嵐の夜の真実
意識がはっきりとしないまま、ゆっくりと視界が開けた。ピントが合わず、ぼやけた景色が広がっている。アレルは目でゆっくりと見回してみるが、見慣れたものは何一つなかった。代わりに、目の前を何かが忙しなく動いているのが分かった。徐々に輪郭が分かるようになり、それが鳥なのだとアレルはなんとなく理解した。鳥だと断言できなかったのは、その生き物が植物でできていたからだ。果物や花を寄せ集めるようにして描かれたアルチンボルドの絵を彷彿とさせるその姿はどう見てもでたらめで無茶苦茶だった。
ぼんやりと眺めていると、鳥は急に驚いたように跳ねた。
「起きた! 起きたよイット!」
何度も羽をばたつかせるようにしてアレルの胸元で忙しなく動き回っていたかと思うと、急に視界から消える。奥であの鳥がけたたましく何かを話しているが、アレルはぼんやりと天井を見ているばかりだった。体は動かない。力が入らない。頭もうまく回らない。それでもアレルは目を動かしてなんとか状況を理解しようとする。
ここはどこだ? 一体あれからどうなった?
仲間は? 船は?
見回しても状況把握に役立つものは何もない。
そうこうしているうちにあの鳥が戻ってきた。
「ほら! こいつ起きてるぞ!」
「コロウ、そんなに急がないで」
おっとりとした女性の声も聞こえる。あの鳥はどうやらコロウという名前らしい。コロウはアレルの胸の上に飛び乗ると、何度も跳び跳ねた。体が動かないのでアレルはただ見ていることしかできなかった。
「もう、そんなことしたらダメでしょう」
と、若い女性がコロウを優しく両手で包み込むように持ち上げた。ストレートで長い黒髪と、黒くて丸い大きな瞳が特徴的だった。鼻は高く、色白で、おっとりとしていた。
「ごめんなさい。コロウはあまり人が好きじゃないの」
と、申し訳なさそうにその女性は笑った。
「こんなやつ早く追い出そう!」
何度も羽をばたつかせながら言うが、女性は特に気にせず、アレルの額にそっと手を触れた。女性の手は冷たくて心地が良かった。
「まだ少し熱があるみたい。ねぇ、大丈夫?」
返事をしたかったが、声も満足に出なかった。
「なぁ、追い出そう! やっぱり追い出すべきだ!」
「あ、何か飲んだら楽になるかしら」
コロウという鳥をナチュラルに無視しながら、女性はどこからかヤシの実を持ってくるとアレルの隣に置いた。
「どうぞ」
と、にっこり笑う。何かをする気配はない。ただにっこりとアレルを見ていた。
ヤシの実を手で割って飲めということだろうか。それとも何か道具が側にあるのだろうか。いや、これはヤシの実に似た柔らかい実なのではないか。ヤシの実を手で割れなんて言うはずがない。
アレルは周囲を見回すが、道具らしきものは見当たらなかった。
「あーもう、イット! ヤシの実は普通の人間は割れない! 割ってあげないと!」
見てられないとばかりにコロウが口を出す。
「そうなの?」
イットという女性は目を丸くした。
目を丸くしたいのはこっちの方だ。この女性はヤシの実を素手で割れと言っているだけでなく、自分は割れると言うのだろうか。この華奢な体のどこにそんな怪力が? 非科学的すぎる。コロウという奇妙なものがいる時点で俺の予想を越えているのだから、もし何らかの力が働いていて、信じ難いほどの力を出すことができているとすれば、非常にまずい。
水を飲ませようとして俺の頭を上げる。そこまでは大丈夫だったとしても、次の瞬間コップがめり込んで顔面が陥没しているかもしれない。体を拭こうとか言って腕に触れた段階で俺の腕の関節が2つになっているかもしれない。
体が動かない今、彼女が善意全てが俺の死に直結する。疑うべきだった。こんな訳がわからない鳥がいる時点で尋常じゃない状況に陥っているというのに、何をのんきに構えているのか。
頭は徐々に調子を取り戻し始め、ようやく目が覚めた。
「割って飲ませてあげるんだ!」
「分かったわ、コロウ」
割られるのはヤシの実だけで済むか? 俺の頭も割られやしないか?
アレルはなんとか逃げ出そうとするが、体はまるで動かない。
動けよ! 動いてくれよ! こんなわけが分からないところで頭割られて死ぬのは嫌だ。
イットは両手でヤシの実を持つ。それはもうアレルにとって死刑宣告のようにも思えた。ヤシの実を包んだ両手は、実を割るどころか木っ端微塵に粉砕した。果汁が飛び散り顔が果汁まみれになる。そこまで考えて、アレルはイットの手元から光が出ていることに気がついた。
重力を失ったかのようにヤシの実は宙に浮き、イットがヤシの実を優しく撫でるとまるで割れ目でもついていたかのように綺麗に半分で別れ、果汁が球を作って宙に舞った。まるで自分が行くべき場所を知っているように、果汁はヤシの実の片割れに入っていく。
あまりの信じ難い光景に、アレルは我が目を疑いながらも凝視した。物理学も自然の法則も完全に無視した状況を、まさに今目にしているのだ。
果汁が残らずヤシの皮に収まると、光は消えた。イットは果汁の入ったヤシの片割れを両手で持ち、アレルの隣に置いた。手を宙で一度回すと、どこからともなく現れた葉が、手も触れていないのに勝手に折り畳まれていくのが見えた。それはやがて小さな杯の形を作り、イットの手におさまった。
怪力などではない。彼女は現代科学では説明がつかないような、とても神秘的で奇跡と呼ぶのにふさわしい力を持っていたんだ。
イットは丁寧な手つきでアレルの頭を持ち上げると、葉の杯で果汁をすくい、アレルの口元に運んだ。かなり喉が渇いていたらしく、ぎこちなかったがなんとか飲み込んだ。体の隅々に染み渡るような感覚に浸っていると、
「美味しいでしょう? 私大好きなの」
と、イットは笑顔で話し掛けてくれた。それから、アレルに何度もヤシの果汁を飲ませた。ゆっくりと、ペースを合わせて飲ませてくれるため、弱った体にはありがたかった。イットがにっこりと笑いながら話してくれる。
「ごめんなさい。コロウはあんな風に言うけれど本当はとても思いやりがあるいい子なの」
予想外のことが起こっているが、それでも安心して良さそうだ。一定喉の渇きが潤うと、再び眠気が押し寄せ、アレルは目を閉じた。
翌日、アレルが目を覚ますと、イットは昨日と同じようにコロウと一緒に側にいた。忙しなく動き回るコロウに対し、イットは常にマイペースで急ぐことがない。
「こんばんは」
と、にっこり笑うイットに、コロウはすぐに騒がしく跳び跳ねる。
「こんばんは、は夜! 朝はおはよう!」
「あら、そうなの?」
とりあえず反応してはいるが、特に気に留めていないようだった。どれも挨拶でしょう、と言いたげである。イットを見ると心は安らいだが、アレルはほとんど出ない声を絞り出した。
「他に、誰か、いなかったか?」
ルードは、アクシードは、他の船員達はどうなったのか。どんな結果だとしても聞いておかなければならなかった。
イットとコロウは顔を見合わせ、イットが返答した。
「あなたと、木の破片と、布と、それから……」
「いない」
見てられないとばかりコロウが割り込んだ。
「お前の他には誰も流れ着いてないぞ。期待なんてしない方がいい。砂浜に打ち上げられたものを見たが、あの様子じゃ船は大破。仲間は全滅だ」
アレルは目を見開き、無理矢理体を起こした。視界がぐらつこうが関係ない。それでも起き上がるのが限界だった。歩き出そうと思ってもそれ以上体は言うことをきかない。
「まだ、見つかって、ない、だけ」
「なら、見に行けばいいさ。船なんてもうないぞ。残骸だけだ。お前だってあのまま放っておけば死んでたのに、イットが助けるって言うから助けたんだ!」
コロウは嘘をついていない。心のどこかで分かっていた真実を言われただけ。それなのに、なぜこんなに苦しいのだろう。嵐を乗りきったはずだった。はずだったんだ。仲間は皆そこにいた。全員が歓声をあげてた。ルードもアクシードもすぐ側にいた。いたのに。
コロウはその場から飛んでいってしまい、一気に静かになる。悔しくて、悲しくて、辛くて、信じたくなくて、アレルは小柄な体で苦しみに耐えようとした。生き残ったのは自分たった一人。何度も仕事をやり遂げたアクシードや彼の船員達、何年も寝食を共にしたルードさえも一晩のうちに消えてしまった。
人生のほとんどの時間を学問に費やしてきた自分と外界を繋いでくれたルード。仕事で海を渡るとあればいつも自信満々に高笑いして必ず送り届けてくれたアクシード。何度も仕事をするうちに仲間として受け入れてくれた心優しい船員達。信じられない。皆、死んでしまったなんて。俺には彼らしかいなかったのに。大切な仲間だったのに。なんて儚いのか。なんて呆気ないのか。
いつの間にかこらえきれない苦しみが目から溢れ出していた。一粒、二粒。手の上に落ちていく水の粒。
俺は、泣いているのか。泣くってこういう気持ちなのか。胸が裂けてしまいそうなほどに痛い。こんなに痛いのか。こんなに苦しいのか。涙の止め方を、心の痛みの和らげ方を、俺は知らない。
人生の半分は学問で、人生のもう半分は彼らだった。それ以外に孤児だったアレルには何も無かった。イットが心配そうに見ているが、反応する余裕など今のアレルには無かった。
「痛いの?」
イットが恐る恐る尋ねるが、アレルは答えなかった。察してその場を離れることもせず、ただおろおろしていたが、やがてイットはアレルを優しく抱き締めた。予想外のことで目を見開いたアレルにイットは優しく声をかけた。
「私が痛い時、コロウがいつもこうしてくれたの。痛いのは一人で我慢すると痛いまま。でも、こうやって側にいると少しずつ痛くなくなるの」
イットはアレルのことを考えてくれていた。言葉の意味は少し違っても、理解してくれていた。涙がじわりと溢れ出し、それをきっかけにして次々涙がこぼれた。そうして、アレルはイットに体重を預けるようにして泣いたのだった。