哀しみにさよならを
「もう、随分昔の話よ。バンちゃんやしぃちゃんが生まれるもっとずっと前……」
幸恵さんはそう言って、ずっと胸の奥にしまいこんでいた記憶の扉を開く。
「終戦して復興が始まったとは言え、まだまだ混乱している最中だったわ。そんな時にね、一人の異国の男性と恋に落ちたの」
思わぬ国際恋愛に私もしぃちゃんもほんの少しだけ前のめりになる。そんな私達を見て少し微笑んで幸恵さんは話を続ける。
「あの時の私は、今の二人よりも少し若かったかしらね。彼と出会ってすぐに恋に落ちて、もちろん周りには秘密の恋だった。それが余計に燃え上がる状況だったのかもしれないわ……。将来の約束もしてたけれど、あの頃は国際結婚もなかなか難しくてね。そうこうしているうちに彼が本国に帰還することになったの」
それって、さっきのアーモンドの花言葉の由来に……、そう思って幸恵さんを見るとひとつ頷いてくれた。
「バンちゃん、そうよ。村木さんが話してくれたストーリーと似ているでしょう。それから、彼は必ず迎えにくるからと私に何度も誓ってくれたわ。そして私も彼と永遠の愛を誓って、彼を見送ったの」
珍しく、大人しく話を聞いていたしぃちゃんが思わず「素敵」とつぶやいた。すると幸恵さんが小さく「ありがとう」と笑った。
「運命の恋……愛だと思っていたの。ただ周りが見えていなかったと言われたらその通りだったかもしれない。だって、それから少し月日が経つと居ても立ってもいられなくなって、親の猛反対を振り切って、それまでの恩や生活、友達といった全てを捨てて、私は海を渡り彼の元へと旅立った……」
それは、いまの幸恵さんからは想像がつかないようなアグレッシブな行動だった。村木さんも少し驚いた様子でティーカップを口に運ぶ手がピタリと止まっている。しぃちゃんも固唾を呑んで続きを待っている。
「彼の愛を信じて海を渡ったのだけれど、現実は甘くなかったわ。彼には新しい恋人がいたの……。これもアーモンドの話と同じね。今なら人の心も季節と同様移り変わるものだと理解もできるけれど、その時の私はまさか彼の愛が移り変わるなんて疑いもしなかったし、それを許せるほど大人でもなかった」
言葉の最後が少し震えた幸恵さんは、落ち着かせるようにハーブティーを一口含んだ。
すると、目の前が急に暗くなった。たぶん目頭が熱くなって鼻の奥がつんとした私に気づいたしぃちゃんが、タオルを目に当ててくれたんだと思う。ごめんなさい、勝手に泣いちゃって。
「まぁ、どうしましょう……。バンちゃんを泣かせるつもりじゃなかったのだけれど」
「大丈夫です。バンちゃんはちょっと感受性が豊かでとってもとっても優しい女の子なだけです」
「あらあら、二人ともとってもいい子ね。うふふ」
あぁ、幸恵さんの「うふふ」魔法だ。ちょっと元気でたかも。
「それで、緑川さんはそのあとこちらに帰って来たのですか?」
私の涙で中断していた話を村木さんが戻してくれた。すると幸恵さんは少し後悔の念がこもったような声で話を再開する。
「そうすれば良かったと今なら思います。だけど、私も変に意地になっちゃって……、そして彼は本当にとても優しい人でした。全てを捨ててきた私を追い返すことが出来なかったのでしょう。恋人と別れて、いつかの誓いを守って私と一緒になってくれました」
そこまで聞くと、素直に喜べないかもしれないけれど、結局愛する人と一緒になれたはずなのに、幸恵さんの曇ったままの表情に三人とも言葉が出なかった。
「彼は私をとても大切にしてくれました。ホームシックになった私のために桜に似たアーモンドの木を植えてくれて……今日この花に巡り会えて、本当に懐かしかったわ。私は、毎年その花を見ては異国の地で故郷に思いを馳せることができたの」
「幸恵さんは、幸せだったのでしょう?」
なのにどうして、バンちゃんみたいな顔をしてるんですか? しぃちゃんが思わずそう言うと、幸恵さんは少し言い淀んだあとぽつりと呟く。
「ええ。だけどその幸せは他人の不幸の上に成り立った「幸せ」なの。本当は私ではなく彼はもう彼女を愛してたはずなのに、意地をはらずにすぐに帰れば良かった。そしたら、二人の愛を壊さずにすんだの……」
「それは、緑川さんのせいじゃ……」
村木さんがたまらずそう口を挟んだけれど、幸恵さんは頭を振って、しまいこんでいた感情が堰を切ったように溢れだした。
「分かっています。けれどずっと悲しかった。ふと彼が本当に愛していたのは私じゃなかったんだと思うと、彼の優しさに必至にしがみついてるのがなんだかみじめに思えて……。それなのに私は潔く手放すことも出来なくて……ごめんなさい」
とうとう幸恵さんも堪えきれずに涙がこぼれた。すかさず、しぃちゃんが新しいタオルを取り出して幸恵さんの涙を拭いながら背中をとんとんと叩いてあげていた。
しぃちゃん……大好き。私なんか泣くことしかできなくて、しぃちゃんみたく慰めることが出来ないや。
「しめっぽくなっちゃって、ごめんなさいね」
「今、ご主人は……」
ほんの少し落ち着いた幸恵さんがそう言うと、村木さんがおそるおそる聞く。
「一緒になってから十数年後に病気で……。その時、思ったんです、私は彼の優しさにずっと、ずっと甘えていただけで何も出来なかったんだと。それから、随分迷ったのだけれどこっちに帰ってきて……。いやね、聞いて欲しかったはずなのにこんな感情的になってしまって、なんてなんだか恥ずかしいわ。悲しお話だったわね」
「そん……」
「そんな事ありませんよ!」
村木さん、あなたもですか? 私が口を開いた瞬間、村木さんがやけに力強くそう言ったあと、急に手帳を取り出して白紙に「哀」という字を書いて見せた。
「緑川さんは「悲しい」とおっしゃいましたが、「悲」は「哀」とも書きます。確かに哀しい事も多かったかもしれません。でも、でもですよ……」
ちょっと力が入りすぎて息切れしている村木さん。カップに残っていたお茶をがぶりと飲み干すと、また熱く語り始めた。
「この字は「あい」とも読みます。辛いこともあったでしょう、でも思い出してみてください。それだけじゃなかったはずです。だから、つまり……その、あなたは常に「あい」に溢れた生活を送っていたんですよ!」
村木さんの言葉に、いてもたってもいられずに私も立ち上がる。
「その通りです! 幸恵さん、悲しい記憶で塗りつぶさないでください。アーモンドをプレゼントしてくれた時、ちゃんと2人は笑い合ったはずです。そんなご主人の優しさをただの同情だったと言うんですか?」
ちゃんと思い出してください。幸せだったと言ってたじゃないですか、その日々をちゃんと思い出して!
「悲しくて辛くて胸が苦しいのも、嬉しくて幸せで胸が苦しいのも、そいうの全部ひっくるめて「あい」って言うんでしょう?」
とんだこじつけかもしれない、自分でもわかってる。それでも、悲しいだけなんかじゃなかったはずだ。
最初は驚いていた幸恵さんも私達の言葉を聞いたあと、瞼を閉じて何かを反芻しているようだった。どれくらいそうしていたのだろうか、やがて幸恵さんがゆっくりと目を開ける。
「……ええ。そうね、そうだったわ。ちゃんと幸せの日々もあった。確かにしこりもあったけれど……。そうよ、あの頃の2人には悲しみだけじゃないちゃんと「あい」があった。ちゃんとあったわ」
幸恵さんのその言葉とその微笑みに、ホッとして力が抜けたのかすとんと座り込んだ。しぃちゃんが支えてくれる。
「後悔ばかりで記憶に蓋をして、悲しいままの記憶にしていたのね……ありがとう、バンちゃん。ありがとうございます。村木さん」
「いいえ。私こそ余計な話をして……」
「そんな事ありません。こちらこそ長年の……」
「いえいえ、出すぎたことばかりで申し訳ない」
幸恵さんに何度も丁寧にお礼を言われて、村木さんがやけに焦ったように答えている。
最初に声を掛けられた時といい、さっきの言動からして少し気になってはいたけれど、しぃちゃんの顔を見るとニヤリとして頷いた。
あら、あら?
哀しみも幸せも全部抱えて、一歩前へ踏み出そう。