決断の時
その瞬間アレルは腰を抜かしてしまいそうになった。
ここが、あのカヘナ島? 俺は毒素を一体どれくらい吸い込んだ? あと俺にはどれだけ時間が残されているんだ? もう発症するのか?
頭の中を様々な光景が横切る。病院に溢れかえる患者。骨が折れても痙攣が止まらない人々。焼かれる死体。アレルは自分の体調を考えた。現在風邪のような症状は出ていない。それが救いだった。目の前が暗くなっていくのを、何度も首を振り、爪を腕に食い込ませて痛みを感じることで防ぐ。
使命を放棄できるはずがない。俺が使命を捨てて逃げたとしても、どこまでもじわじわと俺を追いかけて、やがて追いついてくるだろう。俺はこの命を懸けて、国が望んだように捨てゴマとして働くしかないんだ。
アレルは生まれて初めて自分の使命や生いたち、社会のあり方を呪った。元々自分に穏やかな日々を選択することなどできやしないのだと考えると、頭の中に今は亡き仲間達が甦る。
あぁ、大丈夫だ。俺は絶対に使命を全うするよ。俺は働かなければ。俺が死のうが泣く人間など当にいない。俺が働くことが重要なんだ。俺がやり遂げなければルード達の死が浮かばれない。俺は一体なんて時間を無駄にしてきたんだろう。俺が死ぬまでこの使命は続くのだ。
「どうした? 顔が真っ青だぞ」
「アレル、どうしたの?」
覗き込む二人に目を合わせると頭の中に浮かんだのは、ここにいた人達のことだった。その人達が病を発症して死に、特殊な力を持っていたリリーのみが助かった。だから二人は話したくないし話そうとしないのだとしたら、と、アレルは仮定したのだ。
「コロウ、こっちに来てくれ。リリーはそこにいて」
リリーには刺激が強すぎると、アレルはコロウを震える手で掴んで連れていく。心臓は胸を破りかねない勢いで暴れまわっている。リリーから少し離れ、声が届かないのを見計らってコロウを問い詰めた。
「正直に言ってくれ。ここの人達はどうなった?」
コロウは顔を背けたが、アレルは続けた。
「皆謎の病にかかったか? 最初は咳をして、高熱を出して、体が痙攣して骨が折れ、やがて呼吸困難も引き起こして死んだのか?」
そこまで言うと、コロウは驚いたようにアレルを見た。アレルの額には既に玉のような冷や汗が吹き出して、今にも失いそうな意識を必死で保っている。
「お前、医者か?」
「違う。答えてくれたら俺の素性も目的も好きなだけ話そう。その前に質問に答えてくれ。ここの人達は病で苦しんでいたか?」
コロウは少し考えてから頷いた。
「わかったよ。答えてやる。ここの人達はーー」
心臓が大きく跳ねた。額を汗が伝い落ちた。手がさらに大きく震えた。コロウの口から出てきたのは
「そんな病になんてかかってなかった」
という言葉だった。一瞬アレルの頭が真っ白になる。
「病に、なって、ない……?」
俺の仮定は間違っていた? いや、確実に毒素にさらされる範囲の中に入っているはずだ。
「ちゃんと思い出してくれ。激しく咳込んでいる人はいなかったか?」
アレルは信じられない思いで再確認する。コロウは斜め上を見上げてしばらく考えて、また頷いた。
「そんなにひどい人はいなかった。風邪引いてる人もたまにいたけど、そんなにひどくはなかったし」
「そう、か……」
アレルはそのまま地面に座り込んだ。たらたらと流れてくる汗を拭いながら、大きく息を吐いて胸を撫で下ろす。手は震えが止まらず、心臓も激しく鼓動したままだったが、アレルはとにかく何も言わずに深呼吸をした。
病になった人はいない。つまり、ここは毒素の原因ではなかったということだ。では、原因はどこに?
「お前、一体ーー」
「アレル!」
ついに待ちきれなくなったリリーが駆けてきたのを見て、コロウは口を閉じた。アレルはただ放心状態で座り込んだまま、頭の中で毒素の原因を考えていた。
カヘナ島から毒素が出ていないというのなら、一体どこから毒素が出ているのか。他に原因があって、この島に毒素が届いていないということは、あまりにも検討違いな場所に向かっていたことになる。一体、どこに毒素の原因が?
「アレル、大丈夫?」
リリーがアレルの目の前にしゃがんで顔を覗き込んだ。
「あぁ、大丈夫。少し気分が悪くなっただけだよ。ありがとう」
使命は俺に追いついた。もはや逃げられない。俺はもうどちらかを捨てなければならない。決断の時が来たのだ。もちろん分かってる。俺は国を選ばなければならない。そのために俺はここにいるのだから。今夜を最後にしよう。それから使命を全うしよう。もう、この穏やかな日々には戻れない。
そう考えた時、アレルは心の中から光が無くなっていくのを感じた。まるで人生の全てを失ってしまったような絶望に近い感覚で、全身から力が抜けた。
「アレル、大丈夫?」
リリーがアレルの腕を自分の肩に回した。
「今日はもう休もう。コロウ、家に帰りましょう」
力がうまく入らない。足がもつれた。リリーの体温を感じていたくて、離したくなくて、捨てると決めて、ようやくアレルは自分の本心が使命なんかよりも断然リリーを優先したかったのだと気がついた。
あぁそうか、俺はリリーが好きなんだ。この優しくて、かわいくて、綺麗な花みたいなこの人に恋をしているんだ。ずっと笑顔を見ていたい。ずっと側にいたい。ずっとあの日々を生きていたい。無理だ。無理だ。そう、無理なんだ。無理だから、きっとこんなに辛いんだ。「恋ってのはな、空も飛べるくらい嬉しくて楽しいもんなんだ」って、ルードが言っていた。今までを振り返れば、そういうことなんだと納得する。使命などなければ、俺は今嬉しくて楽しいのかな。いや、もういいんだ。俺にはやはり使命しか残っていなかったのだから。
その日の晩、アレルはリリーを呼んだ。何も知らないリリーは嬉しそうにスキップしながらついてきた。夜の海辺で、アレルは残骸の一つに腰掛け、リリーも隣に座った。
「どうしたの? アレルが夜に海に行こうなんて、珍しいね」
リリーはにこにこしながらアレルの肩に寄りかかった。いつもだったら顔を真っ赤にしているところだが、この優しい時間がアレルには辛かった。普段と違う何かを察したのか、リリーは心配そうにアレルを見た。
「アレル、どうしたの?」
そう訊かれて、アレルは深呼吸してから言った。
「俺は明日から一緒にいられない」
その言葉に、リリーは目を見開いた。
「ど、どうして? アレルは、毎日楽しくなかったの?」
今にも泣きそうな顔をしているのが、見ていられなかった。アレルはそっとリリーを抱き締め、静かに続けた。
「そんなはずないだろ! とても、とても楽しかった。人生で一番心が安らいで、幸せな時間だった。でも、俺にはどうしてもしなければならないことがあるんだ」
何万という命を救うために。今苦しんでいる多くの人達の未来を守るために。
「しなければ、ならないこと?」
「そうだ」
「でも、戻ってくるのよね?」
リリーは顔を上げてすがるように言ったが、アレルは首を横に振った。
「夜になっても俺は戻らない。俺はこれから一人で行動する」
その瞬間、リリーの顔はひきつった。
「いやよ! そんなのいや! 私も一緒に行く!」
「俺は明日から危険な場所に行くことになる。何が起こるか、何が体に害を起こすか分からないところに。そんな場所に連れていけない」
何が原因になっているか分からないし、空気中に混ざっている無色無臭の物質がどういう形で飛散させるか分からない以上、俺は汚染された、と考えるのが妥当だ。もしかしたら毒素そのものは液体で、気化するときに有毒になるのかもしれない。そうなれば、付着したままリリーに会えば有毒化した空気を吸わせることにもなる。もしかしたらリリーは特殊な力があるから大丈夫なのかもしれないが、確証がない以上すべきではない。
「そんなのいいわ! 危険でもいい! お願いよ。アレルお願い」
アレルはリリーの肩をそっと掴んで離すと、にっこりと微笑んだ。
「俺はリリー、君のことが好きなんだ。今まで生きてきて人を好きになったのは初めてだ。でも分かる。俺は好きだ。何よりリリーが大切なんだ。そんな大事な人を危険な場所に連れていくなんて俺にはできない。大切だから、一人で行くんだよ」
「好き?」
「そうだよ。俺はリリーと一緒にいるととても幸せなんだ。楽しくて、嬉しくて、もっと一緒にいたいと思う。ドキドキして、胸がいっぱいになる。この気持ちを好きって言うんだ」
最後に教えてあげられる言葉は好き、だった。
「好きだよリリー。だから俺は一人で行かなくちゃ」
君を危険な目に遭わさないように。
アレルはそっとその場を離れた。リリーはしばらく固まったままで、やがてアレルを追いかけようとしたが、側にやって来たコロウが止めた。リリーの泣き声を、アレルは聞くことしかできなかった。




