この日私は死んで、愛に気付きました。
理由なんてないけれど、何故か気になる人がいます。
何故だかわからないけれど、全力で大切にしたい人がいます。
全力で大切にしたいその人は、あまりに遠い存在で、叶うはずない距離だったけれど、幸か不幸か縮まった2人の距離。
どうしてこんなに大切なんだろう?
その理由は……ちゃんとありました。
あれ? 私どうしちゃったんだろう?
フワフワ フワフワ 身体が軽くて覚束ない。
「水野 楓さん、はじめまして」
(はじめ……まして、あの、どちら様で……)
「あなたをお迎えにあがりました、私、先導霊のミズキと申します」
(お迎えって……?)
「ああ、まだ自覚されていないんですね、ほらあそこ、記憶に無いです?」
(あそこ……? あ、カオリだ!おーい!)
ミーンミーンミーン……ジワワワワ……
アブラ蝉がうるさいぐらいに鳴いている。
聞いているだけで暑苦しい。必要以上に早起きをして、服もヘアメイクも自分なりに整えて、気を使いながら歩いてきても恨めしいのはこの暑さ。立ち止まった瞬間に湧き出る汗は如何ともし難く、髪型もメイクも微妙に崩れ、背中は流れる汗にジットリと張り付いて気持ち悪い事この上ない。
それでも、私はウキウキしていた。今日から始まる大好きな彼、若手俳優『仲山伊織』の舞台を観れるのだから。チケット運の無いこの私が、初めて取れた奇跡の最前席。もう2度とはないかもしれないし、もしかしたら一生の運を使い果たしたかもしれない今日の座席に、テンションが上がらない訳がない。
座席は決まっているのに、もしも遅刻したら大変だとか、物販に並ばなくちゃいけないからとか、約束はしてはいないものの、会場で(私達ファンは『現場』と言う)会う同じ役者さんを応援している(私達は同担と言う)友達と少しでも長い時間おしゃべりしたいからといった理由で開演時間の1〜2時間前には現場に到着している事が多い。
今日もいつもと同様、私は早めに自宅を出て会場近くのカフェに居場所を求めた。土曜日のお昼前とあってか、何処もかしこも混雑していて、なかなかゆっくり出来そうにない。
『現場なう。カフェがいっぱいで座れない』
SNSに愚痴をツイートすると、即座に返るリプ。
『お疲れ〜』
『ウチももうすぐ着くよ!』
『後で合流するね』
『今日参戦?買えたらパンフ代行よろ!』
今って、スマホ1台あるだけで退屈とは無縁だと本当に痛感する。とうとう先月アラサーからアラフォーへと足を踏み入れてしまった自分世代としては考えられない文明の進化に感謝と困惑しかない。機械オンチなんだ、私は。これほど便利なアイテムを手にしても、3割もきっと使いこなしていないに決まっている。だから感謝と困惑。
けれど、こういったアイテムのおかげで本来は会いもしなかっただろう人と繋がれるのは、時に面倒かつやっかいな事もあるけれど、楽しくて仕方がない。人見知りの自分には尚更だ。
文字だけで擬似友情を深めていると、実際顔を合わせる時の緊張感はほぼ消えている。そう言えば今日も初めて会う人が2人ほどいるはずだ。ああ、先月だったならアラサーですって自己紹介出来たのに。
今回の舞台は小説を原作にしているもので、その小説自体は2時間も掛からずに読めるサスペンスコメディだ。狭い場所に急遽閉じ込められた初顔合わせの7人の男女が、2度と外に出れないかもしれない危機的状況下で追い詰められる毎にどんどん本性が現れていくのだが、1番捻くれ者で性格の悪い主人公が、実は1番素直で可愛らしい面を見せていく。ラストは実は閉じ込められたうちの5人が仕掛け人で、主人公ともう1人を訳あって騙していたというストーリーなのだが、その主人公を私の応援している俳優が演じるのだ。
私の応援している俳優はこういう複雑な心理描写の表現が特に得意だと思っている。いやもう、顔が超絶好みの時点でなんらかのフィルターは掛かっているのかもしれないが、私も昔は舞台人の端くれだったので、演技に関してはシビアだと思いたい。思わせてくれ。じゃないとただのイタイBBAでしかない。
仕事仕事の毎日、土日祝日大型連休関係なく親の自営業を手伝わされ、色気のある出会いなどもなかった。父は早くに他界しており、母も去年亡くなった。色々後始末を終えて、自営業務も縮小して、1人細々と生きていけるように足場を固めた。これからの人生をどう生きて行こうか…なんてフと気が付いたら婚期は何処へ……と、いうより婚期を意識する前に現れてしまったのだ、彼が。
整った顔立ちに目がくらむほどのエンジェルスマイル、イベントの神対応と男性免疫が皆無の私が彼に堕ちるには充分過ぎた。しかも数回の接触で名前覚えてくれてるとかっ!
10歳の年の差がなんだ、結婚なんて夢見てない。流石にそこまでバカじゃない。リア恋ではないけれど彼の笑顔を見続けたい、応援したいと願うのは罪では無いはずだ。そんなこんなで彼の舞台やイベントには足繁く通って今日に至る。
なかなかゆったり出来るカフェが見つからないまま、私は通り過ぎそうになった一軒の雑貨屋に目を留めた。
間口も狭ければ、店内も暗い。営業しているのか準備中なのかもわからないその店に私は何故か心惹かれた。
ドアノブに手を掛けると存外軽くドアが開いた。
店内はこれまた狭い。
両腕を思いっきり伸ばせば両壁に手が付きそうなくらいだ。左右には古びた木製のテーブルが壁に沿って配置され、その上に同じく木製の大小様々なサイズの棚が置かれている。その上にいろんな所で店主が買い付けて来たのだろう、1点ものの雑貨が小綺麗に並べられていた。
「あ、このネックレス…」
(彼に似合いそう)
それはシルバーとゴールドで出来た大きさの違う三日月が3つバランス良く配置されたデザインのネックレス。
一目見て気に入ったそれに手を伸ばし、そっと値札を確認した。いや、大事なポイントだし。
「たかっ……」
思わず漏れそうになった本音をなんとか途中で飲み込んで、私は逡巡した。
高い。かなり私にとってはお高い。ゼロの数が1つ多くない?こんな雑貨屋にこんな風に無防備に置いているネックレスが……
「38000円……かっこ税抜き……」
どうする? かなり高いがここまで一目惚れする物に出会う事は滅多にない。普段プレゼントなんてあまり出来ないし、いつもなら新幹線に乗って東京まで行くのに今回は私の地元での公演で交通費も宿泊費も掛からない。これは……買い?
「気にいったかい?」
「ヒャッ!」
気配もなく近づいた、多分店主に、私は思わず悲鳴をあげた。店の古びた感じにあまりにもしっくりくる老齢の女店主は、ぶっきらぼうな口調ではあるものの気軽に声を掛けてきた。
「ああ、驚かせたね、ごめんごめん。素敵なネックレスだろう?」
「は、はい、とても……いいお値段ですけど」
私は、驚きながらも正直に頷いた。
「職人の1点ものだからね。これはね銀と真鍮で出来ているのさ」
「真鍮? 金じゃなくて真鍮なんですか?」
「そう、これはね、『育つ金属』って言われてるのさ。人が歳をとるように、金属も歳をとって味わいを増す。その味わいを楽しんで欲しいと職人が金ではなくて、真鍮を選んだんだよ」
「へえ……そんな想いが」
一瞬でも金じゃないなら尚更高くない?って思った自分の浅はかさ……穴があったら入りたい。
「辛い事も悲しい事も嬉しい事も楽しい事も一緒に味わって、良い色に育って欲しいねえ……」
ネックレスに……いや、さらにその奥、職人の想いに語りかけるように店主は呟いた。
彼に持って貰いたい。
そう思った時には声に出していた。
「これ、ください」
店主はにっこり、微笑んだ。
舞台が始まるまでにはまだ時間の余裕がある。
ピコーン!
『あと5分で駅に着くよ!』
SNSの通知が届き、その内容に
『りょ!(了解)』とだけ返して、私は店主に向き直った。
「ラッピングとかってお願い出来ますか? あ、あとちょっと今ここでメッセージカード書いちゃうんで、それも挟んで欲しいんです」
「プレゼントなんだね。カードを書くならこの机を使っていいよ」
「ありがとうございます!」
扉から3メートルほど進むと、そこはもうレジで、暇な時でもたまにお客さんと座りこんでおしゃべりでもしているのか、店主が座るのとは別に1つ木の丸椅子が置かれていた。
『 仲山 伊織 様
いつも沢山の元気をありがとう。
今日の舞台も楽しみにしています。
伊織くんに似合いそうだなと思った
ネックレスを見つけました。
気に入って貰えたら嬉しいな
水野 楓 (カエル)より』
『カエル』は私のハンドルネームだ。
彼のブログやSNSでのコメントは全て『カエル』で書き込んでいる。『カエデ』にしようかと散々悩んだが、モロ本名もどうかと思ったし、どうせ会うことは無い世界の人だしと、後先考えずに『カエル』にしたが、この世には接触イベントなるものが存在した。
役者とファンが触れ合えるという夢のようなイベントだ。
そのイベントで握手する時にいつもコメントを書き込む時の「カエル」で自己紹介した。だって、沢山のコメント、本当に読んでるとか思ってなかったし!
なのに、だ。
「カエルさん! 来てくれてありがとうございます! コメントもいつも読んでますよ」って言われた時には、何故もっと気の利いたハンネにしなかったのかと自分を呪いもしたが、彼の記憶には既に「カエル」がインプットされてしまったのだから致し方ない。
私は彼の前では「カエル」として生きるのだ。
メッセージカードを書き終えた私はカードを店主に渡した。店主はネックレスを丁寧にケースに入れ、カードと共に綺麗にラッピングしてくれた。
「私は占いが得意でね。ここで買い物をしたお客さんには1つ予言をプレゼントしているんだよ」
「予言……ですか?」
ネックレスの入った袋を受け取りながら、私は聞き返した。なんとなく、店や店主の雰囲気から、普通なら引きそうな発言にも興味が湧いた。
「あんたはあんたにとって、この世で1番大切なものを失って、この世で1番大切なものを手に入れるだろうよ」
「1番大切なものを失って……手に入れる……ですか?……それって」
ピコーン!
『到着なう! 何処に向かえば良い?』
「あ……」
「お友達と待ち合わせかい? じゃあ、もう一つだけ……プレゼント買ったって事、そのお友達に伝えておいた方が良いかもね」
「え、どうしてですか?」
「すぐにわかるよ」
口の端を少しあげるだけの目の笑っていない店主の笑みに、私はそれ以上の会話を断念した。
「ありがとうございました」と、店主に伝え、私は店を出た。
たった今言われた事が心の端に引っかかって、私はスマホを取り出した。
『今、伊織くんへのプレゼント買ってたんだ〜。駅から会場まで一直線だよね? 多分前方歩いてるかもだけど、会場前で待ち合わせって事で』
ピコーン
『りょ! 会場に向かいまーす』
リプライを済ませて、今一度後ろを振り返ると、先程までは無かったCLOSEの札が扉の向こう、小さく揺れていた。
「え……もう閉店?」
まあ、このネックレス1つでも今日の売り上げには充分なのかもしれないけれど。
「変なお店……というか、おばあちゃんだったなぁ……ネックレスは素敵なもの買えたけど」
そう呟いて、私は会場に向かうべく足を踏み出した。
「この際きわでプレゼント買ってるとか、カエルんらしいな〜」
フォロワーの1人、『カオリ』は『カエル』の事を『カエルん』と呼んでいる。なんとなくその方が可愛いらしいかららしい。
『カオリ』と『カエル』とは2年程の付き合いになる。住んでいる地域は違うが、存外気が合って、たまにしか会わないのに10年来の友人のようだった。
(あと4〜5分で会場に着くかなぁ?)
そんな風に思ったその時、カオリは自分の進む先に人だかりを見つけた。
音は消えているもののめまぐるしく点灯する赤色灯、道路を染める黒っぽい染み。
担架に乗せられようとしているその青白い顔には、嫌と言う程見覚えがあった。
「カエルん‼︎」
思わず走り出し、救急車に乗せられる寸前にその近くまで辿り着こうとしたが、人だかりに阻まれ上手くいかない。無情にも救急車は楓を乗せて何処かの病院へと走り去ってしまった。
何が起こったのかわからずに、ただ震える身体を抱え茫然としていたカオリに声を掛けた人物がいた。
「さっき運ばれた人の知り合いかい?」
「は……はい」
「そうかい、丁度良かった。これ」
先程の雑貨屋の店主が、小さな紙袋を差し出した。
「あ、あの?」
「さっきの人がうちの店で誰かへのプレゼントを買ってね、店を出た直後に脇道から飛び出して来たバイクに跳ねられちゃったらしくて……せっかくのプレゼントなのに、包みもグチャグチャになってしまったから包み直したんだよ。これ、あんたが届けてやってくれないかい?」
「わかり……ました……」
「頼んだよ」
それだけ言うと店主はまた暗い店内へ姿を消して、扉に鍵をかけた。
カオリはプレゼントを胸元に抱き抱え、しばらく涙を落とし続けた。
(あ、カオリだ!おーい!)
(あれ、どうしたの?なんで泣いてるの?何かあった?)
(ねえ、どうしちゃったの?カオリ!)
「どうして……?」
(え?)
「初めての最前だって、あんなに喜んでたのに……近くで彼の演技見れるって、表情までバッチリだって……」
(ねえ! これどういうこと?)
楓はミズキを振り返る。
空に半分同化するような薄さのミズキを。
(……って、いうか浮いてる? 透けてる? あなた一体! あ、うわっ!)
何かを悟った瞬間、楓は身体のバランスを崩し、そして今自分が浮んでいる事に気付いた。
(わ、私……なに? これどうなってんの⁉︎)
「だから申し上げた通り、私は死人を天上界へと誘う先導霊です。あなたは先程お亡くなりになったんですよ、あの場所でバイクに跳ねられ頭を強打して……御愁傷様です」
(あ、ご丁寧に……じゃなくてっ! 死んだって……私が、死んだ? そんな、どうして……最前だったのに……舞台、まだ観てないのに……伊織くんにプレゼントも渡してないのに……なんでせめて終演後じゃないの……)
「微妙に悲しむところがズレている気がしないでもないですが……さ、行きましょうか」
(行くって何処へ?)
「ですから、先程も申し上げましたように天上界へです。あの世ですよ」
(あの世へ……本当に?)
「お気の毒ですが、この世にとどまる訳にはいかないんです。このままで成仏せずに浮遊霊、もしくは地縛霊として存在したくはないでしょう?」
(それは……嫌です……)
「ならば……さあ、未練は捨てて参りましょう」
(わかり……ました)
私は、そう答えるしかなかった。
フワリ……と、身体がひと際軽くなり、身体が少し光を帯びた気がした。ゆっくりとゆっくりと身体が空に向かって上昇する。
さようなら、カオリ。
さようなら、伊織くん……芝居、観たかった。貴方に会いたかった……もっともっと伊織くんを……伊織くんを応援……
(い〜や〜だ〜!あの世なんか行かない!)
突如、弾けたように感情が暴走する。やっぱり嫌だ! この歳で駄々をこねるとは思わなかったけれど、許して欲しい。だってこんなのあんまり過ぎる!
「あのね、貴方は死んだの! わかる? 死んだからには諦めなさいっ」
私の抵抗に少し辟易したのか、ミズキの口調も若干キツくなった。
(じゃあ守護霊になるっ! せめてあの人の守護霊にならせて!)
「はあ⁉︎」
前言撤回。
私は、イタイBBAだ。
伊織くんと離れるのがこんなに辛いなんて思ってもみなかった。
もう2度と応援出来ないなんて、彼の笑顔を見れないなんて、声を聞けないなんて……
確かに、リア恋ではない。でも、心底彼が有名に、売れっ子になって、この業界で活躍するのを応援し続けるのが私の唯一の幸せで楽しみだったんだ。彼が幸せそうにしている姿をただただ遠くからでも見守りたかった。
だから……だから……
私、伊織くんの守護霊になるっ!