プロローグ
荒れ狂う大海原。叩きつける雨粒。大空を覆い尽くす漆黒の雲の奥が怪しく光る。天上から落ちる光の槍が轟音と共に闇をなぎ払い、一瞬の間に闇がまた光を飲み込む。
その下を一隻の帆船が進んでいた。ぶつかり合う突風になす術もなく弄ばれ、今にも転覆しそうな一隻の船。その甲板では、幾度となく襲いくる衝撃に飛ばされながら乗組員が駆けていた。体当たりしてくる波の衝撃に飛ばされ、押し寄せる波に流され、何度行く手を阻まれても立ち上がる。
「帆を張れ! もたもたすんじゃねぇ!」
船長のアクシードの太く気丈な声さえこの嵐の中では容易にかき消されてしまう。船に波が叩きつける度に悲鳴が起こり、船員達は簡単に飛ばされた。何度も危機を乗り越えてきたアクシードの体は誰よりも筋肉質で大きい。特に腕は誰よりも太く鍛えられているが、大自然の力を前に歯が立つはずもない。必死に舵をとりながら、アクシードは船員達に声をかけ続ける。
「海に落ちるんじゃねぇぞ! この嵐突っ切るまで何がなんでも耐えやがれ!」
何人もの船員が叩きつけられている中を、小柄な青年が一人駆けていた。衝撃が来る直前に身をかがめ、飛ばされるのを防ぎ、少しずつ、けれど確実に前へ進む。慎重に、そして大胆に。前へ。前へ。
「アレル、飛ばされんじゃねぇぞ!」
アクシードの声を聞きながら、アレルはマストを支えるロープの方へと向かっていた。
「俺も行く!」
そう言いながらアレルの隣に、金髪に青のメッシュの入った特徴的な髪をした別の青年が追いついてきた。アレルは頷き声を張り上げた。
「ルード、ロープの切断頼む!」
「了解! アレル、サポート頼む!」
タイミングを見計らい、二人は同時に駆け出した。手近なものを掴んで、次々襲う衝撃に耐え、吹きつける突風に逆らいながら確実に距離を稼ぐ。
なんとかマストを支えるロープまでたどり着いた二人は、揺れが収まった一瞬の間にロープを掴んで体を固定した。背中からぶつかってきた波の衝撃に耐え、次の衝撃が来る前にロープを全力で登る。そして、ついに帆を固定していたロープを目前にした。
「切るぞ!」
ルードが腰にあった剣を降り下ろすと、弾かれるようにロープは頭上へ飛んでいった。直後、船に比べ物にならないほどの衝撃が襲った。アレルは咄嗟にロープにしがみついたが、剣は頭上へ、ルードは反対側へと飛ばされた。
「ルード!」
ロープの向こう側に飛ばされていく友の姿を捉えた直後、落ちてきた剣が頬を軽く切り裂いた。まるでそれが合図であったかのように、アレルはルードの方へと飛び出した。船体は斜めを向き、アレルは危険を省みず甲板を滑り降りていく。
再び船が跳ね、ルードは甲板に叩きつけられ船外へ飛び出しそうになるが、ギリギリのところでなんとかロープを掴んだ。追い討ちをかけるようにすぐさま波が押し寄せる。アレルはバランスを崩しながらもなんとかルード側までたどり着いた。そこには今にも落ちそうなルードの姿があった。片腕でなんとかロープを掴んでいるが、いつ海に落ちてもおかしくはない。
「ルード!」
アレルは思いきり手を伸ばし、ルードの腕を強く掴んだ。足をぶらつかせながら必死で登ろうとするが、いたずらにもがくだけだった。
「ルード!」
もう一度アレルが叫ぶと、ルードは動きを止めた。一秒、二秒、じっと目を合わせ、やがて二人は同時に吠えるような声をあげた。再び襲う衝撃。揺れる船体。強く引き上げるその力に、ルードの体は一気に船内へ引き戻された。
「おめーら! もう少し耐えやがれ!」
アクシードの声を聞きながら、二人は肩を上下させてロープにしがみついた。
いつの間にか空は白じみ、海は穏やかさを取り戻し始めていた。分厚くのしかかっていた雲には切れ目ができ、雨はやんでいた。嵐が、終わったのだ。
「おめーら、よく耐えた! 乗りきったぜ!」
アクシードの声に、船内からは歓声が起こった。アレルは安堵と共に海の男の偉大さを噛み締めていた。
「ったく、お前はほんとに頼りになるやつだよ!」
と、勢いよくルードは肩に腕を回した。アレルの身長が165センチなのに対して、ルードは175センチ。男女のような身長差があったが、ルードは全く気にしていない。
「ありがとよ、アレル。おかげで助かった!」
「死ぬかと思ったけどな」
アレルはルードと遥か海の先を見た。チラリと右上を見てみれば、ルードのトレードマークともいえる金髪に青のメッシュが目に飛び込んでくる。一度も髪を染めた事がないアレルには、どこか憧れでもあった。
「俺らの船は無敵だ! はっはっは!」
「ゲルーセント号」と彫られたマストを力こぶが盛り上がるほど太い腕で力強く何度も叩きながら、アクシードは高笑いした。アクシードが命名し、数々の航海を潜り抜けてきた自慢の船の名がそれだ。
「このまま目的地までいっちまおうぜ!」
「あぁ!」
ルードが隣で声を上げ、アレルも応えた。
「ほら、おめーらもたもたすんじゃねぇ! さっさと仕度しやがれってんだ!」
どこか遠くなる。ルードの声も、アクシードの声も、船員の歓声も。
代わりに大きくなる。波の音が。すぐそこで。
頬を何かが撫でている。開けていたはずのまぶたを押し上げてみる。何故かまぶたは開いた。状況を理解できないまま、ぼやける視界の中に見知ったものを探す。何かが近づいては遠ざかってを繰り返しているのが見え、それが打ち寄せる小さな波ということに後れて気がついた。
アレルは意に反して落ちてくるまぶたを懸命に開け、今にも失いそうな意識をなんとか繋ぎ止めようとする。状況を把握しようと目を動かした。視界に広がるのはベージュの世界。頬に当たっているざらざらとしたもの。打ち寄せる波。一つ一つ随分と時間を費やして考えてから、アレルはようやく自分がうつ伏せで打ち上げられているのだと理解した。
船。仲間。今の状況。頭は回らず、まるで考えられない。眠気が重く体にのしかかってくる。起き上がろうにも、体はまるで石にでもなってしまったかのように指先1ミリすら動かなかった。また、まぶたが落ちてくる。抵抗したが、否応なしに視界は暗くなっていく。
ふと、視界に何かが映った。暗くなっていく世界の中で、アレルは打ち上げられた木の破片を見た。「ゲルーセント号」と彫られた木の破片を。全てを理解する前に、アレルは意識を手放した。