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幼馴染の恋愛シミュレーションに嫌々つき合わされていた俺が、他の女子に告白されたんだが

作者: 瀬尾順

          1


 桜なんて、とっくに散っているのに。

 

 下駄箱の中で発見したパステル・ブルーの封筒。その中身を確認した後、俺は思わずそうつぶやいた。

 

 ここんとこ最近は落ち着いていたのに、また始まってしまったらしい。

 

 最近の気温の上昇が影響したのか、それとも少女コミックにでもまた感化されたのか。

 

 はたまた単なる発情期なのか。

 

 つーか今日はバイトの予定が入ってるんだが少しはこっちの都合も考えろこんちく――

 

「悠木、どしたの?」


「うぉっ!?」


 反省猿のようなポーズで下駄箱にもたれて、ぶつぶつ文句を言っていた俺の思考に背後からの声が割り込んできた。

 

 慌てて半開きの靴箱に封筒と便箋を突っ込んで勢いよくフタをする。

 

「あっ、今何か隠した。なになに?」


 振り向くと、同じクラスの長谷川夏海がにやにやと笑いながら、俺の下駄箱に手をのばしている最中だった。


「こら、見るんじゃない!」


 俺は夏海の手をぴしっと払いのける。


「えっちな本?」


「そんなんこんなトコに隠すか!」


「じゃあ、ドコ?」


「ベッドの下とか……。あっ!?」


「定番すぎてつまんないね。あと、アンタ素直すぎ」


 がっくりとうなだれる俺を尻目に、夏海はさっさと自分のスニーカーを両足に装着した。

 

 その瞬間、制服のスカートの裾とカバンについたマスコットが揺れる。


「どーでもいいけど、そんなトコでボケーッと突っ立ってると邪魔よ。悠木」


 気がつくと、もう昇降口はたくさんの下校する生徒達で満ち溢れていた。

 

 せっかく終業のチャイムとほぼ同時に教室を飛び出したのに、もう追いつかれてしまったようだ。

 

 夏海は俺の肩をぽんと叩くと、「じゃねー」と言って元気に駆け出していった。

 

 俺は靴箱から少し折れ曲がってしまった封筒と便箋、それからスニーカーを取り出した。

 

 めんどくさそうにかかとを踏みながら眩しい外の光に目を細める。

 

 そして、ひらひらと封筒とおそろいの模様のついた便箋を目の前でかざしながら校庭に向った。

 

 初夏から夏本番にシフトしかけた太陽の日差しが、俺の頭を容赦なく照りつける。

 

 ため息一つ。

 

『中庭の桜の木のところで待ってます』


 丸文字で書かれたメッセージが揺れた。


          2


 その下で想い人に告白すれば必ず両想いになれるとかなれないとか――。

 

 そんなありがちな伝説を持つ中庭の桜の木の下で、予想通り首筋まで真っ赤にした遠目にも緊張しまくりとわかる恵が待っていた。

 

 幸いなことに辺りに他の生徒の姿はない。

 

 もうすぐ中間試験が始まるので、部活動が軒並み活動を中止しているからだろう。

 

 昇降口から吐き出された大量の生徒達は放流された稚魚のごとくみんな校門へと向っている。

 

 誰も好きこのんでこのクソ暑いのに、太陽光線に焼かれたくなんかないのだ。

 

 恵が俺の姿に気がついた。

 

 何か言っているみたいだが、じわわわわとアブラゼミが奏でる夏のノイズにそれはかき消される。

 

 俺は額に薄っすらと浮かんだ汗を拭いつつ、小走りで恵のそばに寄っていった。

 

「あっ、あっ、あのっ。きっ、来てくれて、あっ、ありがとうござ、あうっ! 痛っ! ひたいよ~っ!」


 恵いきなりかみまくり。


 俺は思いっきり脱力した。

 

「あっ、あたひぃ、しょの、えっと、あうっ、ひたい! あっ、あにゃたのほとが、しゅき……あわあわっ、えーと、あっ、ひっ、ひたいひいたよ~!」


 俺はとりあえず、目の前いる意味不明の言語を発する生物の額に水平チョップを入れた。


 夏空にびしっという乾いた音がいい感じに響き渡った。


「あたっ! ゆうきちゃんひどいよ――!」


 暑さと緊張と怒りと打撃で真っ赤になった顔を恵が俺に向ける。


「あっつい。もう帰る」


「そんな、まだ終わってないよ~っ!」


「三十点」


「せめて全部聞いてから点つけてよ――!」


「じゃあ百点でいいや」


「テキトー! それ絶対テキトーでしょっ!? ねぇ、ちゃんと練習付き合ってよ~っ!」


 恵は必死にそう叫びながら、俺の制服を何度もくいくいと引っ張った。


「あーでもいつも俺思うんだけど、こんな事しても意味ないって言うか――」


「だって、今度は、今度こそは失敗しちゃったら困るもん」


 すんすん言いながら、恵は涙で潤んだ瞳で俺を見上げる。


 涙目の上目遣いは反則技だ。


 俺は頭をかきながら、本日二度目のため息をついた。


「あーもう! わーったよ」


「本当!? ゆうきちゃん」


「その代わり、帰り何かおごれよ」


「らじゃー!」


 兵隊さんの敬礼のようなポーズをとりつつ、恵は満面の笑みを浮かべた。


 本番もこうなら、何も練習などいらないのだが。


「んじゃ、いくよ!」


 両手の拳を握って、恵は身構えた。


「暑いからなるべく早くな」


「あっ、あのっ、あっ、あたしっ、あなたのことが、ずっと、まっ、前から、あぅっ! 痛っ!」


 恵やっぱりかみまくり。


 俺は痛み始めた額に手を当てつつ、たぶん夕暮れまでは確実にかかるであろう恵の『告白シミュレーション』に付き合ってしまったことを早くも後悔し始めていた。


          3


 俺の小学校からの幼馴染である相田恵あいだけいを一言で表現しようとすると成績優秀、容姿端麗、性格上等、etcな美句麗句がどうしても出てきてしまう。

 

 別に幼馴染だからと言って、贔屓目で見ているわけではなくて困った事にこれは紛れもない事実なのだ。

 

 小学校の時から恵のところに返ってくる答案はいつも百だ九十だの景気の良い数字が当たり前のように赤ペンで書き込まれていたし、中学にあがって成績順位が貼り出されるようになってからは首位に『相田恵』以外の名前があった記憶が俺にはない。

 

 容姿については多少童顔気味ではあるものの、繁華街に行けば必ずといっていいほど芸能プロダクションやモデルクラブのスカウトマンの名刺をもらって帰ってきてしまうくらいで、その枚数はそろそろ三桁に突入しようとしている。

 

 大概、そこまで恵まれてしまうと性格はヒネてしまうのが世の常であるが、恵は少しマズイんじゃないかと思うくらい素直なヤツである。

 

 以前、美術の授業で恵をスケッチしていた時、冗談で「芸術のために脱いでくれ」と言ったら顔を真っ赤にして「み、水着じゃダメ?」と言ってスクール水着に着替えに行きそうになったのを慌てて止めた事件は今も記憶に新しい(ちなみにその後、俺はクラスの男子どもに何故止めたと激しい責め苦を受けた)。

 

 そんなこんなでこの世に敵などもはやなく、幸せいっぱい、夢いっぱいな将来が確定しているかに見える我が幼馴染であるが、やはり誰の人生も甘いばかりではないようだ。

 

 神は恵にもちゃんと苦難の道――欠点を用意していた。

 

 恵は極端なアガリ症なのだ。


 それもハンパじゃない、『超』がつくくらいの特上品だ。


 恵のアガリ症を俺が最初に確認したのは、忘れもしない小学一年の二学期初日。その日はクラス委員の選挙が行われ、クラス全員の支持をもって恵がその座につくことになった。


 自分からは決して目立とうとはしなかったために一学期はこんじまりと図書係りをしていた恵であったが、たぐいまれな知力、容姿は一学期の間にクラス全員が認めるところとなっていたのだ。


 先生に名前を呼ばれて教壇にあがった恵は、俺達クラスメイトにペコリと頭を下げてニッコリと微笑んだ。


 普段から一緒に遊んでいた俺でさえ、一瞬胸が高鳴るくらいの可愛らしい笑顔だった。

 

 みんなその眩しい笑顔に魅了されつつ、恵の言葉を待った。

 

 待った。

 

 待ち続けた。

 

 俺はその時、時が止まったんじゃないかと思った。

 

 たぶん、他のクラスメイト達も同じだったと思う。

 

 笑顔のまま俺達の方を見て固まる恵。

 

 教室の中がざわめき始める。

 

 「恵ちゃん? どうしたの?」

 

 心配した担任の若い女教師が恵のそばによって、肩にふれると恵は笑顔を浮かべたまま教壇から転げ落ちた。

 

 ごっ! 

 

 という鈍い音をたてて、顔面から床にダイブした恵はやはり笑顔のまま額から大量の血を流して失神していた。

 

 教室は一気にパニックに陥る。

 

 恵の姿を見て悲鳴をあげる女教師、泣き出す女子、無意味に騒ぎ立てる男子。

 

 ここぞとばかりに火災報知器のボタンを押すヤツなんかもいた。

 

 結局、俺が隣のクラスに駆け込んでそこの教師を連れてくるまでそのカオスは収まらなかった。

 

 下校時、俺は恵の様子を見るために保健室まで足を運んだ。

 

 保健の先生が不在だったので勝手に扉を開けて、中に入るといきなり「ゆうきちゃん」と呼ぶ声。

 

 頭に包帯を巻いた恵が白いベッドの上でションボリと座っていた。俺は恵にいったいどうしたのかと訊ねる。

 

 恵はうつむきながら真っ赤になって、小さな声で答えた。

 

「えっと……気絶しちゃったみたい……」



 ここ一番という時に、極度にアガってしまう。

 

 これは思った以上にやっかいな欠点だ。

 

 何故なら、ここ一番という所をいかに上手くクリアーできるかどうかが、その人間のその後の人生に多大な影響を及ぼすからだ。

 

 入学試験、クラブの発表会、入社試験、恋愛、結婚と人生は重要な選抜で構成されている。

 

 その数々のシーンにおいてことごとく実力を発揮できず敗退していては、実際にはどんなにすぐれた能力を持とうとその者の人生は暗いものとなるであろう。

 

 齢六歳にしてそのことに気がついていた聡明な恵はその欠点を克服するために一つの結論を出した。

 

『練習するしかないよ!』


 いかにも生真面目な恵が出しそうな結論であるが、俺は恵の口からそのことを聞いた時、子供ながらに気丈にも自らの過酷な運命に立ち向かおうとする恵の姿に少し感動していた。

 

 感動しただけならよかったのだが、感動ついでに余計な一言を発してしまった。

 

「俺でよかったら、協力してやるよ」


「本当!? ありがとう! ゆうきちゃん!」


 ――これが間違いだった。

 

 その後、俺はことあるごとに、恵の様々な練習に付き合わされることになる。

 

 生徒会役員の選挙演説、ブラスバンド部の演奏会、入試の面接、その他もろもろ。

 

 クソ真面目でしかも本格嗜好の恵はできうる限り、本番に近い形でトコトン納得するまでそれを反復練習する。

 

 結果として、俺もトコトンつき合わされるのだ。

 

 そして、恵の練習する課題の中で突発イベント的に度々発生するのが『告白シミュレーション』だった。

 

 アガリ症のくせに何故か惚れっぽい恵は部活の先輩だ、教育実習の先生だと年上の優しい系の男が現れるとすぐにハートを天使に打ち抜かれて、毎度「これが最後の恋だからっ!」とわめいては俺を告白の練習台に使用する。

 

 ちなみに今回が二十三回目の恵の『最後の恋』。

 

 これまでの戦歴は二十二戦中二十二敗。結局、恵は一度として本当に告白することはできなかった。

 

 正直なところ、恵ほどの容姿があればどんなにアガリまくっても好きだという意向さえ相手に伝わればかなりの高確率で想いは成就するのではないかと俺は予想するが、伝える前にくじけてしまうのではさすがにどうにもならない。

 

 正直、練習とかそういう問題ではなくて、しのごの言わずにお前、さっさと告って来いというのが俺の中の結論であり毎回、無駄なことに付き合わされるこっちの身にもなりやがれこの野郎、だいたい今日俺はバイトが。

 

「はい、ゆうきちゃん」


 俺の目の前にことんと音を立てて、ドーナッツが大量にのったトレイが置かれた。

 

 思考を中断された俺はジト目で隣に座った恵を見る。

 

 早くも冬眠前のリスのように頬袋いっぱいにドーナッツをつめこんだ恵が「何?」という顔をする。

 

 口元には小さなドーナッツのカケラと砂糖粒が大量に付着。

 

 そんな中身は小学校低学年な恵の様子に怒りも霧散してしまい、俺は「別に何でもねーよ」とアイコンタクトで答えた後、ちゅごごごごとLサイズのコーラを飲んだ。

 

 恵はそんな俺を見て小首をかしげた後、二個目のドーナッツに取りかかった。「こちらでお召し上がりですかー?」バイトのお姉さんの声がやたら大きく店内に響く。

 

「で、今回はうまくいきそうなのか?」


 俺はテーブルに頬杖ついたまま、店内に流れる有線放送に耳を傾けつつ恵に訊ねた。

 

「うーん……どうかな」


 さっきまでの元気がウソのようにしぼみ、恵は頬を染めてうつむく。


「お前さ、結局今まで好きだって一度も言ってないだろ?」


「う、うん」


「今度はちゃんと言えよ」


「でも、怖いから」


「お前なら、大丈夫だって」


「そうかな? 自信ないよ」


 こいつは自分の価値をまるでわかってない。


「お前がそんな台詞を言うのか。他の女子に刺されても知らんぞ」


「ゆうきちゃんはあたしを過大評価しすぎだよ」


 恵はそう言うと、自分の皿から一つドーナッツを俺の皿に移した。


「でも、ありがとう。コレあげるね」


 にこっと笑う。


 不意打ちの恵の笑顔。


 それは小学校の時から俺が見てきた、恵がごく親しい者にだけ向ける表情だった。


 俺のドーナッツを口に運ぶ手が一瞬止まった。


「どしたの? ゆうきちゃん」


 恵の声に我に帰る。俺は恵の問いには答えずにドーナッツにかじりついて租借した。

 

 恵はまたひとつ小首を傾げる。

 

「いつ、告るんだ?」


 恵の方を見ずに、訊ねる。

 

「たぶん、明日の昼休み」


「頑張れ」


「うん、頑張る」


 ――ちゅごごごご。


 俺はため息をつく代わりにもう一度わざと大きく音を立てて、すでにただの色つき砂糖水と化していたコーラを飲み干した。


          4


 授業終了のチャイムが聞こえて目が覚めた。

 

 恵の『告白シミュレーション』に付き合った次の日、俺は教師の催眠攻撃に敗退して三時限目の授業のほぼ半分を夢の中で聞いていた。

 

 目をこすりながら起き上がると、ノートは汗でふにゃふにゃになり、その上にこれは象形文字かと見まごうばかりの奇妙な記号が並んでいた。

 

「悠木、眠そうだね」


 隣の席の夏海が下敷きで自分に風を送りながら、俺に話しかけてきた。


「眠い。マジ眠い」


「あー昨日は寝苦しかったからねー」


「そーじゃないけど、色々考え事してたら眠れなかった」


「何か悩み事? なになに? お姉さんに話してごらん!!」


 興味津々の目をした夏海が俺の席の方にぐっと身を乗りだしてきた。


「誰がお姉さんだ。同学年だろうが」


 しっしとノラ犬を追い払うようなジェスチャーで、ゴシップ好きのクラスメイトを視界の外に追いやる俺。


「ふーんだ。私の方が二ヶ月年上なのっ! 悠木なんて数学で落第してどーせまた二年生だよっ! そうしたら完全に私が先輩だからね!」


 頬を膨らませて夏海が俺をにらんだ。


「何で俺が数学で落第すんだよ?」


「あっ、さっきの授業で小テストあって、あんた寝てたから0点」


「起こせよっ! そういう時はっ!」


「そんで、先生が後で職員室に来るようにって♪」


「ノ――ッ!」


 俺は両手で頭を抱えて、机につっぷした。


「ゆうきちゃん、どしたの? どっか具合でも悪いの?」


 己の身に降りかかった不幸にすっかり意気消沈していた俺のところに『委員長』と書かれた腕章をつけた恵がやって来る。


「……別に何でもない」


 俺は右頬を机にくっつけたまま、そう答えた。


「本当に? 気分悪いなら保健室行こうよ。あたしいっしょに行くから」


 世話好きな恵が俺の額に手をぺとっと当てる。熱を測ってるらしい。


「相田さん、平気平気。こいつ昨日はベッドの下のご本で頑張りすぎただけだから」


 夏海がとんでもないチャチャを入れる。


「えっ? 本で頑張る?」


「お前は恵の前でそういうことを言うなっ!」


 俺は勢いよく立ち上がると、夏海の額にめがけて連続で水平チョップを繰り出す。


「甘いわ!」


 しかし、運動神経のいい夏海は俺の攻撃を全て古語辞典でガードした。


「ちっ!」


「ふっ」


 お互い、間合いをとってにらみ合う。


 無意味に緊張した空気が俺達の間に流れた。


「ゆうきちゃんと夏海さんって、二年になってからの知り合いなのに仲いいんだね」


 恵が俺と夏海の間でぽつりとつぶやいた。


「あはははは、俺達仲いいんだってさ、長谷川さん」


「うふふふふ、光栄ですわ。悠木くん」


 俺達は乾いた声で笑った。たぶんこいつは俺にとって、強敵と書いて親友と呼ぶ仲なのかもしれない。


「恵! 次、移動教室だからもう行かないと!」


 教室の出口あたりに立った女子数人の声が俺達の笑い声とかぶる。


「あっ、うん、でも……」


 恵は女子の団体と俺を交互に見て、あう~とうなった。


「ん? 恵、俺に用だったのか?」


「あっ、あのね、今日――」


 そこまで言いかけて、恵は急に口をつぐむ。


「ゴメンね。やっぱいい」


 恵は素早く踵を返すと、俺と夏海に背を向けて駆け出した。


「あっ、おい恵」


 俺は恵の小さな背中に声を投げる。


「次、音楽室だから、ゆうきちゃんと夏海さんも早くね!」


 俺の方を見ずに恵はそういい残して、教室を去った。


「言いかけてやめられたら気になる……って、あっ、痛っ?!」


「ほれほれ、私達も行こうよ。悠木」


 夏海が机から取り出した縦笛で俺の背中をつつく。


「わーったから、武器で刺すな!」


 俺は夏海とふざけあいながら、教室を出た。


 購買部における苛烈なパン争奪戦を何とか勝ち抜いた俺は、戦利品であるカツサンドとヤキソバパンを持って意気揚々と教室に帰還した。


 弁当組のヤツらはすでに食べ終わっている者がほとんどで、各々が仲の良いもの同士で固まって談笑しながら昼のひと時を楽しんでいた。

 

 実家が定食屋を営む恵も弁当組のメンバーであり、いつもならこの時間帯はクラスの中でも大人しめの女子達で構成されている輪の中にいるはずだが――やはり今日はその中に姿はない。


 覚悟を決めていったようだ。


 きっと今度はうまくいくだろう。


 頑張れ。


 俺は教室の中を一通り見渡して恵がいないことを確認すると、自分の席について昼食を摂り始めた。


「森、森、沼、島をタップして、闇の申し子に不敗の傭兵っ!」


「オーロラの砦でガードッ!」


 隣の席では夏海を中心としたクラスの中でもやかましめの女子で構成されたグループがデカイ声を上げながら何かのカードゲームをやっていた。


「ううっ、もうライフがほとんどない……あっ、悠木、いいパン買えた?」


 口にパンが入っていたので、俺は無言でうなづいた。


「それからさ、相田さんが早退したそうたい」


「むぐっ!?」


 夏海の意外な言葉に、パンが気管支に入りかかる。


「あっ、そんなに面白かった?」


 勘違いした夏海が嬉しそうに微笑んだ。俺は何とかパンを飲み込んで口の中を空にすると席を立って、夏海に早口でまくしたてた。


「夏海! 何で恵、早退したんだよっ!?」


「えっ? さあ、気分が悪いって言ってたけど……そんなこと詳しく詮索なんかしないよ。女の子なんだからさ、ねえ?」


 夏海の言葉に周囲にいた他の女子達もこくこくとうなづいた。

 

 彼女達は事情を知らないのだから、当然の反応だった。

 

 俺は黙って席に戻ると、カツサンドの残りを無理矢理口に放り込んで封を切っていないヤキソバパンは机の中にしまった。租借しながら、右ナナメ三つ前の恵の席を眺める。

 

 クラスメイト達の笑い声で満ちた教室の中で、主人がいなくなった恵の席はポツンと一人で取り残された小さな子供のように見える。


 うん、頑張る。


「嘘つき」


 俺はカツサンドを飲み込んだ後、誰にも聞こえないような小さな声でそう言った。


          5


 放課後、ちょうど校門を出た瞬間、俺の携帯にメールが届いた。


 title:緊急指令

 本文:天の岩戸を開けてくれ。相田聖


 恵の実家『さんばん亭』は安い、早い、そこそこ美味いを信条にした大衆食堂だ。

 

 築四十年はゆうに超える古き良き昭和の時代の木造日本家屋を筆頭に、埃のかぶったサンプルケース、ガムテープで補修したまま何年も放置してある窓ガラス、そして極めつけはペンキがはげかけて『さんば』までしか遠目には読めない看板等々が目印となっている地域密着型の極々こじんまりとした店であり――ぶっちゃけ暖簾が出てなければツブれているようにしか見えない。

 

 それが初めてこの店を見た人々の大方の感想ではないかと思う。

 

 ちなみに、『さんばん亭』の名前の由来は故人である恵の両親が「一番とか二番じゃなくていいから。三番くらいがちょうどいいから」と言って『三番手』をもじって『さんばん亭』にしたとのこと。

 

 しかし、恵はともかく気性の激しい現店主であり、恵の実姉でもある聖さんは大いにこの覇気のない名前が不満であるのだが、それでも故人である両親の意志を尊重して今日も元気に『さんばん亭』と書かれた暖簾を夕方六時に玄関に掲げる。


「おっす。ゆうき」


「どうもです。聖さん」


 三角巾をかぶった聖さんがあげたばかりの暖簾の埃を片手ではたきながら、俺を見た。


「早速で悪いんだが、ウチのバカ妹を引っ張りだしてくれ。あんなんでも貴重な労働力だからな」


「了解です」


「悪いな」


「もともと来るつもりでしたから気にしないでください」


「晩飯おごるから食ってけ」


「ども」


 俺がすすけた暖簾をくぐって店の中に入ると、そこはもうすでにちょっとしたお祭り騒ぎだった。

 

 胃袋なんて弾けてしまえと言わんばかりにどんぶり飯をかっくらうガタイのいいばりばり体育会系のお兄さん方。

 

 ビールを飲みつつ神棚のすぐ隣に設置された十四インチテレビのナイター中継に一喜一憂する日雇い労働者の方々等々。

 

 気の弱い男や若い女性にはちょっと足を踏み入れられない世界だ。


「てめぇら、開店前から食わしてやってるんだから、もっと静かに食えっ! つーか、もっと上品にしやがれっ!」


 しかし、この世界のマスターは若干二十歳の聖さんなのだが。


 俺はテーブルとテーブルの間の狭い空間を通り抜けて、建付けの悪い曇りガラスの引き戸を力任せに開いた。

 

 すぐ右に見えるこれまた狭い階段をのぼって左側が恵の部屋だ。ぎしぎしと嫌な音を立てる階段を駆け上って、俺は恵の部屋の前に立った。


「け――い!」


 障子の向こうに呼びかける。


 予想通り返事はなかった。


「入るぞ!」


 勝手知ったる幼馴染の部屋。俺は障子を主人の了承も得ずに両側にばんっ! と開け放つ。次の瞬間、恵の使っているシャンプーとかリンスの匂いがして、可愛らしいぬいぐるみやら鉢植えのラベンダーやらが視界に飛び込んでくる。ロール・プレイング・ゲームの酒場のような様相を呈している階下とはまるで別世界だ。

 

 しかし、肝心の主の姿はなかった。――が、これも予想の範囲内だったりする。


 俺はどすどすと足音をたてて、押入れの前に立つ。


「恵」


 ふすまに向って語りかけた。


「あう」


 ふすまが答える。


「このクソ暑いのに、何こんなトコに立てこもってるんだ? お前は?」


「ううっ、ほっといてよ~」


「聖さんが店手伝えってよ」


「有休」


「給料もらってたのか?」


「ううん、有休扱いじゃないとおこづかい減らされるの」


 結構不憫なヤツだった。


「とにかくお前には俺も色々と聞きたいことがある。武器を捨てて出てこい」


 俺はそう言うと、ふすまを開けようとする。


「うう~っ。お説教なんか聞きたくないよ~っ」


 押入れの内側から、必死で恵はふすまを押さえていた。

 

 たぶん脚力も投入し全力をもって我が軍の侵攻を阻止しようとしているのだろう。

 

 がたがたと音を立てながらふすまが数センチ開いたり閉じたりを繰り返す。

 

 均衡状態。

 

 力が互角ならばあとは精神力がモノを言う。

 

 頑張れ、俺。

 

 ――つーか、いいかげんにしてくれ。


「いい子だから、手間をかけさせるなっ!」


「ううっ、やだやだ。ゆうきちゃん怒ってるぽいもん!」


「怒ってないっ! 割と怒ってないから開けてみろ!」


「割とじゃやだよっ!」


 ちっとも話が進まなかった。


「本気だすぞっ! この野郎っ!」


 俺はかっと目を見開いて、ふすまをぎりぎりと少しずつだが確実にこじ開けていく。


「ああっ! だめだめっ! ゆうきちゃん、やめて――っ! いやああぁぁっ!」


 事情知らないヤツが聞いたら、思いっきり誤解されそうな声をあげる恵。


「だめだったらっ! あっ?! はずれ……」


 恵の叫び声にがたん! という異音が重なった。


「はいっ?」


 俺がすっとんきょうな声を上げた時、もう眼前にはふすまが距離数ミリのところまで迫ってきていた。


「ぐはっっっっ?!」


 顔面に相撲取りの張り手をくらったような衝撃を受けた後、俺はそのままふすまに押し倒される。後頭部と畳の間で鈍い音がした。


「ゆ、ゆうきちゃ――んっ?!」


「おい、お前ら、何やってるんだ? エッチっぽい声聞こえてきたし――って、恵、出たか」


「おっ、お姉ちゃん! 大変だよっ! ゆうきちゃんがふすまにつぶされて圧死しちゃったよ~っ!」


「尊い犠牲だな。南無」


 いや、死んでないんで。


 俺はふすまの下、薄れゆく意識の中で相田姉妹にツッこんでいた。


 漫画によく出てくる大きなバッテンの形の絆創膏を額に貼りつつ、憮然としてメシをかっ食らう。

 

 午後十時四十二分。

 

 最後の酔っ払いを追い出して『さんばん亭』はようやく暖簾をしまうことができた。

 

 先ほどまでぐるぐると渦巻いていた喧騒の渦がすっかり消えうせた店内は少しばかり寂しい気がする。

 

 俺は相田姉妹とテーブルを囲んで、本日残った食材全部を使った質、量ともに豪勢な夕食をごちそうになっていた。

 

「ゆ、ゆうきちゃん、おかわりいる?」


 俺の隣に座った恵がおずおずと、俺の顔をのぞきこむようにして見る。


 じろりと半眼でにらんだ。


「あうあう~っ」


 恵が涙目になって頭を垂れる。


「ゆうき、おかわりは?」


 もう食事は済ませて、のんびりと新聞を読んでいた聖さんが俺に訊ねる。


「お願いします」


 笑顔で茶碗を差し出す俺。


「ん、たんと食え」


「うわああああんっ! 何で、何で~っ?!」


 頬に米粒をつけたまま、恵が騒ぎ出す。


「嫌われたな、恵」


 山盛りにご飯を盛った茶碗を俺に差し出しつつ、聖さんがあっさりとした口調で言った。


「そんなことないよ!」


 だん! とテーブルを叩く恵。


「いや、嫌いだから」


 茶碗を受け取って俺もあっさりと肯定した。


「ひどいよ――! ちゃんと謝ったのに――っ!」


 恵はテーブルにつっぷして、だんだん! とテーブルを連打する。皆のコップの中の烏龍茶が波を打った。


「でも、まあ今回は割りと早く復活したな。いつもならフラれる度に三日は押入れから出てこないからな」


 新聞をたたみながら、聖さんが恵と俺の方を見る。


「こいつの場合、フラれるんじゃなくて、勝手に自己完結するだけです」


「この根性なし」


「ううっ……。こっ、今回は、その自分で自分の気持ちがちょっと分からなくなったって言うか……」


 俺と聖さんの二人に責められた恵は頬を紅潮させつつも、少し拗ねた口調でそう言った。


「揺れる乙女心か。青春だな」


 聖さんが嫌味っぽく口の端をつり上げて、笑った。


「何よー、別にいいじゃん……」


 顔全体を真っ赤にしつつも、恵が聖さんをにらんだ。


「それって、また自己完結パターンか? そんくらいで学校早退すんなよ。バカ!」


 夕食を食べ終えた俺は恵の後頭部にチョップを入れた。

 

 ごっ! という鈍い音がして、恵は頭をがくん! と前に倒した。


「痛いよ――っ! 反省してるからもうやめてよ――っ!」


「やかましい! 昨日、今日と振り回された俺の身にもなってみろっ!」


 チョップ連打。


「あうっ! 痛い、痛い! ゆうきちゃん、あたしまだご飯食べてる、食べてるからっ! うわああぁぁん! お姉ちゃんも笑って見てないで何とかしてよ――っ!」


 ――こうして相田家のいつもの夜が更けていく。


          6


 朝が来た。

 

 俺はベッドに寝転んだまま、枕元でけたたましく鳴り響く目覚ましを速攻停止させる。と、入れ替わりに今度はセミの鳴き声が耳の中に響く。

 

 薄いカーテンを易々と突破して差し込んでくる朝日はすでに凶悪なくらい眩しい。


 朝から夏全開。


 思わずエアコンのスイッチを入れて、二度寝したくなる。


「お兄ちゃん、起きた? あっ、起きてる。おはよー」


 ドアを開けて、妹の春奈が俺の部屋の中をのぞきこむ。


「暑い」


 そう言って、俺はげんなりとした顔を春奈に向けた。


「お兄ちゃん、朝からさわやかさがカケラもないよ」


「お前にさわやかな笑顔を見せてもしょうがないだろ」


 俺はぼさぼさになった頭をかきながら、寝巻き姿のまま春奈の横を通り過ぎて部屋から廊下に出た。


「あー、お兄ちゃんもうちょっとちゃんとしたほうが……まぁ、いっか」


 後で意味不明のことをのたまっている妹をその場に残して、俺は大アクビをしながら階段を下りて台所に向う。

 

 いつものコーヒーの匂いが鼻腔をくすぐり、ジャーと言う油がフライパンの上で弾ける音がした。


「おは……ふあっ……」


 すだれをくぐって、アクビまじりの挨拶をする。


「あら、おはよう」


 ガス台の前で朝飯を作っているおふくろが俺の方を振り向く。


「おい、出水お前、もうちょっとしゃんとせんか」


 すでにワイシャツにネクタイをビシッと身につけた親父が、朝刊をずらして俺を見た。


「ふあっ、おふぁよう。ひゅうきひゃん!(あっ、おはよう。ゆうきちゃん!)」


 ストロベリージャムをたっぷりと塗ったトーストを頬張りながら、恵が俺にニッコリと微笑んだ。俺は水道で顔を洗った後、おふくろの差し出したタオルで顔を拭いながら、いつもの自分の席についた。


「ゆうきちゃんはトースト、バター? ジャム?」


 隣の席の恵が焼きあがったばかりのトーストを持って俺に訊ねる。


「あっ、母さん、俺、今日は目玉焼きいらない」


「また? ダメよ。ちゃんと朝は食べないと」


「そうだよ。ゆうきちゃん、無理してでも食べないと」


「しょうがないわね、じゃあ春奈の分に……あっ、春奈はまだ来ないの?」


「さっき俺の部屋に来てた。もう来るって」


「ゆうきちゃん、春奈ちゃんに毎朝起こしてもらってるの?」


「お腹減ったー! お母さん、ご飯、ご飯!」


「おうっ、春奈来たか。お前に俺の目玉焼きやる。めちゃくちゃ感謝しろ」


「どうせ、お兄ちゃんは食欲ないだけでしょ――!」


「あっ、あの! ゆうきちゃん、そろそろあたし限界っ! ってか、ツッこんでよ! ねぇ、あたしの存在をスルーするのはよそうよ! お願いしますっ!」


 恵はそう言うと、俺の寝巻きの袖を掴んで、何度も引っ張った。


「いや、すまん夢かと思ってたんで」


 涙目で俺を見上げている恵を見た。


「ううっ、勝手に夢にしないでよ~」


「夢じゃなかったら、何でお前が朝からウチにいるんだよっ! お前ん家の方がずっと学校に近いだろっ!」


「そっ、そっ、それは……」


 頬を上気させて、恵があわあわと焦りだす。


 自分でツッこめと言った割りには使えない相方だった。


「それは?」


「えっ、えーと……つまり……」


「つまり?」


「あっ、ゆうきちゃんトースト、バター塗っちゃったけどいいよね?」


「ごまかすなっ!」



 結局、恵は何故にわざわざ遠回りして、ウチに寄ったのか最後まで答えなかった。

 

 どうせ、また何かの『シミュレーション』にでも付き合わせるつもりなんだろう。

 

 例えば先日やった『告白シミュレーション』を再トライとか――。


 勘弁してくれ。


 俺は顔に無数の縦線を入れて足取りも重く学校に続く坂道を上る。

 

 同じ学校に向う周りの学生達も暑気にあてられて、半分死んだようになっていた。

 

 シャツの襟元をバタつかせて風を体に送る男子生徒、汗で額に張り付いた前髪を引っ張り剥がす女子生徒。

 

 みんな俺と同じようになめんなこの野郎という顔をしている。

 

 しかし、そんな殺伐とした雰囲気の中で恵だけは俺の隣で鼻歌混じりに元気に坂を上っていた。

 

 無駄にカバンを大きく前後に揺らし、今にもスキップでもしそうな勢いでぴょこぴょこ飛び跳ねるように歩く。

 

 それに合わせてクセのないセミロングの髪が朝日の光を受けながら舞っていた。

 

 いったい何がそんなに嬉しいのか。つーか、そばではしゃぐな、恥ずかしい。


「ゆうきちゃん、どうしたの? 何だかどんよりしてるけど?」


 俺の非難の視線に気づいたのか、恵が髪を押さえながら俺を見上げた。


「このクソ暑いのに元気なお前が異常なんだよ。いったい何はしゃいでんだ?」


 俺がそう言うと、ただでさえ、暑さで赤くなっている恵の首から上がボッ! と火がついたように深紅に染まる。


「ないない! はっ、はしゃいでなんかないよ!」


 恵はぶんぶんと髪を大きく真横に揺らして、首を横に振る。


「お前、体力ないんだから大人しく歩け。ぶっ倒れても知らんぞ」


「わっ、わかったよぉ」


 恵はいつものペースで歩き始める。

 

 しかし、動揺しているのか右手と右足、左手と左足がセットで前に出ていた。ぎくしゃくぎくしゃく。


 出来の悪いロボット並みの歩行。


 結果としてさっきより恥ずかしくなってしまった。


「悠木」


 恥ずかしい相方と校門をくぐると、ふいに後から声をかけられる。

 

 振り向くと、両腕を胸の前に組んだ夏海が校門にもたれて立っていた。


「おはよ。ひどいな二人とも。校門くぐった時、気がついてよ」


 言葉とは裏腹に、夏海はふっと目を細めた。涼しげな印象をうける微笑。さわやかな笑顔とはこういうのを言うのか。


「おはよう。夏海さん」


 恵が深々とバカ丁寧なくらいに頭を下げる。


「うっす。悪い。あんま暑いんで注意力ゼロだった」


 恵とは正反対に、テキトーな挨拶をする俺。


「あのさ、悠木、ちょっといい?」


 夏海がポリポリと頬をかきながら俺を見た。


「何?」


「ちょっと用事があるのよ」


 そう言うと、夏海は俺を手招きするように手をひらひらと振りながら昇降口とは反対の方に足を向ける。


「おい、そんなの教室でいいじゃ」


「あーっ、もう! しのごの言わずに、黙ってついて来なさいよっ!」


 夏海はつかつかと校門の前で立っていた俺の所まで戻ってくると、俺の手を引っ張って強引に校舎裏の方に連れて行こうとした。

 

 ひんやりとして柔らかな夏海の手の感触。

 

 俺は暑さとは別のものに頬を少し上気させてつつ、夏海の言うがままに足を運んでいった。


 校舎裏に来ると、夏海は何故か鋭い目をして辺りを数回見渡した。

 

 渡り廊下に三人連れの女子生徒が歩いている。

 

 夏海は眉根を寄せて、その三人をじっと見ていた。

 

 そばにある常緑樹にとまったセミが合唱を奏でている。

 

 風が吹き、地面に映し出された木漏れ日が揺れる。

 

 三人連れの女生徒の笑い声が小さくなって、やがて消えていく。

 

 風が止んで、セミが一休みした。

 

 しんとした静けさが一瞬だけ顔をのぞかせる。

 

 夏海は両手の拳を握って、俺の方を見た。

 

 目が少しだけ潤んでいた。


「つき合って欲しいの」


 風がまた吹いた。


 枝葉がざわめき、セミが再び夏の歌を歌い始める。

 

 静寂がみるみる塗りつぶされていく。

 

 たぶん俺は今、呆けたような顔を夏海に向けている。


「一応言っとくけど、本気だから」


「あっ、なっ、夏海、えっと、その、あの、えっ? 俺? 俺なの?!」


 ようやく状況を理解した俺は、恵のようにうろたえ始める。


「二年のクラス替えあった時から、ずっと」


 夏海は顔を紅潮させながらも、真っ直ぐ俺を見つめていた。

 

 いつも悪ふざけをしてバカ話をしている時とは別人のような表情。

 

 俺は急に口の渇きが気になって、ごくんとノドを鳴らした。

 

 夏海は一歩、俺の方に踏み出す。


「だから、席が隣になった時、すごく嬉しかったよ」


 照れたように微笑みながら、夏海は俺の手をとった。

 

 さっきよりほんの少し、温かくて汗ばんでいた。


「あ、あの、俺さお前のこと」


 何か言わなくてはと思い、俺は自分の気持ちを必死になって言葉にしようとする。


「あっ、ごめん、待って」


 夏海はあわててそう言うと、制服の胸ポケットから何かのチケットを取り出して俺に強引にそれを握らせた。


「映画。再来週の日曜日、空けといて。お願い」


「えっ? で、でも俺」


「返事は一日、私とつき合ってからにしてほしいの。だって、悠木は学校での私しか知らないでしょ? それだけで判断されたくないから。それとも、悠木、もう彼女いた?」


「いないけど、でも……」


「そんなに難しく考えないでよ。ただで映画見れてラッキーぐらいに思えばいいじゃん。その時、たまたま私が隣にいただけ。ね?」


 夏海はチケットを持った俺の手を両手で強く握って、にっこりと微笑む。でも、その手は微かに震えていた。


 俺は黙ってうなづいた。


「良かった! やっぱ、いいヤツだよね、悠木って。じゃあ、教室戻ろっか?」


 夏海は嬉しそうに笑うと、俺と手をつないだまま歩き出した。


「おい! 夏海、もう手放せよ!」


「いいじゃん、本当は嬉しいんでしょ?」


 いたずらっ子のようなその笑顔は、もういつもの夏海だった。


 昼休み。

 

 俺は屋上の給水塔の陰に隠れて、真夏の日差しをやり過ごしつつ昼食を摂っていた。

 

 普段なら教室の自分の席で食べるのだが、隣の夏海が気になってとてもパンがノドを通りそうもない。

 

 それどころか、授業にもまるで身が入らない。

 

 ロクにノートもとっていないし、担当教師が何を言っていたのかもまるで記憶に残っていない。

 

 昨日まで何とも思ってなかった夏海の存在に意識が集中してしまい、何も手につかない状態だ。

 

 夏海の声、仕草、ついにはシャープの音さえも気になってしまう。

 

 一方、夏海はというと、普段と何も変わっていない。

 

 授業中、たまに視線が合うといつものようにニヤリと微笑んでくるし、休み時間は軽いノリでちょっかいを出してくる。

 

 その様子を見ていると、今にも「今朝のあれ? あはは、そんなの冗談に決まってるじゃん」とか言い出しそうだ。

 

 右手を見つめる。まだ夏海に握られた時の感触が残っている気がした。

 

 汗ばみ、震えていた手。

 

 ――ため息ひとつ。

 

 空できーんと音。

 

 大きな入道雲にジェット機が吐き出した飛行機雲が重なる。

 

 俺はその様子を眺めながら口の中のヤキソバパンを紙パックのオレンジジュースで胃に流し込む。

 

 日の光が眩しくて、思わず目を細めた。

 

 ちゅごごごご。

 

 手にした紙パックが空になってへこむ。俺はストローから口を放す。

 

 人影が真夏の空を俺の視界から遮った。


「ゆうきちゃん」


 一瞬、目がくらんで恵の顔がよく見えなかった。


「いっしょして、いい?」


 恵は小さな弁当箱の入った袋を両手で胸に抱えていた。

 

 俺は恵を見上げて、一つ息を吐く。


「ここは暑いぞ」


「うん。平気」


「いや、遠まわしに嫌だと言ってるんだが?」


「えーっ! そんな~っ」


「ちょっと考え事があるんだ。一人にしてくれ」


「大丈夫だよ。すごく静かにしてるから」


「じゃあ、息もするなよ」


「死んじゃうっ! それ死んじゃうからっ!」


 結局、何のかんのと言って、恵は俺の隣にちょこんと座り込むと「いただきまーす」と両手を合わせて弁当を食べ始めた。

 

 突然の来客に思考を中断された俺は黙って、もう一度空に視線を戻す。

 

 飛行機雲は少し薄く細くなっていた。

 

 校庭の方から休むことなくセミの声がする。

 

 俺は顔に噴出してくる汗を手の甲で拭う。

 

 空の紙パックに突き刺さったストローに口をつけても、当然ノドの渇きは潤せない。

 

 大きくへしゃげた紙パックを俺は地面に置いた。

 

 恵が自分の水筒から烏龍茶を紙コップに注いで俺に差し出す。

 

 俺は黙ってそれを受け取った。


「ねえ、ゆうきちゃんってさ」


 俺は烏龍茶を飲みこんで、


「再来週、夏海さんとデートするの?」


 速攻吹き出す。


「うわっ! ゆうきちゃん、どうしたのっ?!」


「なっ、何で、そ、そんな、こと、ごほがほっ! お前知ってんだよっ?!」


 俺は胸を押さえて、咳き込みつつ恵を見る。


 目が合った瞬間、恵は「あっ、あたしまたやっちゃいました」という顔をした。

 

 俺はジト目で恵をにらむ。恵はふるふると首を横に振った。


「お前、あの時デバガメしてたなっ!」


「そっ、そんなことしてないよっ!」


 だらだらと顔じゅうに汗をかきまくる恵。


「だったら、何で再来週とか詳しいことまで知ってるんだよっ?!」


「えーと、風の噂にー」


「ていっっ!」


 すぱこ――ん! と恵の頭を叩く。

 

 割と遠慮なし。

 

 恵は頭を押さえながらすんすん泣きつつも、俺をにらんだ。


「だって、だって、ゆうきちゃんが心配だったんだもんっ!」


「お前に心配されるほど、俺は落ちぶれてない」


「ひどいよー! あたしはちゃんと何でも全部、ゆうきちゃんに相談してるのにっ!」


 むーっと口を尖らせて、恵が俺をにらんだ。


「自分のことくらい、自分で何とかする」


「でも、ゆうきちゃん朝からずっとぼーっとしてたし、ご飯もこんなトコで一人で食べてるし、気になっちゃうよぉ……」


 しゅんと恵が肩を落とす。恵は本気で俺を心配していたようだった。

 

 俺はまた一つ息をついた後、飲みかけの烏龍茶を口にした。

 

 既製品でも『さんばん亭』で使ってるものでもない恵のオリジナル烏龍茶だ。

 

 恵はお茶を淹れるのが趣味で和洋中、色々なお茶に造詣が深い。

 

 これは確か、以前俺が美味いと褒めたお茶だ。

 

 俺は紙コップに残ったお茶を一息で飲み干すと、手をのばして、さっき叩いた恵の頭の上にのせた。


「ゆうきちゃん?」


 恵が俺を見上げる。


「悪い。でも、本当に心配しなくていいから」


「……ゆうきちゃんは夏海さんのこと好きなの?」


「好きか嫌いかの二者択一なら、な」


「……そっか。そうだよねー。いつも、仲いいもんね……」


 恵の箸はずっと止まっていた。

 

 弁当はまだ半分以上残っている。

 

 俺は恵の頭を撫でるのをやめて、勝手にもういっぱいお茶を入れて飲んだ。

 

 水分を取りすぎたせいか、額から汗がやたら流れてきた。

 

 恵はたくさん手付かずのおかずが残った弁当箱のフタを閉めて「よし!」と何故か気合を入れて立ち上がる。

 

「ゆうきちゃん!」


 地面にまだペッタリと座り込んだままの俺の両肩をつかんで、恵はずいっ! と俺に顔を近づける。

 

 恵の髪の匂いがはっきりとわかるくらいの距離だった。


「なっ、何だよ?」


 ちょっと後ずさりしつつ、童顔気味の恵の顔を見る。


「こうなったら、ゆうきちゃんも練習しないと!」


 じわわわわ――っとアブラゼミが鳴いた。


「――はいっ?」


 それに続いて、俺がお間抜けな声をあげる。


「『はいっ?』じゃないよ! ゆうきちゃん、夏海さんが好きなんでしょう?! だったら、次のデートは絶対成功させないとダメでしょ?!」


「はっ、はあ?」


 未だ目が点の俺。


「『はあ?』じゃないよっ! ああっ! もう心配だよ……。ゆうきちゃんいっつもぼーっとして頼りないから……」


 お前にだけは言われたくないです。


「ゆうきちゃん、今までまともに女の子とデートしたことなんてないでしょ? ダメだよ! ぶっつけ本番なんて絶対にボロが出て夏海さんに嫌われちゃうよ!」


 おい、ボロって何だ。


「大丈夫だよっ! ここはあたしにまかせてっ!」


 ずいっ! とさらに顔を近づけてくる恵。もう息までかかってくる。


「あのー。もしもーし、恵さん? 何をそんなにあなたはやる気になって――」


「恋愛経験豊富なあたしが、ちゃんとゆうきちゃんの恋を最後までプロデュースしてあげるからっ!」


 確かそれは全部、自己完結的悲恋で終わったんじゃないのか?


「お前、俺のことより自分のことをもっと――」


「問答無用だよっ! 来週、あたしと練習するよっ!」


 ずずいっ! ともはやファースト・キスを奪われそうな位置まで恵の顔が迫ってくる。

 

 目が完全に据わっていらっしゃった。

 

 どうしてこいつは自分以外のことになるとこうも行動力を発揮するのか。


「――ゆうきちゃん、お返事は?」


「はっ、はぃっ!!」


 押し切られる。


 じわわわわわわわわわわわわ――――――――っ!


 俺のため息をアブラゼミの鳴き声がかき消した。


          7


 その日、恵はヤケにハイテンションだった。

 

「おっはよ――――っ! ゆ・う・き・ちゃ――――――――んっっっ!」


 俺が約束の五分前に映画館に着くと、すでに到着していた恵がバカみたいにデカイ声を張り上げて、俺にぶんぶん手を振った。

 

 周囲の人間の視線が何事かと恵の手を振る先――つまり俺に集中する。

 

 飾り気のない白のワンピースを着ていてもやはり恵は街中で充分、人目をひく存在なわけで、したがって、恵が集めまくった視線がそのまま俺にも突き刺さってくるわけで――

 

 勘弁してくれ。


 俺はダッシュで恵のところまで走っていく。


「ちゃんと時間通りだねー。でも、最初のデートなんだからやっぱり女の子よりは早……あうっ!」


 そして、無言で恵の額にデコピンを入れた。


「痛いよ――! いきなり何するの――!」


 額の一部を赤くした恵がきゃんきゃんわめく。


「お前目立ちすぎ」


「えっ? 普通だよ~」


「周りの人、みんな俺達のこと見てたぞ。正確に言うとお前見た後、俺を見てたんだが」


「そ、そんなに目立つような格好してないと思うけど……」


 恵はそう言うと、今更のように頬を染めて自分の服装を気に出した。こいつは本当に自分のことをわかってない。


「服がどうこうというわけじゃないんだが……まあいいや。さっさと映画観て帰るぞ」


 俺はちゃっちゃっと一人で切符売り場まで歩いていく。


「ううっ、投げやりずぎだよ~っ 練習なんだからちゃんとやんないと~っ」


 不満げな声をあげつつも俺の後についてくる恵。


「学生一枚、子供一枚」


「ゆうきちゃん、あたし子供じゃないからっ!」


 恵がお勧めだと言う三本立て映画の内訳は一本目が子供向けアニメ、二本目がちょっと前にはやった恋愛ドラマの映画リニューアル版で、三本目はB級ホラーだった。

 

 何だかまるで統一感のない組み合わせだと思ったが、恵曰くちゃんと意味はあるらしい。

 

 一本目のアニメでなごやかな雰囲気になって親密度を高め、続いて恋愛映画で気持ちを盛り上げて、とどめにホラー映画で怖がってる女のコを優しくフォローしてハートをゲットとかそんなん。

 

 かなり信憑性の低い計画だ。

 

 なんせ、こいつも実際のところきちんとデートなどした事はないはずだ。

 

 第一、今回は夏海にすでに観る映画は指定されてしまっているのでまるで無意味なのだが、まあ、ここは恵の顔を立てておいた。

 

 恵は恵なりに一生懸命なのだ。

 

 三本立てをすべて観終わると、俺達の腹のムシが同時になった。

 

 時計はもう四時を回っていた。


 続いて、遅めの昼食。


 俺の懐具合がかなりさびしいので、俺は恵の手をひいて駅前の立ち食い蕎麦屋に連れて行こうとした。

 

 と、「ゆうきちゃん、それゲームオーバーだからっ!」とダメ出しをくらった。

 

 恋愛アドベンチャーですかこれは。

 

 俺も初デートで立ち食い蕎麦はさすがにマズイとは理解していたが、先立つものがなければしょうがない。

 

 恵は最初、「じゃあ、あたしが出してあげるよ!」と言ってとても俺達が入るには似つかわしくないフランス料理の店に俺を連れて行こうとした。

 

 気合入れすぎ。

 

 結局、その店ではネクタイを着用していない客はお断りと言われた。

 

 俺はなんとか恵を説き伏せて、その隣のハンバーガー屋に入った。

 

 恵はそこでポテトを頬張りながら、「ゆうきちゃん、本番はネクタイしてこないとね」とのたまわった。

 

 いや、しないだろ。

 

 中学生だぞ俺達。

 

 そして、なんとか昼食イベントをクリアして俺達は近くの公園を散歩した。

 

 噴水前のペンキのはげかけた木製ベンチに座って移動店舗で買ったアイスを食べる。

 

 アイスを買う時、恵は最後までバニラとミントのダブルにするか、バニラのみにするか悩んでいた。

 

 俺が二つ食べればいいじゃんと言うと、「ゆうきちゃん、それバットエンドだからっ!」とまたダメだしをくらった。

 

 女のコに安易にカロリーの高いものをすすめてはダメらしい。

 

 じゃあ、食うなと言うと、「それ、もっとバット!」と叱られた。

 

 どうも俺には恋愛の才能はないようだ。

 

 結局、バニラのみを買った恵はベンチで両足をぷらぷらと揺らして、幸せそうにアイスを食していた。

 

 俺は隣でミントアイスをたまに口にしながら、その様子を眺めていた。

 

 恵が嬉しそうに物を食べるのを見るのは昔から好きだった。

 

 アイスを食べきった恵が俺の視線に気がつく。

 

 「何?」という恵の顔。

 

 俺は食べかけのミントアイスを恵にすすめてやった。

 

 「ゆうきちゃん、それグッド!」満面の笑みで恵が瞳を輝かせた。

 

 フラグが立ったらしい。

 

「こうして恵と休日、出歩くの久しぶりだな」


「うん、そう言えばそだね」


「前は結構、いっしょに遊んでたのにな」


「うん。小六あたりから、ちょっとなくなっちゃったね。あっ、」


 アイスを食べ終わった恵の足元に軟式の野球ボールが転がってきた。

 

 恵はベンチを立つと、そのボールを拾う。


「すいませーん!」


 俺達より三つか四つ年下の野球帽をかぶった男の子が少し離れたところで手を振っていた。

 

 よく日焼けした元気いっぱいスポーツ少年という感じだ。

 

 その少年よりさらに遠くには同じく野球帽をかぶった女の子が立っていた。

 

 その少女が投げたボールを少年が後逸したらしい。

 

「ゆうきちゃん」


 俺は恵からボールを受け取って、少年めがけてボールを投げる。

 

 大きく描かれた放物線が少年のグローブの中で止まる。

 

「ありがとうございました――!」


 少年はわざわざ帽子を脱いで、俺達に頭を下げた。後ろの少女も何か言っていたみたいだが、遠くて聞こえなかった。

 

 俺達はひらひらと彼らに手を振る。彼らはキャッチボールを再開した。

 

「俺達もキャッチボールしたな」


「うん。でも、ゆうきちゃんコントロール悪いからちょっと怖かったよ」


「失礼な。お前が俺の変化球に対応できなかっただけだ」


「女の子相手に難しいの投げないでよ……。あっ、」


 再び恵の足元にボールが転がってくる。

 

 またも少年が後逸したようだ。

 

 少年は少女に「ねーちゃんのノーコン!」と悪態をついた後、今度は俺達のところに駆けて来た。

 

 二度も好意に甘えるわけにはいかないということなのか。

 

「何よ! あんたが私のフォークに対応できなかっただけ――」


 少女の方も俺達の方に駆けて来る。何だかこちらと同じような会話をし――

 

「あっ」「あっ」


 夏海の声と恵の声が重なった。


「悠木と……相田さん?」


 野球帽を脱いだ夏海が俺達の前に立ちつくす。

 

 恵は拾ったボールを落としてしまう。

 

 ボールが風に押されてアスファルトの地面の上を転がった。

 

 夏海の弟らしき男の子は目をぱちくりさせて、夏海と恵を交互に見る。

 

 何と説明したものか。

 

 でも、いつまでも黙っているわけにもいかない。

 

「夏――」


「違うのっ! これは違うのっ! 夏海さんっ!!」


 俺の言葉を遮るように恵が大声を出す。

 

 それは聞くものをはっとさせる響きを持っていた。

 

 恵がこんな声を出すのを俺は初めて聞いた。

 

「あっ、あたしが今日は無理矢理、ゆうきちゃんを誘ったのっ! だから、その、ゆうきちゃんのこと、誤解しないであげて欲しいのっ! ごっ、ごめんね! その、あたし、ほら、一人じゃなんにも出来ないし、ゆうきちゃんに何でもすぐ頼っちゃって……その……だから……」


 恵の声が涙で震える。ぐすぐすと嗚咽まじりに恵は必死になって言葉を紡ぐ。


「相田さん。別に、私そんな風に」


「違う。ごめん夏海。俺が」


「――二人とも、ごめんねっ!」


 俺と夏海の声を最後まで聞かずに、恵はその場から逃げるように駆け出していった。


「あっ、恵!」


 俺はすぐに恵の後を追おうとする。

 

「――悠木」


 俺の背中に夏海の声が、投げつけられた。

 

 俺は夏海に背中を向けたまま、脚を止めた。


「行っちゃうの?」


「うん」


「……そっか」


「ごめん」


「いいよ。どうせ分が悪い勝負だとは思ってたから」


「勝手な言い草だけど、できたらこれからも今まで通りつきあって欲しい。俺とも恵とも」


「考えとく」


「いいヤツだよな。お前」


「いいから、もう行きなさいよ。ほら」


 俺は最後にもう一度、「ごめん」と言って、その場を離れた。


 時計は七時を回っていた。

 

 いくら日が長くなったとはいえ、そろそろ夜の帳が落ち始める。

 

 俺はあれから恵をさがして町中を走り回った。

 

 本屋、CDショップ、ドーナッツショップ。

 

 恵の行きそうな場所はしらみつぶしに回ってみた。

 

 でも、どこにも恵はいない。

 

 携帯で聖さんに家に帰ってないか訊ねてみたが、忙しそうな声で「まだ帰ってこないけど? つーか、早く帰ってこっち手伝って欲しいんだが」と言われた。

 

 俺は携帯を閉じて、夕暮れ時の町をあてもなく歩く。

 

 ガードレールをはさんでヘッドライトとテールライトが交互に俺を追い抜いていく。

 

 時々吹き付ける風はもあっとした熱気を含んでいて、気持ち悪かった。恵とつきあい始めてどのくらいになるだろう。

 

 思えば、小学校の入学式一人ポツンと教室の前の廊下に立っていた恵に俺が「何してるの?」と話しかけたのがきっかけだった。

 

 恵は教室に入るのが怖いと涙目で俺に言った。

 

 俺は「大丈夫」と恵の頭を撫でた後、手を引いて教室の中に入っていった。

 

 それから恵はクラスの中ではそんなに強く存在を主張するような事はなかったけれど、俺と二人の時だけはおしゃべりでやかましい『素』の姿を見せてくれていた。

 お互い子供だった頃、俺は恵とこんな会話をしたことがある。


「あたし学校すごく好きだよ」


「そりゃ、お前は勉強できるからな」


「違うよ。そう言うことじゃないからっ」


「じゃあ、何で?」


「だって、学校が一番ゆうきちゃんといっしょにいられるから」


 さらっと当たり前のように言われたこの一言が、どんなに俺を赤面させたか。



「何で、ここだってわかったの?」


 電気の消えた教室の中で、恵は入り口に立った俺を不思議そうな顔で見る。

 

 半分開いた窓から夕焼けのオレンジと夜の青が混じった青紫色の空がのぞいていた。

 

 強く吹いた風が白いカーテンを揺らして窓際にすわった恵の顔を何度か俺の視界から遮った。


「好きなんだろ? 学校」


 俺はいつもとは雰囲気の違う静まり返った教室の中に入って、恵の座ってる席の方に歩いていった。


「それ、小学校の頃の話だよ」


 ごしごしと両目を乱暴に拭いながら、恵はほんの少しだけ笑う。


「――ゆうきちゃん、夏海さんといなくていいの?」


「あれなら、ご破算になった」


「ええっ?! ごっ、ごめん!」


「勘違いするな。俺が自分でそう決めたんだ」


 俺はそう言って恵の頭の上に、ぽむっと手置いた。恵は黙って俺を見上げる。


「帰ろう。聖さん、忙しくてテンパってる」


 俺は恵の頭を撫でるのをやめると、その手を恵に差し出した。


「うん」


 俺の手に恵の手が重なる。


 俺は恵に背中を向けて手を引きながら、黙って歩く。

 

 恵も黙って、俺の手を握って歩いた。

 

 長くのびた俺達の影が夕暮れの教室の中で並んでいた。

 

 教室を出て廊下に出る。

 

 赤く染まった西の空にぼんやりと赤い太陽が浮いていた。

 

 セミが鳴いている。


「どうして、もっと早く気づかなかったのかな」


 ぽつんと恵がつぶやいた。


          8


次の日の朝、教室で俺と顔を合わせた恵は「おっ、おはよっ!」と下を向いたまま早口でそう言うとそのままダッシュで教室から出てしまった。

 

 そんな俺達の様子を見て、夏海から「あんたたちって本当にまだ子供よね」と達観したご意見を俺はいただいた。

 

 俺は昨日の言葉通り、いつもと変らぬ夏海に感謝しつつ、尊敬の念を抱いた。俺がそう言うと、夏海は「今更、惚れても遅いからね」と笑った。

 

 本当にこいつはいいヤツだ。

 結局、その日、俺と恵はしばらくこんな風にギクシャクした感じのままだった。

 

 今までもケンカをしてこんな感じになったことはあったから、いづれは元に戻るだろうが、さすがに今回は長引くかもしれない。

 

 俺は授業が終わると恵を誘って帰ろうかと、恵の席の方を見る。

 

 恵の席はすでに空っぽだった。

 

 ため息をつく。

 

 しかたなく一人で教室を出てぷらぷらとかったるそうに廊下を歩く。

 

 窓からはあいかわらず夏の太陽が顔をのぞかせ、セミは休む間もなく大合唱。

 

 汗で背中に貼りついたシャツを指でつまんではがしながら、昇降口に到着する。

 

 下駄箱を開けた。


 パステル・ブルーの封筒が一つ。


 バイトの約束をまたまたすっぽかせて、桜の木の下へ駆ける。そこにはこないだとは比較にならないくらい真っ赤になったゆでダコ状態の恵が待っていた。

 

「あっ、あっ、あのっ。きっ、来てくれて、あっ、ありがと、あうっ! 痛っ! ひたいよ~っ!」


 恵やっぱりかみまくり。


「あっ、あたひぃ、しょの、えっと、あうっ、ひたい! あっ、ひゅうきひゃんのほとが、しゅき……あわあわっ、えーと、あっ、ひっ、ひたいひいたよ~!」


 無言で水平チョップを入れる俺。


「あたっ! ゆうきちゃんひどいよ――!」


「ほら、バカやってないで帰るぞ」


 恵の手を強引にとって、俺は校庭を歩き出す。


「ちゃんと最後まで聞いてよ――!」


「もう二十三回も聞いてる」


「え――っ、でも、今回のは……」


「いいから、ほらドーナッツおごってやるから行くぞ」


 俺は不満げな顔をした恵の手をしっかりと握って、校庭をかけだした。

 

 恵も俺の手を強く握り返してくる。

 

 風で揺れる葉桜の下、夏の陽光に白く光る地面の上、俺と恵二人分の影が重なっていた。

 

 <終わり>

十年くらい前に書いた短編小説が出てきたので投稿させていただきました。ハードディスクの肥やしにするよりは、皆さんのひまつぶしになればと。ネット小説に投稿するという体験をしてみたかったですし。


ちなみにタイトルだけを今風に変えただけなので、描写されてる学生生活は現在より古いです。スマホとかなかった頃に書いたものなんで。そのへんはご容赦くださいませ(汗)

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― 新着の感想 ―
[一言] やー、和む。そうか、彼ら中学生でしたか。最後の方まで高校生のつもりで読んでました。 最近ではこのタイプのヒロインも少なくなってきた気がしますねぇ。一昔前は多かったんですが。そしてきっと人気は…
[一言] これぞ青春と言わんばかりの。こういうの割と好き
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