していくと、制御不能となっていた機械達がぴたりと動きを止め、正常動作に戻っていった。


「チェックメイトだ!」



ふと、白李が足元を見ると、次々に流れ込んでいた海水が拭われていた。


「?」


視線の先には、仲間の学生達や研究員達が、海水を外へかき出し、機械を手動で押さえている。


「………あいつら―――!」

『Assist Program ―――link out(アシスト終了)。お疲れハク、セナが、心配していた』


一言を告げると、通信を切る秋兎。白李は微笑を浮かべながら、船内に戻る。


「ただいま、セナ」


笑顔を向ける白李に、セナは両手を彼に伸ばした。


「ん?」


その両手を、両手でつかみ返す白李。


「……違うわよ!」


少し、口元を尖らせると、掴み返した白李の腕を引っ張った。


「え?」


バランスを崩して前方に倒れる白李の首に、両腕を回すセナ。


「お帰りなさい、”ありがとう”ハク」


前傾した姿勢で、セナにハグされる白李は、彼女の行動に驚き目を見開いた。


(あの両手は、ハグを求める手だったのか……)


「これは、最高のご褒美だな!」


口元をにやつかせた白李は、空いた両腕でセナの腰を掴み、照れ笑いを隠す様に抱き上げた。


誤作動を起こしていた諸機械は研究員達の手によってメンテナンスが行われ、その日の海洋研究は中止となった。貴重な機会を失った学生達だが、それ以上の貴重な経験を得ることができたのだ。


5泊6日の研修期間を終え、無事に大学…そして、ラボに戻ってきた白李とセナ。

戻るや否や、秋兎から事情を聴いていた識に連れられ、二人は識の勤める病院に連行された。

義肢装具士から、両大腿義足の調整を受ける白李と、心臓検査を受けるセナ。

「私は大丈夫なのに」と拒否したセナだが、念のためだと採血とエコーを強引に進められた。


セナには問題がなく、白李の義足はしばらく塩水に晒されていた影響を考え、プログラムと関節継手の微調整が行われた。



白李が想像していたような甘い専属助手は送れなかったが、留学生活におけるかけがえのない”仲間”を手に入れる事が出来たのは、彼女のおかげかもしれない。


「ありがとうな、セナ」


リビングのソファーで寛ぐセナの横に腰を落とす白李。


「え?何が?」

「今回の実習さ!」


セナの両手を握り、少し高い位置に伸ばすよう誘導する白李。そして、その脇腹から両手を回し、彼女を抱き寄せ、膝の上に座らせた。


「あの時、セナからハグを求めてられた時が一番嬉しかったよ!」

「あっ………」


『ハクがアライド倒して、戻ってきたら、ありがとうって、ハグしてあげて』


嬉しそうな白李を見て、あれは、裏アキトに言われていたから…だというのは、秘密にしておこうと心に決めたセナだった。


おわり?



―――夏ルート

Cups 3 二人ぼっち 


2025年 12月某日。

日本 聖倭大学附属病院 屋上庭園


「気持ちいい―――」


初夏と間違えてしまうほどの朗らかな日差しが降り注ぐ午前、近くにある大学図書館で本を借りてきたセナは長椅子の隅に本を積み、読書を楽しんでいた。


この日は立夏が救急当直明けでそのまま帰宅できるというので、昼ご飯を一緒に食べようと誘われていたのだ。日本で進めていた研究の為、横浜にマンスリーマンションを借りていたセナは長期レンタルしていたNinja250Rを走らせ、立夏の仕事が終わるのを、この屋上庭園で待つことにした。

 天気が良い事もあり、入院患者や面会者がいつもよりも多く庭園に出ては貴重な日差しを楽しんでいる。


「acquired immunodeficiency syndrome…後天性免疫不全症候群の治療について?随分難しい本を読んでいるね―――」


セナの本に、影が落ちる。


「立夏?」


メールの着信音は聞こえなかったが、当直を終えた立夏が探しに来たのだろうか。顔を挙げるセナ。そこには、背後に立ち、覗き込むようにセナの読む本を見下ろす若い男が立っていた。


「?!」


びくりと体を震わせ身構える彼女を見て、「驚かせてごめんね」と一歩距離を取る男。白衣を着ている事から、この病院のスタッフだろうか。男は長椅子を回り込み、セナの隣にすとんと腰を下ろした。


「後天性免疫不全症候群、AIDSについて知りたいの?」

「………ええ、まぁ。」


中性的で綺麗な顔立ちの白衣の男はニコリとほほ笑む。


「知り合いが、病気なのかな?」

「………個人情報です」

「ああ、ゴメン。そうだよね―――!」


怪訝そうに眉を顰めるセナに、両手を振る男は、胸ポケットから名札を取り出して見せた。


「私はここの血液内科の牧野です。本で分からない事があったら、答えてあげられるよ」


名札を受け取るセナ。

そこには確かに、聖倭大学附属病院血液内科医師 牧野十夜と書かれていた。

「血内のお医者様でしたか―――」

「お役に立てそうな事は、あるかな?」


15・16歳の年の頃の少女が平日の昼間に、病院の屋上で疾患についての本をめくっていれば、誰でも普通は病院に通院する患者と思うだろう。


(患者と…間違えられたかしら―――)


開いていた本のページに視線を落とすセナ。


「AIDSの薬剤耐性型について知りたくて」

「薬剤耐性型?珍しいね……」


少し、驚いた表情を見せる十夜は顎を抱えて考え込む。


「そうだなぁ…AIDSの事については少し知っているのかな?多剤併用療法(HAART療法)については……?」

「本に書かれている程度なら」

「凄いじゃないか!じゃぁ、先ずHIV-1の新生について説明しようか―――」


十夜はHIVウイルスの薬剤耐性取得機序について話しを始めた。

流石は血液内科医であり、セナの見た目に合わせた優しい言葉の選択で、その説明もとても分かりやすい。

気付けば夢中になって、十夜の話に聴き入っていた。

「今日はここまでにしとこうか!」

ちらりと時計を確認すると、十夜は立ち上がる。セナも携帯を確認すると、立夏から何度か着信が入っていたようだ。十夜の話に夢中になっていたセナは、携帯電話の振動に気が付かなかった。


「お時間を取らせてすみません。先生のお話はとても分かりやすく、勉強になりました」

「お役に立てて良かった!私はこの辺りをふらりとしている事が多いから、見つけたらまた声を掛けてくれ。次は薬剤耐性型の治療選択について話そうか…少し、難しい話になってしまうけれど―――」


「ぜひ伺いたいです!アポイントメントを取らせて頂けるなら…正式に病院の方へ―――」


真剣な彼女の目に、一瞬目を見開き驚く十夜。だがすぐさまニコリと笑顔を浮かべた。


「うーん。じゃぁ4日後の同じ時間、ここで待ち合わせでどうだろう?天気が悪かったら、そこのエントランス(屋内)にしよう。女の子が体を冷やすといけないからね!」

「有難うございます!よろしくお願いします」


丁寧にお辞儀をすると、セナは十夜の背中を見送った。

携帯電話の着信に返事を返すセナ。丁度送信を押したところ、背後から立夏の声が掛かる。


「ここにいたのか、遅くなってすまなかった」

「立夏、ごめんなさい―――先生に薬について教えて貰っていて…」

「先生?」


首をかしげる立夏。

先に私服に着替え、セナを探していたようだ。といっても、院内でセナが行き来する場所は限られている。院内のカフェかこの屋上庭園か駐輪場か、もしくは少し離れた場所にある大学構内の図書館で本に夢中になっているか…。


「昼飯にしようか、セナは何が食べたい?」

長椅子に積み上げられた本の束を持つと、立夏はセナの手を引き駐車場に向った。



4日後、病院屋上に向うセナ。その日は時折小ぶりの雪が舞い、気温もぐんと下がっていた。積りはしないが、凍結路のバイク走行は危険と判断し、横浜からタクシーで駆けつけた。


(少し、早過ぎたかしら……)


時計を確認しながら、エレベーターで一気に屋上フロアに上がると、エントランスを見渡す。屋上庭園とはガラス張りの大きな窓で仕切られたエントランスからは、ちらちらと舞い降りる雪の庭園を望めた。


「あっ……」


窓ガラスに両手をつき、張り付くセナ。そこには、屋上庭園で低い雲に覆われた空を見上げる十夜がいた。何かのドラマの1シーンのような美しい画に、息を呑む。


「りつ・・・か?」


その綺麗で寂し気な横顔が、どこか立夏に重ねて見えてしまう。窓越しに十夜を観ていると、携帯電話を確認した彼は、近くに置いてた鞄からバイアルと注射器を取り出し、手慣れた手つきで薬剤の吸い上げを行った。


(十夜先生、何をして――――――)


屋上庭園に通ずるドアを開け、彼の元に近寄るセナ。

彼は左前腕を駆血帯で縛り、自らの手背に翼状針(点滴針)を穿刺した。



「・・・・・・注射ですか?」


十夜の背中に声を掛ける。流石の寒空で、他の患者やスタッフなど、周囲には誰もいなかった。ゆっくりと振り向く十夜。


「ああ!君は―――えっと…」


前回、名乗るのを忘れていた事を思い出したセナは、慌てて名乗り、小さく礼をする。


「セナ=クラークです。少し早く、到着してしまって……」

「そうだったのか。ちょっと待ってね、直ぐ終わるから」


十夜は右手で器用にシリンジを押していく。

セナは近くに用意された乾綿と止血テープを持つと、注射が終わった事を確認し翼状針を抜いて止血した。


「ありがとう!針の扱いに手慣れているんだね?」

「自己注射の経験はありませんが……観る事は多かったので」

「成る程……」


よく見ると、十夜の両手背には幾つもの針穿刺の後が残っている。セナは、目を細め、昔の自らを彷彿とさせた。傍らに置かれたバイアルを覗き薬剤名を確認する。


「……凝固因子製剤―――。牧野先生はご自身も……」


針やバイアルを片付ける十夜。


「そう、私自身が血友病患者なんだ」


血友病とは、血液凝固因子のうちVIII因子、IX因子が欠損または活性低下している遺伝性の疾患である。性染色体であるX染色体上にある為、X染色体が二本ある女性の発症率は1%以下だが、男性は5000人に一人に現れると言われる。また、基本的に遺伝性の疾患であり、ヨーロッパ王族に見られた事から、“王族の病”と言われた事もある。

欠損している血液凝固因子を体内に注入する因子補充療法により、現在は健常者とほぼ同じ生活が可能となっているが、昔は濃縮血液製剤(非加熱製剤)が治療薬の主流であり、薬害エイズ事件や薬害肝炎事件が発生していた時代もあり、血友病=エイズの一種と誤解した一部の者により、偏見の対象とされた事も少なくなかったようだ。


「薬剤を見ただけで血友病が分かるなんて、君がAIDSを熱心に調べているのも薬害性が原因なのかな?」

「―――ええ、まぁ」


言葉を濁すセナ。そんな彼女を見て、事情を察する十夜。

彼女は、近い未来に起こる悲しい出来事を、きっと予測できているのだろう。ひらりと舞い降りる粉雪が、セナの茶色い髪に落ち、溶けていく。


「……薬剤耐性型の治療選択についてだったね…。少し、“難しい話”になるから、場所を映そうか?」


十夜はセナの背中を押し、屋内に誘導した。


人気の無い屋上エントランスで十夜の口から語られたのは、セナの予想していた通りの悲しい現実。夢の薬剤は確かに存在する。だが、過度な期待は時として大きな絶望となり帰ってくることを、十夜は十分に知っていた。これが、現在の医療の限界だったのだ。


理解してはいたが、いざ専門の医師から聞かされると、流石に落ち込みを隠せないセナ。外来を抜け、病院入口のエントランスまで送ろうとセナに付きそう十夜達に、見知った看護師から声がかかった。


「あら、セナちゃん!今日は十夜先生と一緒なのね!」


確か彼女は、高速道路でのInsideTrace事件での受診時にお世話になった外科看護師だ。


「待ってて!立夏先生も丁度外来終わったから呼んでくるわ!」

「えっ、いや――今日は立夏に会いに来たわけじゃ……」

「大丈夫!セナちゃんに会うと立夏先生機嫌がよくなるから!」


看護師はウインクと満面の笑みを浮かべると、セナが止めるのも聞かず、診察室に消えていった。その様子を見て、十夜は不思議そうに首をかしげた。


「セナさん、立夏と知り合い?」

「あっ、はい……まぁその―――色々と」


再び言葉を濁すセナ。

InsideTrace事件で聖倭大学病院に運ばれ外来受診をした際、病院スタッフにはその方が都合がいいからと、立夏がセナとの関係を親戚として紹介していた。受診の予定の無いセナが外来をうろついていると、当然スタッフは立夏に会いに来たと勘違いしても仕方がない。


「へぇ……」


十夜は口元に手を当てしばらく考え込むと、にんまりと笑みを浮かべる。そして


「じゃぁ、こうしとこうかな―――」


背後からセナを両手で抱きしめた。


「?!!」


驚いて振り向くセナ。気にせず十夜はにこにことほほ笑んでいる。



「牧野先生?!」


腕を振り払おうと体を捩るセナ。背後から、立夏の不機嫌な声が飛ぶ。


「病院廊下で何してんだよ、十夜!」

「やぁ立夏!外来お疲れ様」


愛想よく振る十夜の手を振り払った立夏は、セナの肩を自らの方へ引き寄せた。外来診察が終わったところだと言っていたが、こうして立夏の白衣姿を見るのは久しぶりだった。


「セナ、俺に会いに来てくれたの?嬉しいな」

「違うよ、立夏。セナさんは今日、俺に会いに来たんだ」


(俺?)


十夜の一人称が変わった事に気が付いたセナは、思わず十夜の顔を見返す。


「大体なんで、十夜がセナと一緒にいるんだよ―――」「なんだ立夏、気になるの?」


挑発するように目を細める十夜に、立夏の苛立ちが募る。


「立夏先生!今から3人でお昼ですか?でしたら何かあったらPHS鳴らしますね!」


すれ違う看護師が、声を掛ける。


「11:00か…少し早いが昼休憩にしようかな?行こうかセナさん」

「行くって、お前も一緒なのかよ…」「だって立夏、気になるだろう?俺とセナさんの事―――」

「………セナ、もう少し付き合ってくれる?」

小さくため息をつき、セナに視線を向ける立夏。視線を二人の顔の間で往復させ、何がどうなっているのか状況を把握できぬセナは、ただただ二人に連れられて院内のカフェに向った。



「ご兄妹だったの?!……ですか―――」


珈琲をソーサーに戻し、セナが声を上げた。

十夜は立夏のポケットから職員証(名札)を奪い取ると、自らのそれと並べてセナに見せた。牧野立夏と、牧野十夜…言われてみれば、苗字が一緒だったことに気付く。

そして、美人兄妹(弟?)が人目の多いカフェに同席すると、自然と周りの視線が集まった。そんな事は気にも留めず、楽しそうに説明をする十夜。


「そう!まさか、看護師さん達が噂していた立夏ご執心中の女の子が、こんなに可愛い子だとは思わなかった!この前外来で、外科の先生から『彼女可愛いですね』って羨ましがられた意味が分かったよ…あの時は適当に笑ってごまかしたけど……」



「十夜はそういう(愛想笑い)の、得意だろ?」


カフェのカレーライスにがっつく立夏が他人事のように流す。


「親戚設定は流石に話しておいてくれないと!立夏の親戚はそのまま俺の親戚にもなるんだから、知らないとおかしいだろう?」


十夜の横顔…何となく立夏に似ていると思っていたが、そう言われると合点がいく。


「そうか・・・じゃぁ君が、立夏が留学時代に出会った“想い人”なんだね」


にんまりと口元を綻ばせ、じっとセナを見つめる十夜。


「ご挨拶が遅くなりすみません…。立夏さんには、カリフォルニアを拠点に研究を行っているBrain- Augmented Reality machine Interfaceにご協力頂いています。……まさか立夏にお兄さんがいるとは、知らなくて―――」


立夏を横目で睨むセナ。


「俺が話していなかったから、セナは知らなくて当然だ。元々会わせるつもりもなかったのに、まさか俺の知らないところ(屋上庭園)で会っていたなんてな―――」


頭を抱える立夏。


「留学の時から、貴女の事知りたいって言ってたのに…立夏、プライベートは全然話してくれなかったじゃない―――立夏にいっぱい危険な事も、怪我もさせてしまったのに」


立夏の腕を掴み不安げな表情を浮かべるセナを見て、立夏は十夜に視線を移す。


「屋上庭園って…自己注射の時か?」

「ああ、今日は抜針を手伝ってもらったんだ」




十夜が定期的に屋上庭園で補充療法の自己注射を行っていた事は、立夏も知っていた。遺伝性要因が大きい血友病の実兄の存在を知って、立夏の身体の事を気にしたと考えた立夏は、セナの頭をポンポンと撫でた。


「そうだったのか…。セナ、俺は凝固因子は正常だ。血液が止まり難い事はないから、怪我しても大きな問題はない。俺はGIDだが、性染色体はXXだからね」


「女性にも血友病患者は存在する。セナさんはその事を心配していたのだろう?」


十夜が口を挟む。ああそうかと拍手を打った立夏。


「十夜先生は、どうして屋上庭園(人目につく場所)で自己注射をされていたのですか?」


セナが問いかける。


「ん?あれはね…一種の啓蒙活動かな」


手に持っていた珈琲を机に戻すと、十夜は穏やかな笑みを浮かべながら話しだした。


「そう言うと大げさかもしれないけれど、俺の元に来る患者には白血病なんかの造血器腫瘍やHIVウイルス患者、貧血性疾患や血小板の異常などいろいろな病気と闘っている患者が多い。だけど、血液内科自体がそれなりの規模の病院にしか常設されていない為、血液内科疾患はあまり知られていなくて、間違った認識を持たれて肩身の狭い思いをされている方も多いんだ。」



免疫系の病気と言えば周りが変に気を使ったり、病気のせいで夢を諦めてしまう子供も多い。確かに昔は怪我をしないように、感染をしないようにと色々な制限を掛けられていたことも多かったが、現在は薬や医療機器が発達し、健常者と変わらない普通の生活が行える患者も増えてきているのだと、十夜は話した。


「血友病だって、薬の管理と幾つかの注意点を守る事で、こうして仕事も出来るし、空手やバイオリンだって諦める事はない―――そう言う事を、皆に知ってもらいたかったんだ。」

「――――そうだったんですね」


彼の志に、胸を打つセナは言葉を失った。研究で感情に流され、自らを見失っている場合ではないと喝を入れられた気さへした。


「それより、立夏の親戚なら俺も君の親戚になるね!これからは俺の事も十夜♡って呼んで訪ねてきてよ!お兄ちゃん♡でも大歓迎だ!」

「あれは立夏が勝手に………」

「院内では親戚で通っているんだろう?だったらその方が自然で良い!それに、脳神経以外の内科系では俺の方が君の役に立てるよ」


セナにニコリとほほ笑みを流す十夜を、鬱陶しそうに手先で払う立夏。


「十夜は親戚設定だけ口裏合わせといてくれたらいいんだよ。ほら、さっさと病棟戻れよな」


これ以上要らぬライバルを増やしたくない立夏は、その意志を態度に示す。タイミング悪く、十夜のPHSが音を立てた。


「はい、血内牧野――――ああ、そうでしたね!今行きます。丁度1階に降りてきたところなので―――。はぁい~」


愛想よく電話を切る十夜。

この外面の良さは、流石立夏の兄と言ったところだろうか。


「じゃぁまたね、“セナ”?」


席を立ち、不敵な笑みを残す十夜に、立夏は一層顔を引きつらせた。


「こんなところで色気出さなくていいから、さっさと戻りやがれ!」


去っていく十夜の背中を睨みつける立夏。彼が見えなくなったことを確認し、ようやく残りのカレーに手を付ける。そんな立夏を、セナがじっと見つめている。


「………何?」「美形兄妹・・・・・・」


何かもの言いたげなセナの表情に、小さなため息を落とす立夏。


「セナ、午後からの予定は?」

「先日借りた本を返してから、大学のラボに寄って仕事をするわ」


ふと、PHSの時計を確認する。この後は病棟の処置回診と、夕方には外科カンファレンスが残っている。


「今日は雪だから、タクシーで来たんだろう?横浜まで送るよ―――」

「私は大丈夫よ、立夏もお仕事あるんでしょ?立夏がお休みの時に、また来るわ」

「回診とカンファレンスは速攻で終わらせる。18時までにはラボに寄るから、待っていてほしい」

「………」


真剣な立夏の表情に、「うん…」と返事をしてしまうセナ。立夏と話をしたかったのは事実だが、急を要する事ではなかった。寧ろ、気を使わせてしまったのではないかと後悔する。



カフェで昼食を済ませ立夏と別れたセナは、隣敷地に建つ聖倭大学に向った。粉雪は小雨に変わり、傘が校庭を彩る。

先日借りた血液疾患の本を図書館で返却すると、校内の一室に設けられたBRAMI研究室の鍵を開けた。大がかりなコンピューターやモニターが並べられたそこは、セナや立夏達がバームを使用しながらInsideTrace Unitして活動する拠点でもあった。


角膜認証でロックを解除し、コンピューターを立ち上げると、その大きなモニターの前に腰を下ろし、ため込んだデータの解析作業を急いだ。




パソコン横に置いた携帯電話が、振動音を鳴らす。

あれから何時間経っただろうか。窓のないこの部屋では、外の時間を確認できない。夢中で解析を行っていたセナは、パソコンの隅に表示された時計に目を移した。


17:50―――

ああ、もうそんな時間か。6時間近く、画面に没頭していた事になる。

凝り固まった関節を動かし、背伸びをするセナ。そして、携帯電話を手に取る。


「はい―――」

『遅くなって悪かった、今駐車場に着いたところだ…今どこ?』

「立夏?お疲れ様―――。研究室よ、今そっちに行くわ」


コンピューターのシャットダウン操作を行い立ち上がったその時、セナの視界がぐらりと舞う。


ドサッ―――


大きな物音が、立夏の電話口に響く。


『セナ?…おい、大丈夫か?今凄い物音が…セナ―――?!』


電話は通話状態だが、セナからの返答がない。物音も途切れた。


『セナッ!!』


立夏は慌てて車を降り、校内の研究室に向った。




勢いよくドアを開く立夏。

息を調えながら、室内を見わたす。


「セナ?」


ふと視線を下に落とすと、床に倒れたセナを発見した。


「セナ!!」


駆け寄り、その体を起こすとすぐさま救急車を呼んだ。


意識障害の原因は何だ?

立夏はセナの全身を見渡す。電話口でのセナの様子に変わりはなかった。電話中はコンピューターの起動音がしていた事から、通話中にシャットダウンの操作を行ったのだろう。そこまでは意識があったと言う事だ。


あれからずっとここに籠って作業をしていたのだろうか。周りに水分らしきものは見当たらない。彼女は数年前に心臓手術を受けているが、人工物を埋め込んだ手術ではない為既に抗血小板薬の内服は終えているはずだ。

だとすれば、起立性低血圧?エコノミー症候群?不整脈による血栓か?

救急車が到着するまでの間、彼女の全身の脈を確認する立夏。


カリフォルニアは深夜2時前後、連絡すべきは彼女の主治医の識か―――それとも…

携帯電話を取り出し、インカムを耳にかける立夏。数回のコール後、電話口に声が掛かる。


『どうした?立夏』

「聖倭大学の研究室で、セナが倒れている。助けてくれ――――十夜」



大学に到着した救急隊の手により、セナの身体は直ぐ様 聖倭大学附属病院の夜間救急に搬送された。

ストレッチャーに付き添い、立夏も救急室に走る。


救急室では、連絡を受けていた十夜と救急看護師がストレッチャーを迎え入れた。


「1・2・3!」


掛け声とともに病院のストレチャーに体が移されると、ストレッチャーサイドに運ばれたエコーのプローブを手に取る十夜。


「MRIは待機させている。点滴ルートは?」

「右正中に体圧ルートを入れた!意識消失は15分程前、既往に心疾患とOPE歴がある」

FAST(ファスト)後MRIに行こう」


セナを挟んで十夜の反対側に立つ立夏は、四肢にECG電極を挟み込む。エコー検査が終わった箇所から、胸に電極を張り付けるとモニターを注視した。


「FAST negative(異常なし)……」「こっち(ECG)もだ……」


2人は顔を見合わせると電極を外し、セナの身体を検査室に搬送した。


放射線室で待機する立夏と十夜。腕を組み、顔を強張らせてガラス窓の中を覗き込む。


「……状況から見て、いわゆるエコノミークラス症候群か心原性脳梗塞栓症の可能性は高いな―――近くに水分らしきものもなかったのだろう?」


壁に持たれた十夜が、口を開く。


「ああ」

「元々の心疾患もあるし、今日は特に朝から冷え込んでいる。近日は強いストレスが掛かっていたんじゃないか?ストレスは血管収縮だけじゃなく、血液の凝固機能を高める―――」


そんな事、分っている…と、言わんばかりに顔をしかめる立夏。

12月に訪日してから、彼女にストレスが掛かっていた事は知っていた。横浜で彼女が行っている研究については個人情報の事もあり詳しくは聞けなかったが、それでもセナの性格を考えれば頑張り過ぎてしまう事への予想は出来た。もっとちゃんと、彼女の事を見てやればよかったと、後悔だけが蠢く。そんな立夏の肩を叩く十夜。


「そんな怖い顔するな。仮に脳梗塞だとして、今ならt-PA(血栓溶解療法)が使えるし、万が一でもここならカテーテルでウロキナーゼ(局所線溶療法薬)も送り込める」

「………」


十夜の言う事は、確かだった。

現在セナは研究の為横浜で一人暮らしを行っている。もし倒れたのが、一人暮らしのマンションの中だったとしたら…発見が遅くなってしまったら―――。考えるだけで立夏の背中に、冷たい汗が伝った。


暫くして検査が終わったころ、重い空気を打ち壊す様に読影医が放射線室に顔を出す。


「美人兄弟が二人して、何お通夜みたいな顔をしているんですか?」


肩まで伸びた長い髪を高い位置でまとめながら立夏達の元にやって来ると、画面に映し出されたMRI画像を睨んだ。マウスを操作しながら、目を細めて画像を注視する。隣から、立夏も画像を覗き込む。


「発症から1時間かぁ…微妙な時間だけど最近のDWI(拡散強調画像)は優秀だから意識障害が出るくらいの脳梗塞なら…これか!」


読影医がマウスのポインターで白い影を指さす。


「で?血液内科医(十夜)と脳神経外科医(立夏)…どっちが主治医?」


読影医は振り向くと、後ろで突っ立っている立夏と十夜の顔を視線で往復させた。

発症したばかりの脳梗塞の治療は、内科的な薬の療法が主体となる。当然入院後は脳神経内科の専門医が診る事となるが、今は夜間救急の時間帯だ。急を要する指示に関しては専門外の医師が、専門医に相談の上指示を出す事もある。


「t-PAの指示なら私が出すよ…念のため、明日心臓内科の医師にコンサルもかけとく。」


そう言うと、近くに合ったパソコンの電子カルテを叩く十夜。


「彼女の心臓外科の主治医はカリフォルニアにいる。循環器に関しては院外紹介として彼に任せるよ。読影結果まとめて貰っていいですか?」


頭の後ろで腕を組んでいた読影医は、「はいは~い」と椅子を回転させてパソコンに向かう。


「あれですよね!以前高速道路での多重事故に巻き込まれた立夏先生の骨盤撮影で、ラジエーションハウス(放射線科)の中まで押しかけて来たという男前先生!」


楽しそうに報告書をまとめる読影医の言葉に、振り向く十夜。


「えっ?その話、私は聞いていませんけど?」


立夏は表情を凍らせたまま、電子カルテで紹介状を作成しながら、読影医に問いかけた。


「記憶の消去はどのボタンで出来ますかね?先生……」

「あ、ワタシは何も知りませんでした…はい」


読影医は背中を丸め、カタカタと報告書の作成に集中した。



MRI撮影を終えたセナの身体は再び救急室に運ばれ、血栓溶解療法が開始された。その頃には幸い意識を取り戻し、その後の脳検査でも、不可逆的な損傷は避けられたようだった。



翌日、カリフォルニアにいるセナの主治医、九暁識からの返書が届く。状態が落ち着いた後、ホルター心電図や心エコー検査、詳しい血液検査を行った上で内服薬の考慮を行う為、一度帰国し、外来受診をするよう勧める内容だった。




意識状態が覚醒したセナの隣で、一晩中手を握っていた立夏は、知らぬ間に病室のセナのベッドにもたれるように眠っていた。目を覚まし、立夏の頭をそっと撫でるセナ。

窓の外はまだ闇の中。早朝の薄暗く静かな病室に、心電図モニターの音と光が木霊する。

ドアの開閉する音が鳴り、セナは視線を向ける。


「起きた?セナさん」


カーテンの向こうから顔を出す十夜。ニコリとほほ笑むと、立夏と反対側のベッドサイドに椅子を置いて座った。


「十夜先生―――」


「……ここは病院。君は昨日、聖倭大学の研究室で倒れてここに救急搬送された。MRIの結果は軽い脳梗塞。幸い発見が早かった事と、血栓溶解療法が効を奏して今に至る。現状把握は、できそう?」

「出来ます。ご迷惑を、お掛けしました……」

「呂律障害も意識混濁も見られないね、その様子だと直ぐに退院できそうだ!」


ニコリとほほ笑む十夜は、ベッドに伏す立夏に視線を向ける。


「自分の身体の事、大切にするように言われているんだろう?どうして…無茶したんだ?」

「…………」


言葉を、返せないセナ。

研究に、焦っていたのは事実だ。だがそれは、何の言い訳にもならない。自分の体調を整えるのは、研究者としても、社会人としても当然の事のはずだ。


「まぁ昨日、君を焦らすような情報を与えるだけで、何のフォローもしなかった俺も悪いんだけどね…辛い思いをさせてごめん―――」


十夜は頭を下げた。セナは少し頭痛の残る頭を静かに揺らす。


「いえ、聴きたいと言ったのは私ですし…研究者として冷静な判断に欠いた行動をとった私の落ち度です。適度な運動も水分摂取も…その必要性を知っていながら出来ていませんでした」

「そうだね…でも君はその事を十分にわかっているから、もう自分を責めなくていいよ。きっとそうやって色々一人で抱えて、知らず知らずの間にストレスをため込んでいたんだろうね。立夏も、カリフォルニアにいる君の主治医も、心配はすれど君を責めたりしないよ。にっこり笑って、大丈夫だよって言ってあげて」


立夏に似た顔で、立夏より少し低めの声の十夜が、セナを優しく諭す。セナは申し訳なさを抱えながら「はい」と小さくつぶやいた。


短くため息をついた後、十夜は再び立夏に視線を落とす。


「セナさん、少しだけ―――俺の昔話に付き合ってくれる?」

「……昔話、ですか?」

「そう―――。俺は、ずっと立夏に引け目を感じていたんだよ―――」


そう言うと、窓の外の遠い闇を見つめた。



十夜と立夏の母親は、血友病因子の保持者だった。男の子が生まれたら、1/2の確率で血友病を遺伝するかもしれない…そんな恐怖を持ちながらも、十夜を生み、翌年には立夏を身ごもった。血友病はX連鎖性劣性遺伝。当然リスクファクターを持って生まれた十夜は血液検査によりスクリーニングが行われ、生まれて直ぐ凝固因子活性が低下している血友病だと診断された。


血友病の治療は出血の予防と早期の止血。十夜には出血予防のために定期的に凝固因子製剤を注射投与する定期的補充療法が行われた。物心がつくまでは、それが当たり前で、何の疑問も抱かなかった。だが、小学校に上がる頃、異変が起きた。


1歳年下に生まれた妹の立夏に、軽度の精神疾患様兆候が見られたのだ。女扱いを嫌い、なんでも兄の真似をしたがる立夏。最初は男兄弟がいる女児によくある現象だと気にしていなかったが、小学校高学年になり体の性差が現れだすと、その兆候は如実に表れた。


凝固因子製剤を打ちながらも。十夜がサッカーや空手の習い事を始めると、立夏も直ぐに真似をして男子顔負けに取り組む。当然、無茶な動きが出来ず制限を伴う十夜と比べ、大胆な動きが行える立夏は何をやっても十夜より上達し、彼の上を行った。運動を避けるようになった十夜が始めたバイオリンも、すぐさま立夏が真似し、指や関節への負担を考えて練習量を調節した十夜よりも上達してしまう。


次第に彼は、そんな立夏を疎ましく思う様になった。辛い注射に耐える日々、無理が出来ない体。抗体製剤の研究が進んだ現在では注射の回数も大幅に少なくなってきたとはいえ、一生付き合っていかなければいけない病を持って生まれた自分に対し、十夜の欲しいものを全て奪っていく破天荒な妹。そんな立夏を、十夜は次第に避けるようになった。

そして、自分と同じ思いをする子供を救いたいとの思いから、十夜は医学部に進学し、血液内科医を目指した。だがここでも、立夏は彼の後を追い、聖倭大学医学部に進学する。

そこでついに、十夜は立夏を突き放した。


”これ以上俺の大事なモノを奪うのはやめてくれ!何でもできるお前に、俺の気持ちなんか分からない!”と。

彼女がずっと、性同一性障害で苦しんでいた事を知らずに――――――。



十夜は小さく一呼吸置くと、再びベッドにうつ伏せて寝息を立てる立夏に視線を移した。


「俺は立夏に、何も奪われてなんかいない。なのに、何をやっても追い抜いて行かれる事が悔しくて、何でも器用にこなせる立夏が羨ましくて…大事な妹の心を、傷つけてしまったんだ。」

「………十夜先生―――」


セナの言葉に、ふと、自嘲するように笑う十夜。


「それからしばらくして、立夏は自然と俺を避けるようになった。専門分野も真逆の外科系を選び、アメリカに留学した。立夏の留学中に、俺はやっと立夏が性同一性障害で苦しんでいた事を知ったんだ。一人称を”俺”にしている事も、男の恰好をする事だって、俺の真似をしているんだろうってずっと思っていた。兄のくせに立夏のGIDの事、コイツの同僚から聞かされて知ったんだ―――笑えるよな。ほんっと、最低の兄だよ―――」


十夜はぎゅっと、拳を握り締める。そんな彼の話に、ただじっと耳を傾けたセナ。


「アメリカ留学から帰ってきた立夏は、人が変わったように俺に話しかけるようになった。立夏のGIDを知って、コイツとどう向き合えばいいのか分からなかったから、嘘でも話しかけてくれる事は、嬉しかったんだ。そして今日、立夏が初めて俺を頼ってくれた事が、嬉しかった。立夏が大切にする君だけは、何があっても絶対助けなきゃって思ったんだ」



『助けてくれ――――十夜』


電話口での立夏の必死の声が、十夜の耳に蘇る。




セナはそっと、立夏に視線を移す。

立夏に握られた右手を、ぎゅっと握り返した。


「立夏は―――お兄さんの事、嫌い?」


優しくそっと、問いかける。すると、顔を布団に伏せたままの立夏が籠った声を上げた。


「…………俺は、ずっと十夜になりたかった。」

「りつ…か?起きて――――」


驚いて目を見開く十夜。


「小さい頃から感じていた体の違和感…でも、十夜と同じ事が出来れば、十夜になれれば、俺も男になれるって―――ずっと思っていた。十夜みたいになりたくて、ずっとお前を追いかけて、真似ばかりしていた。それが、十夜を苦しめていた事を知らずに…あの時お前に言われるまで、俺は自分の事ばかりで、十夜の事、何も考えられていなかったんだ」


立夏の声が、心なしか震える。セナは再び立夏の手を強く握った。


「情けなくて、お前に顔を合わせられなくて…十夜の事を避けるために外科医になった。自分の事が許せなくてお前から逃げたくて、アメリカに渡った。でも、そこでセナに会って気付かされた…逃げちゃダメだって。

今日だって、大事な人が目の前で倒れているのを見て、怖くて震えた―――。散々十夜の事傷つけといて、自分勝手だって思うかもだけど、気づけはお前に電話していて、最後はやっぱり、十夜に頼ってしまう。俺は今だって―――ずっとお前の背中を追っかけてるんだ」


「ったく…仕方ないなぁ―――立夏は」


十夜はうずくまったままの立夏の頭に手を伸ばし、その頭を、優しく撫でた。

やっと顔を上げた立夏は、十夜からふいと視線を逸らす。その様子を見て、くすくすと笑うセナ。


「…セナ、俺が起きてる事はいつから気づいてた?」

「どうして無茶したのだと、十夜先生に聞かれた時くらいから―――」

「そんな前から?!――――まったく、叶わないな君には」


苦笑いをし、そっとセナの額に、キスを落とした。彼女の無事を確かめるように抱きしめる立夏の姿を見た十夜もまた、安どのため息を落とした。


「セナが、無事でよかった―――十夜、助けてくれて…ありがとう」

「―――――うん」




その後、朝までセナの隣にいると言い張る立夏に、自分が隣にいるからと十夜が無理矢理帰らせた。何かあったらすぐに呼ぶようにと言い残し、しぶしぶ病院から直ぐのマンションに一時帰宅する立夏。

翌朝、十夜から脳神経内科への引継ぎが行われると、一人暮らしをしている事も考慮され点滴治療と様子観察の為暫し入院を言い渡された。


出勤してきた立夏は十夜と交代するようにセナの病室を訪れ、午前に予定されていた手術(仕事)に向う。

流石に昨日の今日でノートパソコンを触るわけにもいかず、セナはただただぼーっと窓の外を眺めていた。





昼過ぎ――――

「暇そうだね、セナさん?」


十夜がカップを両手に病室に入ってくる。そして片方を、セナに差し出した。


「立夏に、君が珈琲が好きだと聞いたから。主治医にはOK貰っているから大丈夫だよ?苦笑い、されたけどね―――」


ホットコーヒーを受け取ると、「有難うございます」と静かに口に含む。

隣でもうひとつのカップを口にする十夜に首をかしげるセナ。


「十夜先生も、珈琲ですか?」

「ん?t-PA酵素の活性化のこと?一杯くらいなら大丈夫だよ―――もしかして君が珈琲を飲んでいるのって…」

「t-PAやウロキナーゼなどの酵素は朝方に分泌が減ると聞いていたので……私の好きなグアテマラはブルーマウンテンやキリマンジャロに比べてt-PAの放出活性はそれほど高くないみたいですけど」


クスクスと笑いながら、ベッドの隣に腰を落とす。

珈琲には血液をサラサラに保つ成分が含まれている事で有名だ。不整脈や心臓手術の影響で血栓ができやすいセナは、意図的に珈琲を飲むようにしていたのだ。


「あ~君は、結構研究者体質だね!そんな事を考えながら珈琲を飲んでいても、美味しくないでしょ?」


「いえ…最初は、身体の為と思って始めたんですけど。今では珈琲を挽くときのアロマや、豆や抽出温度や焙煎によって違う味を楽しむのが好きなんです。だから、t-PA関係なく、好きな珈琲を選ぶようにしています―――ストレスが、心臓には一番良くないらしいですし」


「…………ごめんね」


視線を落とす十夜に、セナは首を傾げた。



「昨日…いや、もう今朝なんだけど―――自分の身体の事を大切にするようにと、責めるような言い方をしてしまって」

「いえ、本当の事ですし―――」


小さなため息を落として立ち上がると、十夜はベッドに座るセナの上体を抱きしめた。


「と…十夜先生?!」


驚いたセナは、大きな瞳をいっそう丸くし、十夜の腕を掴む。


「訂正する。君は十分頑張っているよ―――だから、今度は立夏や俺に君の事を大切にさせて…?セナさんにはしたい事をして、笑っていて欲しいんだ」


「……私は周りに十分甘やかされていますから、先生には叱ってもらうくらいの方が丁度いいんです」

「あはは、じゃぁ立夏が甘やかしすぎた時は、俺が叱ってあげるね…。あの時立夏に出来なかった分、うんと君を甘やかさせてほしいんだ―――」

「…それ、立夏にはしないんですか?」


・・・・・・・・・。

「あれはねぇ…甘やかすどころか、ものすごい形相して後ろを追っかけてきているから、俺は必至で逃げなきゃいけないんだよね。だから、専門医の資格を取ろうと思うし、研究発表だってどんどんしていく!いつまでもアイツにとって、追っかけるべき存在であるために。」

「十夜先生―――」

「だから、甘やかされ担当は君に引き受けて欲しいんだ♬俺と、立夏の為に―――」

「……そんな言い方、ズルいですよ」

「あはは!」


コンコンコン……


「はい―――」


病室のドアがノックされる。やっとセナの身体を離した十夜が応えた。

病棟看護師が、そっとドアを開ける。


「あら、牧野先生いらしてたんですね!お二人揃ってご熱心ですね!セナさんに九暁さんという面会の方がお見えですが…」


「九暁?」ちらりとセナの方を見ると、「知り合いよ」と頷く。


「どうぞ―――」



「セナ、立夏から倒れたって聞いたぞ…お前はまた無理して―――」


部屋に入るや否や小言を並べる織は、セナの隣に立つ白衣の男に言葉を止めた。


カリフォルニア現地時間の早朝、立夏から連絡を付けた識はメールで紹介状の返書だけ飛ばし、職場には急遽の休みを告げて調整を依頼した後、その足で空港に向った。セナの両親には空港への道中に連絡を行い、念のため白木にも日本に渡る旨を告げてきた。


「えっと…立夏?」


それにしては雰囲気の違う白衣の男に戸惑う識。


「初めまして。当直帯で“セナの主治医”をしていました、内科の牧野十夜です。今は脳神経内科に引継ぎ、暫く入院治療の予定です。」


そう言ってニコリとほほ笑むと、識に右手を差し出した。その手を握り返す織。


「カリフォルニアで“セナの主治医”をしている心外の九暁織です。内科の牧野……?もしかして、紹介状を俺にくれたのは貴方でしたか?病院の個人メールに直接送られてきたので、てっきり外科の牧野立夏からかと思っていました―――。」

「あの紹介状は、読影医の報告書を元に立夏が作成した物です。“主治医が私”だったので苗字だけで送りつけたのでしょう…大変失礼しました」


“主治医が私”―――。先程からわざわざ強調された言葉に、内心で心を引きつらせながらも、表情に出さぬようにと注意を払う識。


「十夜先生は血液内科のご専門で、先日から疾患の事でご指導頂いていたの…立夏のお兄様よ!」


セナが十夜を紹介すると、十夜は腰を屈め、彼女の唇に人差し指を当てた。



ふにっ。

セナの唇が、柔らかく反発する。


「セナ、俺の事は十夜♡と呼ぶように言ったろ?」

「~~~~~~ッっつ!!!私で遊ばないでください!」


耳を赤く染め、近くにいた識の腕を引っ張り、その手に顔を埋めるセナ。


(……何、可愛いコトしてるんだ?この子は~~~)


識はセナに微笑みかけポンポンと頭を撫でると、十夜に対して満面の作り笑顔を返した。


「お役目どうも!セナの事は俺が診ますのでお構いなく仕事に戻ってください、十夜先生?」


すると、負けじと十夜も作り笑いで返答する。


「わざわざカリフォルニアからお越しいただかなくても良かったんですよ?九暁先生。時差もありお疲れでしょうから、今日はホテルにお戻りになってお休みになられたらいかがです?セナは俺が診ていますから」


双方笑顔の裏で、口元を引きつらせる。互いに一歩も引く気は無いようだ。


「えっと……」


識と十夜の顔を視線で往復させると、セナは布団の中に潜ってしまう。



「じゃぁ二人とも出て行けよ……」


突然かかる声の方に視線を移すと、病室の入り口で黒いスクラブ姿の呆れ顔の立夏が、苦笑いする看護師と共に立っていた。先程識を案内した看護師が、病室の雰囲気を察知し、今しがた手術を終えたばかりの立夏を呼んできたようだ。


「呼んでくれてありがとう!邪魔者達は俺が追い出しとくから、仕事に戻っていいよ」

「あっ…はい―――では」


立夏はそくさくと病室を後にする看護師を笑顔で見送ると、ぱたんと病室のドアを閉めた。

セナを間に挟んで見えない火花を散らしていた男達を押しのけ、立夏が布団にもぐる彼女の枕元に座ると、ゆっくりと布団から顔を出すセナ。


「立夏?」

「遅くなって悪かった―――セナ」


セナの前髪を指でそっと掻き分け、その額に小さくキスを落とす立夏に、識と十夜は2・3歩後ずさりする。二人の複雑な表情を端的に表すなら、そう―――“ドン引きしている”というのが正しい。


「……………。(何その、少女漫画の王子様的な登場の仕方―――)」

「……………。(我が妹{?}ながら、ソレはないだろ?!)」


固まる二人に、シッシと怪訝そうに手の甲を振る立夏。


「ほら、セナが休めない。ぼーっと突っ立ってないで出て行けよ。」


立夏の言葉に、顔を見合わせた識と十夜はしぶしぶと部屋を出る。布団を口元まで被ったまま、じっと立夏を見上げるセナ。


「これで少しは静かになったか―――。いいから休んでな?元気になったら、またお仕事したらいいよ……」

「立夏―――」


くすりと笑い、セナの頭を掻きまわす。温かい手が、額に触れて心地いい。


「大丈夫、俺達は皆―――セナの味方だから」


その優しい声に、安心したセナは瞳を閉じた。意識が薄れ、眠りに入る。

額に温もりを感じながら、暫しの休息をとったのであった。

つ・づ・く?



―――秋ルート

Cups 4 表裏 


僕は、セナが大嫌いだ―――。



いつも色んな人に助けられて、守られて

僕の大好きな親友のハク(白李)だって、セナの前では僕に見せた事のないような笑顔や照れ笑いなんかしたりして。


賢いくせに、要領悪くて、意地っ張りで

食べ物の好き嫌い多くって、集中しているとご飯食べずにタブレット(栄養剤)ばっか

だから身長伸びないんだ。僕より、低いくせにさ―――


可愛いくせに、無自覚だから、隙だらけで危なっかしくて

僕は嫌だけど、裏アキトが助けようとするから、仕方なく

助けたら

笑顔で ありがとう とか、言ってくるし。


父さんは有名な科学者で、セナの研究を手伝ってくれるし

医者の母さんは美人で優しいし(研究も、手伝ってくれるみたいだし)

優しい両親に、セナは心から、愛されてる。


僕と同じ、コミュ障なくせに、セナの周りばっかり人が集まって

皆がセナの事を助けてくれる


沢山の人が、セナの事を、大好きだという。

だから僕は、セナの事、大嫌いなんだ―――。



大嫌い。



だから、意地悪して、冷たくして、困らせて、泣かせてやろうって思った。

だけと…もう一人の僕が、“裏アキト”が、それを全力で拒否する。



セナが傷つくと、ハクが悲しむから、ダメ だって。





嘘つき――――――。



“裏アキト”は“僕”だから。もう一人の“アキウサギ”だから。

隠したって、嘘ついたって、直ぐにわかるんだ。


だから、余計に腹が立つ。



――――――ホントは、好きなんだろ?

セナの事。




無意識に視線で追っていて

ほっときゃいいって、僕は何度も言ったのに

危なっかしくなったら、興味なさげなフリしながら、ハクに伝えたりしてさ。


敵だったはずなのに、仕事のプログラミングの事だって、助けたり

図書館で何時間も本読むセナの傍に居たり

(それは僕も、読みたい本読んでいるだけだけど……)


研究が上手く行かなくてイライラしたり、美人な母さんと喧嘩してラボに来た時は

セナ、口に出さなくても、なんか雰囲気で分かるから

苦い珈琲にわざわざホイップクリーム絞って、一緒に飲んでみたり



お前(裏アキト)の気持ちなんて、

(アキウサギ)には、バレバレなんだよ……


1階のリビングのソファーで、カタカタとタイピングの音が響く。

3台のパソコンを同時に起動し、眉間にしわを寄せながら、

さっきから短いため息を繰り返すセナ。


平日の昼間、ハクは留学先の大学で、立夏と識は病院のお仕事、碧は夕飯の買い出し。



だから、ほっておけばいいだろう?



セナなんて、大嫌いだから、ずっと困っていたらいいんだ

悩んで、哀しそうな顔、してたらいいんだ―――。



『変わって』



もう一人の僕(裏アキト)が、身体の支配権を要求する。


二階からセナの様子を伺っていた僕と、人格を交代させた裏アキトが、階段を下りてキッチンに向う。

大学に行く前、ハクが淹れてくれたアイス珈琲を冷蔵庫から取り出し、二つのグラスに注いで、立夏が買ってくれていたバニラアイスを上に浮かべた。



セナの分なんて、要らない!

自分だけ食べたらいいじゃん…



そんな僕の意識にお構いなしに、裏アキトはソファーのセナの隣に腰を落とし、パソコンの画面を覗き見る。


端から端まで敷き詰められたソースコードと、バームの検査データに脳派の解析データとその他もろもろ……。

3つのパソコン画面に、沢山のデータが並べられすぎて整理できていない。

きっとセナの頭の中は、今こんな感じなんだろうな。



ほら、そこのソースコード、間違えている。

右端のデータと違ってるし、その解析は、違うプログラム使った方がやり易い―――

この前裏アキトが作ったプログラムなら、こんなデータ一瞬でまとめられるのに。



やっぱりセナより僕の方が、プログラミングやデータ解析は強いんだよね

まあ得意なのは、裏アキトの方だけど……


言わなくていいよ、困らせとけばいいんだ



セナなんて―――



持ってきたアイスコーヒー(バニラアイス乗せ)を、セナの頬にくっつける。


「ひゃっ!」


びくりと体を震わせるセナの膝からワイヤレスキーボードを奪い取り、代わりにその手にアイスコーヒーのグラスを置いた。


カラン…と、パフェスプーンが涼しげな音を立ててグラスを回る。


大きな瞳が、僕の顔とアイスコーヒーを往復させた。


しなくていいって、言ってるのに―――。


裏アキトはセナから奪い取ったキーボードに、プログラムを打ち込み、起動させる。

散らばっていた幾つものデータを整理し、間違っていたソースコードを訂正した。


止まっていたデータ解析が、再び動き出す。


「……凄い」


驚いているセナ。


「アイス、溶けるよ?」

「………ありがとう―――秋兎」


アイスを口に含んだセナの口元が、少し、綻んだ。



あ―――笑った……。



笑った顔は、ちょっとだけ可愛い―――


「ベネズエラ、苦いから。お子様セナには、アイスつけた」

「…なによ。秋兎だってアイス乗せてるじゃない―――お子様だわ!」


そう言うと、セナが僕の腕に、もたれ掛かってくる。

左腕に、茶色い髪が掛かって、くすぐったい。

そのままアイス食べてるし…。タイピング、し難いじゃないか



なのに、なんで何も言わないんだよ

ポイって、払いのけないんだよ



なんで――――――

解析が動き出して、嬉しそうに笑うセナの顔を見て

僕まで嬉しいって、思っちゃうんだよ……。



この気持ちは、“僕”じゃない。

全部、“裏アキト”のモノだ。



僕は、セナなんか―――大嫌いだ




大嫌いなんだ・・・・・・。


つ・づ・く?



―――秋ルート

Cups 5 Strategic warfare 


日もすっかり登り、一気に暑さの押し寄せる遅い朝。

プライベートルームのドアがノックされる音で、意識が現実世界に呼び戻される。


「秋兎?起きてる?」

「………(ハク?)」


ふわふわの枕に顔を埋めながら、重たい眼を、うっすらと開ける。

まだぼんやりとした思考の中で、乾いた口が妙に重くて開けず、言葉が紡げない。


「立夏と識は今日も病院の仕事で、碧は一日出かけるらしい!俺は夕方まで大学行ってるから――――」


(ああ、今日もラボには誰もいないって事ね……)


再び枕に顔を埋める秋兎。


「………」



ガシャリ・・・・・・

『ばふっ!!』



プライベートルームの電子ロックが解除され、布団にうずくまる秋兎の身体に、体重とふぁさりとした尻尾のモフモフが、後ろ首をくすぐる。


「ポラリス……勝手に入ったら、プライベートルームの意味ないだろ?」


首元をかすめるくすぐったさを避けるように、布団を頭まで被る秋兎。

カツカツと、金属のヒールの音が響く。

うずくまった背中の辺りでドサリとベッドのスプリングが沈み込んだ。

白李がベッドに座り、秋兎の布団を引き剥がす。


「俺が開けて貰ったんだ。今日は俺達誰もいないから、セナの事頼んだぞ?何かあったらすぐ俺に連絡くれ、碧も連絡つくようにしとくって言ってたから、俺が出なかったらそっちに―――」


「はいはい。」


適当な返事を返す秋兎。


(どいつもこいつもセナばかり。別にどうなってもいいじゃん、セナなんて)


面白くないと感じた秋兎は頬を膨らませる。


「もう直ぐセナが来ると思うから。食卓に朝食置いてあるし、昼の分は冷蔵庫にラップして置いているからレンジで温めて食べる事…あと―――またアイスコーヒー作ってるから、ミルク入れて飲んでいいよ」


(ハクは、お母さんかよ…)


思わず心の中で悪態をついた。


白李は、セナに甘い。

白李だけじゃなく、この星の木ラボにいる男どもは皆、セナに甘い。

秋兎にはそれが気に入らなかった。



ヤキモチ…?

そんなんじゃない。

――――――――――――。


その続きの“答え”を“僕自身”は知っている。だから、余計に腹が立つ。

適当な秋兎の返事に、苦笑いを浮かべた白李はラボを出て、留学先の大学に向った。


一階の方で、バタンと、玄関のドアが閉まる重い音が聞こえる。


このラボ(研究室)には、秋兎独り―――。


小さなため息を枕に移し、再び瞳を閉じる秋兎。

もう少し、寝よう―――。


秋兎は意識を手放した。



低い機械音に意識を引き戻される。

少し肌寒さを感じ、秋兎は布団をひき寄せた。


(あれ、僕―――エアコンつけて寝たっけ……)


うっすらと目を開ける。と、目の前で大きな瞳が秋兎を見つめていた。


「?!!!!」


思わず飛び起きて、ベッドの上に座る。

すると、ベッドに両肘をついて床に座り込んでいた人影がむくりと体を起こした。


「おはよう、秋兎。昨日も遅くまで解析作業をしていたの?」


影の主、セナが立ち上がる。


「………勝手に部屋に、入ってくるなよな!」

「あら?見られちゃまずいモノでもあったのかしら?」


にんまりと笑うセナ。


「人の寝顔見てるなんて、趣味悪いぞ?!」

「こんな時間(昼前)まで寝ていて、呼びかけても起きない秋兎の方が悪くない?体調悪いのかって、心配したじゃない」


ベッドの横にあるパソコン机に視線を移す秋兎。

デスクトップに移された時計は、10時半を回ったところだった。


「ハクが、朝ご飯作ってくれているわよ?」

「……食べる」


素っ気ない秋兎の言葉に小さくため息を落とし、セナは秋兎のパソコン机に座った。


「システムコール」


背後からかかる秋兎の“声”に反応し、パソコンが立ち上がる。

日本で集めたウイルスプログラムの解析が、ほぼ終わっていた。それだけでなく、米国で次々と開催されるInsideTraceゲームで拾い集めたソースコードの解析まで進んでいる。


「流石秋兎ね…先週のInsideTraceゲームで集めた画像解析まで終わっているなんて」


背後で先程からガサガサと音がする。


「秋兎?――― ?!!」


振り向いたセナだが、物凄い勢いでパソコン画面の方に向き直り、机に顔を伏せた。


「ごめん、着替えていたのね!」

「別にいいよ。見られて慌てるような子供じゃないから」


先程までの物音は、着替えの音だったのか。


「………」


机に顔を伏せたまま、無言のセナ。心なしか、耳が赤く見える。

その様子を見て、秋兎はニヤリと意地悪く口元を綻ばせた。


「………どうしたのセナ?顔赤いけど?」


わざとらしく、うずくまったままのセナの耳元に、話しかける。


「早く着替えてください!」


机に伏したまま、セナが叫ぶ。


「終わってるって」

「嘘!上着来ていないっ!!」「見たの?セナのえっち」

「~~~~~~っ!!!」


(セナ、面白い―――!)


もっとからかってイジメてやろうか…。

セナの背中に伸ばす手を、“もう一人の秋兎”が制止する。


『そこまで』

(いいじゃん、ちょっとくらい。普段すましているくせに、こういう時の反応面白いんだから!)

『ダメ。それより早く、ハクのご飯』

(……はいはい。)


小さくため息をつく秋兎は、上着を被り着替えを終わらせると、机に伏すセナの頭をポンポンと叩いた。


「着替えたよ。ご飯行くよ?」

「……うん」


ふさくれたセナが、秋兎に続いて1階に降りた。

食卓にラップをかけられた朝食をレンジで温め直す秋兎。セナは、冷蔵庫から白李が朝入れてくれたアイスコーヒーにミルクを加えたグラスを片手に、ソファーに腰を落とした。


「この前のInsideTraceゲームの画像では、イデアらしき人物は映っていなかった。会場で使用されたプログラムの中にも、それらしきソースコードは見当たらなかったよ」


朝食を口に運びながら、秋兎が話しかける。


「……そう。ありがとう―――」



2人きり(ポラリスもいるけど)の、生活音しかない屋内に、淡々とした業務連絡だけが行き交う。ソファーにもたれて珈琲を飲むセナ。気まずい空気がリビングダイニングに漂った。


「今日は、図書館に行ってこようと思うの。ちょっと気になる事もあるし」

「そ、行ってらっしゃい」

「……秋兎は、行かないの?」


セナが、じっと秋兎を見つめる。

気になる本が、無いわけじゃない。本を読むのはむしろ、大好きだ。だが―――。


つくづく自分は天邪鬼だと、思う。


秋兎は思いと裏腹な言葉を口にした。


「後で借りてきて欲しい本だけ、メールするよ」「……そう」


再び流れる沈黙の間。食事を食べる秋兎の食器の音だけが、やけに響いて感じた。


早々に食べ終えたお皿を、キッチンで洗う。

食器を洗い終えたら彼は、きっと部屋に籠ってしまうだろう―――。


「秋兎、そんな私が嫌い?」「うん。嫌い」


間髪入れずに帰ってくる言葉。


「どうして?」


負けじと問いかけるセナ。


(どうしてって……)


苛立ちが、秋兎の心を支配する。


みんなが君の事が好きだからだろう―――?


「皆自分の事が好きとか、思ってるわけ?」


答えられない天邪鬼な思いが、つい、意地悪な言葉で質問返しとなる。

セナの事を子供だとか言っておきながら、こういう態度になってしまう自分も、やはり子供なのだと思い知らされる。


「仲間に嫌われるのは、辛いから…好きになってもらえる努力はしようと思う。」

「仲間?」

「私は、本来学校という小さな社会で友人達と育むはずの社会性が身についていない。だからコミュニケーションがうまく取れずに、常識からずれていて苛々させることは、多いと思う。だから、何が秋兎を苛々させるのか、私の人としての成長のために教えて欲しい」


以前のセナならば、そんな事すら思わなかっただろう。

自分以外に興味がなかった彼女が、沢山の“人”と接する中で、人に興味を持ち、人と自ら関わろうとする。

機械と違い、人の言葉は予測できない。傷つく事だって沢山ある。

だけど、その“感情”こそが“人”としての自分を成長させてくれるのだと、気づいた。

だから、逃げるわけにはいかない。



識や、両親や、立夏や碧や、アルグレードや……セナの周りにいる“大人”達は皆、そんなセナに合わせて言葉や態度を選んで接してくれている。


セナが傷つかないように。

セナが理解できるように。

優し言葉で、タイミングを見計らって、大好きだと言ってくれる。


だけど、秋兎は違う。言葉を選ぶ事なく、時には鋭利なナイフや高速の弾丸のように言葉を放ち、ぶつけてく。

きっと、“対人”の関わりとは、こういう物のはず。

大人達の中にいたから、気付かなかった。同世代の秋兎だからこそ、気づかされる。

自分が、変わらなきゃと。




秋兎は急に、恥ずかしさが込み上げる。


セナの言っている嫌いや好きって、そう言う事?

純粋過ぎて、真っすぐ過ぎて……真っ白過ぎて――――――腹が立つ。



「……ッ!僕はセナの“そう言うところ”が、嫌いだ!」


食器を片し終わると、秋兎はセナと顔を合わせることなくプライベートルームにかけ上がり、ベッドにダイブした。


僕には、あんな言い方しかできない。

白李なら…立夏や碧や識なら、もっと上手く返すのだろう。



親に捨てられた精神的ショックもあり、アスペルガーの症状が特に悪化していた幼少期、一般の日本の義務教育には通えず、インターネットで授業を受けていたのは秋兎も同じだった。

社会性が身についていないと言われれば、秋兎も変わりない。


だからきっと、言葉が足らずに相手を傷つけてしまう。

感情で、動いてしまう

勘違いしてしまう

セナの事傷つけてしまう


そして、裏アキトの気持ちを認めてしまえば、セナを傷つけてしまう自分が許せなくなってしまう。



1階から、がたがたと物音が聞こえていたかと思うと、バタンと重い扉の閉まる音が響いた。

再び、静まり返るラボ。

セナが、ラボを出て行ったのだろう。



『変わって』

「いやだ!」


もう一人の僕が…“裏アキト”が身体の支配権を要求する。

いつもならすんなり応じる秋兎だが、両腕を抱え込んで頑なに拒否した。


「変わればセナを追いかけるんだろう?!“僕”は行かない、セナなんて知らない!」

『俺は、行く』

「僕は行きたくない!セナなんて大嫌いだ!」


心の中で、二人の“秋兎”が葛藤を繰り返す。


『………嘘つき』

「裏アキトに、何ができるのさ―――。セナの“好き”と、お前の“好き”は違うんだそ?僕達がアイツの傍に居たって、傷つけるだけじゃないか…」


(傷つける…違う。本当は、自分が傷つくのが、怖いんだ―――)


『アキウサギは、傷つかなくていい。辛い思いは、全部俺のだと、思えばいい。俺は、苦しくても、傷ついても、セナの傍に居る』


ふわふわの枕に顔を埋めたまま、唇を噛み締める秋兎。


「……ずるいよ、そんなの―――お前(裏アキト)は、(アキウサギ)なのにさ―――」


エアコンの音がいやに部屋に響く。


「お前はさぁ、なんで…セナを大事にしたいの?」

『笑っていて、欲しいから。ハクも、立夏も、識も、碧も皆…仲間だから』



「………嘘つき」



重い体をベッドから起し、一階に降りる秋兎。

リビングに丸まっていたポラリスが、ピクリと耳を震わせた。


「図書館に出かけてくる。留守番お願いね、ポラリス」


そう言うと、重い玄関ドアを開いた。



ピンクのレンガと石造りのそれは、中心にそびえる6角形が印象的な趣のある建物だ。

いつもの図書館に足を運ぶと、帽子を深々と被り、歩きながら医学書の棚周辺を遠目で見渡す。

秋兎が壁際の長椅子で揺れる茶色い髪を見つけるのには、たいして時間はかからなかった。


秋兎は別の棚から目当ての本を数冊抜き取ると、セナの手元を覗き込んだ。


(セナ…何を読んでるんだろ―――)


その内容を見て、思わず吹き出す秋兎。


「人と上手に付き合う為のソーシャルスキルについて?!」


勢いよく本を閉じ、声の主を睨むセナ。


「……秋兎?!」


一緒に図書館に行くことを嫌がっていたくせに、何故ここにいるのかとでも言いたげに驚くセナの表情。


「分かりやすい、顔している」

「………っ!何よ、来ないって言ったくせに」

「ソーシャルスキル(社会技能)、僕とセナに足らないものだね」


セナの隣に腰を落とすと、彼女が呼んでいた本を奪い取り、ペラペラとめくる。

先程まで読んでいたページをあっさりと開いてしまう秋兎。


「……アサーション訓練と、ゲイン・ロス効果。ああ“ツンデレ”のこと?」

「…………。」


フイと反対側を向いてしまうセナを横目に、秋兎はペラペラと、セナの読んでいた本を流し読みする。


「“心と脳のシステムについて”なんて、セナの専門分野じゃないか。今更?」

「……私は、そちらばかりを重視してしまい、本来繋がっているはずの大きな意味での心理学について理解できていなかったのかなって…もう一度、見直してみようと思って」


セナの読んでいた本の表紙に目を向ける秋兎。


面白いほどよくわかる心理学。分かりやすい解説付き…。


(一から勉強って…これ、素人用に書かれた導入本じゃん。セナがこんなので満足できるとは思わないけど)


彼女は既に脳科学者として数々の実績を上げている。今更ながらに何故この本を選んだのか、秋兎には理解できず眉をしかめた。

ペラペラと速読していく秋兎。読んでいた本を彼に盗られてしまったため、セナは傍らに置いていた別の本を手に取って読みだした。


―――心理学は関係を取り結ぶための学問、人間関係の基本は相手を理解し、また自分を理解してもらうというコミュニケーションの繰り返し…。


(相手を、理解する……僕は、セナの事を嫌いと決めつけて、彼女を理解しようとしていない―――?)


本を読みながら、モヤモヤとした感情が、秋兎の心を支配する。

首を、大きく左右に振り、自らの思考を欠き消した。


(いや別に、僕はセナに理解してもらおうなんて思ってないし。嫌いでもいいし……)


「ねぇ、秋兎?」


先程から本に集中していたbook fairy(セナ)が唐突に話しかけてきた。

読んでいた“好感度を上げるための心理学の法則”なるページを慌てて閉じる秋兎。


「……何?!」

「あ、ごめん…邪魔した?」「……思い切りな!」


邪魔だと言われながらも、秋兎の返事を無視して問いかけを続けるセナ。


(……僕が読んでいたページを、見られたわけじゃなかったみたいだけど―――)


「“あなたは草原に一人でたたずむ裸の原始人です。今一番必要なものはどれ?”」

「は?」


質問の意図が理解できず無言の秋兎に、セナは手元のページを隠す様に、読んでいた本を裏向ける。


「“A、服。B、食べ物。C、休む場所。”……どれ?」

「D、武器。かな」

「そんな選択肢、ないし!」


秋兎の適当過ぎる返答に、セナは頬を膨らませた。

彼女が裏向けた本の背表紙を見て、秋兎は顔をしかめる。

“怖い程当たる心理テスト!これであなたの深層心理を読み解く”と、いかにも一般的な女の子が食いつきそうな見出しが書かれている。


(……めんどくさい―――)


素直にそう感じた秋兎は心の中で大きなため息をつく。

と、先程まで読んでいた心理学の本の一文が、頭の中に蘇る。


“アメリカの心理学者は自分に似た人をパートナーに選ぶ傾向がある(マッチング仮説)を提唱し、類似性の法則…つまり類似点が強い親近感を生み、恋愛に進行しやすいとした。”


(違う違う!!別に、親近感を得たいわけじゃないし、セナに恋愛感情なんて―――)


「セナって、こういうの好きだったの?……意外」

「心理検査は統計学であり科学だけど、心理テストはただの承認欲求であり神話欲求ね。まあ、答えてみて」

「じゃぁ、B。人間の三大欲求だしね」


頭の中で全力否定をしながらも、興味深そうに自分を見つめるセナの視線に、不本意ながら答えてしまう秋兎。


「ふーん。いつもタブレットばかりで一番興味なさそうなのに。」


折角真面目に答えたのに、ツッコミを入れられてムッとし返した。


「草原に一人で原始人なら、タブレットなんてないだろ?じゃぁ、セナはなんだよ」

「服でしょ?裸なのよ、恥ずかしいじゃない。」


「まわりに人間一人だろ?それこそ服(自己表現の道具)なんて要らないじゃん?!誰に見られて恥ずかしいんだよ……」


手に持っていた本をくるりとひっくり返し、解答ぺージをめくるセナ。

そう言いつつも、セナの開いたページを、秋兎も覗き込んだ。


「「大切にしているものが分かる?」」


「Aの服は自分のテリトリーを大切にする。人の目は気にならず、他人に無関心で周囲と距離をとる傾向にある……」

「いやだって、さっき恥ずかしいとか、あきらか他人を意識した発言してたじゃん!」


ほら、心理テストなんてこんなもの―――。思わずため息が零れる秋兎。


「秋兎の選んだBは―――人からの評価や関心を大切にする。無視や無関心でいられるとつまらなくなり、天邪鬼で人との距離感に鈍感―――ね」

「逆だろ?僕とセナ」


(しかも、正反対で全然類似していないし……。やっぱり、心理テストなんてこんなものだよな…)


「じゃぁ次、“あなたは展望台に上りました。まず目についたものは?」


ページをめくり、次の設問を読み上げるセナ。


「え?まだするの?!」


顔をしかめる秋兎を他所に、選択肢を読み上げる。


「良いじゃない!Aはビル群、Bはタワー、Cは山、Dは街の夜景ね!」

「……僕の話、聞いてないよね―――セナ」

「私は山かな」

「じゃぁ僕は夜景」

「へぇ、意外にロマンチスト?」

「うるさいなぁ、早く回答めくってよ」



あるある!当たっている! とか


これは違う、当たっていない… と否定したり


そんな事ない! と、ムキになったり、


意外にそんなところがあったのか――― と驚いたり


実はそんな事、考えていたの? とからかってみたり……



気付けば二人して、心理テストに夢中になっていた。



結局大して当たっていないじゃないかという批判で本を閉じた秋兎の隣で、満足そうに微笑むセナ。


「なんだよ…」

「存外に、楽しかったわ」


へらへらと楽しそうに笑うセナ。


「嘘つけ!セナだって全然当たっていないって、文句言ってたじゃないか!」

「答えの事を言っているんじゃないわよ……」


図書館の長椅子で、セナは秋兎にぐいと体を寄せた。

肩が触れ、顔が近づき、少し肩を強張らせる秋兎。

セナの大きな瞳に吸い寄せられるように、その瞳を見返した。


「……ッ何?」

「25㎝…これは、完全にパーソナルスペースね!」


「…パーソナルスペース?」


先程流し読みをしていた心理学の本にも、確かそんな用語が出てきていた。

確か、1966年にエドワード・ホールという文化人類学者が提唱した、“近づいても許される距離”の事。


恋人なら0~15㎝、ごく親しい友人なら15~45㎝、知らない人との会話でも120~200㎝の距離をパーソナルスペースと呼び、それ以上近づくと人は不快に感じて距離を空けようとするもの。逆に相手と親しくなろうとするならば、パーソナルスペースに入らざるを得ないような状況を作ると相手の好意を引き出せる可能性があるのだ。デートに誘うなら、フレンチよりも寿司屋のカウンター、映画館やコンサート等が有効的と言われているアレだ。


「人は『行動』と『感情』が一致しないと不快になる。だから脳は自分の取った行動に合わせて感情を変化させようとするの。アメリカの心理学者レオン・フェスティンガーによって提唱された『認知的不協和の低減』ね」


ここまで説明されて、ようやくセナがへらへらと笑う理由を察した秋兎は、フイと視線をそらせた。顔が、自然と熱を帯びるのが分かる。

心理テストの本を読み終わるまでの30分程、本を覗き込む秋兎とセナの距離は、確実に15㎝を切っていた。この状況で嫌がる事もせず、セナを自らのパーソナルスペースに入れていたと言う事は、少なからず彼女に好意を抱いていると言う事を証明されてしまった事になる。


(何が…“もう一度、見直してみようと思って”だよ!完全にヤられた!!)


「ちょっとは、認知的不協和が低減されたかしら?」

「はぁ?」

「ちょっと強引な行動変容技法だけどね」


行動変容技法?セナは、秋兎の自分への好意を測っていたわけではないのだろうか。

不思議に思い、首を傾げた秋兎。


(僕に嫌われていると思っていたから、それを改善しようとしたって事?)


セナの腰の後ろに左手をつくと、今度は秋兎から、ぐいと自らの顔を寄せ彼女との距離を縮めた。


「………さっきはもっと、近かったよね?このくらいかな…」

「秋兎?」

「15㎝のパーソナルスペースへ自分から寄ってくるなんてさ、セナは僕に好意を持ってるって事?」

「なっ!!」


急に、顔を離して距離をとるセナ。慌てて視線を逸らすが、秋兎の左手に背中を阻まれ、距離が取れない。みるみると耳が赤くなっているのが分かる。


「―――瞳孔…ッ!」


セナは視線を逸らせたままぼそりと呟いた。


「え?」

「秋兎、瞳孔開いてる。……(薬剤性や疾患等は別として)人の目は暗い場所に行った時(暗順応)と強い感情を抱いた時(興奮状態)にしか大きくならないの。自律神経の支配下にある為、意図的に動かす事の出来ない、生理現象の一つよ?」


はっとし、セナと距離をとる秋兎。


(だからさっき距離を近づけてきた時、じっと瞳を見てきたのか?!)


「今の“強い感情”は明らかに“怒り”じゃないわね?だとしたら、何かしら?」


セナへの興味、好意―――。その、証明。

揶揄(からか)うつもりが、完全にしてやられた。



『この分野、俺達には、分が悪い。完全にセナの、フィールド内だ』

(知っていたなら、もう少し早く教えてよ!裏アキト)


他人事のように脳内で話しかけてくる裏アキトに、頭を抱える秋兎。



「……謀ったな?最初っからこのつもりで?!」

「いいえ。」


きっぱりと否定するセナ。


「心理テストの回答に対する意見を述べるという形で、私も秋兎も、自分自身について振り返る事が出来たと思っているわ。同時に私は、秋兎が自分をどう思っているのか、どう考えているのかを知る事が出来た。これは、私自身のアイデンティティの確認に繋がるし、“秋兎”という人物について知る機会でもあった。」

「僕を…知る?」

「ええ。良いコミュニケーションが取れたと思っているわ。だから、『存外に、楽しかった』と言ったのよ」


ニコリと笑うセナの顔を見て、秋兎の胸の奥で小さく、トクンと音を立てた。


「セナは、僕の事が…知りたいの?」

「?ええ、勿論だけど―――。興味がなければ知りたいなんて思わないし、近寄ったりしないわ。自分からパーソナルスペースに入って来たって言って、私を揶揄ったのは秋兎よ?」



「…………ッ!秋兎、変わって!」

『えっ?』「えっ?!」


突然に、身体の支配権を放棄したアキウサギ。

一瞬グラついた体を立て直す様にセナの身体を支えにする裏アキト。

倒れないようにと、とっさに彼の身体を両手で支えるセナ。


「………」

「秋兎?大丈夫?」


先程まで話していたのは、一人称や話し方から考えても表アキト(アキウサギ)の方だ。

変わってと言っていたからには、今は裏アキトの方だろうか。下を向いたままの秋兎の顔を、覗き込む。


「うん、ありがとう。」


短く返す秋兎。この素っ気なさは、間違いなく裏の方だ。


「―――私、秋兎の気に障る事を言ってしまったのかしら……」


突然の人格交代に戸惑うのは、セナだけではない。大抵は互いの同意のうえで隙なく交代を行うというのに、これほど突然の押し付け(もはや放棄?)は珍しい。

おそらく心を見透かされた秋兎の――――。


「いや。多分アキウサギの、照れk―――?!!」


両手で口元を押さえる秋兎。押さえた本人が驚いているようだ。

裏アキトの言葉を遮るように、その体にストップをかけるアキウサギ。


(人格交代時、互いへの干渉は、禁止していた、はずだぞ?秋兎)


裏アキトが、もうひとりの人格である秋兎の心に呼びかける。


『……セナに、言わないで―――お願い』

(……人に体、押し付けておいて、勝手。)

『ゴメン…でも僕、今はセナの顔―――まともに見れない』


もう一人の人格への応対に、身体を硬直させたままの秋兎を、心配気に覗きこむセナ。


「……平気。コレ、借りてて、いい?」


そう言うと、セナが初めに読んでいた心理学の本を速読し始めた。ペラペラとページをめくっているだけにも見えるが、こう見えて彼の頭にはしっかりと内容が詰め込まれているのだろう。ものの10分ほどで、分厚いその本を読み終えると、はいとセナにそれを返し、隣に積み上げていた目当ての本を開いた。


「……。」


その様子を見ていたセナもまた、返された心理学の本の続きを読もうとページを開く。

開かれたページの上に、秋兎の左手が乗る。


「何?」

「やっぱり、ダメ。セナはコレ、読まなくていい」

「……どうして?」

「可愛く、なくなるから。セナは、そのままでいい。」

「私は―――」


曖昧過ぎる理由に、納得のいかないセナ。そんな彼女の右肩に、もたれ掛かるように頭を寄せる秋兎。



ゼロ距離―――。



セナはびくりと肩を震わせ、緊張する。


「朝は、(アキウサギが)あんな言い方を、していたけど。俺は、今のままのセナの事、嫌いじゃない。」

「秋―――」「これ、読んで?」


開きかけたセナの言葉を塞ぐように、彼女の顔の前に一冊の分厚い本を差し出す秋兎。

本を受け取り、その拍子に目を移した。


「materials science…材料科学?」


マテリアルサイエンスと書かれたその本を、ペラペラとめくるセナ。


「御影隼隆は、このマテリアルサイエンスにも精通し、イデア(自動機械)を、自ら、設計した。そして、Polarisを作り上げた、水月=クラークもまた、BMIだけでなく、デバイスの設計と開発を、行っている。」


一旦その頭を離し、今度は後ろ向きにセナの左腕にもたれかかる秋兎。

頭を揺らし、丁度よい、しっくりくる場所を見つけると、彼女の左腕に体重をかけたまま別の本をめくり出す。そして、セナはBARMI(バーム)というデバイスを開発したかもしれないが、それに改善の余地が多い事は感じているのだろ?と指摘した。



「“僕達”に、足らないのは…知識と武器。本気で、御影隼隆と対峙する、つもりなら、AR(仮想現実)の世界で、イデア(自動機械)に、抵抗できる武器(素材)を持つ、必要がある。機械工学だけでなく、その材料にも、目を向けるべきだ。」


(御影隼隆(義父)と、対峙する――――――)



「秋兎は、それでいいの?」


御影隼隆は、両親に捨てられた秋兎を養子として迎え、プログラミング技術を与え、育てた人。そんな父と、彼は闘えるのだろうか。

不安げなセナの顔を、見上げる秋兎。


「そんなふうに言われると、父さんの方(味方)へ、行っちゃうけど…いい?」

「えっ?!……それは、困る―――」


一層顔をしかめるセナ。

今や秋兎の情報分析能力やプログラミング技術は、セナ達の星の木ラボにとって欠かせない存在だ。彼が御影隼隆側に与するとなれば、それこそ手の打ちようがなくなる。



「ハクか、識あたりなら、言ってそうだと、思ったけど―――」

「何…を―――」


読んでいた本をぱたりと閉じて胸の上に置き、右手をセナの頬に伸ばす、秋兎。


「君に、好意を寄せる男への、“お願い”の、仕方―――」

「お願いの、仕方?」


触れられた頬に、秋兎の掌から熱が伝わる。


『裏アキトッッ!!』

(黙ってて。アキウサギが、“変わって”って、言ったんだよ?)

『~~~ッッ!!だからって!!わざわざそういう言い方、しなくていいいだろ?!』



この“お願い”は、秋兎に義父を裏切ってセナの味方になれと言う事。

そんな重い決断を、自分がしても良いのだろうか。セナの心が、これまでになく葛藤する。

いや、これまでだって…ずっと葛藤してきた。


立夏に危険を伴うバームプロジェクトをお願いした時も。


匿名という形で守っていたはずの碧に、アメリカに来てとお願いした時も。


白李にバディのアキトではなく、自分達を選んでもらった時も。



セナはその度に、覚悟を決めてきたのだ。彼らは、守らなきゃいけない……彼らの大事な欠片を預かるからには、何を差し置いても信じていかなきゃいけない人たちなのだと。




セナは、再び覚悟を決めて、息を呑む。そして、ゆっくりと口を開いた。



「私には…貴方が必要です。“お願い”秋兎、私と…私達と一緒に闘って」



セナの左腕にもたれかかったまま、ふっと口元を綻ばせる秋兎。


(笑った…? 今は確か、裏アキト…の、方だったよね?)


喜怒哀楽を表に出すアキウサギとは反対に、ほとんどその表情を変えない秋兎が、笑った。


「いいよ。セナと一緒に、闘う。」

「―――ありがとう!秋兎」


その笑顔に返事をするように、笑顔を浮かべたセナ。



(これが…ハクの、守りたかった笑顔―――)


『―――なんだよ。あんなふうに“お願い”なんてされなくったって、秋兎は最初っから、父さんよりセナの事選ぶつもりだったくせに―――』


もう一人の人格が、脳内で皮肉を込めて秋兎に放つ。


(秋兎は、嬉しくなかった?セナが、俺達を、必要だと、言ってくれた事。)

『…………別にッッ!!―――僕は…別に。』

(俺は、嬉しかったよ――――――)


皆の、“仲間”になれた事―――。




あれから二人は黙々と本を読み続けた。

長椅子の両端に収まり切れない分厚い専門書は、セナと秋兎の足元にまで積み上げられている。


「こんなところにいた!」


本を夢中で読むセナと秋兎の手元に、影が落ちてきた。

ふと頭を上げると、立夏と白李が二人を覗き込んでいる。


「家に帰っても二人ともいないし、冷蔵庫に作り置きしていたお昼ご飯はそのままだし、携帯鳴らしてもどちらも出ないし!」

「ポラリスに聞いたら、図書館に行くというからまさかと思ってきてみたら…」


時計に目を移すと、18時を回っていた。

そう、あれから本に夢中になっていた二人は、昼ご飯も忘れて図書館に籠っていたのだ。


「book fairy(本の虫)共め……、お前達二人だけで図書館に行くのは禁止だ!どっちも限度を知らないだろう?!」


立夏と白李の後ろには、識と碧も立っていた。なかなか戻らない二人を心配して、皆で探しに来てくれたのだ。


顔を見合わせるセナと秋兎。


「もう、こんな時間……」

「水分は、取っていたわよ?」


空になったペットボトルを、2本見せるセナ。そのペットボトルを奪い取ると、そのまま彼女の手を引っ張り上げて立たせる立夏。


「でも、昼食は食べていないんだろう?」


ぐぅぅぅぅ・・・・・・


「あっ……」


空気を読んだ二人の腹の虫が、同時に鳴る。くすくすと笑う識達。


「じゃぁ今日は、ビスカムアルバムで外食にしようか?」

「いいね!セナと秋兎の腹は、ご飯作るまで待てそうになさそうだし」

「………うぅっ…」

「今から6人で押しかけると、連絡を入れておくよ」


携帯電話を取り出す碧。


「ほら、秋兎も―――」


白李が、秋兎の腕を引いて、立ち上がらせる。




似た者同士―――


秋兎は、立夏に連れられて前を歩くセナの背をじっと見つめた。



父の背中を追って、追い抜きたいと願って

社会性を身に付けずに育ち、上手くコミュニケーションが取れなくて

自分自身(アイデンティティ)を探して、

そのぽっかり空いた穴を埋めるかのように

貪るように、本を読み、知識を身に付けようとする。

知識という鎧で殻を作り、閉じこもり


だけど・・・・・・



本当は誰かに必要とされたくて、でも、素直にそう言えなくて

嫌われるのが怖くて、傷つくことを恐れている。


セナと俺は、違うようで、似ている…

まるで、自分を、見ているようだ

だから、セナの事が知りたい

セナの傍に居たい

彼女が悲しまないように


その笑顔を、守りたいと、思うんだ―――。



つづく?







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