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目を覚ました時、八神七斗は自分が置かれた状況を理解するのに、少しばかり時間を要した。白を基調とした清潔な部屋と、自らの左腕に刺さった点滴の注射を見て、ようやくその場所が病院なのだと気付く。はっきりしない意識のまま、自らが横たえられたベッドの傍らに目を向けると、ちょうどその人物と目が合った。
「七斗……!」
それが自分の母親の姿だと認識した時にはすでに、彼女は八神七斗のベッドサイドにあるナースコールを押していた。それからすぐに慌ただしく病室のドアが開かれたかと思うと、白衣を着た人物が、駆け込むようにして入ってくる。白衣を着た五十代の男性は、医師であると共に、八神七斗の父だった。幾ばくか張り詰めた空気をまとい、八神七斗の顔を覗き込んだその医師は、彼の容態を見てようやく安堵の表情を浮かべた。
「うん、もう大丈夫だ」
蒙昧な意識の中、その宣告を聞いて、母親がボロボロと涙をこぼし始めるのが見える。それでようやく、「ああ、自分は助かったのか」と、自分の現状を他人事のように客観的に理解した。その時不意に、まだ充分に機能していない彼の頭を、医師が軽く小突く。
「まったく、親に心配かけるもんじゃないぞ」
笑いかける医師が、自分の父だと気付いたのは、その時だった。そんな事にも気が回らないほど、今の自分が弱りきっている事を、八神七斗は自覚していた。
「本当によかった……通り魔に遭ったなんて聞いた時には、すごくびっくりしたんだから」
涙を拭いながらの母親の言葉に、違和感を覚える。前後の意識が混濁としているが、果たしてそんな記憶は自分の中に存在していない。何か齟齬のような物を感じたその時、八神七斗は首筋に走る痛みに、思わず顔をしかめる。咄嗟に痛みの元に触れると、彼は自分の首の左側に、大きなガーゼが貼られている事に気付いた。
「……美原さんは?」
その瞬間、意識を失う前の記憶が波濤のように押し寄せてくる。自分が美原と共に村山の家を訪れた事、村山が美原を襲おうとした事、そしてそれと同様に、自分が美原に襲われた事──それら全てが、時系列順に頭の中で繋がりかけていた。
八神七斗の問いかけに、父親が気まずそうに目を逸らす。それを、八神七斗は見逃さなかった。
「美原さんは?俺……と、一緒にいた子は?」
「……亡くなったわ」
返答したのは、彼の母親だった。
「……亡くなった?何で……」
「覚えていないの?あなた達、下校中に二人で襲われて……美原さんは、先に……」
何かが食い違った会話に、八神七斗は頭を振る。
「そんなはずは……!だって、美原さんは……俺は……!」
その時不意に、点滴の管の先に繋がるパックが、八神七斗の視界に入る。その中身が輸血用の血液だと気付いた時、八神七斗は全てを思い出していた。
「母さん、七斗も目を覚ましたばかりで、混乱してるんだ。それに、精神的な負荷をかけ過ぎるのはよくない」
「混乱?頭ならはっきりしてる!全部、全部覚えてる!覚えてるんだよ!俺は、あの時……」
「七斗」
体を起こそうとした時、父親が肩に手を乗せて、それを止められる。
「──後で全部話す。今は聞くな」
彼にだけ聞こえる小声で、父親は鋭くそう言った。普段温厚な父の口から放たれた強い語調の言葉に、思わずその顔を見やると、彼は16年の歳月の中で見た事がないほどに、表情を歪ませていた。
「しばらく入院して検査する事になるから、身の回りの物を、今のうちに持って来てくれるかな?」
その表情に呑まれ、八神七斗が言葉を失っていると、父は母の方を振り返りながら口にした。そう言う彼に、先ほどまでの表情はない。
「ええ。それじゃあ、またすぐに戻るわね」
言い残した母が、部屋を後にする。それを見送った後で、父は心労に苛まれているような、深いため息を吐いた。
「何から話したものかな……」
八神七斗が視線で問い掛けている事に気付くと、彼は困ったように後頭を掻く。その時、唐突に部屋のドアがノックされる音が響き、二人はその方向に顔を向けた。見れば、いつの間にかスーツを着た二人組みの男が、そこに立っていた。
「調査班の者です。八神先生、そこから先は我々の管轄ですので」
唐突な事に、八神七斗は状況を理解出来ずに父親へと視線を向ける。見知った仲なのか、彼は口角を上げながら、二人に向き合った。
「こんな遅くに、わざわざありがとう。けど、説明するくらいなら私一人で充分だからさ」
その言葉に、男の一人が首を横に振った。
「お気持ちは理解出来ますが、これが仕事ですので」
「……息子なんだよ」
「規則で定められています。ご理解を」
その会話の間に、父の顔からは笑みが消えていた。重苦しい空気に、八神七斗が何も出来ずにいると、父は唐突に頭を下げた。
「無理を言っているのは分かる。でも、どうか頼む。十分だけでいい」
それがあまりに意外だったのか、スーツの二人は分かりやすいほどに面食らいながら、顔を見合せる。逡巡した後、男の一人は体裁が悪そうな顔で、ため息を吐いた。
「……五分、外します」
「ありがとう、恩に着るよ」
不承不承と、二人が部屋の外に消える。それを見届けた後、父は改めて息子の方へと向き直る。
「……父さん?」
八神七斗が声をかけると、父親は神妙な面持ちで、ゆっくりと話し始めた。
「まず、ここがどこかは分かるな?」
「どこって……父さんの病院だろ?」
「うん、まあ、表向きはね」
含みのある言い方に、八神七斗は怪訝そうな目を向ける。話を急かすような視線に、彼は言葉を続けた。
「今まで黙ってきたけど、私はここの医者じゃない。ここは、私の表向きの勤務先なんだ。本当は、ICSAという組織の、医療班として働いている」
てんで先の見えない話に、何から尋ねていいのか分からず、八神七斗は呆気に取られていた。
「ICSA……?何だよ、それ。大体、その話が何と関係あるって……」
「吸血鬼」
一言、そう言われた瞬間に、八神七斗は口を閉ざしていた。脳裏をよぎったのは、村山が美原の首筋に噛まれた瞬間、そして同様に、自らが美原に襲われた、あの場面だった。気が付けば八神七斗は、自らの首元へと手をやっていた。その反応を見て、父親は言葉を続ける。
「早い話が、ICSAっていうのは吸血鬼を駆逐するための機関だ。だから、お前が吸血鬼に襲われた時、うちの隊員たちが駆けつけた」
「ちょっと待てよ。吸血鬼って……そんな話、信じろって?」
苦笑混じりに、そう尋ねる。確かに思い当たる節はあるが、しかしそれで話を鵜呑みにしろというのには、あまりに突拍子がなさ過ぎる。だが、彼の父親の表情は、とても冗談を言っているようには見えなかった。
「じゃあ逆に聞くけど、お前より体の小さな女の子が、何もなしにお前を取り押さえる事が出来ると思うか?その上で、首の奥深くにある血管を、噛み切れると?」
その言葉に、八神七斗は口をつぐむ。返す言葉もなく、彼が黙っているのを見て、父は腕組みをしていた。
「今は、どう解釈しても構わない。ただ、お前の同級生がお前を襲ったという事実だけは、受け止めてくれ」
「美原さんも村山も、普段はそんな事する奴じゃないんだ!あれは……きっと何か、事情があって……」
「──母親を殺して、同級生を襲うような事情か」
柔らかい口調で、しかし冷静に事実を突きつけられる。
「村山くんの話なら、母親の遺体を見たお前たちを消そうとした、という事でも一応は納得出来るかもしれない。けど、美原さんは?彼女自身が襲われて、傷ついた直後だっていうのに、お前に同じ事をする理由を、他に説明出来るか?」
「……何が言いたいんだよ。村山が吸血鬼で、それに襲われた美原さんも、吸血鬼になったって言うのか?じゃあ、俺は何だ!?その理屈が通るなら、俺だって吸血鬼になってるはずだろ!けど俺は別に、血を飲みたいなんて思ってない!」
躍起になって、言い返す。事実がどうであれ、二人の事を、友人の存在を貶めるような言葉を吐かれるのが、彼には耐えかねたのだ。だが、どこまでも必死な息子の姿を、父親は哀れむような目で見ていた。
「ああ。お前の体に、吸血鬼化の兆候は見られない。不幸中の幸いだな。九死に一生を得た、と言っていい。……そうでなければ、お前も殺されていたんだから」
「……お前、も?」
嫌な予感が、気味の悪い寒気となって背筋を舐める。これまでの話が頭の中で統合され、一つの結論が生まれつつあるのを、八神七斗は必死に否定しようとしていた。だが、それを許さないというように、彼の父親は事実を口にした。
「──村山くんも美原さんも、吸血鬼として討伐された」
その瞬間、足場が消えて暗所の中に落ちるような絶望感が押し寄せてくる。力の入らない手を強く握り締め、彼は半ば無理矢理に体を起こしていた。
「何でだよ!?何で二人が殺されなくちゃならなかったんだよ!?仮に吸血鬼なんてものがいたとして、血を吸うだけなら……」
「村山くんが自分の母親にした事を見ても、そう言えるか?」
至極冷静な声が、投げかけられる。八神七斗は、その問いに言葉を失っていた。
「本意でやった事ではないというのは、私にも分かる。だが、だからこそなんだよ。彼ら吸血鬼は、人間とは比較にならないほどの身体能力を持っている。それこそ、少し力加減を間違えただけで、簡単に人を殺せてしまう」
「だから、その前に吸血鬼を殺すって言うのか?そんなの……」
「一歩間違えれば、お前が殺されていたかもしれない。それに、もしお前が吸血鬼になっていたら、お前は母さんに、村山くんと同じ事をしていたかもしれないんだ」
静かな語調の言葉には、しかし反論を許さないという強い意志が聞いて取れた。彼の父親はしっかりと息子の事を見据えたまま、有無を言わさぬ圧力をかけている。恐らくそれが、彼の譲れない一線なのだろう。無論、それが家族を守りたいが故の事なのは、八神七斗にも分かる。だが、それを認めてしまう事が、村山や美原を殺されてもいい理由だとは、思いたくなかった。
「……っ、けど、俺は……!」
言いかけたその時、再びノックの音が響く。それが、父子の間に許された語らいの時間の終了を意味していた。
「……明後日、ICSAの研究所にお前を連れて行く。詳しい検査をするために」
「……母さんは、この事を?」
喉から溢れそうになる言葉を飲み下しながら、八神七斗はそれだけを尋ねる。それに対し、彼の父親はどこか悄然とした表情で首を横に振った。ともすれば、彼は八神七斗が産まれるより前から、自らの職務を家族の誰にも打ち明ける事をせず、隠し通してきたという事になる。それがどれだけ辛苦を伴う行為なのか、普段の八神七斗なら推し量る事が出来たはずだ。しかし、今の彼にそれだけの心理的な余裕はなかった。思わず父を責める言葉が口を突きそうになるのを、必死に抑える事だけが、せめてもの彼の気遣いだった。
父が部屋を後にするのを黙ったまま見送ると、それと入れ替わるように先ほどの男たちが入ってきて、父親がしたのとさして変わらない話を、事務的に聞かされた。やがてそれも終わり、彼らもまた部屋から出て行った後、一人になった八神七斗は村山や美原の事を悼みながら、静かに泣いた。